日本の私年号

日本の元号

[1] 日本では紀年法として元号が使われています。

[3] 現在の日本の元号令和です。

概要

元号一般、表記、読み、用法などについては元号

改元の一般的事項については改元改元手続き

[25] 日本の元号大化に始まり、現在まで200個以上、 1400年近くにわたり使われています。

[26] 現在日本の元号日本政府内閣府の所管となっています >>8 日本の元号法制


[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号建元はほとんど見られません。

[29] ただし、南北朝時代には北朝元号の他に南朝元号が並立しました。 また中世幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。

[30] そのようないくつかの例外を除けば、 日本の私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号) は反政府的な意味が薄く、 制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。

時代区分

[446] 日本の元号時代区分にはこれといった標準的なものはありません。 時代による分類がなされるときは、 日本史の一般的な時代区分が使われることが多いです。 しかし時代区分改元のタイミングはずれていることが多いので、 どこで区切るかには揺れも多いです。

[445] 令和元年の論文中世の元号は、 「仮に後三条天皇延久から後陽成天皇慶応までを 「中世の元号 (年号)」 としています。 >>440 この時代区分に元号史的に特別な意味はなく、一般的な歴史学的時代区分の中世に相当するという意味での 「仮に」と思われます。

[447] 元号法制史に基づき区分するなら、

という感じでしょうか。中世の扱いが難しいです。

古代

[4] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、 やがて元号制度が導入されました。 最古の元号大化でした。 現在まで途切れず続く流れの最初は大宝でした。 日本古代の日時

[7] 現在のいわゆる「和暦」では大化以降の元号を用いるのはもちろん、 元号の建てられなかった期間は天皇即位紀年元号風に扱う慣習となっています。 天皇即位紀年

[31] 中世には、古代の出来事を記述するため元号大宝以前に遡って設定することもありました。 古代年号

[59] 大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。 日本古代の日時


[1027] 日本の元号 (奈良時代)

[1029] 元号の使われ方に特に注意を要するもの: 養老白亀正法, 4文字元号

平安時代

[266] 平安時代異年号:

[183] 菅原道真と二つの改元, https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja

[62] ノート:東武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。

源平合戦期

[150] 平安時代末期には、関東源頼朝勢力や西国平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。

[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、 平氏側の改元源氏側の元号も採用しているようです。 日本年号史大事典は併記していますが、 国立天文台日本の暦日データベースは一方 (新しい方) のみ記載しています。 元号一覧

西暦
西暦
時期
時期
平氏
平氏
京都
京都
源氏
関東
備考
備考
西暦
1181年
平氏
治承5年
京都
治承5年
源氏
治承5年
西暦
1181年
時期
治承5年7月14日
平氏
養和元年
京都
養和元年
源氏
治承5年
備考
養和改元
西暦
1182年
平氏
養和2年
京都
養和2年
源氏
治承6年
西暦
1182年
時期
養和2年5月27日
平氏
寿永元年
京都
寿永元年
源氏
治承6年
備考
寿永改元、 寿永2年7月平家都落ち源義仲入京
西暦
1183年
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
治承7年
西暦
1183年
時期
寿永2年10月14日
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
寿永2年
備考
寿永二年十月宣旨
西暦
1184年
平氏
寿永3年
京都
寿永3年
源氏
寿永3年
西暦
1184年
時期
寿永3年4月16日
平氏
寿永3年
京都
元暦元年
源氏
元暦元年
備考
元暦改元
西暦
1185年
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年3月24日
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
備考
壇ノ浦の戦い平家敗退
西暦
1185年
平氏
元暦2年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年8月14日
平氏
文治元年
京都
文治元年
源氏
文治元年
備考
文治改元

[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和改元したとしています。

[122] 一方で、源氏元暦改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和寿永) を使わなかったとしています。

[131] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏寿永を使うようになったともあります >>146

[123] 平氏元暦改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治改元したのも無視したとありますが >>146改元壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。

[53] 源頼朝寿永を使うのは2年以降でした。 >>13 (平泉澄 1917)

[54] 動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため >>13 普及版 p.349 (>>55)、 あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため >>13 普及版 p.349 とする説もあります。

[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。

[375] この時期の前後には、私年号として保寿和勝迎雲といったものが使われていました >>373

[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

[149] 1987_2/解法のヒント ( 版) http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html

設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

[241] 志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用(北爪真佐夫 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / Twitter, , https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576

中世

[490] 中世には分権的な社会を反映していくつかの時間軸が存在しました。 しかし基本的には朝廷元号が使われました。 時に延長年号私年号が使われることもあり、 日付干支がずれることはあったものの、 例外的な事象にとどまりました。 >>440

[491] これは朝廷官職名が実態のない官途名として使用され続けたこととともに興味深い現象 >>440 と評されています。

鎌倉時代

南北朝期

[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。 日本南北朝時代の日時

室町時代

[20] 明徳

[457] 応仁の乱 後南朝の元号

関東の延長年号

[300] 改元に従わずに従前の公年号利用を継続したものを不改年号といいます。 不改年号という術語は昭和時代後期に使われ始めました。 典型例として

が挙げられます。

[306] これらやその他の不改年号は、公年号とそれを奉じる勢力への反感、 反抗を意味するものと理解されていました。 >>288

[464] しかし不改年号に関する当事者の認識が窺える史料は見つかっていません。 >>440

[350] 近年では多くのケースで積極的な新元号の不使用を否定する見解が有力視されてきています。

[351] 享徳は確かに京都足利幕府との対立によって使われたものの、 普段は年表記をできるだけ使わず、やむを得ない場合だけ延長年号を使ったことがわかっています。

[353] その他の事例もそれぞれ個別の事情があり、反中央政府 = 延長年号という単純な図式で語れたのはもはや過去のこととなっています。

[473] 短期間の延長年号は、 改元伝達の遅れや、改元伝達がなされなかったことに起因する場合が多いのではないかと近年では考えられてます。 >>440

[476] 足利氏満足利持氏延長年号は、 改元詔書が到着したものの批准、認証、不達をしなかったといわれます。 >>440 (中世災害・戦乱の社会史, 峰岸純夫) しかし近年は改元伝達の遅れの可能性も指摘されています。 >>440

[307] 詳細は各項参照。

足利持氏と永享

[412] 東京埼玉板碑の集計で正長永享の半分ほどで、 正長延長年号は東国社会で必ずしも徹底されなかったとされます。 >>411 p.23

足利成氏と享徳

[308] 享徳延長年号は、日本における延長年号の代表的事例です。 足利成氏室町幕府からの独立的志向の根拠の1つとされています >>288

[354] 昭和時代頃までは、 中央政府と対立した足利成氏やその勢力圏で不改年号を使っていたのであり、 不改年号こそ対立を実証するものだと素朴に理解されていました。

[355] 平成時代になるとより精密な理解が進み、そう単純な話でもないことがわかってきました。

[309] 足利成氏発給文書は、足利将軍発給文書や鎌倉府足利持氏発給文書と比較して特殊な傾向がみられます。 それは、

  • [310] 無年号文書が多く有年号文書が少ないこと
  • [311] 有年号文書のうち奉書の割合が極めて小さく、御判御教書が多いこと
  • [312] 有年号文書のほとんどが享徳4年2月より前の発給であること
  • [313] 足利成氏発給でほぼ間違いない有年号文書45通 (うち町野成康による奉書2通)
    • [314] 宝徳2(1450)年5月から享徳4(1455)年2月の有年号17通 (すべて御判御教書)、 無年号5通
      • [315] 享徳4年正月・2月 9通 うち無年号2通、 有年号: 軍勢催促状4、願文1、安堵状1、成氏加判申状1
    • [316] 享徳4年3月 少なくても12通、うち有年号2通
    • [317] 享徳4年4月 11通、うち有年号0通
    • [318] 享徳4年閏4月 8通、うち有年号1通
    • [320] その後 有年号28通、無年号120通
    • [319] ただし年未詳133通

と享徳2年の2月と3月を境に文書の形式が御判御教書主体から書状主体に変化しています。 >>288

[321] 足利成氏発給文書を分析すると、 足利成氏鎌倉を出て古河に移るのとちょうど時期を同じくして形式が変化していることがわかります。 そして古河公方期に明らかに意図的に有年号文書を減らし、 かわりに成氏加判申状不改年号のような特異な形式を出現させています。 >>288

[322] 古河時代の足利成氏は文書に元号を書くのをできるだけ避けており、 それでも不改年号を書くのは、 足利成氏自身が書いていないものや、表に出てこない性質のものが目立ちます。 積極的に不改年号を使ったのではなく、 やむを得ない場合にのみ書いたといえます。 (なお、同時期の公年号を使った例は皆無です。) >>288

[340] このように足利成氏の文書形式と元号表記の変化は享徳3年12月からの享徳の乱が契機となっているのですが、 享徳3年7月25日の改元を知ったのがどの時点だったのかは気になります。 康正の1年ずれ問題 ( 康正 ) とも関係してきます。

[341] 室町時代関東でも吉書始御判始のような儀式を経てから新元号を使っていたのですかね?

