日本の元号

日本の元号

[1] 日本では紀年法として元号が使われています。

[3] 現在の日本の元号令和です。

概要

元号一般、表記、読み、用法などについては元号

改元の一般的事項については改元改元手続き

[25] 日本の元号大化に始まり、現在まで200個以上、 1400年近くにわたり使われています。

[26] 現在日本の元号日本政府内閣府の所管となっています >>8 日本の元号法制


[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号建元はほとんど見られません。

[29] ただし、南北朝時代には北朝元号の他に南朝元号が並立しました。 また中世幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。

[30] そのようないくつかの例外を除けば、 日本の私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号) は反政府的な意味が薄く、 制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。

古代

[4] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、 やがて元号制度が導入されました。 最古の元号大化でした。 現在まで途切れず続く流れの最初は大宝でした。 日本古代の日時

[7] 現在のいわゆる「和暦」では大化以降の元号を用いるのはもちろん、 元号の建てられなかった期間は天皇即位紀年元号風に扱う慣習となっています。 天皇即位紀年

[31] 中世には、古代の出来事を記述するため元号大宝以前に遡って設定することもありました。 古代年号

[59] 大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。 日本古代の日時

平安時代

[183] 菅原道真と二つの改元, https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja

源平合戦期

[150] 平安時代末期には、関東源頼朝勢力や西国平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。

[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、 平氏側の改元源氏側の元号も採用しているようです。 日本年号史大事典は併記していますが、 国立天文台日本の暦日データベースは一方 (新しい方) のみ記載しています。 元号一覧

西暦
西暦
時期
時期
平氏
平氏
京都
京都
源氏
関東
備考
備考
西暦
1181年
平氏
治承5年
京都
治承5年
源氏
治承5年
西暦
1181年
時期
治承5年7月14日
平氏
養和元年
京都
養和元年
源氏
治承5年
備考
養和改元
西暦
1182年
平氏
養和2年
京都
養和2年
源氏
治承6年
西暦
1182年
時期
養和2年5月27日
平氏
寿永元年
京都
寿永元年
源氏
治承6年
備考
寿永改元、 寿永2年7月平家都落ち源義仲入京
西暦
1183年
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
治承7年
西暦
1183年
時期
寿永2年10月14日
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
寿永2年
備考
寿永二年十月宣旨
西暦
1184年
平氏
寿永3年
京都
寿永3年
源氏
寿永3年
西暦
1184年
時期
寿永3年4月16日
平氏
寿永3年
京都
元暦元年
源氏
元暦元年
備考
元暦改元
西暦
1185年
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年3月24日
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
備考
壇ノ浦の戦い平家敗退
西暦
1185年
平氏
元暦2年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年8月14日
平氏
文治元年
京都
文治元年
源氏
文治元年
備考
文治改元

[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和改元したとしています。

[122] 一方で、源氏元暦改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和寿永) を使わなかったとしています。

[148] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏寿永を使うようになったともあります >>146

[123] 平氏元暦改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治改元したのも無視したとありますが >>146改元壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。

[53] 源頼朝寿永を使うのは2年以降でした。 >>13 (平泉澄 1917)

[54] 動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため >>13 普及版 p.349 (>>55)、 あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため >>13 普及版 p.349 とする説もあります。

[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。

[375] この時期の前後には、私年号として保寿和勝迎雲といったものが使われていました >>373

[149] 1987_2/解法のヒント ( 版) http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html

設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

[241] 志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用(北爪真佐夫 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / Twitter, , https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576

南北朝期

[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。

[187] 対応表や変換ソフトウェアは北朝南朝を併記するものが多いですが、 一方のみ採用するものもあります。完全に併記とするもの、 北朝を原則とするもの、南朝を原則とするものがあります。 分裂や統合の境界部分の扱いが怪しいものもあります。 正平一統まで記述しているものはあまりありません。

[414] 雑な実装で、両方の元号を採用し、直近の改元があったものを使って表記する、 というものもあります。 例えば: CLDRの和暦

元号改元日のデータだけ保持して南北朝のことを想定していないとそうなります。

[385] 南北朝時代、両朝廷はそれぞれの事情で改元したので、 タイミングと期間はまったく異なります。北朝の方が頻繁に改元しました。 同じ年にそれぞれ改元したこともあります。

[395] 日本の元号でただ一組、 弘和永徳だけは、 前後の改元の年の組 (1381, 1384) が完全に一致しています。

[394] 北朝京都で従来の改元手続きを基本踏襲していましたが、 南朝改元の正確な日付すら一部現在に伝わっていません。

[203] 明治時代以後、南朝が正統とされ、天皇の代数は南朝基準で数えられています。 (それ以前は北朝基準でした。) どちらかを選択しなければならない場合、 元号南朝側を採用するのが良いのかもしれません。

[204] 日本の大部分を支配していた、あるいは首都である京都を支配していた、 という基準なら北朝を選択するべきですが...

[422] ただし、本節で紹介する通り、南朝元号に関する情報はあまり正確に伝わっていないようです。

[332] 次の元号が、特別な取り扱いが必要なものです。

[57] 伊豆加茂郡入間村三嶋明神の棟札に 「應長十三年」 とした延長年号例があったといいます。 >>13 普及版 p.425 (逸號年表補考)

