日本の元号

日本の元号

[1] 日本では紀年法として元号が使われています。

[3] 現在の日本の元号令和です。

概要

元号一般、表記、読み、用法などについては元号

改元の一般的事項については改元改元手続き

[25] 日本の元号大化に始まり、現在まで200個以上、 1400年近くにわたり使われています。

[26] 現在日本の元号日本政府内閣府の所管となっています >>8 日本の元号法制


[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号建元はほとんど見られません。

[29] ただし、南北朝時代には北朝元号の他に南朝元号が並立しました。 また中世幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。

[30] そのようないくつかの例外を除けば、 日本の私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号) は反政府的な意味が薄く、 制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。

古代

[4] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、 やがて元号制度が導入されました。 最古の元号大化でした。 現在まで途切れず続く流れの最初は大宝でした。 日本古代の日時

[7] 現在のいわゆる「和暦」では大化以降の元号を用いるのはもちろん、 元号の建てられなかった期間は天皇即位紀年元号風に扱う慣習となっています。 天皇即位紀年

[31] 中世には、古代の出来事を記述するため元号大宝以前に遡って設定することもありました。 古代年号

[59] 大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。 日本古代の日時


[1027] 日本の元号 (奈良時代)

[1029] 元号の使われ方に特に注意を要するもの: 養老白亀正法, 4文字元号

平安時代

[266] 私年号

[183] 菅原道真と二つの改元, https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja

[62] ノート:東武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。

源平合戦期

[150] 平安時代末期には、関東源頼朝勢力や西国平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。

[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、 平氏側の改元源氏側の元号も採用しているようです。 日本年号史大事典は併記していますが、 国立天文台日本の暦日データベースは一方 (新しい方) のみ記載しています。 元号一覧

西暦
西暦
時期
時期
平氏
平氏
京都
京都
源氏
関東
備考
備考
西暦
1181年
平氏
治承5年
京都
治承5年
源氏
治承5年
西暦
1181年
時期
治承5年7月14日
平氏
養和元年
京都
養和元年
源氏
治承5年
備考
養和改元
西暦
1182年
平氏
養和2年
京都
養和2年
源氏
治承6年
西暦
1182年
時期
養和2年5月27日
平氏
寿永元年
京都
寿永元年
源氏
治承6年
備考
寿永改元、 寿永2年7月平家都落ち源義仲入京
西暦
1183年
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
治承7年
西暦
1183年
時期
寿永2年10月14日
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
寿永2年
備考
寿永二年十月宣旨
西暦
1184年
平氏
寿永3年
京都
寿永3年
源氏
寿永3年
西暦
1184年
時期
寿永3年4月16日
平氏
寿永3年
京都
元暦元年
源氏
元暦元年
備考
元暦改元
西暦
1185年
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年3月24日
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
備考
壇ノ浦の戦い平家敗退
西暦
1185年
平氏
元暦2年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年8月14日
平氏
文治元年
京都
文治元年
源氏
文治元年
備考
文治改元

[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和改元したとしています。

[122] 一方で、源氏元暦改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和寿永) を使わなかったとしています。

[148] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏寿永を使うようになったともあります >>146

[123] 平氏元暦改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治改元したのも無視したとありますが >>146改元壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。

[53] 源頼朝寿永を使うのは2年以降でした。 >>13 (平泉澄 1917)

[54] 動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため >>13 普及版 p.349 (>>55)、 あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため >>13 普及版 p.349 とする説もあります。

[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。

[375] この時期の前後には、私年号として保寿和勝迎雲といったものが使われていました >>373

[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

[149] 1987_2/解法のヒント ( 版) http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html

設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

[241] 志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用(北爪真佐夫 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / Twitter, , https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576