[323] 日本国千葉県香取地域の香取文書では、 享徳5年11月まで享徳延長年号が使われ、 12月には康正1年ずれが使われ、 康正3年から公年号が使われています >>148 康正

[324] 足利成氏関東管領上杉氏の戦闘に連動して千葉家も分裂しました。 享徳4年8月には足利成氏千葉(馬加)康胤上杉千葉介胤直を滅ぼしました。 しかし上杉方が盛り返し、 享徳5年11月1日に千葉康胤は上総八幡で敗死しました。 その後も千葉家の中心は古河公方派とはいえ分裂状態が続きました。 >>148

[325] 歴史研究者の山田邦明は、 この元号の変化を香取の支配勢力の違いとみて、 享徳5年11月から後に香取上杉方に属したとしています。 >>148 (ただこの説は元号千葉康胤の敗死タイミング以外の根拠はなさそうです。)

[477] 東国のうち足利成氏と対立する上杉方は公年号を使っていました。 >>440

[478] しかし敵味方の変遷の中で、上杉方にも享徳の影響が出ていたとされます。 >>440 (>>148) 享正

[331] 足利成氏の勢力圏でも必ずしも延長年号が使われたわけではありません。 本拠地の古河周辺でも、 在地では公年号が使われていました >>440 (板碑とその時代, 改元と私年号, 暦と改元)

[332] 岩松持国は、 時に足利成氏方で戦い、 時には足利成氏と戦うこともありましたが、 足利成氏と密接な関係を持っていました。 その正木文書によれば享徳不改年号を積極的に使った形跡は極めて薄いとされます ( 康正 )。 >>288

[333] 金石文では、

不改年号の用例は稀にしかありません。 >>288

[413] 康正長禄は朝敵の足利成氏には改元伝達がなかったとされます。 >>411, >>440 (中世災害・戦乱の社会史, 峰岸純夫)

[479] 文正度 () は寛正から文正元年2月28日朝廷改元されました。 文正元年2月29日に室町幕府吉書始がありました。 一方、 鎌倉大日記, 鎌倉大草紙 には9月3日改元とあります。 関東には寛正7年8月付の文書もあります。 改元伝達の遅延が推測されます。 >>440 (戦国遺文下野編 116号 宇都宮正綱安堵状)

[480] その他の改元でも遅延がみられます。 関東だけでなく九州など各地にみられます。 >>440

[475] 足利成氏赦免の綸旨があると、 ようやく足利成氏文明を使うようになりました。 >>440

[481] 古河周辺でも新元号がほどなく使われたとすると、 足利成氏改元をまったく知らなかったとも考えられません。 在地では新元号を使っても、公方は正規の連絡があるまで使用しないとの体面もあったかもしれないとされます。 >>440

[595] 足利成氏福徳を使ったとする説がありますが、どうでしょう。 福徳

[74] 足利持氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F

元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

[75] 永享の乱 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1

1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける

[76] 県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ (Kuki City 著, 版) https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html

元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。

[189] 足利成氏 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[27][5][19][28]

成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。

足利義輝と足利義維

[468] 堺公方足利義維大永を使用しなかった例 >>440

[469] 足利義晴と対立関係にあった足利義維は、 享禄改元 () の後も3ヶ月ほど大永を使い続けました。 >>440

[470] 今谷明大永不改年号をもとに、 足利義維が 「京都の正朔を奉じない政権」 「京都の天皇を中心とした秩序から独立した政権」 を構想していたと考えました。 >>440 (室町幕府解体過程の研究)

[474] 「京都の天皇の元号」の中央政府とに対して、 独自の元号の地方政権の独立性を強調する見方は、 昭和時代後期から平成時代初期に私年号研究分野にも出現しました。 こうした考え方は元号法日本政府自民党政権に反発する左翼系知識人にもてはやされたという時代背景があります。 中世私年号

[471] 桑山浩然は、 3ヶ月で京都の元号に復することにどのような意味があったのかと疑問視しています。 >>440 (今谷明著『室町幕府解体過程の研究』)

[472] 短期間の不改年号の多くは意図的ではなく改元伝達が遅れたか、なされなかったことが原因と現在では考えられています。 >>440

[77] 足利義輝 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D

年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

[80] 困窮する朝廷 : fumi1202のブログ ( 版) http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html

改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。

[81] 気まぐれ日記: 堺幕府 ( 版) http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html

この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。

[82] 堺公方 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9

8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。

[240] shirin_056_5_623.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55

[237] 今谷明著『室町幕府解体過程の研究』, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/

[238] HNkeizai0003301710.pdf, https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40

[239] ab40112880.pdf, , https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf

中世私年号

[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。

[279] 日本中世の異年号:

[2] 南北朝時代関係は日本南北朝時代の日時を参照。

[371] まだ性質がよくわかっていない私年号が多いですが、 中世東国私年号、 大和私年号、 中世九州私年号、 その他、 と何種類か違うグループに分けられそうな感じがありますね。


[596] 戦国大名クラスの用例はごくわずかです。

[600] 後北条氏, 上杉氏, 今川氏などの用例は皆無です。 >>594

[611] しかしこれまでの研究では「私年号の用例が見つかっていない」ことと 「私年号を使っていない」こと ≒ 「公年号だけを使っていた」ことを同一視してきたきらいがあります。 また、研究者によっては「私年号を使っていた」ことと「私年号だけを使っていた」 ことの区別もはっきりしないまま論を進めています。

[612] 私年号が見つかっていない大名、見つかっていない時期にどのように元号が使われていたのか、 私年号研究のための基礎情報として、改めて検討が望まれます。


[34] 日本の私年号の研究は江戸時代に始まりました。 昭和時代関東地方板碑の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。 >>35 日本の私年号は他に古代のものや近現代のものもあり、 西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。

[272] 近世、近代には、それらの年号を人々の願望の現れと理解し、 朝廷によって定められた公年号ではない、という程度の意味で私年号と呼んでいました。 >>271

[274] 今では私年号という呼称が最も一般的ですが、 近代の文献ではむしろ異年号という方が多いようにも思われます。 私年号の語も元からありましたが、昭和時代に一般化し、 日本私年号の研究によって決定的に優勢となりました。

[38] 昭和時代初期、服部清道板碑から私年号の実態を研究しました。 服部による私年号への理解 >>37 は当時の代表的な辞書である 國史辭典 (四 pp. 756-758 私年號, 日野一郎) にも反映されました。 >>35


[39] 昭和時代中期、 久保常晴は古代から近世までの日本の私年号について大量の史料を収集、検討し、 私年号の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。 従来若干の混乱が見られた私年号に関連する用語を整理し、 古代年号や中世の私年号の性格を明らかにしました。 久保の研究は日本私年号の研究としてまとめられました。 >>40 日本私年号の研究はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、 日本の私年号の「今日の研究水準を導き出す原動力」 >>35 と高く評価されており、 現在でも日本の私年号をメインテーマとした唯一の研究書です。 久保常晴

[330] 多古町史 上巻, 多古町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/118 (要登録)


[346] 昭和時代の後半には、 日本私年号の研究 を踏まえて私年号の政治的性質を強調する論が出てきました。

[347] 林屋辰三郎は、 「元号を拒否した私年号の使用は、一定の地域の民主的独立の宣言」 だと考えました >>444 (元号問題私見), >>271 (元号問題私見, 林屋辰三郎, 日本史研究 一七二)

[348] 網野善彦は、 東国・西国論の立場で、 東国のどこかで天皇改元と異なる改元が行われたものと積極的に評価しました。 >>444 (東と西の語る日本の歴史)

[613] シンポジウム中世の瀬戸内 上, 山陽新聞社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9773917/1/61 (要登録)

[614] >>613 網野善彦の講演。

[49] 歴史研究者の佐藤進一は、 異年号は国家の正年号を否定する性格を持つと主張しました。 >>60

[349] しかしながら、中世私年号の政治的意義を高く評価するこうした論は、 いずれも史料的根拠がありません。 >>444 私年号から公年号に混乱も抵抗もなく戻っている実態と整合しません >>492 (暦と改元) し、 戦国大名等為政者層の用例がほとんどないこととも矛盾しています >>492

[356] にも関わらず、このような考え方は元号法制定を巡る当時の政治的な運動ともリンクし、 一部の人達にもてはやされたようです。 元号廃止論者は「天皇の元号」を相対化するこれらの主張に共鳴しました。 元号問題以外でも、反天皇、反日本政府、反自民党のようなイデオロギーととても相性が良かったようです。

[429] 千々和到は、マルクス主義系とされる歴史団体歴史科学協議会で、 林屋辰三郎説や網野善彦説を切り捨てた 「はっきりと異なった報告者独自の私年号説>>428 を発表しました >>444。 この発表の場にいて、後に機関誌に感想文を発表した平成時代の歴史研究者井原今朝男 (-) は、

報告によれ ば、東国民衆は年号を単に権力から伝達されるものとして一方的に受 け取るだけの受動的な存在ではなかった。東国民衆は、年号に一種の 呪術性を認め、改元を待望する中で私年号を流布させ、天皇の元号を 相対化させていたことをはじめて明らかにしたといえる。

と要約しました。これが千々和到の報告の「第一の意義」 とされます。 >>428

[430] しかし千々和到は確かに東国の民衆の「改元待望」を論じており (>>385)、 (千々和到はそのような表現を用いていないものの) これを民衆の能動性と理解することはできるもの、 「天皇の元号を相対化」 したとはまったく主張していません。 それどころか千々和到私年号公年号と誤認されて流布されたことを発見し、 公年号改元があるべき(なのになされない)ときに私年号がその補完となったことを主張しているのですから、 相対化とは正反対です。

[431] そのことは千々和到の論文 >>444 を読めば明白ですし、 井原今朝男もそれをしっかり要約に含めている >>428 にも関わらず、なぜ正反対の方向に曲解しなければならなかったのかは、 千々和到の報告の「第二の意義」によって明らかにされます。 すなわち、

というのです >>428

[434] 更に井原今朝男は、日の丸君が代に関する 「文部省や一部保守勢力の卑劣さは 指摘するまでもない」 などと現代政治の批判をつなげ、 日の丸君が代を「相対化しようとする運動」 が広まらないことへのもどかしさを綴り、 「現代の国民文化の質を問いかける問題」 が千々和到によって提起されたのだとしています。 >>428

[435] 千々和到による純粋な歴史学研究に属する学会発表に対してこのような評価が学会誌に掲載されるというのは、 現在ではなかなか理解し難いところがあります。 この歴史科学協議会昭和時代後期の元号法制定の頃に積極的に元号反対 (元号廃止) を訴える政治活動に取り組んでいました。 しかし世論の理解を得るには至らず元号法は制定され、 この発表のあったの前年には新制度下で初めての改元 (平成改元) がありました。 平成改元とそれを含む皇位継承関連行事は、 極左過激派によるテロ事件などもあったとはいえ、 ほとんどの国民には肯定的に受け止められていました。

[436] 井原今朝男にとって私年号元号法や「天皇の元号」 を「相対化」し、ひいては否定し得る貴重な歴史的遺産で、 目下進行中の国旗国歌法制定 (紆余曲折を経て) につながる動きへの反対運動を盛り上げる素材にもできると思えたのでしょう。

[437] しかし千々和到の発表に対しては「積極的な討議も少なかった」 ので、井原今朝男にとっては不完全燃焼だったようです。 >>428

[438] 井原今朝男は、近世私年号の有無や自由自治との関係なども議論したかったそうです。 >>428 それは中世私年号の反天皇、反公年号の伝統が自由民権運動へと繋がったというストーリーを望んでいたのかもしれませんが、 そのような政治的意図はともかくとして、着眼点は良いと思われます。 なお、自由自治も参照。

[61] 勝俣鎮夫は、 東国戦国時代に広まった私年号を「地域年号」 と呼びました。 >>60

と主張しました。 >>258

[544] この主張は、前提となる事実認定と論理構成に多くの問題を抱えています。 勝山記の日時

[545] 広く普及した私年号をそれ以外の私年号と区別するべき、 というのは千々和到の主張と同じです。 しかし千々和到京都公年号と異なるものをすべて私年号という枠内の小分類にとどめていたのに対し、 勝俣鎮夫は普及した私年号私年号と呼ぶべきではなく、 京都とは違う公年号であると主張しているわけです。 そして京都とは違う東国公年号をこれまで私年号呼ばわりしてきたのはイデオロギーのせいだ、 と別の地域主義的イデオロギーで対抗しようとしていたということです。

[546] 東国の「公年号」がそれまで私年号と呼ばれていた理由は、 「公」的に制定されたことを裏付ける史料的根拠がなかったから、 に尽きます。天皇家以外は「公」とは認めない、 というイデオロギーで公私の区別をした人も中にはいたかもしれませんが、 それで研究者の目が曇って「公」的性を示す史料を見逃してきた、 ということでもありません。 その後も今に至るまで「公」的性を示す史料は見つかっていません。 見つかれば分類も変わっていくはずです。 イデオロギーのせいで「私」年号と軽視しているのではありません。 (が、そのように主張する陰謀論は今でもあるんですよね。 「私」年号なら軽視されているというものでもないと思いますが...)

