迎雲

迎雲

[25] 迎雲 (旧字体: 迎󠄃雲) は、日本の私年号の1つです。

元号名

[74] 元号名迎雲です。旧字体迎󠄃雲と表記されることもあります。

[73] 読みは「げいうん」とされます。 >>82, >>86, >>373, >>71, >>214

[89] 「ぎょううん」 (歴史的仮名遣: 「ぎやううん」) とする辞書もあります。 >>4

用例

日時事例

[22] 原本の現在の所在は不明ですが、法隆寺に所蔵され続けていると推測されます。

[75] Web 上で画像データとして閲覧できるものは見当たりません。

[21] 東京大学史料編纂所のデータベースによると史料編纂所に写真帳と影写本が所蔵されているようです。 >>14 画像データもあるようですが、なぜか非公開とされています。

[59] 「伽羅陀山寺」 が具体的にどの寺院を指すのかはよくわかりません。 「伽羅陀山」 と呼ばれる山は日本全国にいくつかあり、寺院が所在する(した)形跡も見られますが、 そのいずれかが該当するのかは検討を要します。

[76] 内容は「地藏請文」とある通り、宗教的儀式に関係するものです。 元号の「迎雲」はあくまで日付の表記に使われているに過ぎず、 内容との特段の関係性は窺えません。

[77] 多段の伝播 (>>29) が繰り返されたものであることには注意が必要です。

[116] 媒体の性質や書風などは不明です。「迎雲」という翻刻の妥当性も評価不能です。

諸説

[106] 迎雲の発生機序については、二説が提出されています。

[109] 他に、私年号の一般論として、次の諸説も検討するべきと考えられます。

[115] 用例が1つのため、単純な誤記の可能性は否定できません。しかし、「迎雲」 と誤記ないし誤読され得る他の公年号は見当たりません。また、 外国の元号やその誤記の可能性も、文脈上ほぼないと言って良いでしょう。 元号では無い物の誤認の可能性も、文脈上考えにくいでしょう。 従って単純誤記説は成立しがたいといえます。

[113] 改元デマの可能性については、肯定する材料も否定する材料もなく、評価が困難です。

[117] 唯一の用例が原文ではなく転写であるため、偽文書の疑いもかけられないことはありません。 ただ、内容は願文であり、偽造の動機を感じられません。


[118] いつを表すかについて、似て異なる多くの説があります。

[128] >>119日本私年号の研究の前まで長らく通説となっていましたが、 その根拠を明記したものは見当たりません。文書中に正治元年の日付があるというだけだとすれば、 あまりに脆弱です。あるいは大日本史料が正治元年の部に収録した (>>13) ことを、 迎雲元年の比定年と誤解したのが最初のきっかけかもしれません。

[121] α説の日本私年号の研究は、正治元年説について、用例文書の記述内容 (>>28) および動機となる事件の不在 (>>53) を根拠に否定しました。

[126] 日本私年号の研究は、 >>124 および >>122 >>123 >>125 >>127 の諸説を混在させています。 このうち、 >>125 >>127 は誤植に過ぎないと思われます (>>56)。 また、誤植を除けば >>122 >>123 >>125 >>127 は表現上の違いに過ぎません。 この他、 >>133 >>134日本私年号の研究が候補案として提示したもので、 >>123 >>122 >>125 の範囲には含まれるものの、断定的には選ばれていません。

[145] >>124 >>140 >>141 >>142 >>143 >>144 は、 日本私年号の研究説の曖昧(不確実)性が異なる形で切り取られた結果と思われます (>>39 >>70)。いずれも独自の根拠を示しておらず、積極的に支持するべき材料を見出し得ません。

[135] 建久元年系統の説 (>>122 >>123 >>125 >>127) は、用例文書の記述内容から導出されたものです。 用例文書の文言をそのまま信用して構わないのであれば、 >>122 が諸説の中で最も正確といえます。

[136] >>134福原行幸、 >>133壇ノ浦の戦いの後の三種の神器の京都帰還を根拠とする説です。 いずれも元号名からの想像であり、物証に欠けます。

[139] >>138元号名からの想像であり、物証に欠けます。しかも用例文書の主張する時系列に矛盾します。

[147] いつ使われたかについて、α説、φ説の諸説はそれが表す年と同じと想定していると思われます。

[148] 偽文書偽造元号説を取るとすれば、 用例文書に出現するが候補となることでしょう。

[150] 継続期間については、1年とするものと不明とするものがあります。1年とするのは、 元年の用例があるというだけの理由と考えられ、これといった根拠は見られません。

[152] 材料が少なく終了の時期を推定するのは困難ですが、 建久元(1190)年12月21日の日付がありますから、 その時点で既に期間が終了していた可能性は高いといえます。

