[25] 日本の元号は大化に始まり、現在まで200個以上、 1400年近くにわたり使われています。
[26] 現在日本の元号は日本政府の内閣府の所管となっています >>8。
[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号の建元はほとんど見られません。
[29] ただし、南北朝時代には北朝の元号の他に南朝の元号が並立しました。 また中世や幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。
[30] そのようないくつかの例外を除けば、
私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号)
その他の異年号は反政府的な意味が薄く、
制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。
[446] 日本の元号の時代区分にはこれといった標準的なものはありません。 時代による分類がなされるときは、 日本史の一般的な時代区分が使われることが多いです。 しかし時代区分と改元のタイミングはずれていることが多いので、 どこで区切るかには揺れも多いです。
[445]
令和元年の論文中世の元号は、
「
という感じでしょうか。中世の扱いが難しいです。
[4] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、
やがて元号制度が導入されました。
最古の元号は大化でした。
現在まで途切れず続く流れの最初は大宝でした。
[7] 現在のいわゆる「和暦」では大化以降の元号を用いるのはもちろん、
元号の建てられなかった期間は天皇即位紀年を元号風に扱う慣習となっています。
[31] 中世には、古代の出来事を記述するため元号を大宝以前に遡って設定することもありました。
[59]
大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。
[1029] 元号の使われ方に特に注意を要するもの: 養老、 白亀、 正法, 4文字元号
[10] 日本史研究 (100);1968・9, 日本史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13000468/1/26 (要登録)
[183] 菅原道真と二つの改元, https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja
[62] ノート:東武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。
[150] 平安時代末期には、関東の源頼朝勢力や西国の平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。
[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、
平氏側の改元も源氏側の元号も採用しているようです。
日本年号史大事典は併記していますが、
国立天文台の日本の暦日データベースは一方 (新しい方) のみ記載しています。
[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和に改元したとしています。
[122] 一方で、源氏は元暦の改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和、寿永) を使わなかったとしています。
[131] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏も寿永を使うようになったともあります >>146。
[123] 平氏も元暦の改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治に改元したのも無視したとありますが >>146、 改元は壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。
[53] 源頼朝が寿永を使うのは2年以降でした。 >>13 (平泉澄 1917)
[54] 動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため >>13 普及版 p.349 (>>55)、 あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため >>13 普及版 p.349 とする説もあります。
[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。
[375] この時期の前後には、私年号として保寿、和勝、迎雲といったものが使われていました >>373。
[241] 志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用(北爪真佐夫 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / Twitter, , https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576
[490] 中世には分権的な社会を反映していくつかの時間軸が存在しました。 しかし基本的には朝廷の元号が使われました。 時に延長年号や私年号が使われることもあり、 暦も日付・干支がずれることはあったものの、 例外的な事象にとどまりました。 >>440
[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。