[530] 平成時代の歴史研究者の阿部浩一は、 勝俣鎮夫に師事していましたが、 命禄伊豆暦に書かれていたとする記録を発見し、 伊豆暦 = 三島暦の発行者 (暦師ないし三嶋大社) が命禄建元者としました。他の私年号もそうである可能性があるとしました。 >>529

[531] 阿部浩一の研究は私年号伝達媒体としての暦書を発見するに留まらず、 同じ論文で京暦との配日の違いを論じて元号の地方差を立体的に解明しようとした意欲作でした。 残念ながら同論文中で元号が交差するのは命禄伊豆暦に掲載されたとの1点だけで、 この試みはあまりうまくいっていません。 私年号のみならず公年号改元伝達でも暦書の影響力は想定され、 両者の伝達経路の解明など融合的な検討は今後も必要でしょう。

[550] 勝俣鎮夫阿部浩一の見解を踏まえて、 三島神社が地域年号を制定し、三島暦で広まったと主張しました。 >>258

[575] 改元した翌年に地域年号を使うのが延徳勝山記弥勒で同じパターンだ、 というのは意味がよくわかりません。延徳改元後に「延徳元年」 と明記されていますし、勝山記に「年号賛ルナリ」とあるのを 「弥元年」になったと >>258 は解しています。 改元して元年になり、翌年に2年になるのはすべての元号に共通する大原則で、 同じなのは当然です。 (元二年に絡めて東国独自の方法だ、と主張したいようにも見えるのですが、 >>258 の文章がそうはなっていなくて、意図をつかみかねます...)
[583] どうやら「改元情報」と「改元の翌年の暦」の2段階で地域年号が伝わったと考えているようです。 寺社間の改元伝達ルートは前者に関係し、後者は三島暦の頒布ルートによって広まるもので、 後者は寺社以外の一般社会も含むということなのでしょう。 そして三島暦京都元号と地域年号を併記していて、 受け取った人はそれを採用する、しないの裁量があった (ので甲州暦武田信虎鶴岡八幡宮は採用することを選んだ) といいたいように見えます。 (どちらの説も根拠は特にありません。) この2段階伝達説は、元二年の成立の構造的要因として提唱されているようにもみえます。
[584] しかし三島暦にかかれていたと記録されるのは命禄だけで、 各私年号の分布域が三島暦と重なるというのも論証がありません (後の研究者からは疑問視されています)。 三島神社建元したとする根拠も何1つ提示されていません。
[585] 永喜はともかく宝寿は発見数がかなり少ない部類で、 地域年号は一部の人が使った私年号とは違うんだと力説していながらなぜ宝寿は地域年号の可能性があるのか (逆に地域年号でない私年号には何が該当するのか) よくわかりません。

[586] 勝俣鎮夫は、 「歴史的にみれば、本来時間は、神の支配に属するものであったことは、西暦(キリスト暦)・イスラム暦などの存在 を見れば明らかである。」 としました >>258。 ここでもまた「明らか」と明確な根拠を示すことなく断定しています。 そして、日本中国元号制度を導入し、 「天皇が日本国家の時 間を支配する国家体制をつくりあげたが、そのなかにあって神仏の支配する時間をなお維持しつづける寺社などを中 心とする聖の領域が存在した。」 と位置づけています >>258。 つまり、時間とは根源的に宗教的存在だったにも関わらず、 中国皇帝日本天皇が政治的支配を打ち立てたものの、 一部に残存したのが三島神社の独自の元号だというのです。 その別の根拠として、 「年号でいえば、各地の寺社が所有していた王代記・年代記などと称され るものが、その記述を大化以前の仏教的古代年号からはじめていることからもその一端がうかがえる。」 ことを挙げています >>258

[587] この主張は、論者の前提知識が根本的に誤っていることを明確に示しています。 キリスト紀元イスラム暦のいずれも、 元号制度より数百年遅れて成立したものです。 世界の多くの地域で、 こうした宗教的紀年法が採用される遥か前から、 その地域の統治者の即位紀年が使われています。

[588] 特に日本において天皇と無関係な宗教的日時制度が確立されていたことを示す遺物は何1つ発見されていません。 これは紀年法についても暦法についてもです。

[608] 強いて言えば干支年木星 / 歳星との関係で信仰から発達した宗教的紀年法といえないこともありませんが、 西暦イスラム暦とは紀年法としての構造も宗教としての性質もまったく違っています。 しかも大陸では即位紀年元号の方が干支年より先に発達、普及しました。 日本では干支年の方が元号より古くから使われているものの、 寺社との特別の関係性は認められません。 何より中世においても干支年京都を含む日本全国で偏りなく使われています。

[589] そして年代記類古代年号中世を遡らないことは、 >>258 の冒頭で引用された日本私年号の研究が断言する最も重要な研究成果の1つです。 古代年号 それを一度でも読んでいれば「歴史的」「本来」の日時制度のあり方の議論に決して持ち出されるはずがないものとわかるはずですが...

[609] 「地方は天皇の支配に屈したが、古くからの制度は寺社に保存され中世まで続いていた。 天皇も民衆の信仰心までは侵略できなかったのだ。」 というストーリーは、筆者がそれを意図していたかどうかは定かではないものの、 特定の思想を持つ人々には受けがよかったことでしょう。

[343] 山田邦明もこれに賛同して論文で「私年号 (地域年号)」のように書いていました。 公年号を「京都の年号」とも書いていました。 >>148

[290] 浅沼徳久は、私年号資料に占める板碑の多さにより、 板碑を中心に中世私年号を考察しました。 ただし板碑に偏った検討となることや、 改刻を想定した史料批判が必要である (が不十分な) ことには注意を促しています。 >>289

[291] 浅沼徳久私年号の伝播への順礼が寄与したと考えました。 当時知られた板碑36件のうち、 板東三十三番札所の7箇所に24個があり、残りのほとんども順礼行路から10キロメートル以内にあります。 また、弥勒の文書・経典・板碑などの分布もこれと一致します。 実際に順礼の遺物で私年号を使った例も残されています。 延徳, 福徳, 弥勒 >>289

[293] 私年号は民間で私的に創作されてひそかに伝えられ広まったものであり、 その伝播も公然たる方法によれなかったため、 戦乱激しく社会の混乱した関東で自由にかつ広域で通行する者の力が必要だったと考えました。 すなわち、社会の不安と混乱を神仏に祈って救われようとし、各地を巡り歩いた順礼は、 社会不安、苦難の原因たる権力者の公年号に反感を持ち、ひそかに民福を希求し創作された私年号の伝播に相応しい存在だったとしました。 >>289

[294] 社会不安 → 反権力 → 反公年号 = 強く生きる庶民、のこの図式は、 ちょうどこの発表と同じ時代に天皇制自民党に反感を持ち、それに紐づけて元号制度そのものに反対した日本共産党等の左翼団体学界に巣食っていた極左活動家グループらの元号廃止論や、 その「素材」としての私年号の過大評価の論理そのものであることに注意が必要です。 浅沼徳久がそのような思想の持ち主だったかどうかは定かではありませんし、 少なくても現在知られている私年号関連論文で浅沼徳久は学術研究の域を逸脱してはいません。 しかし知ってか知らずか時代の思想の色眼鏡を通して過去を観察してしまっていたのかもしれませんし、 逆にこうした研究成果がそのような思想の人々の理論的根拠に使われるという負のループに陥っていたこの時代の私年号研究を象徴する考察といえます。

[295] 私年号公年号への反感から民福を希求して創作されたものであることは、 命名から窺えるとし、福徳命録福禄寿思想に基づく、 弥勒弥勒菩薩待望からの発想、と説明しました。 >>289

[296] そして公年号改元で歳運の転換を願うのが常識化しており、 私年号もそれに準じたものだとしました。 >>289

[297] 私年号の発生は公権力の与える苦難に反感を覚えた庶民の自然な希求が原因だとしました。 ただしその庶民とは、順礼者を含む下層教化階級だったとしました。 >>289

[298] ただし享正足利成氏と関係有るもので、 足利持氏足利成氏が権威を保持していた永享享徳を継承する意識に基づき、 関東足利氏の勢力範囲内で室町幕府への対抗意識を背景に使われたとしました。 享正 また、延徳も同様としました。 >>289

[501] 地域的公年号説に対しては、 利用期間が京都公年号に対してあまりにも短く、 両者を同等と見て良いものかと疑問が示されています。 >>492

[503] 三島社建元説に対しては、 伊豆駿河私年号用例の少なさから疑問視されています。 >>492


[41] 千々和到は、 関東に残る板碑を分析して私年号の利用状況を調査し、 中世私年号の性格や改元の伝達経路について考察しました。 >>42 千々和到の研究は、発表数、頁数で見ると少ないですが、 重要な指摘が多く「高密度」で、 日本私年号の研究以後の私年号研究の方向性を決定付けました。 千々和到