w
西暦
n
北朝 (持明院統)
s
南朝 (大覚寺統)
note
備考
w
1329
n
嘉暦4年
s
嘉暦4年
w
1329
n
元徳元年
s
元徳元年
note
嘉暦4年8月29日改元
w
1330
n
元徳2年
s
元徳2年
w
1331
n
元徳3年
s
元徳3年
w
1331
n
元徳3年
s
元弘元年
note
w
1332
n
元徳4年
s
元弘2年
note
元徳4年3月7日後醍醐天皇配流
w
1332
n
正慶元年
s
元弘2年
note
w
1333
n
正慶2年
s
元弘3年
note
w
1333
n
元弘3年
s
元弘3年
note
北朝正慶2年5月25日退位
w
1334
n
元弘4年
s
元弘4年
w
1334
n
建武元年
s
建武元年
note
元弘4年1月29日改元
w
1335
n
建武2年
s
建武2年
note
8月足利尊氏出兵
w
1336
n
建武3年
s
建武3年
note
w
1336
n
建武3年
s
延元元年
note
w
1337
n
建武4年
s
延元2年
w
1338
n
建武5年
s
延元3年
w
1338
n
暦応元年
s
延元3年
note
北朝建武5年8月28日改元
w
1339
s
延元4年
w
1340
s
延元5年
w
1340
s
興国元年
note
南朝延元5年4月28日改元
w
1342
n
康永元年
note
北朝暦応5年4月27日改元
w
1345
n
貞和元年
note
北朝康永4年10月21日改元
w
1347
s
興国7年
w
1347
s
正平元年
note
南朝興国7年12月8日改元
w
1350
n
観応元年
s
正平5年
note
北朝貞和6年2月27日改元
w
1351
n
観応2年
s
正平6年
w
1351
n
正平6年
s
正平6年
note
w
1352
n
正平7年
s
正平7年
w
1352
n
観応3年
s
正平7年
note
w
1352
n
文和元年
s
正平7年
note
北朝観応3年9月27日改元
w
1353
n
文和2年
s
正平8年
w
1356
n
延文元年
note
北朝文和5年3月28日改元
w
1361
n
康安元年
note
北朝延文6年3月29日改元
w
1362
n
貞治元年
note
北朝康安2年9月23日改元
w
1368
n
応安元年
note
北朝貞治7年2月18日改元
w
1370
s
建徳元年
note
南朝正平25年7月24日改元
w
1372
s
文中元年
note
南朝建徳3年4月改元
w
1375
n
永和元年
note
北朝応安8年2月27日改元
w
1375
s
天授元年
note
南朝文中4年5月27日改元
w
1379
n
康暦元年
note
北朝永和5年3月22日改元
w
1381
s
弘和元年
note
南朝天授7年2月10日改元
w
1381
n
永徳元年
note
北朝康暦3年2月24日改元
w
1384
n
至徳元年
note
北朝永徳4年2月27日改元
w
1384
s
元中元年
note
南朝弘和4年4月28日改元
w
1387
n
嘉慶元年
note
北朝至徳4年8月23日改元
w
1389
n
康応元年
note
北朝嘉慶3年2月9日改元
w
1390
n
明徳元年
note
北朝康応2年3月26日改元
w
1391
n
明徳2年
s
元中8年
w
1392
n
明徳3年
s
元中9年
note
南朝元中9年閏10月5日退位
w
1392
n
明徳3年
s
明徳3年
w
1393
n
明徳4年
s
明徳4年
w
1394
n
明徳5年
s
明徳5年
note
明徳5年7月5日改元

[94] 日本南北朝時代の元号は、 ある地域、ある人物がどの勢力に属したかを知る手がかりとされています。

[93] 中世文書の残存率が高い九州元号によって北朝南朝に分けて数えた研究によると、 残存数は北朝 5 : 南朝 1 だといいます。 このことから南朝文書の多くが現在に伝わらないと推定されています。 >>97 p.5 (九州地方における南北朝時代文書の数量的分析, 瀬野精一郎, 日本歴史 313, 1974)

[164] 庄内地方には、 正平興国のような南朝の元号のある板碑がありました。 吉野を中心とする修験道を通じたつながりが指摘されています。 >>166 pp.364-365

[168] 奈良原山に宝篋印塔があって、 南朝の元号が使われました。 やはり修験道との関係が指摘されています。 >>166 p.365

[1934] 南朝の元号が存在していたことは、 江戸時代の知識人にはよく知られていたようです。 情報に混乱があり、 南山巡狩錄 が出典を示して整理したといいます。 >>1731

[228] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=47

現在の説とは違う数え方の南朝年号

[182] YasuさんはTwitterを使っています 「この契約状にみられる「仰 公方」も、島津家当主(島津元久)と断定されている。しかし、その根拠となる関連史料は掲示されていない。この頃島津は、幕府方に降参して間もない頃のようである。南朝の元号ではなく、北朝の元号を使用しているのも、幕府方であることを意味している。#公方 #一揆契約状 https://t.co/JHBNj0dgxq」 / Twitter, 午前3:53 · 2020年12月24日 , https://twitter.com/yasu197508161/status/1341819257609355264

[195] 江戸時代日本近江国蒲生郡中之郷村に流布していた、 中之郷村にあったという善通教釈寺梵鐘の銘文写本とされるものに、 「興国元歳次丙子仲夏日」 とありました。 >>194 p.122

[196] 江戸時代中之郷村の知識人坂本林平は、 楓亭雑話にこの銘文を収録した上で、 出典不明で疑わしく、 「例ノ好事ノ偽作ナラン歟」 と疑っていました。 >>194 pp.122-123

[198] 蒲生古蹟考などにも 「南都興福寺官務帳写」 として掲載されていました。 ところが現存する興福寺官務牒疏には記載がありませんでした。 >>194 p.123

[199] 興福寺官務牒疏椿井文書とされます。 現存本と異なる本が流布していたのでしょうか。

[197] 昭和時代東桜谷志は、 楓亭雑話を引いて紹介しました。 興国元年は暦応3年、西暦1340年に当たるとし、 当時の領主は南朝にも北朝にも従っていて南朝年号が書かれても不思議ではないものの、 近くに北朝暦応2年金石銘が現存するように、 当時足利尊氏方にあった佐々木氏統治のこの地域にあったとは考えにくいなどと疑問視していました。 >>194 p.123

[201] 当銘文は椿井文書で、「例の好事」とは椿井政隆と思われます。 >>200 pp.98-99

[202] 現在の通説によると、 南朝興国元年 (延元5年4月28日から改元) は北朝暦応3年、です。 この付近の丙子年は、 (南朝延元元年2月29日に改元) でした。 4年のずれがあります。

[206] 椿井政隆が何らかの意図を持って異なる干支を書いたのでしょうか。 それとも江戸時代当時の異説を信じてしまったのでしょうか。

[225] h22-2 49-54gou.pdf, , https://saitama-rekimin.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/1933 PDF 1頁

[229] 0203.pdf, , http://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf#page=2

生石延命寺の板碑はこの頃のものである。年号に注目すると、若干の差だが、南北朝前期に作られた板碑は南朝年号が多く、後期は北朝年号が多い。これは、当時の酒田周辺の南北勢力を表していると考えられている。出羽国では、はじめ南朝勢力が強かったが、康永2年※北朝年号(1343)には北朝が優勢になる。この時、北朝側には武藤氏(大宝寺氏)、余目安保氏がついており、最上川南側には北朝勢力、北側には南朝勢力が及んでいたと考えられている。