両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。
[300]
改元に従わずに従前の公年号の利用を継続したものを不改年号といいます。
関東の事例が有名ですが、他の地方でもいくつか指摘されています。
近年では多くのケースで積極的な新元号の不使用を否定する見解が有力視されてきています。
[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。
建教元 | 1225 | 元仁2 |
永福元 | 1297 | 永仁5 |
正久元 | 1319 | 元応元 |
[45] 江戸幕府は元号制定権を天皇の権能として保持させましたが、 実質は江戸幕府が握っていました。 >>22 (天皇, 石井良助)
[34] 昭和時代の研究者山田忠雄は、 慶長20年5月8日の大阪城の落城、 慶長20年7月7日の武家諸法度公布、 慶長20年7月13日の元和改元、 慶長20年7月17日の禁中並公家諸法度公布という時系列で、 武家諸法度と禁中並公家諸法度の中間の時期に改元したことに注意を促し、 豊臣政権の制定した慶長が否定される運命にあったと指摘しました。 >>22
[35] 柳原紀光続史愚抄は後水尾天皇の代始改元としています。 >>22
[37] 松浦静山甲子夜話続編巻六十八 (国書刊行会本第二) は乱世が収まった時代なので唐の元号を借りて 「其式大風なりし事の由」 と書いています。 >>22
[36] 森鴎外の元号考は日付だけで理由を書いていません。 >>22
[38] 山田忠雄は >>37 を引いて徳川政権の勝利を記念した改元であり、 代始にかこつけたものだろう、主体は将軍側だっただろうとしています。 >>22
[39] 山田忠雄はそれをよく示すのが禁中並公家諸法度第8条の改元の条項だと指摘しています。 そしてそれは従来余り注目されていないと書いています。 現在では江戸時代の改元制度の根拠法としてよく知られていますが、 昭和時代にはあまり顧みられることがなかったということでしょうか。
[42] 改元物語 は元和を京童部がケンクワ (喧嘩または煙火) と読めるといっているから、 と寛永に改元されたと書いています。 >>22
[43] 改元物語は江戸幕府の改元担当者による信頼できる史料であり、 この例を初めとして民衆の元号への反応に敏感だったとの評価が平成時代の研究者らの間では定説となっています。
[44] ただ、改元物語の記述をそのまま鵜呑みにしてあまり研究が深化していないように見えるのが気になる所です。 元和は10年も続いてから寛永に改元されているのであり、 「新元号を発表したら民衆の反応がよくなかったのですぐにまた改めた」 のような状況ではないことには注意が必要です。 「民衆の評判がよくないのでそろそろ改元しよう」 のような大義名分に使われた可能性をみておくべきでしょう。
[48] 寛永改元は甲子革令とされますが、 実態は徳川家光の代始改元とされます。 >>22
[49] 改元物語は「街説」で「ウサ見ルコト永シ」 などと不評だったとしています。 >>22
[51] ただし実際には寛永は20年続いていますし、 明正天皇の在位中は一度も改元がありませんでした。
[46] 正保改元は徳川家光が徳川家綱の元服を祝福して改元を贈ったものとされます。 >>22 (将軍政治の権力構造, 岩波講座日本歴史 近世2, 朝尾直弘)
[58] 正保改元は1つの元号が3代の天皇で使われた事例はないという理由で実施されました。 >>22
[60] 徳川家光は、元号は天下共に用いることだから武家より定めるのは勿論なりと述べました。 >>22
[61] 徳川家光はまた、公家武家の政治は正しきに若しはなし正しくして保たば大吉なり、 とも述べました。 >>22
[74] 山田忠雄はこれら (>>60, >>61) から将軍こそが空間と時間を支配するものだとの王者の意識によって立っていること疑いないと評し、 天皇の代始は建前に過ぎないとしています。 >>22
[75] 寛永21年12月23日、 江戸幕府は改元披露と同時に徳川家綱の改名披露を諸大名に行いました。 >>22
と「雑説」多く、京都所司代の板倉重宗が内請して慶安改元となりました。 >>22
[92] 明和9年を迷惑年とする落首は有名で、 杉田玄白 後見草 下や、 神沢杜口 翁草 巻百六十一など多くの随筆が言及しています。 >>22
[93] 天明改元の折には 翁草 によると 「諺に天命に尽る」 といわれたり、 後見草 によると 「文字のひゝきあしかりけり」 と人々は噂しました。 >>22
[94] 弘化改元の折、 藤岡屋日記第拾六 (日本都市生活史料集成 二) 天保15年12月13日条に 「一 惣出仕有之、弘化と改元披仰出候段於席〻老中列座、伊勢守申渡之。」 とあり、
など落首を数首掲載しています。 >>22
[106] 山田忠雄は >>94 の落首や嘉政の改元デマ事件を、 天保の改革の鬱積した重苦しい社会的不満の解消の期待と捉えています。 >>22
[173] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとかつては考えられていましたが、 実際にはいくつか私年号や改元デマが知られており、 しかも改元デマは恒例化していたようです。
[21] 日本随筆大成 別卷下, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914170/1/268?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[32]
幕末の政情不安のため、
