[32] 久宝 (y~1167, 当時の表記 久寳, 旧字体 久寶) は、 江戸時代の日本の私年号の1つです。
[33] 日本国石川県七尾市中挟町 (江戸時代は加賀藩領) の藤原四手緒神社の絵馬銘文で昭和40年代末に発見されたのが現在知られている唯一の用例です。
[38] 表と裏の日付は同筆なのだろうか? 各サイト・書籍の写真はどれも表面の銘文が判読できないのでなんともいえない。
[97] 表の銘文は絵師によって書かれたとされます。 >>6 根拠は不明。
[99] 裏の銘文は太郎兵衛によって書かれたとされます。 >>6 根拠は不明で、村役人の太郎兵衛の名前があるとしても、 実際に本人が書いたかまでは厳密には決め手に欠けます。
[158] 表と裏の日付の関係は必ずしも明確ではありませんし、 研究者らも解釈の理由を明言していませんが、 どちらも「午年三月吉日」は共通していることから、 同じ日を指していると判断しているものと思われます。
[100] 絵師は明記されておらず不明です。 藤原四手緒神社には中挟村の百姓の徳衛門 (徳島白雲) による「安政三歳辰八月十四日」銘の絵馬があり、 久宝絵馬も徳島白雲の作とする説があります >>6。
[66] 七尾の絵馬研究 は、 日本国の石川県立七尾商業高等学校の同好会である郷土研究会の研究報告です。 郷土研究会は前後に 「絵馬展」 を開催し、ガリ版刷の 七尾の絵馬研究 を発行しました。 発行部数が少ないため、 七尾近世史料研究会がその機関誌 七尾の地方史 に掲載出版しました。 >>65
[67] ガリ版刷のオリジナル 七尾の絵馬研究 は当時既に入手困難だったということで、 関係者のみにごく少部だけ配布されたものと思われます。 現在ウェブ検索、国立国会図書館検索、カーリルローカルの石川県の検索、 日本の古本屋の検索のいずれでも発見できません。 オリジナル版と 七尾の地方史 版との違いの有無は不明です。
[68] 石川県立七尾商業高等学校の郷土研究会は、 に十数名で発足しました。 顧問教員もおらず、 活動予算もなく苦労しながら、 七尾市史専門委員の田川捷一の助言により市内に残る絵馬を調査しました。 そんな状態では信用もなかったのでしょうか、 調査を断られたことも何度もあったそうです。 >>64
[70] 久宝の絵馬はこの研究会の調査で発見されました。 それが新聞に掲載され、 七尾市長の青木重治の激励の言葉と「御厚志」を得ました。 >>64
[71] この調査では500以上の史料が得られたものの、 なおも未見の絵馬が多数残るだろうとされています。 >>64 その中には未知の私年号資料も含まれるのでしょうか。
[73] 田川捷一は、 天保の大飢饉に直面して百姓が苦しんでおり、 宝が久しく続くという願いを込めた私年号を書いたのだと考えました。 >>64
[75] なお、この徳田地区では近世の絵馬が十数個、この神社だけでも数個が記録されていますが、 天保年間のものはこれ1つだけです。 近い時期だと文化、弘化のものが1つずつこの地区にはあります。 >>64
[62] の地元自治体史 七尾市史 は、 久宝を解説しています。 近世の担当者に田川捷一がおり、 この部分の執筆にも深く関わっていると推測されます。 次のように述べています。 >>9
[78] 本書は前後の章でも全般的に見てきたように断定的な筆致で歴史が描かれています。 といっても章によっては「であろうか」「思われる」と断定を避けているところもあるのですが、 絵馬についてはほとんど断定しています。
[141] しかしその断定の根拠となる史料はほとんど何も提示されていません。 絵馬の白黒写真と銘文の日付などごく一部があるのみで、 読者はどこからどこまでが史料的根拠を持つ史実で、 どこからが推測なのか検証することすら困難です。
[11] 「秘年号」という独自(?)用語はここ (>>136) 発祥? 「ひそかに」は永長の説にも出てきて、この時代の地方史研究者による私年号観あるあるなのかも。
