弥勒

弥勒、命禄 (元号)

[49] 弥勒, 命禄日本史上で度々出現する私年号です。 弥勒信仰に関係するとされます。

紀年法

[331] ミロク私年号は歴史上何度も繰り返し使われています。 後に否定された旧説も含めて多数あります。

弥勒

[95] 会津旧事雑考

[6] 詳細検索 | 長野市文化財データベース 頭で感じる文化財 デジタル図鑑(頭感), , http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1152.html

[10] g18.pdf, , https://www.mgu.ac.jp/main/departments/graduate/journal/document/g18.pdf

[12] 徳性院 | 栃木県日光市 | 資料請求無料【お墓さがし】, https://ohaka-sagashi.net/property/11883-2/

[9] 曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 異年號辨: Blog鬼火~日々の迷走, https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2022/07/post-e7d150.html

[13] 1998-05-6.pdf, , http://jodo.ne.jp/pdf/1998-05-6.pdf#page=26

[17] 松戸市史 上巻, 松戸市誌編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2990377/1/339 (要登録)

[52] いまいち市史 史料編・原始 1,中世 1, 今市市史編さん専門委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640750/1/108 (要登録) /124 /127

[69] 浦和市史 第2巻 [1] (古代中世史料編 1), 浦和市総務部市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641210/1/246 (要登録)

[70] 小山市史 史料編 中世, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641947/1/217 (要登録) /501

[74] 小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/443 (要登録)

[75] 川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑), 川越市[総務部]庶務課市史編纂室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/63 (要登録) /210

[76] 新修大津市史 第9巻 (南部地域), 大津市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540265/1/75 (要登録)

[82] 滋賀県史 第一巻, 滋賀県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3438757/1/124 (要登録)

[83] 滋賀県史 第三巻, 滋賀県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3438759/1/84 (要登録)

[77] 船橋市史 原始・古代・中世編, 船橋市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644833/1/297 (要登録)

[81] 千葉県史料 金石文篇 3 補遺, 千葉県企画部県民課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/79 (要登録)

[91] 下野 今市市石造地蔵菩薩坐像背銘に弥勒元年 (永正4年) の用例があります。 >>207

[93] 今市市は中世、日光領でしたが、当時日光山では公年号の記録しかなく、 伝播による偶発的知識による使用とされます。 >>207

[92] 下野 小山市 結城文書 社領安堵状に弥勒2年 (永正4年) の用例があります。 >>207

[121] KU-1100-19900930-03.pdf, , https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/18562/files/KU-1100-19900930-03.pdf #page=13

板碑

[84] 板碑入門, 小沢国平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78 (要登録)

[86] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/326 (要登録)

[118] 令和2年時点で弥勒銘板碑は33基見つかっています。 福徳


[298] 江戸時代水戸学小山田与清 (-) 松屋叢話 は、

  • [300] 諸国に三四百年前の墓碑が残り、彌勒何年、福德何年と書かれている
    • [301] 近頃、下総国野田の里で彌勒二年三月二十五日の墓碑が出土

と紹介していました。後南朝説を主張していました。 >>299 (小山田与清の主張なのか太田元貞 (大田錦城) (-) の主張なのか不明。) 南北朝時代の元号

その他石造物

[112] 日本国栃木県今市市平ヶ崎 天台宗徳性院 境内 小石仏墓塔 背銘 >>289

三月十日道林

ひこ六

弥勒元

[113] 平ヶ崎村獅子舞文書, 宝暦9年6月より、 第1次所在は村内いずれかの路傍と推定されます。 >>289

[114] 様式から南北朝時代には遡らず、江戸時代には下らない、 室町時代中後期の過渡的特徴を備えているといいます。 >>289

[115] この資料は浅沼徳久が史学同人誌に紹介した (>>110) ものの、 公式に報告されていなかったとして浅沼徳久が改めて論文誌で紹介しました。 >>289

[116] >>289 に表面、裏面の写真があります。銘文はいくつかの文字のおおよその字形は読み取れますが、すべてを判読するのは困難です。 実物ならはっきり読めそうに見えます。

[117] 書字方向「小」でしょうが、紀年が右左でなく左右に行が進むことには注意が必要です。

棟札

[277] 都留郡黒野田村 (笹子町) 奥明神棟札 「弥勒二年丁卯仲冬十二日敬誌」 勝山記の日時

文書

[96] 福島県史 7古代・中世資料「飯野文書」 一八四号 岩城親隆書状 「弥勒二年ひのとのう」 (土地関係書状) >>217

日時事例

[249] 同じ結城政朝文書で弥勒2年と弥勒3年の違いがありますが、 干支年からとされます。 >>594

[253] 渡部恵美子は、 私年号公年号と違って短期間しか使われず、 年数よりも元号を使うことに意味があったのだから、 年数が食い違っても気にしなかったと主張しました。 >>594 これは、私年号は呪術的目的で公年号と区別して選択的に使われたとする渡部恵美子の論に基づく考え方です。 (その後の研究者にはあまり支持されていません。) 中世私年号

[254] しかしこれら2つの文書は寺社宛とはいえ、内容は普通の武家からの文書で、 特に呪術的、宗教的な文書ではありません。 年表示を特定する必要があるから書くもので、 年数が何でも良かったとは暴論が過ぎないでしょうか。

[255] 渡部恵美子は、普段私年号を使わない戦国大名がここで敢えて私年号を使ったのは、 寺社との信頼感を高めようとした、接近のための手段だったとも主張しました。 >>594 政治家の人気取りのポーズで巷の流行りに乗ってみたということでしょうか。

[256] このように史料的根拠がない推測をいくつも持ち込まないといけないのが、 呪術的私年号説が支持されない理由なのでしょう。 私年号は呪術的なもので宗教者は意図的に使ったが他では使わなかった、 という仮定を外せば無理な推測はいらなくなります。

近江

[111] 近江石山寺順礼納札甲州巨勢郡布施庄小池図書助 西国三拾三所順礼霊 峕弥勒二年六月吉日>>289

[293] 日本風俗史講座 第二卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1870104/1/222 (要登録)

[290] 日本歴史考古学論叢, 日本歴史考古学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3007094/1/131 (要登録)

