宝明

宝明

[82] 宝明宝力は、元号名の2種です。

宝明、宝力 (私年号)

[1] 宝明宝力は、 江戸時代日本の私年号の2つです。

[2] 日本陸奥国の一部 (現在の日本国福島県の一部) で使われました。

紀年法

[53] 元年は、 です。

用例

[73] 宝力の用例は2点知られています。

日時事例

[74] 宝明の用例は1点知られています。

日時事例

[90] 天保5年を宝力元年に修正していること (>>43)、 天保5年の袋に宝明元年の文書が入っていること (>>47)、 天保5年と宝明元年が併記されていること (>>50)、 午年と併記されていることから、 天保5年 = 宝力元年 = 宝明元年であることは確実と考えられます。

[62] 「天保5年」、宝力、宝明の修正と他筆の順序関係はどう並べるべきだろう?

  1. [63] 鴇巣村 天保5年2月13日 >>43
  2. [85] 鴇巣村 宝明元年2月 >>48
  3. [86] 鴇巣村 天保5年4月 >>50
  4. [87] 楢原村 宝力元年4月 >>46

研究史

[76] 日本国福島県の地域史研究者小野孝太郎が紹介した >>3 のが研究史上の初見です。 次のように解説しています >>3

  • [54] >>48 には 「惣民安全」「百姓飢人御救心願」「五穀豊年」「一粒万倍」 と並んでいる。
  • [56] 私年号の除災招福
    • [57] 豊かさを意味する「宝」
    • [58] 強さ・勢いを象徴する「力」
    • [59] あかるく照らす「明」
  • [55] 天明飢饉以来の大凶作を乗り越えようとしたもの。
  • [64] 「福島県域の 近世私年号は、凶作と関連して発生 し、対極的な「宝」を頻用する傾向 が一つにある」
  • [65] 「私年 号は、支配者層の目を忍んで使用さ れ、その使用が秘匿される制約性が あるにもかかわらず、豊富な私年号 が伝存する点は、福島県史の注目す べき特徴」
[66] この論調、他の私年号でも見たような...? (「秘かに」説の他の事例は日本の私年号参照。) 新出私年号は最初は1つ、2つしか用例がないのでこのような推理をしがち。 ところが数年後に遠く離れた別地域で新用例が出てきたりするので、 初出用例の利用者や利用地域と深く関連付けて理由付けするのには慎重になった方がいいような。

[77] なお、これを紹介した出版社の論文目録には「宝刀」とあります >>5 が、 誤植です。

[7] 日本国福島県で発行されている新聞 福島民報 のコラムは、 宝力を紹介しました。 出典はなくあたかも独自の見解かのように書かれていますが、 >>3 の説とほぼ同内容です。 >>6

[78] このコラムは前年に自由自治元年も取り上げています。 私年号にこだわりのある記者がいるのでしょうか。

[91] 令和時代に入って初めて認識された私年号で、 一覧表に掲載されたり、 全国的規模の研究で取り扱われたりはされていませんでした。

[92] 令和時代に入って全国各地でいろいろな近世私年号の新報告が相次いでいます。 宝力宝明はまったく新規の私年号の報告ですが、 既知の私年号が従来の報告例と違う地域で報告されるケースも多数あります。 宝力宝明も未だ見ぬ用例が眠っているかもしれないという前提で史料捜索と分析を継続していく必要がありましょう。

[5] 新地方史情報155_02.indd - local-info_155.pdf, , http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_155.pdf#page=6

私年号「宝」「宝明」使用例の発見 小野孝太郎

[6] 庶民の願い(2月8日) | 福島民報, 2023/02/08 09:48, https://www.minpo.jp/news/moredetail/20230208104649

江戸時代の天保年間、現在の南会津地方の農民は畑を質入れする証文に「宝力元年」と記した。当時は洪水や冷害による大飢饉[ききん]に見舞われていた。「宝」は豊かさ、「力」は強さを象徴する言葉として用いたようだ。他に旧会津郡や伊達郡で「宝久」「宝明」「永長」などがある▼元号は明治以降、天皇一代に一つとする「一世一元」が踏襲された。それ以前は天変地異や伝染病といった災いを断ち切る目的で改元された例もある。私年号はそれにならい、苦境を脱しようとして編み出されたのだろう。願掛けにとどまらず、自助や共助で盛り返そうとする民のしたたかさも垣間見える

メモ

[60] 「宝力」「宝明」の異なる2つの元号が狭い範囲、同じ村の同じ人物 (名主馬場近右衛門) の周囲で発見されている (>>40, >>48) のは重要な点。 しかもどちらも2月。

[61] 新元号が何か、同時に2つの情報が流通していた?