鎌倉時代

南北朝期

[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。 日本南北朝時代の日時

室町時代の関東

[180] 駿河史料の図によると、 現在の日本国静岡県永豊寺の雲版に、 「明徳五年八月吉日」 とあったとされます。 この雲版は現存しません。 明徳5年7月5日に応永改元されましたから、 久保常晴は 「以て当時の同所の僻地なる事を知る(『静岡県史󠄃料』第一輯)」 と書きました。 >>288 20 (この書き方で「僻地」という評価が久保のものか 静岡県史料 のものか不明。)

[74] 足利持氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F

元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

[75] 永享の乱 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1

1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける

[76] 県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ (Kuki City 著, 版) https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html

元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。

[189] 足利成氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[27][5][19][28]

成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。

明応

[131] 公年号明応がありました。 それ以前に後南朝にも明応があったとされます。 明応

足利義輝

[77] 足利義輝 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D

年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

[80] 困窮する朝廷 : fumi1202のブログ ( 版) http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html

改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。

[81] 気まぐれ日記: 堺幕府 ( 版) http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html

この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。

[82] 堺公方 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9

8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。

[240] shirin_056_5_623.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55

[237] 今谷明著『室町幕府解体過程の研究』, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/

[238] HNkeizai0003301710.pdf, https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40

[239] ab40112880.pdf, , https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf

中世私年号

[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。

[279] 日本中世の異年号:

[280] 私年号の可能性が指摘されたが否定されているもの

[2] 南北朝時代関係は日本南北朝時代の日時を参照。


[34] 日本の私年号の研究は江戸時代に始まりました。 昭和時代関東地方板碑の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。 >>35 日本の私年号は他に古代のものや近現代のものもあり、 西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。

[38] 昭和時代初期、服部清道板碑から私年号の実態を研究しました。 服部による私年号への理解 >>37 は当時の代表的な辞書である 國史辭典 (四 pp. 756-758 私年號, 日野一郎) にも反映されました。 >>35


[39] 昭和時代中期、 久保常晴は古代から近世までの日本の私年号について大量の史料を収集、検討し、 私年号の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。 従来若干の混乱が見られた私年号に関連する用語を整理し、 古代年号や中世の私年号の性格を明らかにしました。 久保の研究は日本私年号の研究としてまとめられました。 >>40 日本私年号の研究はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、 日本の私年号の「今日の研究水準を導き出す原動力」 >>35 と高く評価されており、 現在でも日本の私年号をメインテーマとした唯一の研究書です。 久保常晴


[49] 歴史研究者の佐藤進一は、 異年号は国家の正年号を否定する正確を持つと主張しました。 >>60

[41] 千々和到は、 関東に残る板碑を分析して私年号の利用状況を調査し、 中世私年号の性格や改元の伝達経路について考察しました。 >>42 千々和は、 一種の徳政願望であって、 災異改元による除災招福を求めたもので、 異年号の継続的な使用よりも改元されたという情報が重要だったとしました。 >>13 普及版 p.343 (千々和 1990, 1995) 千々和到

[61] 勝俣鎮夫は、 東国戦国時代に広まった私年号を「地域年号」 と呼びました。 >>60

[51] 日本年号史大事典は、 こうした中世の 「公年号の存在を前提としつつ、それと異なる年号を用いる例」 とその研究を踏まえ、 「「私年号」と呼ばれるものが、中央の「公年号」 への対抗への意思などから作成・利用されたものではなく、 何らかの理由による改元情報の誤伝達などにより発生したものであることを物語る。」、 「それほど強い独立への志向はなく、 何らかの事情で伝わった京都での改元の結果が伝えられたものと理解していた可能性が高く、 誤りが判明すると、すぐにそれらは打ち捨てられている。」 としました。 >>13 普及版 p.341, p.343

[174] その後、 前川清一の研究により、 従来関東中心と考えられてきた私年号九州でも次々に発見されました。 >>13 普及版 p.343 (前川清一 1982) 前川清一 関東ほどではないにせよ、広い地域と時代にわたって出現することが想定され、 しかも関東との共通性と相違点が共に観察され、 私年号研究に一石を投じることとなりました。