[291] >>290 弥勒は5種類あるとする

𣃥勒

[139] にはいくつか異体字があって、弥勒もそれらで書かれることがあります ( )。 𣃥勒異体字𣃥を使った表記です。

[140] OCR では𣃥と誤読されて旅勒となっていることがあり、 要注意です。

[141] 明朝体への翻刻では新字体 (近代日本では旧字体) に統一されることも多いので、原表記は実物を確認しないとわかりません。 また、明朝体𣃥などと異体字表記されていたとしても、 それも近似ということはあり得ます。


[145] 信濃史料翻刻文には𣃥が出現するので、 書き分けられていると思われます。

日時事例

[144] 妙法寺記は異本が多数あります ( 勝山記 )。 そのうちの1本は「弥勒二年」 を「𣃥勒二年」と書いているのでしょう。出典がどの本なのかは明記されていません。 他の勝山記/妙法寺記諸本の明朝体翻刻𣃥を使ったものは見たことがありません。

日時事例

[156] 日本国長野県長野市松代町 (昭和時代中期まで日本国長野県埴科郡松代町) の熊野出速雄神社 (皆神神社, 熊野神社熊野出速神社とする >>154 のは誤りか) の3体の仏像のうち2体3個の弥勒𣃥勒表記とされています。

[157] 昭和時代中期の信濃史料でそのように表記されており >>138 (出典不明、この書籍の性格上、実見したものでしょうか。)、 その引用でこれを踏襲するものもありますが >>492、 それに先立つ昭和時代初期の論文も同じ表記です >>153

[158] 3体中、大日如来坐像に「下野守伊与法眼」とあり、 3体ともその作と考えられています。 >>154

[159] 伊与法眼の素性は不明ですが、 完途僧官位があるので中央か鎌倉の仏所に所属したと推測されています。 >>154

[160] 戸隠山顕光寺流記 () によると、 顕光寺に「大仏師伊与別当」 が作った仁王像があったとされます (現存しません)。 伊与別当は「奈 ((良)) 仏師」と記録されています。 >>154 時代が違うので直接の関係はないのでしょうが、似たような立ち位置だったのでしょう。

[161] 仏師が本拠地で仏像を制作したのか現地(納入先)で制作したのかは定かではないものの、 鎌倉時代頃までは本拠地で、中世末頃からは納入先で作ることが多かったと推測されています。 >>154

[162] これら3体の銘文を作ったのが仏師かどうかはわかりませんし、 仏師だとしてもどこで書いたのかは確定が難しいです。 ただ京都奈良だというのは、弥勒の他の用例の分布からみて、 考えにくそうです。 下野守を称するから下野に縁があると安易にはいえませんが、 東国を拠点とした可能性もあるのでしょうか (伊与を称するから伊予に縁がある、ということはさすがにないでしょう)。

[172] >>167弥勒異年号で、元年は永正3年に該当する、としています。

[192] 日本信濃国弥勒の用例はこの1組だけです。 >>492

[193] 平成時代初期の歴史研究者渡部恵美子は、 同年の信州で他に弥勒がなく、 この仏像だけが弥勒であることを根拠に、 仏像墨書銘は宗教的性格ゆえに敢えて呪術的に私年号を用いたと考えました。 >>492 中世私年号 しかし具体的に同年や同時期のこの地域でどのような日付が使われたのか、 他の例は示していませんし (もし他にも宗教的史料があるなら、なぜそちらでは呪術的私年号が使われなかったのか説明が必要でしょう)、 墨書銘がいつ誰によって書かれたのかも検討されていません (仏像が他所で作られて持ち込まれた可能性が指摘されている以上、少なくても信州で書かれたものだと確定させないことには、 孤立例ということもあり、 信州における私年号の利用者意識の材料としては弱い)。

[398] 長野県史 通史編 第2巻 (中世 1), 長野県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540029/1/276 (要登録) 右


日時事例

[176] 板碑の様式と干支から弥勒 / 𣃥勒は永正4年の私年号とされます >>173 /210, >>173 /63弥勒𣃥勒の違いには特に注釈もなく、 記事本文では弥勒で統一されています >>173 /63

[178] 同形式の板碑日本国埼玉県下に6基あっていずれも弥勒2年で、

埼玉県東南部の広範囲に分布します。ほかに

などがあります。 >>173 /63

[187] 1人か2人の導師が遍歴して建てたのではないかとする説 >>173 /63 があります。

弥禄

[243] 勝俣鎮夫>>241 および 勝山記 の引用で弥勒弥禄と書いています。 >>258

[244] この表記の根拠があるのかは不明です。 >>241 の出典は >>240 ですが、 >>240 には「彌勒」 (明朝体) とあります。 勝山記翻刻の諸本には弥勒彌勒とあって、 弥禄とする本があるのかは不明です。

弥鹿

日時事例

[313] 弥鹿2年とその左横の宛所の間に「改寛正」と書かれています。

[327] 月日は書かれていません。本文中には「十月代二百文」が云々とあり、 その前後と推測できます。

[314] この史料を紹介する房総叢書の注釈は、 寛正改元は長禄4年庚辰であると書いています。 >>305

[306] 日本私年号の研究 は、 弥鹿について白鹿の項の注釈で紹介して、 弥勒と発音は一致するものの干支年は一致せず、 白鹿の貞和元年説とすれば干支年が一致すると紹介しています。 しかし書体や内容など検討を要するともしていて、注釈にとどめています。 >>310

[217] これはおそらく干支年の一致に加えて「鹿」 という元号名で珍しい文字の一致も鑑みているのでしょう。 しかしながら「白鹿」と「弥鹿」では1文字目の発音も字形もまったく異なります。 それで白鹿と関連付けるのも躊躇されたのでしょう。

[307] 「弥鹿」は単独で私年号として立項しても良さそうなものなのに、 なぜか注釈止まりになっています。そのためなのか後続の研究者も特に注意を払っていません。

[315] 房総叢書所収妙本寺文書は、 からにわたっています。 当文書もこの期間に収まるとみていいでしょう。

[316] この期間の丙戌 (ひのえいぬ) 年は、

です。

[308] この中ではが注意を惹きます。

のがこのです。

[325] 「改寛正」 をいつ誰が書いたのか定かではありませんが、 寛正からの改元と解釈すれば意味が通ります。

[326] 房総叢書寛正改元と解釈してと注釈して、 それ以上の解釈を諦めたのでしょう。

[328] 寛正7年の秋頃に寛正から弥鹿に改元されていたという情報が流れていて、 情報が入って間もないなど何らかの理由があって旧元号も併記したという感じではないでしょうか。