日本各地で私年号や延長年号が使われたことが知られています。
孝明天皇即位紀年や皇紀のような元号以外の紀年法もみられるようになりました。
また開国によって西暦など欧米の紀年法の流入も始まりました。
[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、
混乱した状況にあるようです。
[64] 近代以降の日本では、 次の元号が用いられています。
[405] 承元4(1210)年: 彗星出現 吾妻鏡9月30日条、改元するべきと学者が報告 吾妻鏡10月12日条
[455] 、 疫病のため改元が議論されましたが、 足利義詮が陣中にあるため改元するべきないと中止されました。 >>440 (後深心院関白記 延文5年閏4月24日条) 改元で気を改めることが戦争に不利に働くとの意識があったためかとされています。 >>440
[162] 前近代の一般庶民も元号を知り使っていたとするのが通説となっています。
[248] その証拠として、 元号を使った私文書が多数現存していることや、 元号が明記された暦が広範囲に流布していたことが指摘されています。 都市住民は元号名の良し悪しをネタに風刺したり、 改元デマまでたびたび生じていたことが知られています。 地方でも元号年が刻まれた中世、近世の金石文が各地に残っています。
[249] ただし、専ら元号が紀年法として使われていたわけではありません。 干支年や十二支年も非常によく使われていました。 (日本史上、元号が唯一の紀年法として専用されていた時代や社会階層は無いのかもしれません。)
[163] 元号を使うかどうかの判断は、現代人とは違う感覚によっていたようです。 例えば江戸幕府の公文書で元号がなく、 干支年ですらない十二支年を書く形式のものも珍しくなかったようです。
[247] そうではなく一般庶民は元号に馴染みがなかったとする主張もみられますが、 根拠が不明です。
[103] 「一般庶民」にも幅がありますが、「庶民は元号を知らなかった」 との主張は、「一般庶民」を知識の低い方に偏って解釈する傾向があります。 ひとくちに「一般庶民」といっても、 都市住民もいれば農村民もいます。 地域の名士や知識層もいれば、 小作農もいれば、 貧民もいます。 近世と中世と古代とでも環境はまったく違います。 「みんな元号を知っていた」も「みんな元号を知らなかった」 も妥当とは思えません。
[105] 江戸時代の東北で使われた絵暦では、 元号が絵文字でおもしろおかしく表現されていました。
[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html
[226] 新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち | 日曜スクープ | BS朝日, https://www.bs-asahi.co.jp/sunday_scoop/interview/22/
本郷 当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。
所 ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。
本郷 いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。
所 いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。
[156] 高札, http://web.archive.org/web/20111215100922/http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousatsu.html
[159] 江戸時代の人は元号を言えたか - 以前どこかで前世療法というものの- 歴史学 | 教えて!goo, https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html
[246] このウェブページは頻繁に改元されるから馴染まなかったと主張しています。 それ以上の根拠や出典は記載なく不明。
[97] Xユーザーのyunishioさん: 「あとさー、日本で元号が使われたのはせいぜい儀礼的な文書(公卿の任命書とか)、契約にかかわる文書くらいで、一般には使用されてないんだよね。🙂 たんに年数を数えるだけなら干支で事足りたので、庶民はみんな干支ですよ。あとはざっくりした時代区分(元禄の世とか)。😎 https://t.co/bVU4qq3Avk」 / X, , https://twitter.com/yunishio/status/1721439557210812924
[100] 元号廃止論の人は元号が明治政府に強制された「新しい伝統」だと主張したいために、 それ以前は元号が使われていなかったことにしたいようです。 いわゆる歴史修正主義の一種です。
[101] 「昔はいろいろな紀年法を使っていた。これからもいろいろな紀年法が使われていく。」 では何がいけないのでしょうかね。
[104] 「平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったか」 を「民衆」が「日常生活」で「すぐにわか」りたいという場面を想像するのがそもそも難しい。 そもそも「日常生活で普通に使」う紀年法という概念が、 どんな状況を想定しているのか謎。 当時 (源平合戦の頃?) の「民衆」の「日常生活」で紀年法を使うのがどういう場面なのか。 それを明らかにしないまま日常で使う、使わないという話をしても意味がない。
[112]
元号 全247総覧 >>110 pp.