[357] 千々和到は、

私年号研究に必要ではないかと提起しました。 >>444

[361] この研究方針はその後の多くの私年号研究者に承認、踏襲され、 私年号の性格の理解が進むことになりました。

[360] 千々和到以前の私年号研究ではこうした区別がなく、 一体的な現象として理解され、議論されていました。 例えば、 仏教的性質の元号名であればその使用者の間に信仰が広がっていたとみなし、 反権力的性格が感じられればその使用者が自らの反抗心を表すため作って使っていたのだとみなしていました。 ところが千々和到やそれ以後の研究者の分析と新発見によって、 従来(たまたま見つかっていた用例の存在だけを根拠に)考案者と思われていた者がただの1使用者に過ぎないことがわかったり、 私年号公年号と誤解して使った人々がいたことが判明したりしました。

[362] 久保常晴はすべての私年号にその成立の背景となる願望を推測しました。 しかしほとんどの私年号には改元の理由の記録はなく、 板碑などの用例が残るのみです。 千々和到はこの史料的限界ゆえに私年号建元の事情を推測することは 「現段階ではあまり生産的なこととは思 えない」 としました。 それ故に千々和到は広く使用された私年号の (作った人ではなく) 受け入れた人々の意識をまず解明するべきと考えたのでした。 >>444

[368] 千々和到の論: >>444

[487] すなわち改元という行為、伝達そのものに祈念の意味がある、 と指摘したものと理解されています。 >>440

[344] その他に千々和到の重要な指摘の1つは、 史料批判の必要性です。 平成時代初期の時点で約40例の私年号が発見されていましたが、 用例が1例しかないもの、伝聞史料にしかないもの、誤記かと疑えるものもあって、 それ以外ときちんと区別されていませんでした。 これを史料の実物にあたって再調査、検討する必要があると指摘しました。 >>444

[345] これは歴史研究の基本ではありますし、 先行する研究者も実物の調査や記述内容 (文書、銘文) の吟味をしていないわけではありません。 日本私年号の研究 しかし江戸時代から地味に長く続く研究史で蓄積されてきた報告のすべてで実物まで遡った再検証がなされていないのは事実です (今でも誰もやっていません)。 また、たとえ孫引きでも、よほどの理由がなければ、 原形となる「私年号の存在」という史実はあったという素朴な仮定がこれまでは置かれていたように思われます。

[273] 千々和は、 一種の徳政願望であって、 災異改元による除災招福を求めたもので、 異年号の継続的な使用よりも改元されたという情報が重要だったとしました。 >>13 普及版 p.343 (千々和 1990, 1995)

[275] 千々和到板碑の研究で知られていますが、その専門性もあってか中世私年号を中心に考察しています。 平安時代鎌倉時代私年号の多くは使用例が少なく、 史料残存の偶然性よりも限られた僧侶などがまさに「私」年号として使ったのに対し、 室町時代以後はかなり広範囲に用いられ使用例も多いと指摘しています >>271

[276] 私年号の全体を連続した現象して捉えた久保常晴とは少し視点が違っています。 同じく板碑を専門分野としつつも古代から近世、はたまたネパールまで幅広く取り扱う近代考古学者の久保常晴と、 学問分野の細分化が進み始めた昭和時代の研究者の千々和到との立ち位置の違いでもあるのかもしれません。 これは別に千々和到の視野が狭いということではなく、 用例数が多い = 広範囲に普及した私年号を少数例しかない私年号と区別するべきという千々和到の立てた研究方針によって千々和到や後続研究者は新たな視点からの成果を得られています。

[483] 千々和到は、

私年号の特徴を指摘しました。 >>440

[277] 千々和到公年号の1字を良い字に置き換えた私年号が多いとしました。 至大, 享正, 延徳, 福徳 そしてその置き換えは「大」「正」「福」などのめでたい字です。 元々公年号改元にみられる変革思想、呪術的な期待が、 公年号を置き換えた私年号の発生にも見られるとしました。 >>271

[282] 弥勒公年号と関係しませんが、 憧れのミロク世の出現と改元という変革思想の結合として説明できるとしました。 >>271

[278] 千々和到は、久保常晴享正延徳足利成氏の勢力下にみられその関係で利用されたと推測したことについて、

と指摘し、この背景のもとで享徳の1文字置き換えで享正延徳私年号が発生したと考えました。 >>271

[283] 千々和到は、 福徳改元伝達情報が妙法寺記に残ることから、 福徳は正規、または正規に近い改元伝達ルートで伝わり、 妙法寺記の筆者や他の使用者は福徳公年号と理解していたと推測しました。 公年号改元で何の摩擦もなく自然に私年号が終息するのものそのためとしました。 >>271

[284] そして福徳改元伝達ルートに乗り得たのは飢餓将軍死去などの情報があって、 改元待望 (>>277) が背後にあったためだとしました。 >>271

[488] 千々和到私年号用例が宗教史料に偏在することから、 寺社間の改元伝達ルートを想定しました。 後に室町時代五山改元伝達ルートが存在したことが指摘され、 この推測を補強する材料となりました >>440

[285] 政治的性格 (>>346) を否定し、宗教的・呪術的側面とのかかわりがあるとしました。 >>271 武蔵国全般で広く使われた福徳ですら、 1年間しか通用していません。 「独立宣言論」はもちろん、東国のどこかで独自に改元したとする説も、 短期間で混乱なく元の年号に復する事態を説得的に説明できそうにありないと考えられます。 >>444


[51] 日本年号史大事典は、 こうした中世の 「公年号の存在を前提としつつ、それと異なる年号を用いる例」 とその研究を踏まえ、 「「私年号」と呼ばれるものが、中央の「公年号」 への対抗への意思などから作成・利用されたものではなく、 何らかの理由による改元情報の誤伝達などにより発生したものであることを物語る。」、 「それほど強い独立への志向はなく、 何らかの事情で伝わった京都での改元の結果が伝えられたものと理解していた可能性が高く、 誤りが判明すると、すぐにそれらは打ち捨てられている。」 としました。 >>13 普及版 p.341, p.343

[174] その後、 前川清一の研究により、 従来関東中心と考えられてきた私年号九州でも次々に発見されました。 >>13 普及版 p.343 (前川清一 1982) 前川清一 関東ほどではないにせよ、広い地域と時代にわたって出現することが想定され、 しかも関東との共通性と相違点が共に観察され、 私年号研究に一石を投じることとなりました。

[46] また幕末第二次世界大戦終戦後に私年号が発生したことも次々に判明しています ( 幕末維新期の日時昭和時代の日時永長 )。 こうした他の混乱期の私年号改元デマとも比較検討することで、 中世の私年号への理解もいっそう深まることが期待されます。

[36] 國史大辭典, 初版, 増訂縮刷版, p.1975 年號 (ネンガウ) >>35

朝廷に於て年号を定められたる以後も、 民間往々にして、 私に年号を称するものあり、 異年号、 また私年号 (シネンガウ) と世に称するものこれなり

[37] 板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著, 初版, 再版 >>35

第二編 各論 第四章 特殊研究 第五節 板碑に現はれたる私年号 pp. 559-574

pp. 559-560

私年号は逸年号・異年号・偽年号などとも称し、 民間に於いて私に制したる年号にして、 其の多くは神社・仏寺関係の後を用ひ、 その文字甚だ拙なりとは一般の批判である

板碑に於ける私年号は多く足利時代のものに現はれ、 就中福徳のもの最も多く、 鎌倉・南北朝時代に於いても私年号に近きもの一二の例を見うけられる

初出は板碑概説, 鳥居龍蔵序, 服部清道著,

[43] >>35 には自治体の文化財調査報告書などにみえる私年号板碑のリストが掲載されています。

[176] 日本私年号一覧表

[342] 足利成氏 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F#%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1%E5%8B%83%E7%99%BA%EF%BC%88%E6%88%90%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%94%BB%E5%8B%A2%EF%BC%89


[493] 平成時代初期の歴史研究者渡部恵美子は、 先行研究から戦国時代私年号の特徴を

と要約しました。 そして1つの寺院や1個人で非常に私的に用いられた他の時代の私年号と違って特異であるとし、 そこから当時の人々の意識を読み取ろうとしました。 >>492, >>594

[504] 戦国時代の用例が多い私年号について、 次のような実例をもとに、 当時の人々は公年号私年号を明らかに区別していて、 私年号公年号と比べて呪術的、宗教的な性格を持った年号との意識を持ち、 宗教的な資料で選択的に私年号を使ったと主張しました。 >>492

[523] 千々和到はこの時代の遺物に宗教関連史料が多いため必然的に私年号が宗教史料に多いのであり、 必ずしも私年号の使用が信仰のあらわれとは言えないとしていましたが、 渡部恵美子板碑文化圏外の長野県には私年号が少ないのは私年号が宗教的史料に集中していることを示している (私年号の使用は宗教的だ) と主張しました。 >>492

[524] 渡部恵美子は、 従来や西国では朝廷元号が統治機能を果たしていたものの、 戦国時代東国では戦乱、飢餓、疫病でそれが果たされなくなり、 それを東国の人々が自ら担うべく生み出したのが私年号であり、 自力救済の社会を象徴するものだったとしました。 >>492, >>594 当時の人が頼った場所が寺社だったからこそその史料に私年号が多く残るのだとしました。 >>594

[497] 渡部恵美子は先行研究による意識の理解を、

に3分類していました。 >>492

[525] このうち >>498>>500 は中央の元号と異なる元号東国独自に立てるという点で同じように見えますが、 政治的権威が建元し排他的な >>498 と宗教的権威が建元し共存する >>500 で別物としているように見えます。 どちらの説にも不十分を感じたようですが、 結論は >>500 説に近い所に着地しています (>>524)。 違いは >>500 のように特定の宗教的権威によるものでなく、 東国の人々全体が建元者と考えているところなのでしょうか (否定するだけで誰が建元したかはお茶を濁しているともいえます)。

[526] また、千々和到の説は現在では私年号公年号が区別されていなかったとする発見を中心に理解されていると思われますが、 渡部恵美子改元の呪術的性格の指摘を重視しているように感じられます。 結論に引きづられている感がないでもありませんが、 宗教的、呪術的性格は千々和到以前からの学界の私年号に対する漠然とした認識としてあったもので、 その延長線上での理解ともいえます。

[601] 私年号用例には少数ながら戦国大名によるものがあります (>>596)。 呪術的私年号説は私年号の利用に宗教目的があるとしていますから、 純粋に政治的な文書に私年号が使われることに説明が付きません。 これについて渡部恵美子は、

とばらばらな意図で使ったと説明しました >>594

[606]戦国武将たちは、私年号を自分なり に都合よく活用していった>>594 とまとめています。しかしどちらかといえばこの一貫性のない無理のある説明の方が自説に 「都合よく活用し」 ているようにも思われます。各項を参照。