[230] dai2-2syou.pdf, , https://www.city.omura.nagasaki.jp/bunka/kyoiku/shishi/omurashishi/dai2kan/documents/dai2-2syou.pdf#page=10

正平十七年(一三六二)に波佐見居住の小領主として江串孫三郎橘光平の名が見える。この彼杵一揆は彼杵郡の小 豪族が南北朝の争乱期を地縁的関係で結束し、同一の軍事行動を盟約した連合体であった。その立場はこの場合「正平」 という南朝年号を用いているから、南朝方にあった。

#page=15

建武新政府時代であるから して南朝の統一年号を使用しているのは当然であろうが、改元の時期は中央における政変等の情報が混乱輻輳してい たと思われるので、その情報が地方まで伝達されるまでにはある期間タイムラグが生じ、そのために改元初年の時期 には旧来の年号を使った事例が目立つ。建武元年は元弘四年一月二十九日に改元されているので、延命寺五輪塔地輪 は「建武元年八月八日」までには改元後の情報が正確に伝わっていたことを示している。

次に第二グループとして一三三六年から一三五二年までの間を区切ってみると、この時期は足利尊氏、足利直冬下 向と三勢力 (てい) (りつ) の時代である。それまで南朝年号を使用していた「青方」「福田」「深堀」「来島」各文書が、正平元年銘 の「深堀明願・小宮通廣連署押書」(「深堀家文書」)を除いて、ほぼすべてで北朝年号に変化し、その変化に添う形で対馬・ 多久頭魂神社梵鐘銘や諫早・慶厳寺名号石銘も北朝年号を刻んでいる。

ただ、一三五四〜五六年の二年間は南朝・北朝ともに使用する資料が認められるが、

#page=33

この一揆連判状は南朝年号を用いていることから、連名した三二人は南朝 方として行動したことが分かる。

#page=70

しかし、九州の南朝方はまだ抵抗しており、応永元年(一三九四)にもまだ南朝の年号「元中」を使用していた。

[231] 04郷土の文化財(第6版) #2860C9 - P55-82.pdf, , https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3010bunkazai/files/P55-82.pdf

南朝の征西将宮懐良親王に関係の深いこの寺に、北朝年号が刻まれた鐘があることから、当時の複雑な世相をうかがい知ることができ、非常に貴重な存在となっています。

[232] https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29513/21393_1_%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A.pdf PDF 3頁

[233] 練馬区史 歴史編, , https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_2rekishihen/rekishihen_honcho3.xhtml#honcho_page187

[234] vol23_h1-4_Fix-cs6_最終ol - kouhou23.pdf, , https://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/pdf/kouhou23.pdf#page=2

元弘の乱から建武の新政

[124] Wikipedia その他は、元徳の開始を嘉暦4年8月29日 (ユリウス暦1329年9月22日) としています。

[125] 南朝 (大覚寺統) は元徳3年8月9日 (1331年9月11日) に元弘改元しています。 後醍醐天皇はその直後に京都を離れました (元弘の乱)。

[126] 鎌倉幕府はこの改元を承認せず、 後醍醐天皇廃位し、北朝 (持明院統) の光厳天皇のもと、元徳4年4月28日 (ユリウス暦1332年5月23日) に正慶改元しています。

[116] Wikipedia正慶を元徳4年4月28日(ユリウス暦1332年5月23日)開始、 正慶2年5月25日(ユリウス暦1333年7月7日)終了としています。

[20] 国立天文台日本の暦日データベースは、 元徳3年元弘元年8月9日から元弘2年正慶2年5月24日まで併記しています。 元号一覧 (>>347)

[127] 正慶 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%85%B6

正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した。5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、正慶の元号は廃された。その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。

[153] 建武 (日本) - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。

[19] HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦) ( ( 版)) http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/Japanese.html

[109] >>19

「大宝」以降

国史大辞典編集委員会編 『国史大辞典』(吉川弘文館刊)の記述に従っています。ただし、改元日があいまいな場合は下記のとおり扱います。これらの処置による暦変換への影響については、備考もあわせてご覧ください。

[107] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

元徳から正慶: 「正慶」の項目には「元弘二年四月二十八日改元」とあるが、「元徳」の項目に「持明院統の光厳天皇は四年四月二十八日正慶と改元するまで、この年号を使用した」とあるので、暦変換で北朝が指定された場合は元徳4年4月28日に正慶に改元として扱う。

[128] Wikipedia は、 元弘4年1月29日 (ユリウス暦1334年3月5日) を建武の開始日としています。 終了日は、南朝建武3年2月29日 (ユリウス暦1336年4月11日)、 北朝建武5年8月28日 (ユリウス暦1338年10月11日) としています。

観応の擾乱と正平の一統

[129] Wikipedia は、 興国7年12月8日 (ユリウス暦1347年1月20日) を正平への改元日としています。 正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) までとしています。 開始日について「『七巻冊子』は4月、『南朝編年記略』『南朝公卿補任』は7月24日(8月11日)、『続史愚抄』は7月4日(7月22日)とするが、全て誤り。」ともあります。

[667] 九州に勢力を持っていた足利直冬は、 観応改元せずに貞和を継続していましたが、 観応2年6月10日から観応を用い始めました。 >>188

[661] 観応2年11月7日、北朝は廃止されました。 この直後から、室町幕府 (足利尊氏政権) は正平 (6年) を用い始めました。 >>663 169ページ

[662] 足利尊氏と対立関係にあった足利直義は、 その後も観応を使い続けました (翌年2月26日没)。 鎌倉など東国は12月末頃まで足利直義の勢力下にありました。 >>663 169ページ

[665] 正平7年閏2月23日、足利義詮観応 (3年) に復帰しました。 3月15日、足利義詮南朝が進攻していた京都を奪還しました。 >>663 194ページ

[664] 正平7年3月12日、足利尊氏南朝が進攻していた鎌倉を奪還しました (武蔵野合戦)。 鎌倉入後、足利尊氏観応 (3年) に復帰しました。 >>663 192ページ

[113] Wikipedia その他は観応3年9月27日 (ユリウス暦1352年11月4日) に文和改元 (北朝) としています。

[668] 足利直冬は、文和改元せず、観応を使い続けました。 直冬は年末に九州から中国地方に移動し、 南朝に帰順しました。 >>663 208ページ

[666] 北朝文和2年6月9日、南朝京都に進攻しました。 北朝後光厳天皇足利義詮京都を脱出しました。 7月24日、南朝京都から撤退しました。 25日に北朝軍が京都を奪還、 26日に足利義詮、 9月21日に後光厳天皇京都に復帰しました。