[147] この「秘年号」という用語は七尾の絵馬研究時点 (>>66) では使われていませんが、 >>18 によるとには既にあったようです。
[18] 地方史研究 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=FCHSAAAAMAAJ&q=%22%E4%B9%85%E5%AE%9D%E5%85%83%E5%B9%B4%22
74 ページ
(会長・一志茂樹氏)は、さる昭和四四年秋に地方史研究全国大会を長野県松本市で開催したことがあったが、昨年末、発会四〇周年・会誌『信濃』四百号を達成、さらに発展を期して、次の通り第二回全国大会を開催することとなった。期日昭和四七年一〇月七~九日(三日間)場所松本市大手三丁目松本市厚生文化会館日程 1 七日(土)午後一時開会式一時半自由論題 ... 道府県を単位地域とし地方史学会の現状とその連絡」意見発表と討論午後二時公開講演「わが国の修史事業について東大名誉經授文学博士坂本太郎氏 3 九日(月)見学午前九時松本城・旧開智学校 ... 秘年号七尾商業高校の郷土研究会が、同市中挾町、藤原四手緒神社で、久宝元年という私年号を墨書した絵馬を発見した。裏面に小さく天保五年とある由。打続く不作に、何とか豊穣を願わずにいられなかった願いが込められており、秘年号と呼んだらよいという。 (七尾の地方史第七号より) | ◇中世館址保存とパイロット事業の変更栃木県黒羽町は、土地改良・農地施設専用地・集落整備など農村 ...
75 ページ
... 市史の編さん・栃木県史研究の頒布(奥田謙一)東京都立中央図書館と日比谷図書館・羽村町史研究終刊に、近畿民俗学会初の大会・神戸史学会十周年・日本郵便史学会の創立・信濃史学会主催の第二回地方史研究全国大会・伊丹市立博物館開く・秘年号・中世 ...
[19] >>18 、の記事のどれか。 論文ではなく雑報のページらしい。
[42] 2,4,6,8(,10)月発行のどれか?
[43] 『地方史研究』総目録 – 地方史研究協議会, http://chihoshi.jp/?page_id=89
*目録には、論文や研究ノート、問題提起などの各種論考とともに、動向記事や参加記、さらには会告や声明・要望書など当会の活動を示す内容のものを広く採録しましたが、地方史の窓、新刊案内、会員だより、各種小委員会報告等の小記事については除外しています。
[44] 肝心の部分が除外されておる、、、
12月に
1972年度大会報告
という記事があるが、たぶんこれではないだろう。
「地方史の窓」「会員だより」あたりが怪しい。
[46] 資料詳細:金沢市図書館, https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/winj/opac/switch-detail-iccap.do?bibid=1100533872
七尾の地方史 [8]
七尾の絵馬研究 七商 郷土研究会/編
[47] 資料詳細:金沢市図書館, https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/winj/opac/switch-detail-iccap.do?bibid=1100263768
七尾の地方史 [7]
御判印鑑帳 大林 昇太郎/著 続 明治十一年「扇風誌」抄 ―帰村中の日々― 多田 敦雄/著 菊理姫神社の伝記 武内 喜男/著 七尾港よりウラジオストック港へ視察団 松浦 作太郎/著 旧高等科鹿島小学校 松浦 作太郎/著 文化財めぐり(2) 田川 捷一/著 れきしあらかると(2) 田川 捷一/著 亡羊の嘆 大林 昇太郎/著 失われゆく歴史の資料 坂井 耕吉/著 風土記ケ丘建設に思う 山本 吉二/著 身辺雑話(六) 川尻 良一/著 九死に一生を得た私 堀 佐一/著 昭和四十六年七尾市年表 中川 寛/著
[48] >>18 が参照しているのは >>47 だが、どの記事だろう?