[329] 妙本寺文書には1年ずれ康正もあります。

命禄

[28] 勝手神社の石鳥居(山梨県の神社) () http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/katte.htm

[29] ののりさんはTwitterを使っています 「他に印象に残ったものをいくつか 点図笏(8,9) 6歳の息子のために三条西公条が自ら書写したという百二十詠(25)。 私年号「命禄」(43) 注釈した場所を対照する記号。お花?(51) https://t.co/h2s2lxRhqX」 / Twitter, 午後10:41 · 2020年10月8日 , https://twitter.com/nonori915/status/1314199130458091522/photo/3

[78] 甲府市史 通史編 第1巻 (原始・古代・中世), 甲府市市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540836/1/248 (要登録)

[79] 益子町史 第6巻 (通史編), 益子町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644566/1/233 (要登録)

[85] >>84

[87] 古文書フルテキストデータベース - 検索, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w10/search?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84&resultoption=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%A1%A8%E7%A4%BA&page=1&itemsperpage=200&sortby=jc_date&sortdesc=false&sortitem=%E5%92%8C%E6%9A%A6%E5%B9%B4%E6%9C%88%E6%97%A5%EF%BC%9A%E6%98%87%E9%A0%86

1命禄元年八月二日不可出之候者也、<命禄元年:hover 「天文九年」>八月二日○朱印「信」字武家家法Ⅱ3504/225

[75] 日光輪王寺慈眼堂収納:

慈眼堂の所蔵物は関東各地から日光に移されたと考えられています。 >>207

[90] 下野 益子町地蔵院本堂内陣板羽目落書に命禄三年 (天文11年) の用例があります。 >>207

[120] dai61syu.pdf, , https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/wp-content/uploads/2023/04/dai61syu.pdf#page=57

鶴岡八幡宮

[203] 快元僧都記天文十年条に 「命禄二年辛丑」 とあって、 鶴岡社供僧の相承院快元が使ったことが知られます。 >>251

[245] 神道大系所収国学院黒川本快元僧都記天文十年条は 「命禄二年辛丑正月」で始まっています。 神道大系編者によると、 黒川本と天理吉田文庫本のみ命禄2年で、他の諸本は天文10年で、 書写時に天文に改めたとされます。 >>258 (神道大系 神社編20 鶴岡)

遠江の胎内銘

日時事例

[132] >>124 は1つの仏像の胎内銘でありながら、3つの紀年で2つの違う元号が使われています。

[133] 平成時代の歴史研究者渡部恵美子は、 公年号私年号の併用は私年号の呪術性ゆえに意図的になされたとしました。 >>492 中世私年号

[134] しかし3つの紀年の記主の違いは考慮されていません。 たしかに異様ではあるのですが、 単純に各人が銘文を用意したタイミングで使った表記がそのまま残っただけとも考えられます。 「二」と「貳」の違いからも表記を統一しようという意思がなかったことがわかります。

[135] 「天文九年」という表記は、天文への改元から時間が経ちすぎているので、 1年ずれたまま使われ続けていたとは考えにくいです。 日付が2月ということは準備段階では1月や前年という可能性もあり、 年始や旧年中ゆえにうっかり前年を書いてしまった可能性を検討するべきかもしれません。

[80] 今川氏領国での用例です >>258 (静岡県史・資料編7)

伊豆暦

[196] 日本国甲斐国で書かれた 王代記 の天文9年条に、 「命禄ト伊豆曆ニスル也」 とあります。 >>251 王代記の日時

[197] 天文8年末頃に流通した天文9年の伊豆暦に、 天文ではなく命禄と書かれていたのでしょうか。 (それとも天文9年末頃に流通した天文10年の伊豆暦でしょうか。)

[198] 平成時代の歴史研究者阿部浩一は、 伊豆暦すなわち三島暦命禄と書かれ、 甲斐国にはを通じてこの私年号が伝えられたと推測しました。 >>251

[199] 命禄武田信虎のように公的文書に用いたり (>>205)、 鶴岡社供僧の相承院快元が用いたりした (>>203) (のに他の私年号は使わなかった) のは、 三島暦で伝達されたことが正式な改元との認識に寄与したものと推測しました。 >>251

[208] そのため命禄以外の私年号三島暦と関係するか否かは断定を避けました。 中世私年号

[227] 伊豆暦三島暦が同じものである根拠は示されていません。 その可能性は高いですが、 一方で時代と地域によっては三島暦版暦一般の代名詞にもなっていたように、 通称と実態が一致しないケースもあるので断定は危険です。

[209] 平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、

と主張しました。 >>258

[224] この前提として王代記の記述から甲州暦の存在を主張しています。 王代記 しかし甲州暦なるものについて、 三島暦と異なる暦日暦書があると仮定していますが、 根拠となる史料は示していません。 (王代記から確定できるのは、 の運用問題に甲州の誰かが判断を下したらしい事例が1回あった、 というところまでです。)

[225] 案1と案2の違いは命禄の伝達媒体が暦書かそれ以外かだけです。

[226] いずれにしても命禄建元者は三島神社だと断定しています。 しかしその根拠は示されていません。

[236] 更に、 武田信虎三島神社改元情報をいち早く得て天文9年庚子に命禄元年を採用した (>>235) のに対して、 一般社会は改元情報を翌年採用した暦に基づいて天文10年辛丑に命禄元年辛丑や命禄2年辛丑を用いたのであろうとしています。 >>258

[237] 案1/案2との関係がわかりにくいのですが、改元伝達ルートは一般人には無関係で、 一般人は甲州暦書が発行されて初めて命禄を使い得たという主張でしょうか。

[238] 勝俣鎮夫は同論文で元二年説を唱えていて、 改元の翌年が元年で2年であると主張しています。 元二年 そしてここでも一般社会はそれに基づき天文10年を命禄の「始ノ年」としたのだと考えています >>258武田信虎文書はそれと矛盾するので、 武田信虎と一般社会で別のシステムを想定して辻褄を合わせたのでしょうか。