[21] 対照表や変換ソフトウェアで正平一統を反映するものはほとんどなく、 南北両元号併記の期間とすることが多いようです。 元号一覧

[78] 児玉黨 ( 版) http://www5b.biglobe.ne.jp/~sho-rai/kodamashinokeifu.htm

貞和七年

一三五一年。観 応二年(北朝年号) にあたるが、当時こ の地域で勢力を有し ていた足利直冬は、 実父の足利尊氏と対 立し、年号も改元せ ず貞和年号を用いて いた。

[188] 足利直冬 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC

なお、直冬は観応と改元された後も約1年4カ月余にわたって貞和年号を使い続けた[25]

この事もあり、観応2年(1351年)6月10日から直冬は貞和から観応の年号を使用するようにしている[33]

[105] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

観応から文和: 「文和」の項目には「正平七年九月二十七日改元(前年十一月の正平の天下統一により北朝の年号「観応」は廃止されていた)」とあるが、観応廃止の日付が確定できないこと、また、「観応」の項目に「三年九月二十七日文和と改元」とあるので、観応から文和に直接改元したものとして扱う。


[27] 建徳への改元日を多くの資料は正平25年7月24日としてきました。 しかし建徳元年2月5日の史料が残されています。 日本年号史大事典本文は改元日2月5日以前としており (巻末一覧表は7月24日)、 他にも 2月5日とするものがあります >>104 元号一覧 改元日は暫定的に2月5日に改められるべきと思われます。

[118] Wikipedia は正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) を建徳への改元日としています。 「鴨脚本『皇代記』は4月22日(5月17日)、『伊勢之巻』は1月21日(2月17日)とする。」 ともあります。


[669] 康安元年12月、南朝京都に進攻しました。 しかしその後すぐに北朝が奪還しました。

[104] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

正平から建徳: 最も早い現存史料として挙げられている「『大徳寺文書』建徳元年二月五日重快・妙阿連署田畠売券」の記述に従い、正平25年2月5日をから年号を建徳として扱う。

[334] ( 版) http://www.geocities.jp/me20030706/nanbokutyou.htm

1351 正平 1351 正平6年 (観応2年11月2日 正平一統により、北朝は南朝元号の正平を採用し、南北朝同一元号となる)

1352 文和 (1352年 正平7年9月27日北朝は再び独自の元号として「文和」に改元、正平一統は崩壊)

[335] ( 版) http://www.geocities.jp/me20030706/nanbokutyou.htm

正閏論に依拠し、敢えて南朝元号を使用したと思われる刀工に、備中青江貞次がいる。延元、興国、正平5~13年の年紀があるが、この事実は興味深い。

なぜなら同流派で同時代、同地域に生きた次直が、「正平の一統」を含めてほぼ正確に北朝元号を採用しているからである。

同じ流派の青江直次も、正平の一統の際に多少の混乱はあったにせよ、ほぼ北朝元号を採用している。

貞次と次直、それに直次は同門で、備中国青江、現在の倉敷市のあたりに住み、日常的に顔を会わせる機会が多かったはずであり、情報を共有していたとするのに何ら不自然は無い。あえて貞次のみが南朝元号を用いたことには、明確な恣意性が認められる。

南朝

[92] 奥州延元 (5年で改元) の延長年号8年の用例が発見されました。 延元


[96] Wikipedia文中への改元日を不明としています >>95。 変換表も多くは不明としています。 値を示す表やソフトウェアも、その値は様々です。 具体的な日を示すものは次の通り。

g
グレゴリオ暦
j
ユリウス暦
k
旧暦
src
出典
note
備考
note
確証を得ない >>95
k
1372-03-22
j
1372-04-26
src
元号一覧 (>>13)
j
1372-05-01
g
k
1372-03-27
note
ユリウス暦月初
src
国立天文台日本の暦日データベース 元号一覧 (>>347) , 元号一覧 (>>22), 元号一覧 (>>340), >>50, 元号一覧 (>>323)
j
1372-05-04
g
k
1372-04-01
note
旧暦月初
src
>>62
k
1372-04-05
note
改元日範囲の最速
src
>>99, >>102
k
1372-04-28
g
j
1372-05-31
note
史料初出 >>95
src
元号一覧 (>>39) 備考, 元号一覧 (>>337)
k
1372-10-04
j
1372-10-30
note
誤り >>95
src
元号一覧 (>>39) 備考
k
1372-10-24

[158] 元号一覧 (>>39) は4月(日不明)としつつ、備考で10月4日と10月24日を挙げています。

[50] suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本 ( 版) http://www2u.biglobe.ne.jp/~suchowan/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC

改元の日付は三省堂の『コンサイス世界年表』[6]に拠りました。

源平争乱期と南北朝時代については、それぞれ源氏方と平氏方及び南朝と北朝の 年号を表示します(ただし白鹿はサポートしていません)。

南朝の「文中」改元は日付が不明になっていますので仮に4月1日にしてあります。 バージョン2.01から、明徳3年閏10月5日までバージョン1.Xに較べ1日長く「元中」 年号を表示するように変更しました。これは中国暦日表示の原則に合わせたためです。 他の時代にも、京都で次年号に改元後関東等で使用されていた年号があるようですが、 京暦に従いました。

[95] 文中 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B8%AD

改元日は史料を欠くために明らかにし難い。史料上の初出は、『金剛寺文書』の文中元年4月28日(1372年5月31日)付長慶天皇綸旨であり、これ以前の改元は確実視される。したがって、『南朝編年記略』・『続史愚抄』などが10月4日(10月30日)とするのは誤り。『七巻冊子』は3月22日(4月26日)とするが、他に所見がなく確証を得ない。

[102] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

建徳から文中: 最もはやい確実な史料として挙げられている「河内『金剛寺文書』文中元年四月二十八日長慶天皇綸旨」の記述に従い、建徳3年4月28日から年号を文中として扱う。

[130] Wikipedia は文中4年5月27日 (ユリウス暦1375年6月26日) を天授への改元日とし、 天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) までとしています。 改元日について「『七巻冊子』は2月上旬とする。」とあります。

[119] 九州征西大将軍令旨は、 文中4年6月13日までのものと、 天授元年10月3日以後のものが確認されています。 >>101 PDF 8ページ


[114] Wikipedia その他は天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) を弘和への改元日としています。