[527] 渡部恵美子の見解はその後の研究者にはあまり支持されていないようです。 千々和到説と地域的公年号説の折衷的な見解で、 どちらと比べてもはっきりしないように感じられるためでしょうか。 千々和到の新説の多くのポイントに否定的な反論を加えていますが、 千々和到説より説得力が劣るように思われます。 私年号の呪術性による選択的利用を主張しながら、 どのように私年号公年号が使い分けられたか実例に対して的確に説明できていないのが最大の課題と思われます。 >>504 の各項

[262] 栃木史学 = The Tochigi journal of Japanese history (2), 国学院大学栃木短期大学史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/83 (要登録)


[261] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/383 (要登録)

[263] 小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/443 (要登録)

[264] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/46 (要登録)

[265] 東京都文化財調査報告書 第2, 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22 (要登録)

[175] 研究紀要 (1), 埼玉県立歴史資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7952158/1/68 (要登録)

[19] 雑誌 浦和 (さいたま市図書館に所蔵されている)


[118] >>117 は筆者手持ち資料に基づく私年号板碑の一覧表。 久保常晴論文を参照しているものの、 日本私年号の研究より前の時代。 日本私年号の研究未掲載の用例が含まれます。

[138] >>117 の推測:

[187] 同じ著者の 「永章」の私年号板碑について に続報があります。

[144] >>143 によると当時に石川県域で発見されていた私年号 (「異字年号」を含む。) は12種25例で、そのほとんどは江戸時代とのこと。 しかし具体的にどれかは示されていません。 当時発見されていたはずのものを探すと:

[182] 以上、□徳と白禄を除くと10種類。あとの2つは何か。

[185] 石川県関東を除くと私年号発見数最大級ではないでしょうか。 私年号が多く使われた理由があるのか、それとも多く見つかる理由があるのか。 しかし発見数が多いからといって研究が進んでいるわけではないのは残念。

[186] 能登が多いですが、加賀にもあります。ところで富山県域では報告がないのが気になります。 近世越中の大部分は加賀藩領、富山市付近はその支藩富山藩領でした。


[195] >>194 筆者は極左活動家元号廃止を求めている。 元号に反対する理由に私年号の「伝統」が使われている。

[196] その時代、当時の私年号研究の成果を曲解して元号廃止の主張に組み込んだり、 そこまでしなくても公年号を相対化して元号日本政府に批判的な政治的・思想的主張の論拠の1つに使ったりする人達が出現していた。

[197] そうした「曲解」はもとより妄想部分が多くて学術的価値はないし、 今ではそのベースになっていた私年号研究の描く中世像も研究の進展で様子が変わってきていて、 当該政治的・思想的主張の拠り所にはならない。

[198] イデオロギーの曇った目で見た「歴史」を主張の根拠にしてはならないというのは、 そういう主張の人達が反対していたのであろう戦前の皇国史観と同じ轍を踏んでいるのであって、 どちらも歴史学の成果を濫用して社会を混乱させた黒歴史として学界は大いに反省しなければならないだろう。 特に戦後史学の濫用は、皇国史観の反省のはずの暴走だから余計にたちが悪い。

[201] 昭和時代日本国奈良県の歴史研究者田村吉永 (-) は、 昭和47年に当時知られていた奈良県域の私年号をまとめて発表しました。 >>200

[203] いずれも寺社関係であることから、 神社仏閣等が縁起を担いでつけた年号と推測しました。 >>200 永宝, 歓喜, 建教, 保寿, 弘徳 (法興, 迎雲にも簡単に言及。)

[202] 特に永宝, 歓喜, 法興, 迎雲法隆寺に関係していることに注目しています。

[208] 昭和時代の歴史研究者浅沼徳久は、 当時知られていた下野私年号用例を

に分類しました。第2類の多くは日光輪王寺慈眼堂収納で関東各地から集められたと考えられるものが多く、 下野での用例かどうかにわかには立証できないものです。 >>207

[211] このうち第1類の延徳福徳は、同時期に日光山公年号を使用した史料が見当たらず、 むしろ最大行事の記録や事実上の別当が私年号が使っていることから、 一山全体が私年号のみを使っていたと考えられます。 >>207

[212] 延徳足利成氏と関係するという先行研究 (おそらく日本私年号の研究などのこと) を踏襲して公年号同様の儒教的発想があり、政治的対立によるとします。 一方福徳以後は仏説的な現世利益希求だとします。 後者は天災、飢饉、兵乱などに続いて発生し、解消すると使われなくなるとします。 特に弥勒永喜は孤例で日光山の他の記録では公年号なので、 伝播による偶発的知識による使用だとします。 よって日光山足利成氏の時代には私年号を使用し、 死後は使用しなくなったと結論付けています。 >>207

[214] 富士見と富士見坂(2)の2 太田道灌の城のコスモロジー(後半) | 今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day, yokout, 2014.03.11, https://fujimizaka.wordpress.com/2014/03/11/fujimi_fujimizaka2-2/

また、注目すべきは、集翁興徳以外には北方面の風景を描く者のないことである。関東平野の北域には、関東随一の霊山である日光山が見えたはずであるが、これについてはどの作者も触れようとはしない。日光は、男体山頂上を中心に平安後期を中心とした大祭祀遺跡が存在し(註69)、山岳信仰の霊場として屹立するが、この当時は、太田道灌の扇谷上杉氏側と敵対する古河公方の庇護者となっており、宗教的権威を背景に、古河公方を中心にして関東に通用する「延徳」「福徳」などの異年号をつくっていたともいわれる。(註70)したがって、太田道灌の城と町を祝福する詩の中には日光山は登場しないというふうに理解することができる。

註70 久保常晴「足利成氏勢力圏の私年号―享正と延徳―」『日本私年号の研究』吉川弘文館 1967、浅沼徳久「室町時代における日光山の私年号使用―下野に現存する私年号資料の紹介をかねて―」日本古文書学会『古文書研究』第12号 1978、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』そしえて文庫7 そしえて 1982、森浩一 網野善彦『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』大巧社 2000 における網野の発言

[215] 示された文献4つのうち最初の2つは日光山私年号を作っていたとはいっていない。 ということはまた網野善彦?


[218] 平成時代の歴史研究者佐々木茂は、 私年号延徳東北地方で使われていたことを初めて指摘しました。 しかも鎌倉鶴岡八幡宮延徳改元記事とほぼ同時期であることから、 従来説の巡礼者 中世私年号と板碑―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―, 浅沼徳久, のような悠長なメディアではなく、 私年号を迅速に伝える情報網が東北日本全域に張り巡らされていたことを想定するべきだとしました。 >>217 延徳

[219] 佐々木茂は、 東北地方私年号はあまり結びつかない印象があるが、 正しくないと指摘しました。 日本私年号の研究東北地方福徳弥勒永喜の用例が紹介されているにも関わらず、 その後東北地方私年号はほとんど紹介されていませんでした。 しかし自治体史等で容易に閲覧できる史料が増えた結果、 新たな私年号史料が見出されるようになりました。 千々和到永喜の史料を紹介したり、 佐々木茂延徳の史料を紹介したりしました。 >>217

[220] 佐々木茂は、 私年号発見地を結ぶ情報網を明らかにするには材料が少なすぎて生産的ではないとしながらも、 共通性を見出し情報伝達ルートを探る試みは (困難だが) 無意味ではないだろうとし、 思考を巡らせています。明瞭な結論はやはり得られていないものの、 掻い摘んで紹介すると、

と指摘しています。 >>217

[232] そして私年号を「宗教的」「呪術的」など特殊な元号と捉えてきた従来説に与せず、 「特殊な年号であると考えていない」、関東以北で 「公年号のほうがむしろ特殊」 な状況が存在した可能性を示唆します。

こうした徴証を踏まえて関東東北私年号と、同時に使われた私年号の使用状況の分析が必要だと問題提起しました。 >>217

[256] 史料と考察がこれだけでは不十分と考えて断言しなかったのでしょうが、 ここまで説明されればその構想は明白です。つまり、

という仮説を立てられます。そして交通の要所に残された私年号は、 改元伝達の経路の痕跡なのでしょう。

[270] 佐々木茂は執筆中の別稿で掘り下げると書いていました >>217 が、公表されたのかは不明です。

[301] 佐々木茂時点で

従来公年号の使用に反感を表す意図によって使用されたと言われてきたが、近年千々和到氏ら の研究によって、そのほとんどのケースにおいては、私年号の使用と公年号への反抗・反感との間に直接的なかかわ りは無いという説が有力になってい ((1))

と研究状況を説明しています。 (1) は千々和到板碑とその時代です。 >>288

[302] 一方で不改年号は 「明らかに「公年号に反感を持って」使われたと思われる>>288 と説明していました。

[629] 日本国福岡県古賀市亀光私年号墓石の文化財登録審議の資料は、 元々は遺跡調査の報告と思われ、 市の文化財担当の学芸員か発掘に関わった研究者が用意したものなのでしょうが、 私年号研究の当時として最新の状況を非常に的確かつ簡潔にまとめていました。 ウェブ上で入手できる良質の私年号情報として、 平成時代末期から令和時代初期における最も良質な情報源でした。 亀光に限らず私年号の研究への非常に大きな貢献といえます。 >>60 亀光

[441] に歴史研究者の遠藤珠紀は、 中世元号に関係する研究状況をまとめた論文を発表しました。 既発表論文の成果の紹介が中心と思いきや、 改元伝達の様相など若干の他にまとめられていない情報も含まれます。 >>440 平成時代のこの分野の研究成果の総覧としてよい文献です。

[456] 関連: 永伝, 改元手続き, 改元伝達, 日本南北朝時代の元号, 後南朝の元号, 日本私年号一覧表, 元二年

[442] 遠藤珠紀関連の論文等がいくつかある研究者です。

[482] 遠藤珠紀公年号改元伝達で音のみが伝わった事例 ( 改元伝達 ) を引いて、私年号にも公年号が異なる字で認識されたのではないかと推測されるものもあると述べています。 >>440 (具体的にどれを指すかは不明。)

[489] 伊豆暦 (三島暦) との関わりについては、 これを紹介しつつも >>440 (戦国期の徳政と地域社会)、 意図的かは不明ながらこうした形で私年号が流布することもあったと考えられる >>440 と述べるに留まっています。東国独自の改元については千々和到の論を引いて否定的です。