[239] 勝俣鎮夫によれば武田信虎は徳政政策のため命禄を採用したと考えられますが (>>235)、なぜそれを領民に施行しなかったのでしょう? 徳政は領主が自ら実践すれば領民には関係なかったのでしょうか?
[276] 東アジアではどこでも原則的に新年の暦は旧年の末頃に配られました。 中世日本の地方の暦、とくに三島暦がいつ配られたのか実態はよくわかっていませんが、 切り替えで途切れず使えるよう、新年になる前に配られるのが原則と考えていいのではないでしょうか。 王代記大永5年の事件も、新年になる前に新年の暦が出来てきたから特例で12月31日を設けるという判断ができたのです。 なので天文9年の年初に天文9年の暦が配られた (>>214) という仮説はまったくおかしいのです。

[265] 王代記にあるのは命禄と「する」 (刷る?) ということだけです。 これはいろいろな解釈の余地があります。

[275] いずれにしても他の年に書かないこの記事を書くような、何らかの特殊性が筆者には感じられたということです。

武田信虎

[205] 武田信虎の用例が残っています。 戦国武将私年号用例は珍しいです。

[201] 津金文書 武田信虎朱印状 (信濃史料 第十一巻, p.153) 「命禄元年 八月二日>>251, >>258, >>594

[231] これら (>>229 >>201 >>230) の命禄元年は天文9年庚子とされます。 >>258, >>594

がその判定の理由のようです。

[235] 勝俣鎮夫は、 三島神社が (>>209) 天文9年7月に天文から命禄改元し、 武田信虎は徳政的政策の一環として即座に採用したと考えました。 >>258 7月改元とするのは武田信虎文書が根拠でしょうか。 なぜ「7月」「即座」と推測できるのか理由は不明です。

[260] 渡部恵美子は、 天文9年7月4日と命禄元年7月10日がわずか6日差で、 この6日の間に命禄が伝わったのか、 それとも公年号私年号を意識的に選択したのか、 と疑問を示しました。 >>594

[261] これは不思議な疑問点です。 公年号私年号の利用期間が重なっているなら使い分けの疑問は当然生じてきますが、 武田信虎文書では綺麗に分かれています。 ならばその間に切り替えがあったと考えるのが自然です。 にも関わらず、6日間に改元を知った説を否定する材料を何も提出せずに意識的に選択した説を取るのでは、 結論ありきと批判されても致し方ありません。

[232] 渡部恵美子は、 11月27日文書は寺社向けなので寺社に近づくために私年号を使ったものとし、 他の2つは直接支配下の地域ではないので効果は疑問であり、 支配したいという希望、願望を託して呪術的に私年号を使ったとしました。 >>594

[262] これもかなり強引に自説に寄せた解釈と言わざるを得ません。 それならば3通とも「私年号を使用中だった寺社や民衆に媚びるため」 という共通の理由で私年号を使ったというほうがまだ説得力が感じられます。 支配下になかったとするのも論拠がほとんど示されておらず、 むしろこれらの文書を使って当時の勢力図を分析するべきところではないでしょうか。

[263] 甲斐国王代記には記述がありますが (>>196)、 勝山記にはなぜかこの私年号には何の言及もありません。

[264] 同時期の武田氏配下の武将や甲斐および周辺地域の住民の公年号私年号の利用状況・分布と統治状況を比べた分析があれば、 武田信虎私年号の関係性が見えてきそうなものですが、 なぜか研究者らはそこには手を付けていません。

[397] 長野県史 通史編 第3巻 (中世 2), 長野県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540808/1/182 (要登録)

白黒写真あり 一応字形がほぼわかる程度の画質

天禄

[72] https://www.lib.pref.yamanashi.jp/kosyu/kyozai/xls/sitei.xls

令禄

[30] 行方不明 私年号 令禄 二年の板碑 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市 (真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市著, ) https://www.ensenji.or.jp/blog/9282/

美禄

[382] 一茶の種々相, 川島つゆ, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1170305/1/82 (要登録)

[390] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/9 (要登録)

[385] 一茶の研究, 藤本実也, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1170314/1/109

[379] 都立中央図書館: 年号迷路, 2005年5月28日 (土), http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_b72c.html

北野浩之「一茶が残した謎の年号『美禄』考」『野田市史研究13号』

小林一茶の『七番日記』に見える『美禄』年号について。一茶の日記の漢字遣いは

適当で、美禄は弥勒である、との考察。『松屋叢記』での裏付もあり、説得力あり。

[378] 小林一茶足跡の地|野田市ホームページ () http://www.city.noda.chiba.jp/shisei/profile/bunkazai/meisho/1000792.html

一茶の句日記である『七番日記』には、「目吹村エンマ堂ニ美禄二年(私年号の一つか)ノ石塔掘出セルヨシ 今日参ル二 美禄矢デ無之多ク文明明応年間ノモノノミ以之准之美禄モ享禄ナラン」と記されています。

目吹村のエンマ堂で、美禄2年の石塔が掘り出されたと聞いて訊ねてきたが、美禄のものではなくて享禄のものではなかったのか、という内容です。

ただ、「美禄二年」は「弥勒二年」という私年号の当て字との見方もあり、この場合は、永正4年(1507)ころと考えられています。

[381] 野田巡り:観音院のマリア観音・小林一茶・愛宕神社と「かごめかごめ」 | はろはろはうすの<何を食べようか>, https://ameblo.jp/haroharohause/entry-12616507539.html

[391] 国史大図鑑 第2巻, 国史大図鑑編輯所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1120264/1/80 (要登録)

[392] >>391 これは「嘉禄」の草書なのだがOCRでは「美禄」と誤読される。 なるほど「嘉禄」誤読説が唱えられる理由が納得されるのである。

ミロク10年辰の年 (宝暦10年辰)

[57] 33_KJ00002403720.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/minkennewseries/33/1/33_KJ00002403720/_pdf/-char/ja#page=5

[59] 明治国家の展開と民衆生活 : 和歌森太郎先生還暦記念, 和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12228250/1/231 (要登録)

