[31] 新編武蔵風土記稿 >>81, 入間郡誌 >>82 には、の板碑があると書かれています。 後者は前者が出典と推測されます。 >>19
[34] 昭和時代頃の現地調査では承久2年の板碑は見つかっていません。 現在知られる日本最古の板碑よりも古く、疑わしいと考えられます。 >>19
[36] 音声情報による伝達から生じた誤解ではないかと推測されています。
[80] 昭和時代初期の現地調査では、弘長より古いと判断されています。 改竄は見られません。 (>>73)
[39] 昭和時代頃の現地調査では、「間違いなく鎌倉時代」と判断されています。 >>19
[107] 昭和時代中後期頃の板碑研究者らは、鎌倉時代後期頃と判断しています。 (>>88 >>25)
[131] 田向城跡で出土した板碑のうち1つとされます。 >>20
[165] 田向城跡は平成初期にゴルフ場建設に先立ち発掘調査が行われています。 当時の報告書掲載の板碑断片の拓影 >>166 と、 自治体広報誌の私年号板碑写真 >>130 とで形状が酷似しており、 同じものを指していると考えられます。
[167] 報告書発行元となっている山武郡市文化財センターは既に解散しています。 板碑が現在どこに所蔵されているのか、 Web には情報が皆無です。
[168] 報告書によると、板碑は曲輪の盛土中から出土しました。 紀年銘が含まれるものが2点と、小片がいくつかあったようですが、 報告書や広報誌で見られるのは大きな2点だけです。 2点のいずれも残欠です。
[169]
2点のうち1つ (
[171] もう1つ >>166 は紀年銘があるとしつつも、判読不能と報告書は述べています。 >>164 蓮台らしきものの下に銘文らしきものが見えます。 残欠であり全体が見えないため判断が難しいものの、 およそ中央、しかし蓮台と比べてわずかに右寄りに、 1行配置されているように見えます。
[172] 平成6年の報告書は判読困難としていますが、平成17年の広報誌は私年号だとしており、 11年間のうちに新たに研究者が判読に取り組んだ成果でしょうか。
[173]
広報誌には「正久二年」としかありませんが、これを手掛かりに報告書の拓影を読むと、
「正久二年二月日」あたりでしょうか。年とその上下に当たる線画は、
どこからどこまでがどの文字か判断が困難です。上下が本当に二なのかどうか、
よくわかりません。
[174] 第1字は正と読まれていますが、日とも白とも取れます。
報告書では判断困難です。
[175] 第2字は久と読まれていますが、文のようにも見え、しかし\はよく見ると
ノを貫く線ではなく左右で途切れていて、左側は別画ないし錯覚のようにも思われ、
よくわかりません。
[176] 上下左右に他の文字は無いように見えます。
[177] 限られた断片ながら、様式から幾らかは時代を絞れそうに思われますが、不明です。
[178] 板碑出土の盛土と同じかどうかは不明ですが、盛土中から鉄砲玉が出土しており、 築城はの鉄砲伝来を遡らないと推定されています。 江戸時代の記録ではの築城と伝えられます。 >>164 /120
[151] 熊野本宮大社文書に正久が使われたものがあるようです。詳細は不明です。
[152] 正久の何年かの1月3日付け文書なのでしょうか。それとも本文中に正久が出現するのでしょうか。
[188] 令和時代に至るまで、私年号研究で取り上げられた記録は見当たりません。
【管理番号】 66503703232497
【和暦年月日】 (年未詳)正月3日(55550010030)
【文書名】 武蔵国・相模国入峯人願文
【底本】 写真帳 熊野本宮大社文書(62660030) 6171.66-25
【差出】 武蔵国小机保鳥山住僧越前■弁・治部隆賢・少弐阿■仁(花押)・相模国尾板郡飯田住僧式部秀海(花押)・大師直海・備前律師(花押)
【詳細内容】 「正久」は私年号
[146] 昭和時代に出現した偽書群和田家文書の中核である東日流外三郡誌にあります。
[179] いくつかの用例が知られていますが、 全体を横断した研究は未だほとんど手つかずのまま令和時代に至っています。
[180] 少なくても和田家文書の用例は他と大きく性質が異なると考えられます。 それ以外の用例が同じ元号なのか、複数の系統に分けられるのかは検討を要します。 >>30 以外は元号名が正久かどうかも不明瞭であり再検討を要します。
がありますが、承久説は誤解によって生じたもので成立し難いと考えられ、 残る2説が有力です。
[185] >>30 の板碑の様式に基づき2説どちらも支持があるものの、 研究の蓄積があるより新しい時代の研究者の判断によるなら元応がやや優勢と思われます。 ただ平成時代の有名な板碑研究者である千々和到が正元説を捨てきれなかった、 という程度の優勢であり、決め手に欠けるのが実情でしょう。
[186]
>>30 は久の字形が明らかであるものの、より前段階の情報伝達で混同があったとすると、
元と久の字形類似の指摘も捨て置けません。ただ、改元直後ならともかく、
2年2月というタイミングでの誤字には疑問が残ります。
[187] 朝幕関係と結び付ける仮説もありますが、元応説を前提に推測を重ねたもので、 物証はありません。比定年の確実性に欠けるままこの種の推測説を前提に語るのは、 時期尚早と思われます。
[48] 開催の埼玉郷土会第71回見学旅行は、 日本国埼玉県入間郡原市場村・名栗村で実施されました。 >>27, >>16
[49] に提示された予定には、 原市場西光寺阯の板碑に正久の異年號があると明記されています。 >>27
[50]
「
[51] 道中で西光寺の所在を尋ねたものの、誰も知る者がいませんでした。 小学校前で尋ねると、 >>50 の案内をした者が見つかりました。 >>16
[52] 現地は、人家から相当の距離のある畑の中に荒廃した堂宇がありました。 知られていないのも納得の有様だったそうです。 それでも本尊は残っていました。 >>16
[53] 堂に向かって右側の丘陵の裾に、墓石と共に板碑4基が並んでいました。 そのうちの1つが >>30 でした。他に
... がありました。 >>16