[160] 田川捷一の 文化財めぐり(2), れきしあらかると(2) あたりにもしかして、と念の為調べてみましたが、どちらにも言及はありませんでした。
[12] 以後、多くの地元の文献やいくつかの全国規模の書籍等で久宝が紹介されていますが、 それらの解説はこの七尾市史説 >>9 から直接または間接に派生したと思われます。 (中には尾びれ背びれを付け足しているものもあります。)
[24] 、 昭和時代の日本国石川県の歴史研究者浅香年木は北陸の歴史の解説書で、 「世直し」祈願の代表例として久宝を取り上げました。 次のように説明しました。 >>22
[145] 久宝を明治維新につながる世直しの動きの1つと位置付けたのはおそらくこれが初めてで、 独自の説ですが、史料的根拠は示されていません。
[53] の日本国石川県鹿島郡鹿島町 (平成の大合併により中能登町) の自治体史に久宝への言及があります。 >>52
[151] 加賀藩領内の豪農だった園田道閑は、 加賀藩内の検地を巡る対立でに処刑されましたが、 その後領民に義士と認識されるようになりました。 の百五十回忌では墓碑が建立されました。 >>152
[153] には、収納問題による暴動がありました。 3年後 (= ?) には、 能登部村市楽が道閑百五十回忌供養を行いました。 >>52
[155]
鹿島町史
は、
文化13年供養時に道閑の父の法号「久宝賢喜居士」も話題となり、
「久宝元年」私年号絵馬へ継承される
[144] の日本国石川県鳳至郡能都町 (現在の能登町) の自治体史に久宝への言及があります。 当該部分の執筆者ではありませんが、 担当者の1人に田川捷一がおり、 関係しているのかもしれません。 >>13
[146] 本書では「久しく宝がつづくように」と願った私年号だとしています。 >>13 七尾市史説 (>>137) と同趣旨ですが少し表現は違っています。
[56] の元朝日新聞記者の秋吉茂の著書 にっぽん歴史秘話 は、 全国の「埋もれた史実」を紹介しました。 >>5 その1つが久宝でした。 次のように書いていました。 >>8
[101] 付の能登地方を紹介した地元住民のウェブページで久宝の紹介がありました。 出典に七尾市史等が挙げられており、それらの見解を踏襲したものと思われます。 >>6
[102] それによると、 前年からの天保の大飢饉の惨状を目の当たりにした太郎兵衛が絵馬を奉納したのですが、 絵師は表に公年号の天保を書いたため、 飢餓脱却と豊作を切望する太郎兵衛は、 改元から不作続きの天保の公年号を忌避し、 裏面に力強く久宝を墨書しました。 久宝は村人たちと思案の末に考えついた私年号でした。 凶作が飢餓となり行き届かない政治への不満から、 ご法度に背いて秘かに私年号を建てて言霊に飢餓脱却と豊作を託したのであり、 世直しへの希求なのでした。 >>6
[90] 平成時代中期と推測される地元地縁団体の広報誌 広報とくだ 第329号で久宝の紹介がありました。 私年号はご法度なので目につかない裏に書いたとする説を書いています。 >>1 (なぜそんなことをしたのかは解説されていません。)
[88] には日本国の石川県立歴史博物館が 源平合戦と北陸 義経伝説を育んだふるさと という書籍を出版しました。これは同年のNHK大河ドラマの放映に因んだとされています。 >>87 久宝についての記事もあります >>3。
[89] からの平成17年度夏季特別展の図録とのことで、展示もあったのかもしれません。
[35] 参照されているのは平成11年に七尾市が発行した図説 七尾の歴史と文化。 その後制作された図説 七尾の歴史が現在も販売中らしいが、 こちらに掲載されているかは不明。
[27] には石川県立歴史博物館の戸澗幹夫が広報誌の絵馬特集の冒頭で久宝を紹介しています >>7。
[96] 戸澗幹夫は、 前年からの天保の大飢饉の惨状を目の当たりにした村役人の太郎兵衛が、 3月の春祭りに際して、 ご法度に背くのも顧みず私年号を建てて絵馬に書き、 言霊に飢餓脱却、豊作の願いを託したものであると解説しました。 >>7 従来説をそのままなぞった解説です。
[108] に発行された日本国石川県七尾市周辺対象のフリーペーパーの集落紹介コラムでは、 「昔」の出来事の1つとして久宝を簡単に説明しています。 それによると、中挟地域は天保5年の凶作で勝手に私年号に改元して久宝として豊作を願ったとされています。 >>107 出典は示されていませんが、従来説からの要約でしょう。 令和改元直後の出版と関係するのかもしれませんが、 神社の紹介はあっても絵馬は紹介していないのに私年号に触れています。
[14] 角川日本地名大辞典: 石川県 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=nZnTAAAAMAAJ&q=%22%E4%B9%85%E5%AE%9D%E5%85%83%E5%B9%B4%22
644 ページ
神社は八田の分社といわれる藤原四手緒神社があり、天保 5 年の凶作の際に、豊作を願って「久宝元年」の私年号を用いた絵馬がある。明治 5 年石川県に所属。同 22 年徳田村の大字となる。近代中央明治 22 年~昭和 25 年の大字名。はじめ徳田村,昭和 14 年 ...