[46] また幕末第二次世界大戦終戦後に私年号が発生したことも次々に判明しています ( 幕末維新期の日時昭和時代の日時永長 )。 こうした他の混乱期の私年号改元デマとも比較検討することで、 中世の私年号への理解もいっそう深まることが期待されます。

[36] 國史大辭典, 初版, 増訂縮刷版, p.1975 年號 (ネンガウ) >>35

朝廷に於て年号を定められたる以後も、 民間往々にして、 私に年号を称するものあり、 異年号、 また私年号 (シネンガウ) と世に称するものこれなり

[37] 板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著, 初版, 再版 >>35

第二編 各論 第四章 特殊研究 第五節 板碑に現はれたる私年号 pp. 559-574

pp. 559-560

私年号は逸年号・異年号・偽年号などとも称し、 民間に於いて私に制したる年号にして、 其の多くは神社・仏寺関係の後を用ひ、 その文字甚だ拙なりとは一般の批判である

板碑に於ける私年号は多く足利時代のものに現はれ、 就中福徳のもの最も多く、 鎌倉・南北朝時代に於いても私年号に近きもの一二の例を見うけられる

初出は板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著,

[43] >>35 には自治体の文化財調査報告書などにみえる私年号板碑のリストが掲載されています。

[176] 日本私年号一覧表

[48] ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム 宮代町史 通史編第二編 中世第四章 中世の寺社と信仰第四節 石造供養塔の造立 コラム 板碑に刻まれた私年号 () https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510


[259] 信濃 [第3次] 49(12)(575), 信濃史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19 (要登録)

[261] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/383 (要登録)

[262] 栃木史学 = The Tochigi journal of Japanese history (2), 国学院大学栃木短期大学史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/83 (要登録)

[263] 小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/443 (要登録)

[264] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/46 (要登録)

[265] 東京都文化財調査報告書 第2, 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22 (要登録)

[175] 研究紀要 (1), 埼玉県立歴史資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7952158/1/68 (要登録)

[19] 雑誌 浦和 (さいたま市図書館に所蔵されている)

江戸時代

[173] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとされますが、 実際にはいくつか私年号改元デマが知られており、 しかも改元デマは恒例化していたようです。

[108] 昭和時代中期の 日本私年号の研究 は、 政治的統一、中央集権的体制の確立に向かうなかで 「私年号の発生は逆行であって織豊政権下には考えられない」 としていました。そして江戸時代初期に比定された大道の存在には 「それなりの理由を追求せざ るをえまい」ものの、 支配体制が確立していた江戸時代にはそれ以外に私年号の発生をみなかったとしていました。 >>106 p.四四五

[109] ところがその後江戸時代にも少なくない私年号が存在していたことが知られるようになり、 この分析も幾分訂正せざるを得ないのであります。 中世に爆発的な発生をみた私年号が中近世移行期から近世初期に小康状態となるのはおそらく間違いないにせよ、 その後も私年号はしばしば発生しているのであり、 しかも今なお新発見が続いていますから、 既出の史料は氷山の一角に過ぎないとも考えられます。 また、農村部で報告の多い私年号に対し、 都市の記録によると改元デマが頻発していたことが知られます。 いまはいたづらに結論を急ぐよりも新史料の発掘と収集につとめるのが賢明かもしれません。

幕末

[32] 幕末の政情不安のため、 日本各地で私年号延長年号が使われたことが知られています。 孝明天皇即位紀年皇紀のような元号以外の紀年法もみられるようになりました。 また開国によって西暦など欧米紀年法の流入も始まりました。 幕末維新期の日時