[115] Wikipedia には「『南朝編年記略』は2月14日(3月10日)とする。」ともあります。

[106] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

天授から弘和: 「弘和」の項目には「天授六年(一三八〇)の六月以降、同七年六月以前に改元が行われ」とあるが、「天授」の項目に「天授七年二月十日弘和と改元」とあるので、天授7年2月10日を改元日として扱う。

[111] Wikipedia は弘和4年4月28日/ユリウス暦1384年5月18日) を元中への改元日としています >>110。多くの対応表がこれを採用しているようです。

[112] >>103 は弘和4年11月5日を改元日としています。

[120] 九州征西将軍宮令旨は、 弘和4(1384)年5月16日までのものと、 元中元(1384)年11月21日からのものが確認されています。 >>101 PDF 9ページ


[22] 国立天文台日本の暦日データベースは、 元中9年明徳3年閏10月4日まで併記とし、 5日から明徳3年のみとしています。 元号一覧 (>>347)

[117] Wikipedia南朝側の元中最終日を元中9年閏10月5日 (ユリウス暦1392年11月19日) としています。

[103] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

弘和から元中: 最も早くみえる現存史料として挙げらている「『栄山寺文書』元中元年十一月五日後亀山天皇綸旨」の記述に従い、弘和4年11月5日から年号を元中として扱う。

[108] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

元中から明徳: 「元中」の項目には「九年閏十月南北両朝の統一により北朝明徳の年号に統一され」とあるが日の記述がない。「南北朝の合体」の項目の「同五日神器が大覚寺から内裏に渡御し<中略>これで万事が完了した」の記述に基づいて、元中9年閏10月5日に明徳に改元として扱う。

[132] 当時の九州の状況について、 南九懐良親王生存中の天授元(1375)年から弘和2(1381)年の 8年間の南朝元号の史料は69通 (8.6通/年)、 死後の弘和3(1382)年から元中12(1395)年の 13年間の南朝元号の史料は48通 (3.6通/年) と激減しました。 死後の用例はほとんどが後宮の令旨と側近の書状で、 他は九州全土で北朝元号が使われました。 >>101 PDF 19ページ

[133] 至徳元年・元中元年 (1384年) 以後、 阿蘇社の社務関係文書ではもっぱら北朝元号が使われました。 南朝勢力の支配が失われたものとみられます。 >>101 PDF 19ページ


[374] 南朝系勢力が (南朝の正式な元号として伝えられているものとは別に) 白鹿応治という元号 (私年号) を使った例が知られています >>373

[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。


[135] 大明洪武4年 (日本南朝建徳2年、西暦1371年) 10月、 南朝征西大将軍懐良親王は、 明国朝貢しました。 明国洪武帝は、 大統暦を与えました。 >>97 pp.192-193

[136] 大明洪武5年 (日本南朝建徳3年・文中元年、西暦1372年) 5月、 明国の使節は大統暦を持参し博多に来航しました。 しかし当時博多は既に北朝今川了俊の統治下にあったため、 任は果たされませんでした。 >>97 pp.192-193

[139] 南朝勢力が独自の旧暦大統暦を使用していたとする痕跡はみられません。 編暦できるスタッフを抱えていたのか不明です。

後南朝

[221] 南朝残党 (後南朝) は南北朝合一後も元中を使い続けています。

[45] 1443年12月に天靖改元したとされます。

[144] 1469年11月に明応改元したとされます。 (後の公年号明応とは異なります。) 明応

[140] 伊勢国司北畠顕泰は、 合一後も南朝元号を使いました。 元中9(1392)年11月1日付文書が確認されています >>141 p.114 (古和文書)。 (が翌年9月までに幕府に帰順しました。)

[100] 九州の一部を支配した南朝征西将軍宮は、 元中11年 (= 応永元年) まで令旨を発したことが確認されています >>97 p.189 (後征西将軍宮発給文書考, 川添昭二, 古文書研究 一九, 1982年)。 最後のものは元中11(1394)年12月19日とされます >>101 PDF 9ページ

[134] 信濃越後陸奥など東国方面では、 南朝系勢力の新田氏が活動しました。 元中元号が引き続き使われました。 >>97 p.190 (東国の元中年号文書と新田一族, 江田郁夫, 古文書研究 五五、 2002年)

[143] 忠義王文書として、 年号がなかったり、 干支年のみで 「乙亥日」 (縦書き) とだけ書かれたものが知られています。 >>142, >>141 pp.207-208 北朝元号を使うのをきらったものとも考えられますが、 政治的意図なくこうした表記にすることもあるでしょうから、 簡単に言うことはできません。

[137] 伴信友は、 次のように認識していました。 >>1731

[138] このうち大道は、現在は江戸時代私年号と考えられています。

[110] 元中 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%B8%AD

『南方紀伝』・『続史愚抄』などによる。

九州征西府や東国新田氏を中心とする南朝勢力の間では、合一後もなお「元中」年号が使用され続けた。具体例としては、『阿蘇文書』に元中10年(1393年)、『五条家文書』に同11年(1394年)・同12年(1395年)、『市河文書』に同14年(1397年)[2]、『日枝神社文書』に同18年(1401年)の各年紀を持つ文書がある。

[260] 本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?: 戦国史最大の謎、本能寺の変の真実! ( 版) http://sengoku-1.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fc5a.html

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。

[90] 後南朝序曲 ( 版) http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap4/01gonancho.html

去る元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)、後亀山天皇が還京されて以来五十余年ぶりに「天靖」と云う南朝年号が復活した。

[553] ( 版) http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html

小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3年 (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。 

宝徳3年(1451) 尊雅親王は第2代興福天皇として即位、改元大明となった。

[172] Ina - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=S1MzAAAAMAAJ&dq=%E5%B9%B4%E5%8F%B7

室町時代の関東

[180] 駿河史料の図によると、 現在の日本国静岡県永豊寺の雲版に、 「明徳五年八月吉日」 とあったとされます。 この雲版は現存しません。 明徳5年7月5日に応永改元されましたから、 久保常晴は 「以て当時の同所の僻地なる事を知る(『静岡県史󠄃料』第一輯)」 と書きました。 >>288 20 (この書き方で「僻地」という評価が久保のものか 静岡県史料 のものか不明。)