[58] http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=7557 #page=4

未録十年辰年

[119] 関連: 福徳

三河万歳

[362] 三河万歳 (小坂井万歳) の歌詞に 「 () (ろく) 十年 (たつ) の年」 の一節が伝えられています。 >>360 /321

[363] また、 同じ地域の農作業の唱歌にも 「弥勒十年辰の年」 の一節がありました。 >>360 /320, >>360 /317

[364] 農作業のものは昭和27年に愛知県教育委員会主催で日本国愛知県名古屋市で古典芸能発表会が催された時から、 「昭和何年何の歳」 と改められました。 >>360 /320, >>360 /317

[365] 変更の理由は明らかではありませんが、よくわからない年を唱えるよりも当年の方がいいとなったのでしょうか。 弥勒信仰の衰えが感じられます。

[366] 三河吉野朝説に使われています (>>357)。

弥勒千年

[285] 沖縄游記, 高藤武馬, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9770445/1/85 (要登録)

[288] >>285 歌に「弥勒千年」と詠み込んでいる。自身による解説によれば、 弥勒信仰に基づくもので紀年法として具体的な年を指すものではなさそうだが、 私年号弥勒にも言及があってそれを意識しつつ使っている模様。

三河吉野朝弥勒改元説

[348] 三河吉野朝説は、 南朝朝廷日本三河国に所在していたとする独創的な説です。 昭和時代初期に提唱され現在まで一部で信仰が続いているようです。 信頼できる史料に根拠はありません。

[349] 三河吉野朝説では、南朝の元号の1つを弥勒としています。

[354] 三河吉野朝説によると興国天皇の次代が兄弟小室門院元子内親王で、 三河弥勒改元したことがそれを伝えていると思われるそうです。 >>351

[355] 興国天皇三河吉野朝説において白鹿元号を使ったとされる北陸朝廷天皇で、 南朝の正統に属します。

[356] 弥勒振り仮名が「みくろ」とされますが >>351、 同じ本の他の箇所で「みろく」ともあり >>351 /18、 「みくろ」は誤植でしょうか。

[358]三河の年号」の弥勒元年はとされます。 >>351 /18

[357] 日本三河国望理郷で奉納された萬歳の歌詞に 「弥勒十年辰の年」云々とあるのを小坂井町から引いて、 「三河に弥勒の年号が残されて」 いるとしています。 >>351 (>>367小坂井町誌塩尻を参照している。)

[361] このあたりの三河吉野朝説のストーリーのどこまでが元々の伝承の流用でどこからが独自説なのかはよくわかりませんが、 三河万歳に「弥勒十年辰の年」云々の歌詞があって 小坂井町 に掲載されている >>360 /321 のは確かです (>>362)。 それを三河独自の公年号とするのはもちろん独自説です。

[369] 三河吉野朝説ではこれが三河万歳の起源だとされます。 >>367

[368] 三河吉野朝は天授5年9月に崩壊したとされます。 >>367 弥勒もそれまで使われた想定でしょうか。

[352] 現在確認されている中では昭和時代後期頃に弥勒の説が登場する >>351 のが最初です。 それ以前から三河万歳への言及はあったものの >>350元号に関連付けられてはいませんでした。

[353] 弥勒三河吉野朝元号とする説は昭和時代後期頃になって新たに付け足されたものなのでしょうか。 なお白鹿天靖はより早い時期から三河吉野朝説に取り込まれていました。

[359] 三河吉野朝説では南朝は正副 (正偽) の2統に分裂し、 正統は北陸朝廷三河吉野朝などを経て三浦天皇に連なるとされています。 北陸の元号である白鹿を使った北陸朝廷をモデルに三河の元号である弥勒を使った三河吉野朝の構図が生み出されたのでしょうか。

[371] 令和時代三河吉野朝信仰者は寛成親王 (史実では長慶天皇) が三河吉野朝即位したのが = 弥勒元年としており (通説では)、 昭和の頃の説とも少し変わっています。 >>370, >>373

[374] また、 日本国静岡県静岡市葵区弥勒が 「東海の女王・小松媛元子天皇(内親王)」 に関係するとしています。 >>373

[375] よくわからないのですが、弥勒長慶天皇元号という設定に変わっても、 弥勒が表すのは内親王ということには変わりないようです。

[376] なお、江戸時代から明治時代にかけて弥勒後南朝元号とする説もありました (>>302) が、 両説には関係がないようです。 三河吉野朝説は三河以外の弥勒私年号用例を関知していないようにみえます。

[370] 南朝正統皇位継承論7-三河吉野朝の伝説3(寛成親王降誕)|鈴木超世志, 鈴木超世志, 2020年10月8日 07:27, https://note.com/quanro/n/n634257660ed6

正平23(1368)年3月11日、後村上天皇崩御の後、寛成親王は吉野朝第98代の天皇に即位されました(27才)。

藤原石山氏は三河で降誕した親王が即位される事が決まった正平22(1367)年、三河では国を挙げて祝賀し、北陸朝廷の皇位継承者・小室門院元子内親王を迎え、天照太神の再現と考え、弥勒菩薩の出現と尊崇して、この年を弥勒元年と称したと述べています。

藤原石山氏は小室門院を尊良親王の皇女としていますが、三浦芳聖は守永親王(興国天皇)の皇女と述べています。

藤原石山氏の考察と、上記の記事から考察すると、寛成親王が即位されたのは、正平22(1367)弥勒元年であった可能性があります。国を挙げてお祝いしたという状況から、その様に考える方が合理的です。

また、小室門院元子内親王を三河にお迎えした時期については、興良親王が虜われの身となった文中2年(1373年)以後、あるいは興良親王が崩御された天授元年(1375年)以後と考える方が合理的です。

[372] 南朝正統皇位継承論9-三河吉野朝の伝説5(三河吉野朝の崩壊)|鈴木超世志, 鈴木超世志, 2020年10月13日 13:50, https://note.com/quanro/n/n9be7518c699f