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。 明治改元日

明治以後

[64] 近代以降の日本では、 次の元号が用いられています。

[65] 近現代日本の元号

各元号の境界については改元改元期日

[5] この時代、元号を取り巻く状況は一変しました。

琉球

琉球の元号

朝鮮

朝鮮半島の元号

関東州および満鉄附属地

満州の元号

元号とその他紀年法の使い分け

一般的事項は元号の選択

現代の事情は現代日本の紀年法

時代特有の事情は日本古代の日時

外交関係は外交文書の紀年法

前近代日本の一般庶民と元号

[162] 前近代の一般庶民も元号を知り使っていたとするのが通説となっています。

[248] その証拠として、 元号を使った私文書が多数現存していることや、 元号が明記されたが広範囲に流布していたことが指摘されています。 都市住民は元号名の良し悪しをネタに風刺したり、 改元デマまでたびたび生じていたことが知られています。 地方でも元号年が刻まれた中世近世金石文が各地に残っています。

[249] ただし、専ら元号紀年法として使われていたわけではありません。 干支年十二支年も非常によく使われていました。 (日本史上、元号が唯一の紀年法として専用されていた時代や社会階層は無いのかもしれません。)

[163] 元号を使うかどうかの判断は、現代人とは違う感覚によっていたようです。 例えば江戸幕府の公文書で元号がなく、 干支年ですらない十二支年を書く形式のものも珍しくなかったようです。

表現形式は東洋の日時表示

[247] そうではなく一般庶民は元号に馴染みがなかったとする主張もみられますが、 根拠が不明です。

[103] 「一般庶民」にも幅がありますが、「庶民は元号を知らなかった」 との主張は、「一般庶民」を知識の低い方に偏って解釈する傾向があります。 ひとくちに「一般庶民」といっても、 都市住民もいれば農村民もいます。 地域の名士や知識層もいれば、 小作農もいれば、 貧民もいます。 近世中世古代とでも環境はまったく違います。 「みんな元号を知っていた」も「みんな元号を知らなかった」 も妥当とは思えません。

[105] 江戸時代東北で使われた絵暦では、 元号絵文字でおもしろおかしく表現されていました。

[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html

[226] 新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち | 日曜スクープ | BS朝日, https://www.bs-asahi.co.jp/sunday_scoop/interview/22/

本郷 当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。

ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。

本郷 いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。

いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。

[156] 高札, http://web.archive.org/web/20111215100922/http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousatsu.html

[159] 江戸時代の人は元号を言えたか - 以前どこかで前世療法というものの- 歴史学 | 教えて!goo, https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html

[160] 天皇と国家への服従を求める「新元号」キャンペーン粉砕を 杉並区議選勝利、5・1メーデーへ - 『前進』, 発行日: 2019年4月 8日 第3026号, http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2019/04/f30260401.html

日本の歴史において「元号になじんだ」人間は、明治以前では支配階級の中のごく一部にすぎず、一般の民衆はもとより支配階級の多くも、日常的に用いたのは古くから「えと」(干支=十干十二支)であった。

[161] 元号は「不合理で非科学的な代物」と非難しているが、 根拠を示さずこうした独自の主張を断定的に書いて流布するのは科学とは相容れない行為だと自覚しているのだろうか。
[245] 元号はいつからあったのか - 歴史まとめ.net, , http://rekishi-memo.net/japan_column/gengou.html

民衆に年号を馴染まなかった

江戸時代は元号より「干支」

頻繁に改元されていた事もあり、年号はあまり民衆には馴染まなかった。 江戸時代の庶民は元号よりも干支赤字を使用する事が多かったようだ。

民衆に馴染んだのは明治から

明治時代に改元ルールが改変される。 「一世一元の制」(天皇の在位中は元号を変えない)が導入された事で、元号が日本国民に定着していった。

[246] このウェブページは頻繁に改元されるから馴染まなかったと主張しています。 それ以上の根拠や出典は記載なく不明。

[97] Xユーザーのyunishioさん: 「あとさー、日本で元号が使われたのはせいぜい儀礼的な文書(公卿の任命書とか)、契約にかかわる文書くらいで、一般には使用されてないんだよね。🙂 たんに年数を数えるだけなら干支で事足りたので、庶民はみんな干支ですよ。あとはざっくりした時代区分(元禄の世とか)。😎 https://t.co/bVU4qq3Avk」 / X, , https://twitter.com/yunishio/status/1721439557210812924

[98] このように元号廃止論デマになっている。

[99] ところで「元禄の世」は元号ではないのか...