[74] 足利持氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F

元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

[75] 永享の乱 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1

1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける

[76] 県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ (Kuki City 著, 版) https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html

元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。

[189] 足利成氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[27][5][19][28]

成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。

明応

[131] 公年号明応がありました。 それ以前に後南朝にも明応があったとされます。 明応

足利義輝

[77] 足利義輝 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D

年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

[80] 困窮する朝廷 : fumi1202のブログ ( 版) http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html

改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。

[81] 気まぐれ日記: 堺幕府 ( 版) http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html

この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。

[82] 堺公方 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9

8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。

[240] shirin_056_5_623.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55

[237] 今谷明著『室町幕府解体過程の研究』, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/

[238] HNkeizai0003301710.pdf, https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40

[239] ab40112880.pdf, , https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf

中世私年号

[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。

泰平元1172承安2
建教元1225元仁2
永福元1297永仁5
正久元1319元応元
元禾鎌倉時代
白禄元1336建武3
真賀元1356
弘徳元1384
永宝元1387
元真南北朝時代
品暦南北朝時代
至大南北朝時代
永幻南北朝末期
興徳元1395応永2
天靖元1443嘉吉3
福安元1444文安元
享高4
享正21455
享正31456
享正41457
延徳元1460寛正元
延徳21461寛正2
永楽元1461寛正2
延徳31462
延徳41463
延徳51464
福徳元1466文正元
福徳元1489延徳元
福徳21490
正亨元1490延徳2妙法寺 (飢饉・流行病のため)
福徳31491
永伝元1490延徳2
王徳
徳応元1501文亀元
子平元1502文亀2
徳昌室町後期
文鬼
福寿室町後期
彌勒元1506永正3彌勒 = 弥勒
彌勒21507永正4
彌勒31508永正5
加平
永喜元1526大永6
永喜21527大永7
宝寿元1533天文2
宝寿21534天文3

[34] 日本の私年号の研究は江戸時代に始まりました。 昭和時代関東地方板碑の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。 >>35 日本の私年号は他に古代のものや近現代のものもあり、 西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。

[38] 昭和時代初期、服部清道板碑から私年号の実態を研究しました。 服部による私年号への理解 >>37 は当時の代表的な辞書である 國史辭典 (四 pp. 756-758 私年號, 日野一郎) にも反映されました。 >>35


[39] 昭和時代中期、 久保常晴は古代から近世までの日本の私年号について大量の史料を収集、検討し、 私年号の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。 従来若干の混乱が見られた私年号に関連する用語を整理し、 古代年号や中世の私年号の性格を明らかにしました。 久保の研究は日本私年号の研究としてまとめられました。 >>40 日本私年号の研究はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、 日本の私年号の「今日の研究水準を導き出す原動力」 >>35 と高く評価されており、 現在でも日本の私年号をメインテーマとした唯一の研究書です。

[175] 久保常晴は、 昭和3年に立正大学に入学し、 石田茂作のもとで考古学を研究しました。 卒業論文執筆過程で 「命禄」 私年号板碑の年代決定を試みましたが、 当時の定説の永正3年説では干支年が一致せずに悩まされました。 たまたま中山信名偽年号考 の天文9年説で解決しました。 (私年号命禄の年代に就いて, 昭和七年一一月) これに板碑私年号の新資料を加えた 金石文に現われたる異年号 が、 石田茂作の斡旋で昭和九年一二月の 考古学雜誌 に掲載されました。 >>174 p.三五七 これがきっかけとなり紀年銘に強い関心を持つようになったと思われます。 なお石田茂作は昭和5年に 紀年銘の記載形式に就いて を発表しました。

[176] 昭和12年3月に立正大学助手の任期が切れ、 特例で7月末まで延期されたものの、 経済的に従来の野外活動が不可能となったため、 机上の文献による研究を主として行いました。 仏教考古学の基礎として紀年銘のある遺物に重点を置くべきと考え、 中国の金石関係の書目と日本の金石文を取り上げた雜誌目録の製作に日時を費やした、 といいます。 >>174 pp.三五九-三六〇 久保常晴の論文集 佛教考古学研究 シリーズには、 金石文の銘文を一覧表にし、 それを元に研究した論文が多数収録されました。 これが久保の仏教考古学の研究スタイルであると共に、 私年号をはじめとする紀年銘研究へと結実することになったのでしょう。 昭和18年9月には 金石文に現れたる仏滅年代 を発表しました >>174 p.三六〇, >>208 ( 仏暦 )。

[186] 昭和19年、 大日本帝国東京都より 「我国に於ける私年号の研究」 に対して科学研究費交付を受けました >>185

[210] 書籍に収録なし:

[177] 我国に於ける所謂古代年号に関する二・三の問題, 昭和三四年六月

我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―, 昭和三九年一月

我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―, 昭和四〇年三月

私年号 〝大道〟 を逐うて, 昭和四一年三月

[178] (以上の久保の論文は改訂再編されて 日本私年号の研究 収録。仏滅年代の論文は「まったく書き 改められた新稿」 >>179 として 仏教考古学研究 収録。)

[212] 私年号 〝大道〟 を逐うて>>208 では書籍収録なし。 その後続々に収録 >>217

[214] 「歳次」と「歳在」, 昭和43年7月。 宇治宿禰銅板墓誌年代考, 昭和50年9月。 続佛教考古学研究収録。 歳在


[49] 歴史研究者の佐藤進一は、 異年号は国家の正年号を否定する正確を持つと主張しました。 >>60

[41] 千々和到は、 関東に残る板碑を分析して私年号の利用状況を調査し、 中世私年号の性格や改元の伝達経路について考察しました。 >>42 千々和は、 一種の徳政願望であって、 災異改元による除災招福を求めたもので、 異年号の継続的な使用よりも改元されたという情報が重要だったとしました。 >>13 普及版 p.343 (千々和 1990, 1995)

[61] 勝俣鎮夫は、 東国戦国時代に広まった私年号を「地域年号」 と呼びました。 >>60

[51] 日本年号史大事典は、 こうした中世の 「公年号の存在を前提としつつ、それと異なる年号を用いる例」 とその研究を踏まえ、 「「私年号」と呼ばれるものが、中央の「公年号」 への対抗への意思などから作成・利用されたものではなく、 何らかの理由による改元情報の誤伝達などにより発生したものであることを物語る。」、 「それほど強い独立への志向はなく、 何らかの事情で伝わった京都での改元の結果が伝えられたものと理解していた可能性が高く、 誤りが判明すると、すぐにそれらは打ち捨てられている。」 としました。 >>13 普及版 p.341, p.343