天授2(1376)年、三河吉野朝の仙洞御所・王田殿の建立に当り、その目出度い柱建に萬歳が奉納され、その時の歌詞に

「弥勒の十年辰の年、諸神の建てたる御家(オヤカタ)は風が吹いても祟る風(邪魔風)はないという」とあり、三河吉野朝の黄金時代を謳歌したのもつかの間

興国1(1340)三河建都を計画「興国」と改元。以後、後村上天皇は北畠親房に奉じられて三河多賀の里(相良町)に行在(吉野朝の研究)

興国3(1342)壬午年8月13日、寛成親王、三河に於いて降誕(青木文献)

正平2(1347)年、寛成親王、吉野へ上る(青木文献)6才

正平22(1367)年、弥勒元年(藤原石山)。この年に寛成親王は三河吉野朝の天皇に践祚したと思われる。26才

[373] 💟妙覚塚 皇陵説 立証!新串呂解明9-〽天母山と⛩天母妙覚之大神との神風串呂|鈴木超世志, 鈴木超世志, 2024年1月30日 08:58, https://note.com/quanro/n/nbb3b42662a09

静岡県静岡市葵区弥勒

弥勒」とありますのは、東海の女王・小松媛元子天皇(内親王)は、三河に行在時に「弥勒さま」と尊崇されたという伝承を立証する地文です。

この件についての参考資料は『三河吉野朝廷は、正平22年(1367年)、「弥勒元年」に改元した』という藤原石山先生の研究があります。

この正平22年(1367年)の「弥勒元年」は、長慶天皇が三河吉野朝で践祚 (せんそ) した年で、正平から弥勒に改元したことが分かります。

弥勒への言及と研究

[302] 後南朝 日本南北朝時代の元号

[137] 日本随筆大成 巻七, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914165/1/147 (要登録)

[2192] 川柳獅子頭 3(3), 獅子頭発行所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1511890/1/13 (要登録)

[2193] >>2192 福徳弥勒不時の正月の一種だったとする説。

[26] >>289 が自身の 「「私年号弥勒元丁卯に関する考察」栃木県考古学会大会発表・一九六 」 を引いています。

[103] この学会発表の資料は見つかりません。口頭発表のみかもしれません。

[107] に雑誌中今 第一号が発行されており、 そこに 私年号「弥勒元丁卯」に関する一考察, 浅沼徳久が収録されています。 >>105 いくつかの図書館に所蔵されています。 >>104, >>106 ほか

[108] この雑誌には

p27 私年号:弥勒元丁卯:に関する一考察(浅沼徳久) p36 巻末に私年号「弥勒」分布関係略地図1枚

が含まれるそうです。 >>106

[109] この雑誌は「浅沼方「中今」同人発行>>105、 出版者「「中今」同人」 >>104、 出版者「中今同人」 >>106 とされており、 浅沼徳久が主宰する同人誌と思われます。

[110] 論文中「筆者が史学同人誌に発表した」と記載がある >>289 ものもこれを指すと推測されます。


[98] 千々和到は、 弥勒元年と弥勒2年があるものの、 実際には永正4年にしか使われておらず、 妙法寺記でも翌年永正5年に公年号に戻っていることに着目しました。 >>97 中世私年号, 福徳, 勝山記

[99] 弥勒の最大の特徴は他の多くの私年号のように公年号と1文字違いではないことです。 >>97

[100] 公年号と無関係に弥勒信仰に結びついて出現したと考えられます。 >>97

[101] 宮田登は発生と伝播の背景に鹿島信仰を想定しました。 >>97 (ミロク信仰の研究)

[71] 陽光子の統一真光BBS, https://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=mahikari

その頃、加藤郁乎氏が昭和52年6月号(177号)の崇教真光誌に「天地人語」という題名のエッセイを連載されていました。この号の小見出しは『「弥勒」私年号の謎』というものでした。内容は永正という後柏原天皇時代の年号がありながらその永正3年(1503年)を彌勒元年として全国的に民衆は私年号を唱えたと南方熊楠や柳田国男が言っている。諸説は何故「彌勒」などという私年号が産まれたかはよくわからないが、大衆が彌勒下生を渇望したからではないだろうかというような内容だった。その時は何となく読み過ごしました。その1ヶ月後、組み手の友人から「地球ロマン」という雑誌を頂きました。

その編集長は八幡書店の若き日の武田崇元社長でその中に窪田志一先生の本邦初公開の不世出の大英雄である「岩屋梓梁」に関する論文があったのです。彌勒私年号の事も2月3日の豆まきの事の一切が氷解しました。天文2年2月2日に岩屋梓梁は時の後奈良天皇の皇太子殿下の尊仁(たかひと)親王以下16人を伴って天皇にも無断で突如二年半にわたる北州行(ほくしゅうこう)を敢行、東北方面に出発した。これが後年、翌2月3日が徳川氏によって梓梁抹殺の鬼遣らいの豆まきになった。岩屋梓梁は鬼とも愛称されていたので、東北へ正神を鬼として追放した、人類共通の大罪とはここからきているのかと合点しました。私は何か手の舞い足の踏む所を知らずという興奮に襲われました。

織豊、徳川、明治、昭和、平成の500年に及ぶ梓梁抹殺は我々の歴史迷信を助長し、今でも正神追放の大罪を実行しておるのでしょう。

[73] 日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神):神秘主義思想史:SSブログ, , https://morfo.blog.ss-blog.jp/2021-03-24

戦国時代から安土桃山時代にかけて、関東を中心に「弥勒」の私年号が使われたり、鹿島を中心に「弥勒踊り」、「弥勒の船」などを特徴とする弥勒信仰が広がりました。

これらは、渡来した中国人を介して中国で広まった明朝時代の「白蓮教」が影響を与えた可能性がありますが、はっきりした証拠はありません。

戦国時代に、関東・中部の各地で、地方の土豪などによる私年号として、「弥勒」、「命禄」が作られました。 それらの年号は、1506-1508年の間と、1540-1542年の間に最も多く作られました。

弥勒の私年号を使うということは、おそらく「弥勒の世」が始まったという信仰の表現でしょう。

みろく

永正4年

命録 (みょうろく)

一覧表では、本文と台詞のほとんどは、台詞の一部で

干支から天文9年

[278] 島根国語国文 (5), 島根県立島根女子短期大学国語国文会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7968082/1/11 (要登録)

[347] 日本史辞典, 京都大学文学部国史研究室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3020238/1/405 (要登録) 右