[391] 日本国東京都府中市の歴史研究者深澤靖幸は、 中世私年号の研究史を簡潔にまとめるにあたり、 日本私年号の研究後の研究状況を

を代表して紹介し、

こうした理解は史資料を素材に丁寧に組み立てられていて、 戦国期の私年号に関する研究の到達点を示している。当然、議論は尽くされ、新たなアプローチ の道は見出しにくいように感じる。

と述べています。 >>390

[396] つまり私年号研究の行き詰まり、閉塞感のようなものがあったようです。 これは論文の前段の現状紹介で、深澤靖幸は新たなアプローチで切り込もうとしているので、 これでどん詰まりという認識ではないのですが、それを除いてもこのまとめには違和感があります。 勝俣鎮夫の説に従えば自ら元号を意図的に建てて使わせた勢力があることになりますが、 千々和到の説ではどこかから伝わった元号が間違って使われたことになります。 両者は必ずしも矛盾しないのですが、「議論は尽くされ」 というほど明確には権力構造も元号の広まる過程も描かれていないのが地域年号説の現状でしょう。

[397] 例えば、本論文 >>390 でも引用されていますが、 千々和到説の根本には延徳改元情報が誤情報だったと通達された文書があります。 三島に独自の「改元権」があったとしても、鎌倉ではデマ扱いされる程度のものでした。 この食い違いには何らかの説明が必要でしょう。

[414] 同じ深澤靖幸による一般向け小冊子には、このあたりも説明があります。 基本的には千々和到の解釈を踏襲していて、 僧侶などによる限られた人たちの「マイナー」な私年号と、 私年号として意識せず改元伝達ルートを通して誤って伝わった「メジャー」な私年号があったとします。 >>411

[415] その上で、三島神社建元説を紹介し、地方暦が私年号の創出と流布に関わったとする考えは魅力的だとします。 しかし、私年号が短期間で公年号に戻ることや、 三島暦の範囲を遥かに超えて福徳が通用していることから、 誰がどこで私年号を生み出したかは謎のままだと述べています。 >>411

[398] 深澤靖幸武蔵地域の福徳板碑と同時期の公年号板碑の型式分類による計量的分析を通じて、 武蔵地域における板碑の生産体制と、そこに現れた福徳私年号の伝播の様子を推定しました。 >>390

[399] 深澤靖幸千々和到の説を再検証したに過ぎないと謙遜していますが >>390、 より多くの史料をより精細に分析することで、 元号の切り替えの様子を従来にも増して鮮やかに描き出せたのは、 重要な成果といえます。 とりわけ、 私年号研究のために大量の公年号史料を活用した点は評価されるべきで、 従来の私年号史料を中心とした考察では解明できないエリアへと研究のレベルを一歩引き上げたといえます。

[400] これまでの諸研究によって、 私年号の伝播と公年号改元伝達に強い関係があることや、 私年号公年号延長年号にただならぬ関係があることが示唆されています。 しかし中世東国公年号改元伝達の実態は未だ十分解明されておらず、 公年号の伝達と私年号の伝播を比較することは現在の研究状況では困難です。 今後は中世東国公年号, 私年号, 延長年号, 改元伝達は一体的に研究を推進していくことが求められます。

[401] 私年号の研究手法を公年号改元伝達にも適用して発展させることもできそうです。

[402] 深澤靖幸は、 武蔵板碑における福徳の受容をめぐる「ドラスティック」 な変化に基づき、特に短期間で私年号から公年号へと復することに触れ、 民衆が私年号に強い呪術性を認識していたとする説 渡部1997 を否定しました。 >>390

[403] 深澤靖幸府中市郷土の森博物館の学芸員です >>390 (令和5年時点で館長)。 府中市郷土の森博物館令和改元を記念した企画展 「中世東国と改元」をからに開催しました。 この研究はそれに連動したものです。 >>390

[404] 令和3年には府中市郷土の森博物館から小冊子中世東国と年号 >>411 が刊行されており、 私年号を含む中世東国元号事情が一般向けにわかりやすく紹介されています。 企画展をベースにしたとのことで、 中世私年号等の入門書としてちょうどよさそうです。 今までこの分野の教科書的なものはありませんでした。

[406] 深澤靖幸は地域史の研究者で、元号関連の研究は他に見当たりません。 今後元号に焦点を当てた研究が続かないとすると残念なことです。

[547] 写本間の比較により、書写時に私年号公年号に改められた例があることが知られています。 命禄

[548] その1例をもって私年号公年号に書写時に書き改めることが多かったとする説があります。 >>258 「多かった」とする根拠はありませんが、今伝わる公年号の写本の中にも本来は私年号だったものが他にもあるだろうとは推測できます。

[549] 古代でも、原文にない古代年号を書写時に挿入する例などが知られています。 現代でも写本ではありませんが、 寺社縁起に基づく解説文などでオリジナルの元号の後に西暦を挿入したり、 元号西暦に書き換えたり、 干支年を削ったりするような編集は頻繁に行われていることが観察されます。 今も昔も日付の原表記を保存しようという考えはそこまで強くないことに注意が必要です。

[326] 足利成氏私年号: 享正, 延徳, 福徳

[327] テキスト / コラム 板碑に刻まれた私年号, https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200510

私年号とは、公的な年号である元号と異なり、一地方や限定的な地域において使用された非公式な年号であり、その存在は許されなかったが、一部の人々に使用された。私年号を異年号、偽年号とも称している。私年号は、保寿、和勝、迎雲、永福、白鹿、応治、天靖、享正、福徳、永伝、徳応、弥勒、宝寿、命禄、永長、元真、至大、延徳、永喜、大道、延寿などがあり、平安時代末期から江戸時代にわたって使用されているが、室町時代~戦国時代にかけて著しく増加している。

私年号が用いられた理由は、①朝廷に対して力を持った豪族が、対抗意識や勢力誇示のために使用した説、②天変地異や疫病流行などを忌避(きひ)したいがために使用した説、③地方の豪族が自己顕示のために使用した説などがある。

[328] >>327 「許されなかった」 誰により?

[329] >>327 ① ③ は誰が唱えている説?

[48] 仏教史学研究 26(2), 仏教史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4422667/1/22 (要登録)

[607] なぜか誰も指摘しないが、鶴岡八幡宮延徳福徳命禄という戦国時代私年号四天王のうち3つの利用がみられる (弥勒は未発見)。 私年号の近くに私年号が見つかる傾向はあるものの、3つも揃っている、 しかも超重要史料込み、 で東国最大級の寺社、というキーポイント。

[615] 国民百科辞典, 富山房編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897520/1/417 (要登録)

[616] Xユーザーの東行斎さん: 「@medieval_oota こんばんは🌙😃❗お疲れ👋😃💦さまです。鹿沼史林第14・15・16号に浅沼徳久氏の中世の私年号の論文があります。確認して見てください。」 / X, , https://twitter.com/5X4nBy3lIDmBLSZ/status/1549357404324007937

[623] >>619 >>622 が15号、16号。

[624] 14号の目録 >>617, >>625 には浅沼徳久の記事が見当たらない。 記事単位ではない雑報扱い (発表会概要など?) で掲載されている可能性もある?

[626] 私年号秘密説: 元暦, 永佳, 永長, 宝明, 宝力, 久宝, 天晴, >>293

[643] 呪術説: 永佳, 永長, 久宝, 天晴, 長徳

[635] 公年号との衝突: 大同★, 天延, 永長, 元暦★, 長徳, 建保★ (★は公年号になぞらえて使った等の説がある)

[627] 新旧公年号の合体:

[634] 絵馬: 久宝, 永佳, 天晴, 征露

[640] 私年号への訂正・追記: 宝力, 宝明

[641] 私年号からの訂正・追記: 神徳

[642] 私年号公年号の併記: 久宝

[628] 長徳

[631] 令和改元直後に発行されたオカルト雑誌のムーの記事で、 私年号を取り上げたものがあります。特に幕末の私年号天晴大政明治時代征露を中心に紹介しています。 そして妖怪の油取りと関係があるのだ! な、なんだってー!? という構成になっています。 >>630

[632] 前半の私年号の紹介は、一般向けの解説としては標準的なまともな内容です。 そしてそれと同じ時代、同じ地域に油取りの伝承があるのだ、と繋げていますが、 「同じ」判定がガバガバな辺りはムーの本領発揮というか、 エンターテインメントですね。

[633] 私年号がそのような娯楽の題材に取り上げられること自体がおそらく前例がなく (今後もあるのかどうかw)、令和改元という出来事の大きさが感じられます。

[637] 「実在しない」 久保

[638] 「架空」久保

[636] 「幻」 天晴

[647] 地域ナショナリズムに引きずられた事例: 久宝, 天晴, 長徳

[648] >>647 昭和時代後期から平成時代初期に各地の地方研究者がこのような説を唱えた背景には、

という純粋な地元民の感情をベースに、

という近代から昭和時代の社会風潮と教育で生み出された負い目のようなものや、

に大きな価値を見出した昭和時代の歴史学界の雰囲気が複雑に絡まっているのでしょう。 どんな動機だろうと史実を追求している限りはいいのですが、 このタイプの研究は往々にしてあることないことをつなぎ合わせてそれらしいストーリーを作る方向に進むようで、 偽史町おこしのような危うさを感じます。

[645] >>644節約私年号の作者。引用しているのは >>646

気になるのが、上記の私年号で、贋作あるいは中世人の悪戯による可能性はモチないんだよね(^_^;) 美術史を見てると、騙されて、もっともらしい作品解説をしている専門家がいるから(^_^;)

とか

都で改元が行なわれたという「情報」が「関東地方や南九州」には「誤」って伝わり、「福徳元年」 等を使い始めたら「誤情報」だったことが判明して「三年ともたずに」使用を止めただけで、ソレを 現代の研究者が新説を唱えたいばかりに「私年号」と名付けて、もっともらしい理屈をこねたような 感も(^_^;) 戦国時代は「それまで以上に」飢饉や戦乱が あったとするけど、古代にも「飢饉や戦乱」はあったわけだし、同じように「一種の厄払いとして」 私年号が使用されててもおかしくない気も(^_^;) 私年号の使用が中世の戦国時代に限られるのなら、 「天皇や室町幕府」の権威が低下しまくってた状況を前提にしているはずで、私年号使用の根底には やはり「天皇や室町幕府」が「日本国の主宰者であること」を認めない政治的意思がありそう(^_^;)

とか、着眼点が鋭い。前提知識なしで書いているのでこれらの推測は逆方向にいっているのだけど、 旧来の説の「弱点」を的確に突いている。

江戸時代

[173] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとかつては考えられていましたが、 実際にはいくつか私年号改元デマが知られており、 しかも改元デマは恒例化していたようです。