1079 ページ
集落は山麓に列状をなし,藤原四手緒神社には市文化財の「久宝元年」の私年号を記した天保絵馬がある。国道 1 59 号沿道に徳田小学校がある。にしふじはしまち西藤橋町〒926 〔世帯 221 〔人口〕 771 >市の中央部。市街地の南西部。一部田畑の残存する新興 ...
[15] 石川県の地名 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=PvIzAQAAIAAJ&q=%22%E4%B9%85%E5%AE%9D%E5%85%83%E5%B9%B4%22
829 ページ
天保五年(一八三四)の凶作の際農民が豊作を祈り、裏面に久宝元年の私年号石動山系の麓を走る内浦街道に沿う街村で、北東は下村。垣内に能登坂・沢出・上出・中町・橋浦・背戸町がある。中世飯川保の遺地で、オタチの遺称は同保を本貫地とした飯川氏の館跡 ...
[148] 平成時代前半の私年号研究では久宝は見落とされていて、 一覧表等にも掲載されていませんでした。
[149] 平成時代のウィキペディアの一覧表に掲載されました。 >>51
[150]
平成時代後期の日本国福岡県古賀市の資料 (
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 久宝 - 天保5年(1834年) 不明 石川県七尾市藤原四手緒神社蔵天保絵馬額
[49] まったく同時期に現在の福島県で宝明, 宝力が使われていました。 「宝」が共通するのは偶然では片付けられないでしょう。
[50] 時代は少し遡りますが、やはり福島県で宝久が使われました。
[36] 絵馬の裏側に書いたから秘密にしたかった秘年号なのだろう、と安易に結論づけるのは危険なような。 何かあったら簡単に裏返せてしまうのでは。 秘密なら裏だからと大書きにするのは考えもので、表の日付は小さく書いているのだから、 裏ももっと小さく書くのではなかろうか。 願主の名前は裏にしか書いていないらしいけど、 自分の名前を隠したかったということもあるまい?
[37] この絵馬は単独で発見されたのだろうか。天保の絵馬がたまたま1つだけ残っていて、 たまたま1つだけ私年号だったなんてことあるのだろうか。 そうだとしたら偶然ではない可能性はなかろうか。 それとも私年号がないから特筆性がなく無視されているだけで、江戸時代の絵馬がたくさん見つかったのだろうか。 → 安政のもあるらしい (>>100)。
[39] どのサイト・書籍も想像力膨らませて独特のストーリー創りすぎじゃない? 書いた人が私年号の作者かどうかもわからないし、 他の村民が知ってたかどうかもわからないし、 秘密にしてたかどうかもわかりゃしない、 凶作と関係してるかなんてどこにも書かれていないのに。
[156] 私年号研究者による全国的な視野での研究対象になっておらず、 中世私年号しか知られていなかった時代の古い通説をベースに推測を推測を重ねたストーリーが語られ続けているのは、 ちょっと物足りないですよね。
[157] 高校生による発見の当時は、近世私年号というものがほとんど何も知られていなかったので、 今から見ると古くて不十分な説になっちゃうのは仕方ないのですけどね。 その最先端の新発見をその後活かせずにずっと埋もれたままになっているのは本当にもったいない。 歴史研究にも観光にももっと活用できそうなものなのに。