彌勒、別名に命祿、永正3年から3年間

[346] 日本歴史大辞典 第9巻 (さかーしは), 河出書房新社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998379/1/169 (要登録) 右上

弥勒、命禄とも永正3年から永正5年

[377] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/9 (要登録)

弥勒 (美禄) 元年 = 永正3年

関連

[4]弥勒」 はスピリチュアル系の新興宗教を始め、 素材として人気があるようです。

[5] WebSNS で検索すると、 「○年は弥勒元年になる」 といった類の投稿が大量に見つかります。 本項の弥勒とは無関係です。

[3] 本項の弥勒とは無関係の弥勒私年号がいくつかあります: 弥勒 (平等大慧会)弥勒 (空の真法)


[68] 金石文に残るのは中世東国だけ、でも民俗学的にはもっと西、もっと後の時代まで続いている、 というのは福徳と似た分布です。関係性はどうなのでしょう。

メモ

[7] 十二支考 鶏に関する伝説(その16):南方熊楠の随筆, , https://www.minakatella.net/letters/12tori16.html

[8] 日本経済大学リポジトリ, https://jue.repo.nii.ac.jp/records/1500 #page=13

[2] 日本年号史大事典 普及版 p.583

[11] 2-3syou.pdf, , https://www.city.omura.nagasaki.jp/bunka/kyoiku/shishi/omurashishi/dai2kan/documents/2-3syou.pdf#page=322

[14] oht_guidebook.pdf, , http://www.roadout.com/furusato/documents/2006/oht_guidebook.pdf#page=100


[15] 柳田国男 海上の道, , https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54331_53583.html#midashi880

[94] 柳田国男全集: 明治44年‐大正4年 - 柳田國男 - Google ブックス, 1999, https://books.google.co.jp/books?id=TkM0AQAAIAAJ&q=%22%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E2%80%9D

5 ページ

咲き出した 世の中はまんど末代/みろくの船がつづいたぞ」と謡は始そのあと沖縄 の友人から、次のような琉歌があることも聞まるのだが、応仁の乱後、世が乱れ 庶民は生き難かった時代いた。に、「弥勒二年」という私年号が 広く東国の各地に使用されていたことを、柳田が実証しているのには驚いた。 ... なるのであった。あるときは、あらっ、やっぱり調べていそして何だか最近、「 みろく」が出てくる歌を耳にしたよ現が妙に心を捕らえ、やはり詩人だ、と一人 頷いてしまう。いえば、秩父事件のときの「自由自治元年」しか知らなかっ.

[56] 関連: 日本の私年号


[18] 能登志徴 : 森田平次遺稿 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/169

[19] 刀剣史料 (46), 南人社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/8099939/1/8 (要登録)

平安時代1回、室町時代に2回使われた私年号

[20] 刀剣と歴史 (431), 日本刀剣保存会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/21 (要登録)

関東の偽年号、私年号

永正3年 関東・甲信の大飢饉 → 弥勒(命禄)、翌年大豊作で2年まで

享禄4年 会津 弥勒

天文9年 関東 弥勒

三河万才の唄 「弥勒十年、諸神の建てたる御屋形」は関東の偽年号、 しかし10年も続いたことはないので庚辰年庚辰月庚辰日のある年という解釈も。

[21] 日本歴史論究 : 遺物遺習資料と歴史研究 昭史会三十周年記念論文集, 東京教育大学昭史会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2972384/1/99 (要登録)

[22] 益子歌集 : 風土と歴史と歌, 白木綿社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1347570/1/32 (要登録)

[23] 益子歌集 : 風土と歴史と歌, 白木綿社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1347570/1/88 (要登録)

[24] 小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/445 (要登録)

[25] 埼玉県史 第四巻, 埼玉県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3439275/1/309 (要登録)

[27] 浦和の歴史と文化を知る本, 青木義脩, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642619/1/94 (要登録)

[31] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
弥勒身禄永正3年・4年(1506年・1507年)3『旧録司代家文書』(『香取文書』)、『本土寺過去帳』、『妙法寺記』など多数
命禄-天文9年(1540年)3『本土寺過去帳』、『津金文書』など

[32] 歴史考古学 (27), 歴史考古学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7951475/1/35 (要登録)

[33] 宝蔵院(ほうぞういん)私年号(弥勒二年)板碑, , https://kawai24.sakura.ne.jp/saitama-urawahaku-sinengo.html

[35] 補陀落渡海史 - 根井浄 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=GaYJAQAAMAAJ&q=%E5%BC%A5%E5%8B%92

362 ページ

「中世・地蔵信仰のトポス(上) (下)」(『月刊百科』三五五・三五六号・平成四年)に六地蔵寺が若干ふれられてい宮田登「ミロク信仰の研究――新訂版――」第一章第三節「ミロク私年号の意味」参照。昭和五十年。( 0 )堤禎子「中世常陸における真言宗教団の展開 ...

747 ページ

というのは、恵範は『諸草心車鈔」第二に収められた「田野不動院玉幡供養文」を執筆した際に「弥勒二年三月六日」という年号月日を添えているのである。 弥勒二年は享禄四年から二十五年以前も隔たっているものの、それは一五〇六年または一五〇七年であり、「弥勒」はいうまでもなく私年号であることは歴然としている。図 4 私年号弥勒二年がみえる巡礼札(滋賀県石山寺蔵)私年号は異年号とも呼ばれ、天皇の ...

753 ページ

( 8 )五来重『葬と供養』葬具論「鍬」(東方出版・平成四年)三二四頁。( 9 )小寺融吉「越後南部の山村」(「郷土研究」第 5 巻第 1 号) ( 10 )註( 8 )・三二六頁。( 1 )「六地蔵寺善本叢刊』別巻・四八頁。( 2 )久保常春「日本私年号の研究」(吉川弘文館・ ...