[108] 昭和時代中期の 日本私年号の研究 は、 政治的統一、中央集権的体制の確立に向かうなかで 「私年号の発生は逆行であって織豊政権下には考えられない」 としていました。そして江戸時代初期に比定された大道の存在には 「それなりの理由を追求せざ るをえまい」ものの、 支配体制が確立していた江戸時代にはそれ以外に私年号の発生をみなかったとしていました。 >>106 p.四四五

[109] ところがその後江戸時代にも少なくない私年号が存在していたことが知られるようになり、 この分析も幾分訂正せざるを得ないのであります。 中世に爆発的な発生をみた私年号が中近世移行期から近世初期に小康状態となるのはおそらく間違いないにせよ、 その後も私年号はしばしば発生しているのであり、 しかも今なお新発見が続いていますから、 既出の史料は氷山の一角に過ぎないとも考えられます。 また、農村部で報告の多い私年号に対し、 都市の記録によると改元デマが頻発していたことが知られます。 いまはいたづらに結論を急ぐよりも新史料の発掘と収集につとめるのが賢明かもしれません。

幕末

[32] 幕末の政情不安のため、 日本各地で私年号延長年号が使われたことが知られています。 孝明天皇即位紀年皇紀のような元号以外の紀年法もみられるようになりました。 また開国によって西暦など欧米紀年法の流入も始まりました。 幕末維新期の日時

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。 明治改元日

明治以後

[64] 近代以降の日本では、 次の元号が用いられています。

[65] 近現代日本の元号

各元号の境界については改元改元期日

[5] この時代、元号を取り巻く状況は一変しました。

琉球

琉球の元号

朝鮮

朝鮮半島の元号

関東州および満鉄附属地

満州の元号

日本の元号名

[407] https://fukuyama-u.repo.nii.ac.jp/record/5786/files/KJ00004163114.pdf #page=11 #page=12 #page=24

未成改元

[405] 承元4(1210)年: 彗星出現 吾妻鏡9月30日条、改元するべきと学者が報告 吾妻鏡10月12日条

[455] 、 疫病のため改元が議論されましたが、 足利義詮が陣中にあるため改元するべきないと中止されました。 >>440 (後深心院関白記 延文5年閏4月24日条) 改元で気を改めることが戦争に不利に働くとの意識があったためかとされています。 >>440

[454] など、中世後期は費用不足により改元が実施できなかったことがありました。 >>440

[639] 頃、 改元するべきとの意見があり、天皇国会に提案したものまでありました。 昭和時代の日時

元号とその他紀年法の使い分け

一般的事項は元号の選択

現代の事情は現代日本の紀年法

時代特有の事情は日本古代の日時

外交関係は外交文書の紀年法

前近代日本の一般庶民と元号

[162] 前近代の一般庶民も元号を知り使っていたとするのが通説となっています。

[248] その証拠として、 元号を使った私文書が多数現存していることや、 元号が明記されたが広範囲に流布していたことが指摘されています。 都市住民は元号名の良し悪しをネタに風刺したり、 改元デマまでたびたび生じていたことが知られています。 地方でも元号年が刻まれた中世近世金石文が各地に残っています。

[249] ただし、専ら元号紀年法として使われていたわけではありません。 干支年十二支年も非常によく使われていました。 (日本史上、元号が唯一の紀年法として専用されていた時代や社会階層は無いのかもしれません。)

[163] 元号を使うかどうかの判断は、現代人とは違う感覚によっていたようです。 例えば江戸幕府の公文書で元号がなく、 干支年ですらない十二支年を書く形式のものも珍しくなかったようです。

表現形式は東洋の日時表示

[247] そうではなく一般庶民は元号に馴染みがなかったとする主張もみられますが、 根拠が不明です。

[103] 「一般庶民」にも幅がありますが、「庶民は元号を知らなかった」 との主張は、「一般庶民」を知識の低い方に偏って解釈する傾向があります。 ひとくちに「一般庶民」といっても、 都市住民もいれば農村民もいます。 地域の名士や知識層もいれば、 小作農もいれば、 貧民もいます。 近世中世古代とでも環境はまったく違います。 「みんな元号を知っていた」も「みんな元号を知らなかった」 も妥当とは思えません。

[105] 江戸時代東北で使われた絵暦では、 元号絵文字でおもしろおかしく表現されていました。

[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html

[226] 新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち | 日曜スクープ | BS朝日, https://www.bs-asahi.co.jp/sunday_scoop/interview/22/

本郷 当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。

ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。

本郷 いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。

いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。

[156] 高札, http://web.archive.org/web/20111215100922/http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousatsu.html

[159] 江戸時代の人は元号を言えたか - 以前どこかで前世療法というものの- 歴史学 | 教えて!goo, https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html

[160] 天皇と国家への服従を求める「新元号」キャンペーン粉砕を 杉並区議選勝利、5・1メーデーへ - 『前進』, 発行日: 2019年4月 8日 第3026号, http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2019/04/f30260401.html

日本の歴史において「元号になじんだ」人間は、明治以前では支配階級の中のごく一部にすぎず、一般の民衆はもとより支配階級の多くも、日常的に用いたのは古くから「えと」(干支=十干十二支)であった。

[161] 元号は「不合理で非科学的な代物」と非難しているが、 根拠を示さずこうした独自の主張を断定的に書いて流布するのは科学とは相容れない行為だと自覚しているのだろうか。
[245] 元号はいつからあったのか - 歴史まとめ.net, , http://rekishi-memo.net/japan_column/gengou.html

民衆に年号を馴染まなかった

江戸時代は元号より「干支」

頻繁に改元されていた事もあり、年号はあまり民衆には馴染まなかった。 江戸時代の庶民は元号よりも干支赤字を使用する事が多かったようだ。

民衆に馴染んだのは明治から

明治時代に改元ルールが改変される。 「一世一元の制」(天皇の在位中は元号を変えない)が導入された事で、元号が日本国民に定着していった。

[246] このウェブページは頻繁に改元されるから馴染まなかったと主張しています。 それ以上の根拠や出典は記載なく不明。

[97] Xユーザーのyunishioさん: 「あとさー、日本で元号が使われたのはせいぜい儀礼的な文書(公卿の任命書とか)、契約にかかわる文書くらいで、一般には使用されてないんだよね。🙂 たんに年数を数えるだけなら干支で事足りたので、庶民はみんな干支ですよ。あとはざっくりした時代区分(元禄の世とか)。😎 https://t.co/bVU4qq3Avk」 / X, , https://twitter.com/yunishio/status/1721439557210812924

[98] このように元号廃止論デマになっている。

[99] ところで「元禄の世」は元号ではないのか...

[100] 元号廃止論の人は元号明治政府に強制された「新しい伝統」だと主張したいために、 それ以前は元号が使われていなかったことにしたいようです。 いわゆる歴史修正主義の一種です。

[101] 「昔はいろいろな紀年法を使っていた。これからもいろいろな紀年法が使われていく。」 では何がいけないのでしょうかね。

[193] 「天下」支配権の所在を示す 元号の成り立ちと役割:日本古代から近世まで(池享) | Web日本評論 () https://www.web-nippyo.jp/13171/#%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7

しかし、民衆側がそれをそのまま受け入れていたわけではない。日常生活で普通に使われていた紀年法は、おそらく干支だっただろう。頻繁に改元が行われる状況下では、元号によって時間を計ることにはかなりの無理がある。平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったかなど、すぐにわかるものではない。しかし、干支は60年で一回りするので、効力の永続性が求められる土地売買の証文などには、元号が記されている。そうした限定された機能しか、元号は果たしていなかったと思われる。

[104] 「平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったか」 を「民衆」が「日常生活」で「すぐにわか」りたいという場面を想像するのがそもそも難しい。 そもそも「日常生活で普通に使」う紀年法という概念が、 どんな状況を想定しているのか謎。 当時 (源平合戦の頃?) の「民衆」の「日常生活」で紀年法を使うのがどういう場面なのか。 それを明らかにしないまま日常で使う、使わないという話をしても意味がない。

[112] 元号 全247総覧 >>110 pp.28-29

庶民にとって縁遠かった元号と、はっきりしない元号の読み方

日本で、公式の記録に元号が使われるようになったのは、「大宝律令」で定められてからのことだ が、実は庶民の生活で元号が使われることはなかったし、飛鳥時代に元号の存在を知っている人は、 朝廷周辺の限られた人々にすぎなかった。

日本の律令制度が完成する奈良時代になると、さすがに (ぐん) () (地方を治める役人) あたりまでは 文書で伝わった。その郡司から (さと) (おさ) あたりまでは、口伝てされたかもしれないが、それが庶民の間 にまで広がることはなかったと考えられている。なにしろ、当時は文字を読み書きできるのはごく わずかな人に限られていたし、人々の暮らしに元号はまったく関係のないものだった。

そうした時代は長く続いた。元号が一般庶民まで伝わるようになったのは、江戸時代になってか らのことである。幕府や諸藩は、庶民に () (ふれ) (がき) や日常用務を通達するために (かい) (じょう) を出すシステムを つくり上げた。

改元の際も、江戸幕府はすぐに下部組織に改元の旨を伝え、それが「代官 (領主)」より廻状とし て各村々へ順達され、各村では「御用留」にその内容を写し取って記録。村の名主は、その内容を 村人たちに読み聞かせるようになったとされる。

[113] >>112 これは大筋においてはおかしな記述ではないのですが、見出しで「庶民とは縁遠」 いとまとめてしまうのは、誤解を招くものです。 「庶民」とはどの時代のどの層なのかよくわかりません。本文では江戸時代の庶民に元号が伝わったと書いているのですから、 見出しが本文の要約として成立していないのです。

[114] 本文も細かい点には疑問が残ります。大宝律令以後の飛鳥時代といえば大宝慶雲和銅の時代ですが、奈良以外の金石文木簡戸籍元号を書いた例が知られています。 日本古代の日時 「朝廷周辺の限られた人々」 が何を想定しているのかよくわかりませんが、その字面から受けるイメージよりは広く使われていたように感じられます。

[115] 中世には石造物などで元号が書かれたものが日本各地に造られ、設置されています。 「庶民」の範囲によりますが、少なくてもそうしたものを作れる知識人が全国各地、 地方の山間部にまで広まった時代で、 自分自身が読み書きできない下級農民などであっても日常風景として見ていたはずです。 「庶民とは縁遠」いという言葉のイメージほどには遠い所にあったようには思われません。