庶民にとって縁遠かった元号と、はっきりしない元号の読み方
日本で、公式の記録に元号が使われるようになったのは、「大宝律令」で定められてからのことだ
が、実は庶民の生活で元号が使われることはなかったし、飛鳥時代に元号の存在を知っている人は、 朝廷周辺の限られた人々にすぎなかった。 日本の律令制度が完成する奈良時代になると、さすがに郡司 (地方を治める役人) あたりまでは
文書で伝わった。その郡司から里長あたりまでは、口伝てされたかもしれないが、それが庶民の間 にまで広がることはなかったと考えられている。なにしろ、当時は文字を読み書きできるのはごく わずかな人に限られていたし、人々の暮らしに元号はまったく関係のないものだった。 そうした時代は長く続いた。元号が一般庶民まで伝わるようになったのは、江戸時代になってか
らのことである。幕府や諸藩は、庶民に御触書や日常用務を通達するために廻状を出すシステムを つくり上げた。 改元の際も、江戸幕府はすぐに下部組織に改元の旨を伝え、それが「代官 (領主)」より廻状とし
て各村々へ順達され、各村では「御用留」にその内容を写し取って記録。村の名主は、その内容を 村人たちに読み聞かせるようになったとされる。
[113] >>112 これは大筋においてはおかしな記述ではないのですが、見出しで「庶民とは縁遠」 いとまとめてしまうのは、誤解を招くものです。 「庶民」とはどの時代のどの層なのかよくわかりません。本文では江戸時代の庶民に元号が伝わったと書いているのですから、 見出しが本文の要約として成立していないのです。
[114] 本文も細かい点には疑問が残ります。大宝律令以後の飛鳥時代といえば大宝、
慶雲、和銅の時代ですが、奈良以外の金石文、木簡、
戸籍で元号を書いた例が知られています。
[115] 中世には石造物などで元号が書かれたものが日本各地に造られ、設置されています。 「庶民」の範囲によりますが、少なくてもそうしたものを作れる知識人が全国各地、 地方の山間部にまで広まった時代で、 自分自身が読み書きできない下級農民などであっても日常風景として見ていたはずです。 「庶民とは縁遠」いという言葉のイメージほどには遠い所にあったようには思われません。
[11] 元号や改元については古くから支那でも日本でも様々な議論がなされてきました。 近代日本の学問としてもいろいろな角度から研究されてきました。
[89] といっても昭和時代後期の時点で元号に関する刊行済みの史料はほとんどありませんでした。 類聚国史 や 大日本史 のような前近代の歴史研究成果にも、 元号の特集はありませんでした。 群書類従 も雑部に菅原道真の 編御記 と三善清行の 革命勘文 を掲載しているだけで、 塙保己一は当初元号関連史料を集める必要性を認識していなかったようです (が続群書類従で大量に収集整理されました)。 >>88
[87] 史料集成として、 続群書類従公事部 (巻二七八-二九一など)、 古事類苑歳時部年号, 明治41年刊がありました。 >>502
[16] 森鴎外は、
元号考
(大正15(1926)年)
で日本の元号の典拠を検討しました。
森の研究は吉田増蔵に引き継がれ、
昭和改元に活用されたと考えられています。
[86] 森本角蔵は、 日本年号大観 (昭和8(1933)年) で元号の選定手続きや採用案・候補案の提案者や出典などを総合的に明らかにしました。 後に所功は、日本の元号の「すべてについての本格的な研究成果」 は本書くらいだったと述べました >>13 普及版 p.2。
[14] 山田孝雄は、
年号読方考証稿
(昭和25年)
で日本の元号がどう読まれてきたかを明らかにしました。
[184]
石田茂作や久保常晴は、
日付表記の形式を研究しました。
[12] 久保常晴は、
日本私年号の研究
(昭和42年)
で日本の私年号の全体像を明らかにしました。
[23] 瀧川政次郎は、 元號考証 () を著しました。 >>24
[15] 所功は、 昭和末期から日本の元号制度に関する多数の論考を発表し、 日本の年号 (昭和52年)、 年号の歴史 (平成元年) として出版しました。 それでも「まだ判らないことが沢山あり、さらに調査研究をしなければならない」 ところ「公私とも多忙」で進まず >>13 普及版 p.2、 平成末期になり若い世代の研究者と共にようやく 日本年号史大事典 (平成26年) が成ったといいます。 日本年号史大事典は平成までの日本の元号制度を総合的かつ詳細に説明した、 日本の元号研究の現時点の集大成というべき書籍です。
[18]
日本の年号には
年号関係文献目録
が収録されました。
年号の歴史で所功は日本の元号に関する既存の研究として
>>87、>>16、>>86、>>14、>>12、>>23
を特に挙げたほか、
「年号に直接関係のある研究論文」が数十篇あったとしました。
>>502
日本年号史大事典には、