[46] その後、九州でも私年号が使われたことがわかりました。 >>13 普及版 p.343 (前川清一 1982) また幕末第二次世界大戦終戦後に私年号が発生したことも次々に判明しています ( 幕末維新期の日時昭和時代の日時 )。 こうした他の混乱期の私年号改元デマとも比較検討することで、 中世の私年号への理解もいっそう深まることが期待されます。

[36] 國史大辭典, 初版, 増訂縮刷版, p.1975 年號 (ネンガウ) >>35

朝廷に於て年号を定められたる以後も、 民間往々にして、 私に年号を称するものあり、 異年号、 また私年号 (シネンガウ) と世に称するものこれなり

[37] 板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著, 初版, 再版 >>35

第二編 各論 第四章 特殊研究 第五節 板碑に現はれたる私年号 pp. 559-574

pp. 559-560

私年号は逸年号・異年号・偽年号などとも称し、 民間に於いて私に制したる年号にして、 其の多くは神社・仏寺関係の後を用ひ、 その文字甚だ拙なりとは一般の批判である

板碑に於ける私年号は多く足利時代のものに現はれ、 就中福徳のもの最も多く、 鎌倉・南北朝時代に於いても私年号に近きもの一二の例を見うけられる

初出は板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著,

[43] >>35 には自治体の文化財調査報告書などにみえる私年号板碑のリストが掲載されています。

[48] ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム 宮代町史 通史編第二編 中世第四章 中世の寺社と信仰第四節 石造供養塔の造立 コラム 板碑に刻まれた私年号 () https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510

江戸時代

[173] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとされますが、 実際にはいくつか改元デマが知られており、 しかも恒例化していたようです。

江戸時代初期のものは日本の中世私年号

江戸時代中期のものは改元デマ

江戸時代後期・末期のものは幕末維新期の私年号

幕末

[32] 幕末の政情不安のため、 日本各地で私年号延長年号が使われたことが知られています。 孝明天皇即位紀年皇紀のような元号以外の紀年法もみられるようになりました。 また開国によって西暦など欧米紀年法の流入も始まりました。 幕末維新期の日時

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。 明治改元日

明治以後

[64] 近代以降の日本では、 次の元号が用いられています。

[65] 近現代日本の元号

各元号の境界については改元改元期日

[5] この時代、元号を取り巻く状況は一変しました。

琉球

琉球の元号

朝鮮

朝鮮半島の元号

関東州および満鉄附属地

満州の元号

元号とその他紀年法の使い分け

一般的事項は元号の選択

現代の事情は現代日本の紀年法

時代特有の事情は日本古代の日時

外交関係は外交文書の紀年法

[162] 前近代の一般庶民も元号を知り使っていたとするのが通説となっています。 そうではなかったとする主張もみられますが、 根拠が不明です。

[163] 元号を使うかどうかの判断は、現代人とは違う感覚によっていたようです。 例えば江戸幕府の公文書で元号がなく、 干支年ですらない十二支年のものも珍しくなかったようです。

表現形式は東洋の日時表示

[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html

[226] 新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち | 日曜スクープ | BS朝日, https://www.bs-asahi.co.jp/sunday_scoop/interview/22/

本郷 当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。

ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。

本郷 いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。

いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。

[156] 高札, http://web.archive.org/web/20111215100922/http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousatsu.html

[159] 江戸時代の人は元号を言えたか - 以前どこかで前世療法というものの- 歴史学 | 教えて!goo, https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html

[160] 天皇と国家への服従を求める「新元号」キャンペーン粉砕を 杉並区議選勝利、5・1メーデーへ - 『前進』, 発行日: 2019年4月 8日 第3026号, http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2019/04/f30260401.html

日本の歴史において「元号になじんだ」人間は、明治以前では支配階級の中のごく一部にすぎず、一般の民衆はもとより支配階級の多くも、日常的に用いたのは古くから「えと」(干支=十干十二支)であった。

[161] 元号は「不合理で非科学的な代物」と非難しているが、 根拠を示さずこうした独自の主張を断定的に書いて流布するのは科学とは相容れない行為だと自覚しているのだろうか。

元号の一覧

[566] 元号 (やその他の紀年法) の一覧:

[569] 地域ごとの元号の時系列一覧:

詳しくは元号一覧

データファイル

元号一覧

変換表・実装

元号、改元日、読み方などの一覧表や換算ソフトウェアの実装状況などは元号一覧

識別子

元号名

統計

元号

研究史

[11] 元号改元については古くから支那でも日本でも様々な議論がなされてきました。 近代日本の学問としてもいろいろな角度から研究されてきました。

[89] といっても昭和時代後期の時点で元号に関する刊行済みの史料はほとんどありませんでした。 類聚国史大日本史 のような前近代の歴史研究成果にも、 元号の特集はありませんでした。 群書類従 も雑部に菅原道真編御記三善清行革命勘文 を掲載しているだけで、 塙保己一は当初元号関連史料を集める必要性を認識していなかったようです (が続群書類従で大量に収集整理されました)。 >>88

[87] 史料集成として、 続群書類従公事部 (巻二七八-二九一など)、 古事類苑歳時部年号, 明治41年刊がありました。 >>502

[16] 森鴎外は、 元号考 (大正15(1926)年) で日本の元号の典拠を検討しました。 森の研究は吉田増蔵に引き継がれ、 昭和改元に活用されたと考えられています。 元号考

[86] 森本角蔵は、 日本年号大観 (昭和8(1933)年) で元号の選定手続きや採用案・候補案の提案者や出典などを総合的に明らかにしました。 後に所功は、日本の元号の「すべてについての本格的な研究成果」 は本書くらいだったと述べました >>13 普及版 p.2

[14] 山田孝雄は、 年号読方考証稿 (昭和25年) で日本の元号がどう読まれてきたかを明らかにしました。 元号の読み方

[184] 石田茂作久保常晴は、 日付表記の形式を研究しました。 東洋の日時表示

[12] 久保常晴は、 日本私年号の研究 (昭和42年) で日本の私年号の全体像を明らかにしました。 詳しくは古代年号日本の中世私年号

[23] 瀧川政次郎は、 元號考証 () を著しました。 >>24

[15] 所功は、 昭和末期から日本の元号制度に関する多数の論考を発表し、 日本の年号 (昭和52年)、 年号の歴史 (平成元年) として出版しました。 それでも「まだ判らないことが沢山あり、さらに調査研究をしなければならない」 ところ「公私とも多忙」で進まず >>13 普及版 p.2、 平成末期になり若い世代の研究者と共にようやく 日本年号史大事典 (平成26年) が成ったといいます。 日本年号史大事典平成までの日本の元号制度を総合的かつ詳細に説明した、 日本の元号研究の現時点の集大成というべき書籍です。