[64] >>30 については次のような考察があります。 >>16
正 = 承) だとすると、正または久、の条件、久と元は似ている久が疑問で、このどちらなのか?久と元は書き方によっては判別しがたい[88] 昭和42年の日本私年号の研究は、 板碑の様式から、
などの板碑と同系統とし、弘長や正和の板碑と共存していることも考慮し、 この時代前後の造立とし、 庚申年であることから元応2年に当たり、 従って元年は元応元年と推定しました。 >>86
[93] これについて、次のように考察しています. >>87
[156] なおそれに先立つ昭和39年の論文の時点では、 >>16 の見解を紹介するに留まり、正元元年説に従い、 私年号と異年号の別は異年号としていました。 或いは誤認だとしても、同じ地域の次の私年号の発生の母胎となったと受け取れないこともないとも指摘していました。 >>155
[162] 他に、年号に言及のみした論文もあります。 >>161
[108] 千々和到は久保常晴の日本私年号の研究の判定に同意しています。
[123] 千々和到の系譜の一覧表は正久について、 元応説を主としながらも正元説も掲載し、 その誤りかとしています。 >>122
[124] 千々和到は公年号の1文字を置き換えた私年号に注目しているので、 正元説を捨てきれなかったと思われます。
[111] の板碑の総合研究 は、次のように解説しています。 >>251
[140] >>1 は板碑の総合研究が正元説であるかのような書き方になっています。 >>251 とは相反するため謎です。
[159] に和田家文書を真作とする立場で編纂された年表は、 >>144 を承久元年に比定しています。 >>158 根拠は示していません。
[134] 平成17年3月の自治体広報誌は、 >>128 を紹介しています。次のように述べています。 >>20
[141] 平成17年のブログ記事は、 >>30 >>128 を紹介した上で、 公年号の1字を置き換えた私年号の例があるので、 正元の妥当性が高いという見解を示しました。 >>1 >>128 の新出を踏まえての記事ですが、 >>128 から考察に資する新情報を得たわけではありません。
[142] その後令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で >>128 が紹介されたことを確認できるのはこれらだけです。
これまで「正久」の使用例としては、埼玉県飯能市の正光寺墓地の板碑が あるのみでした。しかし、昨日ネット上で発見した千葉県芝山町の「広報 しばやまH17.3」によれば、同町の田向城跡で発見された板碑にも「正久」 年号(正久二年の紀年銘)が刻まれているようです。 「正久」元年が何年に相当するかについては、上記の正光寺板碑に「正久 二年庚申」とあることから、その干支と板碑の形式により、1259年(正元 元年:『板碑の総合研究』)、もしくは1319年(元応元年:『日本私年号の 研究』)とされています。ただ、公年号の一字を別の字に替えた私年号が 他にも数例ありますので、1219年(正“元”→正“久”)の妥当性が高いよう に思います。
[125] 日本語版ウィキペディアは比較的早い時期から正久を掲載しています。 当初は正元説でしたが、 に元応説に変更されました。 >>126 いずれも根拠は不明です。
[133] の SNS 投稿で、 元応説により、 僧侶が使用し、公年号を拒否したのではなく内輪で用いたと解説するものがあります。 >>132 根拠は不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 正久 - 元応元年(1319年) 不明 埼玉県飯能市西光寺(廃寺)墓地板碑
[32] 時系列 :
[9] 小学校掲示資料, 教育実際社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/808849/1/91
正久元年閏 記録所設置
(誤植? 正しくは延久)
[11] 手書きの「延久」がOCRで「正久」と誤読された事例あり。
[18] 時宗教学年報 10, 時宗教学研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4424041/1/42 (要登録)
正八幡神社 明治40年作成の由緒 正久2年 1070
(正しくは延久)
正久元年11月12日甲辰
(平安時代頃? 誤植か、原典の誤写か?)
(同文、ということは誤植ではなく共通祖本の誤写?)
[6] 伊豆の郷土研究 第10集, 田文協編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539818/1/18 (要登録)
正久元年七月一八日 源頼家没
(正しくは元久)
[8] 日本の刀剣, 佐藤貫一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2493950/1/51 (要登録)
九条家伝来の刀 正久元(1204)年
(誤植か?)
正久元年8月
ママ注あり
(近くに元久元年3月あり)
[17] 冬柏 11(2), 冬柏発行所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/10987234/1/33 (要登録)
正久2年 新古今和歌集成立
(正しくは元久2年)
[4] 鎌倉国宝館図録 第3集 (彫刻篇 第3), 鎌倉市教育委員会[ほか], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2476561/1/33 (要登録)
霊鷲山極楽寺 正久元(1259)年 開山
[5] 霊鷲山 感応院 極楽寺 鎌倉, , http://www.izumi-loc.com/kamakura/gokurakuji/index.html
北条重時(ほうじょうしげとき)が良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)を開山(かいざん)に正元元年(1259)に創建したといいます。