元号の一覧

[566] 元号 (やその他の紀年法) の一覧:

[569] 地域ごとの元号の時系列一覧:

詳しくは元号一覧

データファイル

元号一覧

変換表・実装

元号、改元日、読み方などの一覧表や換算ソフトウェアの実装状況などは元号一覧

識別子

元号名

統計

元号

研究史

[11] 元号改元については古くから支那でも日本でも様々な議論がなされてきました。 近代日本の学問としてもいろいろな角度から研究されてきました。

[89] といっても昭和時代後期の時点で元号に関する刊行済みの史料はほとんどありませんでした。 類聚国史大日本史 のような前近代の歴史研究成果にも、 元号の特集はありませんでした。 群書類従 も雑部に菅原道真編御記三善清行革命勘文 を掲載しているだけで、 塙保己一は当初元号関連史料を集める必要性を認識していなかったようです (が続群書類従で大量に収集整理されました)。 >>88

[87] 史料集成として、 続群書類従公事部 (巻二七八-二九一など)、 古事類苑歳時部年号, 明治41年刊がありました。 >>502

[16] 森鴎外は、 元号考 (大正15(1926)年) で日本の元号の典拠を検討しました。 森の研究は吉田増蔵に引き継がれ、 昭和改元に活用されたと考えられています。 元号考

[86] 森本角蔵は、 日本年号大観 (昭和8(1933)年) で元号の選定手続きや採用案・候補案の提案者や出典などを総合的に明らかにしました。 後に所功は、日本の元号の「すべてについての本格的な研究成果」 は本書くらいだったと述べました >>13 普及版 p.2

[14] 山田孝雄は、 年号読方考証稿 (昭和25年) で日本の元号がどう読まれてきたかを明らかにしました。 元号の読み方

[184] 石田茂作久保常晴は、 日付表記の形式を研究しました。 東洋の日時表示

[12] 久保常晴は、 日本私年号の研究 (昭和42年) で日本の私年号の全体像を明らかにしました。 詳しくは古代年号日本の中世私年号

[23] 瀧川政次郎は、 元號考証 () を著しました。 >>24

[15] 所功は、 昭和末期から日本の元号制度に関する多数の論考を発表し、 日本の年号 (昭和52年)、 年号の歴史 (平成元年) として出版しました。 それでも「まだ判らないことが沢山あり、さらに調査研究をしなければならない」 ところ「公私とも多忙」で進まず >>13 普及版 p.2、 平成末期になり若い世代の研究者と共にようやく 日本年号史大事典 (平成26年) が成ったといいます。 日本年号史大事典平成までの日本の元号制度を総合的かつ詳細に説明した、 日本の元号研究の現時点の集大成というべき書籍です。

[18] 日本の年号には 年号関係文献目録 が収録されました。 年号の歴史所功日本の元号に関する既存の研究として >>87>>16>>86>>14>>12>>23 を特に挙げたほか、 「年号に直接関係のある研究論文」が数十篇あったとしました。 >>502 日本年号史大事典には、 さらにその出版時点まで増補された目録が収録されました。 日本年号史大事典

[69] 所功は、 日本年号史大事典編集時に痛感したこととして、

... を挙げました >>68

[72] 平成31年に出版された 年号と東アジア―改元の思想と文化― の序文で、 水上雅晴は、 本書が所の挙げた2つの課題を「解決する一助になり得る」とし、 「年号学」なる学術領域が将来構築されるなら、 本書中の各論点が 「基本的な枠組みを形成する、と思われる程に多彩な論考」 を集めたものだとしました。 研究分野としては、 中国哲学、 中国科学思想史、 日本漢字、 日本史 (古代、中世、近世)、 朝鮮史、 ベトナム史、 日本思想史、 日本文学、 国語学、 日本法制史、 書誌学などを含むものであり、 今後の元号研究に少なくてもこれら領域の研究者の参画が必要だ、 としました。 >>67

[73] 歴史学の範囲を超えた総合的な「年号学 (元号学)」 としての発展を目指すには、 さらに加えて現代社会における元号と西暦の受容、 元号以外の紀年法との文化論的比較、 情報システムの日時処理と元号、 創作物における日時、 などといった観点も必要になって来ましょう。

[17] 日時制度の諸相の中で日本の元号は比較的関心を集めやすくよく研究されてきた分野といえますが 日時研究 、 それでもなお未解明なことは多いようです。

[242] 元号、特に日本の元号については実は個別の研究は既に膨大な蓄積があるのですよね。 でもそれら個別研究をまとめて俯瞰するタイプの研究はそれほど多くないから、 全体像がはっきり見えてる部分がまだまだ少ない。 そしてそこから視野を広げて行こうとすると、まだまだわからないことだらけで、 個別の研究だって全然足りてないじゃないかと呆然とするんです。

メモ

[9] KJ00000189327.pdf () http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2799/1/KJ00000189327.pdf

[10] 香取文書の売券から見える中世の東国 () https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/07/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%A3%B2%E5%88%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%9B%BD.pdf

[47] 暦Wiki/歴史/元号 - 国立天文台暦計算室 () http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB8B5B9E6.html

[83] 東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web) () https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html

博物館などによると、改元は、江戸時代までは天変地異や飢饉(ききん)があったときに世の中をリセットする意味があり、私年号は改元されないときに改元を望む民衆の中で流布された新年号。戦乱が続いた中世、年号を決める朝廷から離れた東国で、多くはデマと判明するまで短期間使われたという。

[85] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 第 1 巻 155 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000155.html

年號ニシテ正史ニ見エズ、僅ニ金石文ニ存スルモノ、又古キ年代記、古社寺縁起等ニ記サレタルモノアリ、之ヲ逸年號ト謂フ、多クハ僧徒輩ノ僞作ニ係ルト云フ、又後世亂離ノ際、政令遠遐ニ遍カラズシテ、邊土ノ民、私ニ異號ヲ用ヰシコトアリ、之ヲ僞年號ト謂フ、今併セテ逸年號ノ後ニ載ス、

[181] 《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題 - ライブドアニュース () https://news.livedoor.com/article/detail/19333042/

[190] (, ) https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf

[191] 京都産業大学 学術リポジトリ (NetCommons, ) https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10274&item_no=1&page_id=13&block_id=21

日本文化研究所公開シンポジウム : 元号の世界 : 最新の研究から

[192] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//uugon.html

[222] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「中公新書『中先代の乱』を読んだけど、この本の底辺には北条時行へのロマンがぎっしり詰まってて、その上に歴史学を積んでるという感じがしました。」 / Twitter (午後2:38 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418445348742201347

[223] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「鎌倉近隣の北条氏ゆかりの寺院の僧侶が、中先代が鎌倉に入ったわずかな期間だけ、中先代が使用する年号を使ってたという記述が一番興味深かったです。鎌倉を追われるとすぐに年号を元に戻したそうで。」 / Twitter (午後2:48 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418447913823268868

[224] 鎌倉幕府の衰亡(7)北条時行 (, ) https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo8.html

翌二十三日、足利直義を井出沢に破った北条時行は、二十四日、ついに鎌倉を奪回した。時行は正慶の年号を復活させ、幕府復活を宣言した。

[227] 石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』における〝私年号〟 - 「魏志倭人伝」への旅 ブログ版, hyenanopapa, , https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1862.html

石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』p217

たとえば、甲斐、常陸、陸奥、相模、下総などで行なわれた福徳(元年が延徳二年に当たる)、薩摩地方で行なわれた福伝(元年が延徳二年に当たる)、甲斐、常陸、会津地方で行なわれた弥勒(元年が永正二年に当たる)、甲斐に行なわれた宝寿(元年が天文二年に当たる)のごときこれである。改元を奉じないで古い年号を用いた例もある。たとえば、文明三年を享徳二〇年と記したごときこれである(享徳と文明のあいだには、康正、長禄、寛正、文正、応仁がある)。

[251] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)

[535] 日本社会事彙 下巻, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1805636/1/576

[177] 12_2022_ippan_nihonshi.pdf, , https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2022/07/12_2022_ippan_nihonshi.pdf#page=3

[78] Xユーザーのノザキハコネさん: 「柳田國男が紹介してたけど日本では近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があったそうなのでこの美しい伝統を復活させましょう。令和とか使わず各職場やご家庭でガンダム元年とかちいかわ元年とか好きに決めて使おう。」 / X, , https://twitter.com/hakoiribox/status/1720837313583108351

[90] 少なくても 定本柳田国男集 索引で「私年号」は1箇所だけで、その 海上の道 には確かに柳田國男弥勒の考察が見えるのだけど、柳田國男

すなわち一時は少なくともそういう年号が、新たに制定せられたものと信じて、これを用いた人が多かったのである。

と書いてるんだよなあ。 弥勒

[92] 「近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があった」 ってのはどの本のどこに書いてあるんだろうか。 真逆に見えるんだけど、いつどういう理由で新説を唱えたのか、どちらが新しいのか。

[93] 平成時代はじめくらいまで「私年号の時代は近世初期で終わった (幕末など例外あり)」 ってのが通説だったのに。柳田國男が近世後期までの習慣を紹介しているなら、 見逃されてるはずないと思うんだけど。

[94] XユーザーのDr. Yusuke YAMASHITA, PhD, Associ.Prof. of CSRさん: 「歴史上、日本には「私年号」「異年号」と言われるものが存在する。これは、 元号の一字を縁起の良い文字に変えて使う、という縁起物的風習であり、 例えば、「延徳」を「福徳」として使用した事例が存在する(※二代古河公方・足利政氏の御書の事例)。 (参照:市村高男『足利成氏の生涯』)」 / X, , https://twitter.com/YAMASHITAnoID/status/1721055025487900672

[95] 「縁起物的風習」。足利成氏の生涯にそう書いてあるのか、この人がそういってるだけなのか。

[96] Xユーザーの幣束さん: 「何年か前に石仏の側面確認したら全く知らん年号出てきて検索しても無いし?????ってなったんだがアレも私年号だったのだろうな多分」 / X, , https://twitter.com/goshuinchou/status/1721357299237929184

[102] 日本社会事彙 下, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898057/1/639

[139] 國學院図書館 Digital Library, , https://opac.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/yoshidakemonjyo-04/etc/kaisetsu.html

44覚書私年号等の覚

[141] 6.吉田家文書の調査・撮影 - 東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo, https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/46/saiho_46_006/

44 年号覚書

[610] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)