[100] 元号廃止論の人は元号明治政府に強制された「新しい伝統」だと主張したいために、 それ以前は元号が使われていなかったことにしたいようです。 いわゆる歴史修正主義の一種です。

[101] 「昔はいろいろな紀年法を使っていた。これからもいろいろな紀年法が使われていく。」 では何がいけないのでしょうかね。

[193] 「天下」支配権の所在を示す 元号の成り立ちと役割:日本古代から近世まで(池享) | Web日本評論 () https://www.web-nippyo.jp/13171/#%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7

しかし、民衆側がそれをそのまま受け入れていたわけではない。日常生活で普通に使われていた紀年法は、おそらく干支だっただろう。頻繁に改元が行われる状況下では、元号によって時間を計ることにはかなりの無理がある。平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったかなど、すぐにわかるものではない。しかし、干支は60年で一回りするので、効力の永続性が求められる土地売買の証文などには、元号が記されている。そうした限定された機能しか、元号は果たしていなかったと思われる。

[104] 「平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったか」 を「民衆」が「日常生活」で「すぐにわか」りたいという場面を想像するのがそもそも難しい。 そもそも「日常生活で普通に使」う紀年法という概念が、 どんな状況を想定しているのか謎。 当時 (源平合戦の頃?) の「民衆」の「日常生活」で紀年法を使うのがどういう場面なのか。 それを明らかにしないまま日常で使う、使わないという話をしても意味がない。

元号の一覧

[566] 元号 (やその他の紀年法) の一覧:

[569] 地域ごとの元号の時系列一覧:

詳しくは元号一覧

データファイル

元号一覧

変換表・実装

元号、改元日、読み方などの一覧表や換算ソフトウェアの実装状況などは元号一覧

識別子

元号名

統計

元号

研究史

[11] 元号改元については古くから支那でも日本でも様々な議論がなされてきました。 近代日本の学問としてもいろいろな角度から研究されてきました。

[89] といっても昭和時代後期の時点で元号に関する刊行済みの史料はほとんどありませんでした。 類聚国史大日本史 のような前近代の歴史研究成果にも、 元号の特集はありませんでした。 群書類従 も雑部に菅原道真編御記三善清行革命勘文 を掲載しているだけで、 塙保己一は当初元号関連史料を集める必要性を認識していなかったようです (が続群書類従で大量に収集整理されました)。 >>88

[87] 史料集成として、 続群書類従公事部 (巻二七八-二九一など)、 古事類苑歳時部年号, 明治41年刊がありました。 >>502

[16] 森鴎外は、 元号考 (大正15(1926)年) で日本の元号の典拠を検討しました。 森の研究は吉田増蔵に引き継がれ、 昭和改元に活用されたと考えられています。 元号考

[86] 森本角蔵は、 日本年号大観 (昭和8(1933)年) で元号の選定手続きや採用案・候補案の提案者や出典などを総合的に明らかにしました。 後に所功は、日本の元号の「すべてについての本格的な研究成果」 は本書くらいだったと述べました >>13 普及版 p.2

[14] 山田孝雄は、 年号読方考証稿 (昭和25年) で日本の元号がどう読まれてきたかを明らかにしました。 元号の読み方

[184] 石田茂作久保常晴は、 日付表記の形式を研究しました。 東洋の日時表示

[12] 久保常晴は、 日本私年号の研究 (昭和42年) で日本の私年号の全体像を明らかにしました。 詳しくは古代年号日本の中世私年号

[23] 瀧川政次郎は、 元號考証 () を著しました。 >>24

[15] 所功は、 昭和末期から日本の元号制度に関する多数の論考を発表し、 日本の年号 (昭和52年)、 年号の歴史 (平成元年) として出版しました。 それでも「まだ判らないことが沢山あり、さらに調査研究をしなければならない」 ところ「公私とも多忙」で進まず >>13 普及版 p.2、 平成末期になり若い世代の研究者と共にようやく 日本年号史大事典 (平成26年) が成ったといいます。 日本年号史大事典平成までの日本の元号制度を総合的かつ詳細に説明した、 日本の元号研究の現時点の集大成というべき書籍です。