さらにその出版時点まで増補された目録が収録されました。
[69] 所功は、 日本年号史大事典編集時に痛感したこととして、
... を挙げました >>68。
[72] 平成31年に出版された 年号と東アジア―改元の思想と文化― の序文で、 水上雅晴は、 本書が所の挙げた2つの課題を「解決する一助になり得る」とし、 「年号学」なる学術領域が将来構築されるなら、 本書中の各論点が 「基本的な枠組みを形成する、と思われる程に多彩な論考」 を集めたものだとしました。 研究分野としては、 中国哲学、 中国科学思想史、 日本漢字、 日本史 (古代、中世、近世)、 朝鮮史、 ベトナム史、 日本思想史、 日本文学、 国語学、 日本法制史、 書誌学などを含むものであり、 今後の元号研究に少なくてもこれら領域の研究者の参画が必要だ、 としました。 >>67
[73] 歴史学の範囲を超えた総合的な「年号学 (元号学)」 としての発展を目指すには、 さらに加えて現代社会における元号と西暦の受容、 元号以外の紀年法との文化論的比較、 情報システムの日時処理と元号、 創作物における日時、 などといった観点も必要になって来ましょう。
[17]
日時制度の諸相の中で日本の元号は比較的関心を集めやすくよく研究されてきた分野といえますが
[242] 元号、特に日本の元号については実は個別の研究は既に膨大な蓄積があるのですよね。 でもそれら個別研究をまとめて俯瞰するタイプの研究はそれほど多くないから、 全体像がはっきり見えてる部分がまだまだ少ない。 そしてそこから視野を広げて行こうとすると、まだまだわからないことだらけで、 個別の研究だって全然足りてないじゃないかと呆然とするんです。
[9] KJ00000189327.pdf () http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2799/1/KJ00000189327.pdf
[47] 暦Wiki/歴史/元号 - 国立天文台暦計算室 () http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB8B5B9E6.html
[181] 《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題 - ライブドアニュース () https://news.livedoor.com/article/detail/19333042/
[190] (, ) https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf
[192] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//uugon.html
[659] 歴史の見かた, 和歌森太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12148751/1/78 (要登録)
[251] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)
[177] 12_2022_ippan_nihonshi.pdf, , https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2022/07/12_2022_ippan_nihonshi.pdf#page=3
[141] 6.吉田家文書の調査・撮影 - 東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo, https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/46/saiho_46_006/
44 年号覚書
[610] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)
[654] >>653 令和改元の直前に出版された本。日本の公年号を一覧しそれぞれに解説を加えている。一般向けの書籍であり、学術的には特にこれといったところは見当たらない。
本編は編集部によってまとめられたものという。その前に十数ページほど宮瀧交二による解説があるが、これも一般向けに平易に概要をまとめたものにすぎない。
[655]
>>654 その解説中で、第二次世界大戦後何年や阪神タイガース優勝から何年という言い方と元号の類似性を指摘している
(単にそれを指摘しているだけで、特に何か用例を示したり考察したりしているわけではない)。
[656] >>654 またその解説では法興元云々は法興という元号ではなく法の興った元(はじめ)から何年の意味だと思うと著者の感情が紹介されているが、 特に根拠は示されていないし何かを引用しているわけでもない。法興六年には言及もしていない。