[18] 日本の年号には 年号関係文献目録 が収録されました。 年号の歴史所功日本の元号に関する既存の研究として >>87>>16>>86>>14>>12>>23 を特に挙げたほか、 「年号に直接関係のある研究論文」が数十篇あったとしました。 >>502 日本年号史大事典には、 さらにその出版時点まで増補された目録が収録されました。 日本年号史大事典

[69] 所功は、 日本年号史大事典編集時に痛感したこととして、

... を挙げました >>68

[72] 平成31年に出版された 年号と東アジア―改元の思想と文化― の序文で、 水上雅晴は、 本書が所の挙げた2つの課題を「解決する一助になり得る」とし、 「年号学」なる学術領域が将来構築されるなら、 本書中の各論点が 「基本的な枠組みを形成する、と思われる程に多彩な論考」 を集めたものだとしました。 研究分野としては、 中国哲学、 中国科学思想史、 日本漢字、 日本史 (古代、中世、近世)、 朝鮮史、 ベトナム史、 日本思想史、 日本文学、 国語学、 日本法制史、 書誌学などを含むものであり、 今後の元号研究に少なくてもこれら領域の研究者の参画が必要だ、 としました。 >>67

[73] 歴史学の範囲を超えた総合的な「年号学 (元号学)」 としての発展を目指すには、 さらに加えて現代社会における元号と西暦の受容、 元号以外の紀年法との文化論的比較、 情報システムの日時処理と元号、 創作物における日時、 などといった観点も必要になって来ましょう。

[17] 日時制度の諸相の中で日本の元号は比較的関心を集めやすくよく研究されてきた分野といえますが 日時研究 、 それでもなお未解明なことは多いようです。

[242] 元号、特に日本の元号については実は個別の研究は既に膨大な蓄積があるのですよね。 でもそれら個別研究をまとめて俯瞰するタイプの研究はそれほど多くないから、 全体像がはっきり見えてる部分がまだまだ少ない。 そしてそこから視野を広げて行こうとすると、まだまだわからないことだらけで、 個別の研究だって全然足りてないじゃないかと呆然とするんです。

メモ

[9] KJ00000189327.pdf () http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2799/1/KJ00000189327.pdf

[10] 香取文書の売券から見える中世の東国 () https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/07/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%A3%B2%E5%88%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%9B%BD.pdf

[47] 暦Wiki/歴史/元号 - 国立天文台暦計算室 () http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB8B5B9E6.html

[83] 東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web) () https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html

博物館などによると、改元は、江戸時代までは天変地異や飢饉(ききん)があったときに世の中をリセットする意味があり、私年号は改元されないときに改元を望む民衆の中で流布された新年号。戦乱が続いた中世、年号を決める朝廷から離れた東国で、多くはデマと判明するまで短期間使われたという。

[85] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 第 1 巻 155 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000155.html

年號ニシテ正史ニ見エズ、僅ニ金石文ニ存スルモノ、又古キ年代記、古社寺縁起等ニ記サレタルモノアリ、之ヲ逸年號ト謂フ、多クハ僧徒輩ノ僞作ニ係ルト云フ、又後世亂離ノ際、政令遠遐ニ遍カラズシテ、邊土ノ民、私ニ異號ヲ用ヰシコトアリ、之ヲ僞年號ト謂フ、今併セテ逸年號ノ後ニ載ス、

[181] 《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題 - ライブドアニュース () https://news.livedoor.com/article/detail/19333042/

[190] (, ) https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf

[191] 京都産業大学 学術リポジトリ (NetCommons, ) https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10274&item_no=1&page_id=13&block_id=21

日本文化研究所公開シンポジウム : 元号の世界 : 最新の研究から

[192] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//uugon.html

[193] 「天下」支配権の所在を示す 元号の成り立ちと役割:日本古代から近世まで(池享) | Web日本評論 () https://www.web-nippyo.jp/13171/#%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7

しかし、民衆側がそれをそのまま受け入れていたわけではない。日常生活で普通に使われていた紀年法は、おそらく干支だっただろう。頻繁に改元が行われる状況下では、元号によって時間を計ることにはかなりの無理がある。平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったかなど、すぐにわかるものではない。しかし、干支は60年で一回りするので、効力の永続性が求められる土地売買の証文などには、元号が記されている。そうした限定された機能しか、元号は果たしていなかったと思われる。

[222] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「中公新書『中先代の乱』を読んだけど、この本の底辺には北条時行へのロマンがぎっしり詰まってて、その上に歴史学を積んでるという感じがしました。」 / Twitter (午後2:38 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418445348742201347

[223] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「鎌倉近隣の北条氏ゆかりの寺院の僧侶が、中先代が鎌倉に入ったわずかな期間だけ、中先代が使用する年号を使ってたという記述が一番興味深かったです。鎌倉を追われるとすぐに年号を元に戻したそうで。」 / Twitter (午後2:48 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418447913823268868

[224] 鎌倉幕府の衰亡(7)北条時行 (, ) https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo8.html

翌二十三日、足利直義を井出沢に破った北条時行は、二十四日、ついに鎌倉を奪回した。時行は正慶の年号を復活させ、幕府復活を宣言した。

[227] 石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』における〝私年号〟 - 「魏志倭人伝」への旅 ブログ版, hyenanopapa, , https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1862.html

石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』p217

たとえば、甲斐、常陸、陸奥、相模、下総などで行なわれた福徳(元年が延徳二年に当たる)、薩摩地方で行なわれた福伝(元年が延徳二年に当たる)、甲斐、常陸、会津地方で行なわれた弥勒(元年が永正二年に当たる)、甲斐に行なわれた宝寿(元年が天文二年に当たる)のごときこれである。改元を奉じないで古い年号を用いた例もある。たとえば、文明三年を享徳二〇年と記したごときこれである(享徳と文明のあいだには、康正、長禄、寛正、文正、応仁がある)。