[67] 私年号は同時代の公年号の文字を使う傾向が知られています。 私年号の発生原理が同時代の人々にとっての「元号らしさ」 の支配下にあるためなのでしょう。 江戸時代には「宝」が入った宝永宝暦があり、 同音の「保」が入った元号も多数あります。 「明」が入った明暦明和天明があります。 従って宝明は当時の人にとってとても自然に感じられた元号名だったはずです。

[68] ところが「力」は江戸時代どころか東アジア史を通しても他に例がありません。 「宝力」はあまり元号らしく見えませんが、当時の人にとっても新奇に感じられたのではないでしょうか。 ただし「明暦」「宝暦」の「暦」との音の響きの類似には注意するべきかもしれません。 あるいは方言音も考慮が必要かもしれません。

[36] 唐の宝暦が宝力と書かれる例があるが (誤記? >>25)、日本の宝暦は天保5年より前で時期が合わず、 誤記とは考えられない。

[4] 久宝も同じ年の3月。地域は遠く離れていても、 まったく同じ月に「宝」が入った元号名。 偶然と片付けていいものか?

[71] 永長の例があるので、この距離でも無関係とは言い切れない。

[70] 宝久も参照。

宝明 (宝治)

[83] 宝治誤記が疑われる宝明がいくつかあります。


[8] 人吉市史 第2巻 上, 種元勝弘 編著, 人吉市史編纂審議会 編さん, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9776277/1/126 (要登録)

日時事例

[24] この中なら宝治が最もそれっぽいがしっくりこない。

[35] 明はどこから来たのか。

[79] こちらでは「寳治元年丁未八月十五 」 (明朝体)。

[80] >>69 >>10 は同じもののはずなので、 >>69誤植?

[81] 球磨郡村誌明治時代の成立らしい。 もし活字本なら >>69誤植は当時の本に遡る可能性が。

[33] 同じ人吉市域の他の八幡社でも

相良氏の”戦の神”として信仰を集めた八幡宮。宝治元年(1247)、2代相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれる。現存の建物は江戸時代中期の元禄12年(1699)の再建時のもの。

宝治


日時事例

[22] 直前に嘉禎2年、直後に建治2年とあるので、その中間で宝治か。

[23] 明はどこから来た?


[84] どちらも活字の出版物に遡るとすると、 よく一緒に使われるので, 活字がセットで用意されていて、 間違えて違う方を使ってしまったのかもしれません。 他にも類例があります。 誤植

宝力 (宝暦)

[25] 元稹简介_虚阁网, , https://www.xuges.com/mj/y/yuanzhen/000.htm

唐敬宗宝力元年(825年),元稹命所属七州筑陂塘,兴修水利,发展农业,深得百姓拥戴。

[26] 宝历 (宝暦) y~822

[27] 中華人民共和国のウェブページで他にも元年、2年などでこのような例あり。

[28] 在博物馆里 文雅过年 ——大唐宝船里的风物(上)_华语环球, ck 465, https://chinese.cri.cn/media/album/zdfw/4486/20210209/619079.html

长沙窑青釉褐绿彩“宝力二年”铭花草纹碗

新加坡亚洲文明博物馆藏

本器为“黑石号”沉船出水器物中非常重要的一件,因器外壁在入窑烧造之前刻有“宝力二年七月十六日”铭记,这为判断“黑石号”沉没的年代以及船上装载货物的制作年代提供了可靠的依据。宝力二年为公元826年,以此为依据可以确定,“黑石号”沉没的年代不会早于公元826年。

[29] 写真があるが「宝力」の部分の字形はわかりにくい。

[39] こちらの写真のほうがまだ見やすいが、「宝暦」部分がどういう字形なのかはっきりしない。

[30] 「沈没船文化財展」が伝える1200年前の世界 中国と中東を結んだ海のシルクロード 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News, https://www.afpbb.com/articles/-/3306229

船の材木はアフリカ産で、アラビア商人が中国の産品を中東に運ぼうとしたとみられる。西暦826年にあたる「宝暦二年七月十六日」と記された磁器があり、年代が特定された。船からは陶磁器、金銀器、銅器、鉄器、銭、ガラス、香料など6万点が見つかり、「まるで1200年近く前のタイムカプセル」と大きなニュースとなった。

[31] 从出土的陶瓷看唐宋时期中国与马来西亚的关系_杂志论文_文史博览(理论)杂志, https://www.zz-news.com/com/wenshibolanlilun/news/itemid-580215.html

船上有一件外侧下腹刻有“宝曆二年七月十六日”字样的长沙窑阿拉伯碗。[8]

[8] 陈克伦. 唐代“黑石号”沉船出水白釉绿彩瓷研究[J].上海博物馆季刊,2012.

メモ