[18] 日本の年号には 年号関係文献目録 が収録されました。 年号の歴史所功日本の元号に関する既存の研究として >>87>>16>>86>>14>>12>>23 を特に挙げたほか、 「年号に直接関係のある研究論文」が数十篇あったとしました。 >>502 日本年号史大事典には、 さらにその出版時点まで増補された目録が収録されました。 日本年号史大事典

[69] 所功は、 日本年号史大事典編集時に痛感したこととして、

... を挙げました >>68

[72] 平成31年に出版された 年号と東アジア―改元の思想と文化― の序文で、 水上雅晴は、 本書が所の挙げた2つの課題を「解決する一助になり得る」とし、 「年号学」なる学術領域が将来構築されるなら、 本書中の各論点が 「基本的な枠組みを形成する、と思われる程に多彩な論考」 を集めたものだとしました。 研究分野としては、 中国哲学、 中国科学思想史、 日本漢字、 日本史 (古代、中世、近世)、 朝鮮史、 ベトナム史、 日本思想史、 日本文学、 国語学、 日本法制史、 書誌学などを含むものであり、 今後の元号研究に少なくてもこれら領域の研究者の参画が必要だ、 としました。 >>67

[73] 歴史学の範囲を超えた総合的な「年号学 (元号学)」 としての発展を目指すには、 さらに加えて現代社会における元号と西暦の受容、 元号以外の紀年法との文化論的比較、 情報システムの日時処理と元号、 創作物における日時、 などといった観点も必要になって来ましょう。

[17] 日時制度の諸相の中で日本の元号は比較的関心を集めやすくよく研究されてきた分野といえますが 日時研究 、 それでもなお未解明なことは多いようです。

[242] 元号、特に日本の元号については実は個別の研究は既に膨大な蓄積があるのですよね。 でもそれら個別研究をまとめて俯瞰するタイプの研究はそれほど多くないから、 全体像がはっきり見えてる部分がまだまだ少ない。 そしてそこから視野を広げて行こうとすると、まだまだわからないことだらけで、 個別の研究だって全然足りてないじゃないかと呆然とするんです。

メモ

[9] KJ00000189327.pdf () http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2799/1/KJ00000189327.pdf

[10] 香取文書の売券から見える中世の東国 () https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/07/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%A3%B2%E5%88%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%9B%BD.pdf

[47] 暦Wiki/歴史/元号 - 国立天文台暦計算室 () http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB8B5B9E6.html

[83] 東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web) () https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html

博物館などによると、改元は、江戸時代までは天変地異や飢饉(ききん)があったときに世の中をリセットする意味があり、私年号は改元されないときに改元を望む民衆の中で流布された新年号。戦乱が続いた中世、年号を決める朝廷から離れた東国で、多くはデマと判明するまで短期間使われたという。

[85] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 第 1 巻 155 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000155.html

年號ニシテ正史ニ見エズ、僅ニ金石文ニ存スルモノ、又古キ年代記、古社寺縁起等ニ記サレタルモノアリ、之ヲ逸年號ト謂フ、多クハ僧徒輩ノ僞作ニ係ルト云フ、又後世亂離ノ際、政令遠遐ニ遍カラズシテ、邊土ノ民、私ニ異號ヲ用ヰシコトアリ、之ヲ僞年號ト謂フ、今併セテ逸年號ノ後ニ載ス、

[181] 《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題 - ライブドアニュース () https://news.livedoor.com/article/detail/19333042/

[190] (, ) https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf

[191] 京都産業大学 学術リポジトリ (NetCommons, ) https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10274&item_no=1&page_id=13&block_id=21