[36] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/20 (要登録)

[37] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/46 (要登録)

[38] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/159 (要登録)

[39] 源光寺(げんこうじ)の帰依(きえ)仏塔(ぶっとう) - 33shinengoudaimokuitabi.pdf, , http://www.town.matsubushi.saitama.jp/www/contents/1296690628507/files/33shinengoudaimokuitabi.pdf

[40] 甲斐武田氏 : その社会経済史的考察 第1分冊, なかざわしんきち, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537147/1/17 (要登録)

[41] 安土桃山時代の文化, 芳賀幸四郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2974137/1/49 (要登録)

[42] 史迹と美術 63(6)(636), 史迹美術同攷会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6067524/1/12 (要登録)

[43] 仏教考古学講座 第五卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82 (要登録)

[44] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/387 (要登録)

[45] 読史備要, 東京帝国大学史料編纂所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3430740/1/113 (要登録)

[46] Amazon.co.jp: 名分と命禄―上田秋成と同時代の人々 : 稲田 篤信: Japanese Books, https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831511269/wakaba1-22/

[47] 武蔵野 14(1), 武蔵野文化協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7932481/1/15 (要登録)

[48] 甲斐武田氏 : その社会経済史的考察 第5分冊, なかざわしんきち, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537151/1/21 (要登録)

[50] 久保常晴

[51] 千葉県史料 中世篇 香取文書, 千葉県史編纂審議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3450860/1/24 (要登録)

[53] 群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/447 (要登録)

[54] 群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/476 (要登録) 左

[55] 大津市歴史博物館活動報告|常設展示資料(抄)(H19.3~) - jousetu_list02.pdf, , https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/museum/nenpou/plan2/jousetu_list02.pdf#page=11

[60] 一茶発句全集(7), , http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku-07.htm

青柳弥勒十年の小家哉 七番日記 化12

[61] 寿柱立万歳 TXT, , http://hachisuke.my.coocan.jp/yukahon/hasiradate.html

「弥勒十年たってののち、ごしんのたてたる御家は、雨が降れども雨落ちせず、風が吹けどもたゞならで、ちいと吹いては世をはるかぜよ、こちらへ吹いては御万歳万歳楽まで祝うて千秋、繁盛と参り栄え給うは、コリヤ誠にめでとう候ひけるとはアヽ

[62] 箏曲「万歳」 Manzai - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=MxwOJ8fEYJ4

弥勒十年辰の年、諸人の建てたる御館にて、誠にめでたう候ひける、雨ンが降れども雨漏りせず、風ンが吹けども宝風

[63] Xユーザーの竹本 葵太夫さん: 「#歌舞伎竹本 ▼「十種香」022▼⇨その後、録音で3常磐津松尾太夫師の「乗合船」を拝聴したら、普段はあまり演奏されない(と思う)〽弥勒十年経ってののちよ…」のくだりを聴いたら涙がぼとぼとと溢れた。旋律が何か私の心に触れたのだか…これも何故だか解らない。⇨」 / X, , https://twitter.com/aoidayu/status/1357316441268097025

[64] お知らせ - 己斐のイトーピア, HIROSHIMA City, https://www.com-net2.city.hiroshima.jp/koihigashi2/?block_id=147&page_id=0&action=announcement_view_main_init&html_flag=1&nc_session=c44b8e97a74122baa64c7a2b5e90056b

己斐の「木遣り唄」③

柱万才(棟上げ式など、景気が良くなるように唄った)

まず十一本の柱をば 十一面観世音は 子宝を授かる守り神

まず十二本の柱をば 十二神祇は 十二ヶ月の一年中 悪魔をはらう守り神

残りし三十六本の柱をば きりりやしゃんと建てくらべ

弥勒十年 辰の年

古人の建てし家なれば 雨は降れども 雨漏りせず

お日は照れども 干割れせず

風が吹き込みゃ 宝風

[65] 言祝ぎ、予祝、幸運を売る人々 - 思考の部屋, https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c49c19c954467716ca6c77f50ded158e

上記の『催事百話』では次のように解説しています。

<幸運を売る人々>

今に見られる万歳は、万蔵と才蔵の二人一組となり、鼓をうちながら、家ぼめをして寿詞をのべたてるものである。一番有名なのが三河万歳で、愛知県碧海郡あたりを出身地とする。江戸時代に大きな勢力を持ち、江戸市民の間ではすっかりなじみとなった。江戸時代中期ごろに、三河万歳が唱える文句に「弥勒十年辰の年」というのがあった。これは災難多き年のあることを予言し、正月をやり直して幸運にきりかえることをすすめる内容で ある。

[66] 正月をやり直すとは取越正月のこと。

[67] 戦国ちょっと悪い話44, , http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470783230/525

鎌倉光明寺勅額裏年号之事

水戸御撰『鎌倉誌』の光明寺の条には、 寺宝の勅額二枚あり、一枚は後土御門帝の宸筆、”祈祷"であるという。 裏に福徳二年辛亥九月吉日とある。 祈祷堂の額である。福徳の年号は不審である。恐らくは誤って彫ったためであろうか。

善筑が言うには この頃〔後土御門の御時をいう〕は、どのような訳か東国では別に年の偽号があってこれを用いていた。 福徳はつまり東国の偽号で、その元年は正に延徳二年庚戌に当る。 なので福徳二年辛亥は、正しくは延徳三年辛亥で、後土御門天皇即位二十七年の年である。

さて、善筑の言ったことは偽りではない。善筑は何に拠ったのであろうか。 また水戸御撰はその頃にはまだ及ばない所があったのであろうか。

また偽号に弥勒というものがある。元年は丙寅で、永正三年丙寅とする。後柏原朝のときである。 また食禄というのもある。元年は庚子で、天文九年庚子とする。後平城朝のときである。 なので皆足利の権柄の間に、東方で偽号がつかわれた。

予はこれから思った。 世に「万歳!」と呼んで、三河の農夫が烏帽子素襖を着て舞うということがある。 歌詞に弥勒十年辰の歳とある。これはまさしく弥勒十年の偽号のことである。 しかし弥勒元年は永正三年丙寅で、十年は永正十二年乙亥である。 辰歳ではない。もしくは予が万歳の歌詞を誤聴したのであろうか。

(甲子夜話三篇)

[123] 武蔵野 14(1), 武蔵野文化協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7932481/1/15 (要登録)

[393] 日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神)|MORFO HUB, https://note.com/morfo/n/nd71a636a2a55

[394] みろく大祭|第一章 宣教の積極化|大本七十年史 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195402c5111