日本文化研究所公開シンポジウム : 元号の世界 : 最新の研究から

[192] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//uugon.html

[222] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「中公新書『中先代の乱』を読んだけど、この本の底辺には北条時行へのロマンがぎっしり詰まってて、その上に歴史学を積んでるという感じがしました。」 / Twitter (午後2:38 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418445348742201347

[223] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「鎌倉近隣の北条氏ゆかりの寺院の僧侶が、中先代が鎌倉に入ったわずかな期間だけ、中先代が使用する年号を使ってたという記述が一番興味深かったです。鎌倉を追われるとすぐに年号を元に戻したそうで。」 / Twitter (午後2:48 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418447913823268868

[224] 鎌倉幕府の衰亡(7)北条時行 (, ) https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo8.html

翌二十三日、足利直義を井出沢に破った北条時行は、二十四日、ついに鎌倉を奪回した。時行は正慶の年号を復活させ、幕府復活を宣言した。

[227] 石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』における〝私年号〟 - 「魏志倭人伝」への旅 ブログ版, hyenanopapa, , https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1862.html

石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』p217

たとえば、甲斐、常陸、陸奥、相模、下総などで行なわれた福徳(元年が延徳二年に当たる)、薩摩地方で行なわれた福伝(元年が延徳二年に当たる)、甲斐、常陸、会津地方で行なわれた弥勒(元年が永正二年に当たる)、甲斐に行なわれた宝寿(元年が天文二年に当たる)のごときこれである。改元を奉じないで古い年号を用いた例もある。たとえば、文明三年を享徳二〇年と記したごときこれである(享徳と文明のあいだには、康正、長禄、寛正、文正、応仁がある)。

[251] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)

[258] 日本社会事彙 下巻, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1805636/1/576

[177] 12_2022_ippan_nihonshi.pdf, , https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2022/07/12_2022_ippan_nihonshi.pdf#page=3

[78] Xユーザーのノザキハコネさん: 「柳田國男が紹介してたけど日本では近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があったそうなのでこの美しい伝統を復活させましょう。令和とか使わず各職場やご家庭でガンダム元年とかちいかわ元年とか好きに決めて使おう。」 / X, , https://twitter.com/hakoiribox/status/1720837313583108351

[90] 少なくても 定本柳田国男集 索引で「私年号」は1箇所だけで、その 海上の道 には確かに柳田國男弥勒の考察が見えるのだけど、柳田國男

すなわち一時は少なくともそういう年号が、新たに制定せられたものと信じて、これを用いた人が多かったのである。

と書いてるんだよなあ。 弥勒

[92] 「近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があった」 ってのはどの本のどこに書いてあるんだろうか。 真逆に見えるんだけど、いつどういう理由で新説を唱えたのか、どちらが新しいのか。

[93] 平成時代はじめくらいまで「私年号の時代は近世初期で終わった (幕末など例外あり)」 ってのが通説だったのに。柳田國男が近世後期までの習慣を紹介しているなら、 見逃されてるはずないと思うんだけど。

[94] XユーザーのDr. Yusuke YAMASHITA, PhD, Associ.Prof. of CSRさん: 「歴史上、日本には「私年号」「異年号」と言われるものが存在する。これは、 元号の一字を縁起の良い文字に変えて使う、という縁起物的風習であり、 例えば、「延徳」を「福徳」として使用した事例が存在する(※二代古河公方・足利政氏の御書の事例)。 (参照:市村高男『足利成氏の生涯』)」 / X, , https://twitter.com/YAMASHITAnoID/status/1721055025487900672

[95] 「縁起物的風習」。足利成氏の生涯にそう書いてあるのか、この人がそういってるだけなのか。

[96] Xユーザーの幣束さん: 「何年か前に石仏の側面確認したら全く知らん年号出てきて検索しても無いし?????ってなったんだがアレも私年号だったのだろうな多分」 / X, , https://twitter.com/goshuinchou/status/1721357299237929184

[102] 日本社会事彙 下, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898057/1/639