[149] 年内の時期については諸説沈黙しています。 唯一の用例は1月24日となっていますから、この日を含む前後のある程度の期間と考えるのが自然です。

[151] ただ、この用例は文書が書かれた日付の表記ではなく、願文を参照する記述の一部としての日付です。 この種の日付表記では遡及年号の利用も珍しくありません。すなわち、 同年中または後年になってから、遡って元年正月と表記した可能性を排除できず、 この場合は1月24日より後に使われた時期が始まることになります。

[153] なぜこの時期に使われたかについて、 α説は源平合戦あるいは平家政権の動向と関連付けています。 どちらかといえば比定年を先に限定し、その時期の大きな出来事を探し出したものであり、 肯定する材料も否定する材料も不足しています。


[154] 誰がどこで使ったかについて、 α説は

と主張し、β説は、

... と説明しています。

[158] このうち、 >>156 は用例文書の記載内容そのものであり、用例文書が真正な物であるなら、 すなわち事実と考えられます。また、 >>155 は用例文書が法隆寺文書として伝来することに基づくと考えられます。 ただし、伽羅陀山寺の比定、伽羅陀山寺の僧侶の人物像の特定、 伽羅陀山寺法隆寺との関係性は未解明の課題として残されています。

[160] >>157 は、元号名源頼朝の天下統一を祝福しているとの解釈によるものです。 推測を重ねたものであり、物証はありません。 伽羅陀山寺の僧侶や法隆寺源頼朝の当該時期における関係性について特に議論されているわけではありません。 (なお >>187 も参照。)

[161] >>159 は、元号名から推測を重ねたものであり、具体的にどの勢力の誰かの限定もなければ、 物証も皆無です。

[162] >>157>>159 のような真逆とも思える解釈を導き得ること自体が、 これらの説の根拠の薄弱さを物語っているともいえます。

[210] α説を提唱した久保常晴伽羅陀山寺とその僧侶の特定に取り組まなかったとは考えられませんが、 日本私年号の研究には何の記載もありません。 記載できる情報を何も発見できなかったと考えられます。 しかし、記述主体の特定という基礎的な課題が放置されたまま、 主体を「頼朝方」と断定するのは論理の飛躍と言わざるを得ません。

[167] 固有名詞に乏しい文書1点しか用例のない現状では、 利用した人物や組織を特定することも、利用された地域を限定することも困難です。

[169] 誰が考案したかについて、諸説は利用者当人またはそれに近しい人物の考案と想定しています。 これは他の用例の不存在を根拠とする暗黙の前提と考えられ、積極的な根拠があるわけではありません。

[170] なお、当該用例文書は迎雲元年請文云々と記述されたものを書き写したものであって、 「迎雲」紀年を最初に使った当人が用例文書の筆者であるかどうかは不明であることには注意が必要です。


[171] いつどのように伝播したかについて、諸説積極的には主張していません。 用例文書が1点と限られており、考案者と利用者が同一か異なるかも不明であるため、 説得力ある仮説を提示することは困難といえます。


[174] 元号名の意味については、

といった見解が示されています。

[188] 祥瑞説に対して日本私年号の研究は否定的で、 祥瑞記録の不存在や奈良時代との時間的距離を指摘しています (>>45 >>48)。 それでいて、それに由来する「和平」のニュアンスは肯定している (>>177) のは煮え切りません。

[190] 朝廷天皇の意味とする説は、 確かに考え得るものではありつつも、 積極的に支持する根拠を提示できていません。

[187] >>180 >>181 が帰還と推測するのは、 の字に由来するのでしょう。源頼朝方との解釈 (>>157) も、 京都にあって平家方からの奪還を「迎」え入れるという立場を踏まえたものかもしれません。 しかし京都源氏方で迎えるという >>180 >>181 説も、 南朝方で迎えるという >>179 説も、 これといった根拠は提示していません。どこで使われたか (>>154) との整合性が求められます。

[189] 仏教的な名称であえるとの指摘 (>>186) には具体性がありません。

[175] なおが使われた公年号の2例、すなわち慶雲神護景雲 (>>43) は、 「きょううん」あるいは「けいうん」と読み得るもので、 迎雲が遠くないことは注意を惹きます。 音の近さから直ちにこれらの関係、例えば誤記等に結び付けることは難しいにせよ、 無視できない近似性に思われます。

[172] 利用の意図について、

... と説明されています。

[195] 平和が到来したことを喜ぶ系統と、平和の到来を願う系統の2つがありますが、 後者は前者からの派生と思われ (>>83)、独自のこれといった根拠は示されていません。 前者説の不完全な要約というべきものでしょうか。

[196] α説の多くは、 京都源頼朝の視点からの平和の祝福を主張していることに注意が必要です。 ところが、それらは公年号と異なる私年号が使われるべき理由を説明できていません。 後白河法皇源頼朝の派閥に属するのであれば、その制定する公年号を使うのが自然であり、 そうでないとするなら合理的理由の提示が求められます。

[197] >>194 は、公年号を拒否する政治的態度を表明したものと説明しています (>>61)。しかし、これはどちらかといえば私年号全般をそうしたものだと理解して書かれた解説のようにも思われ、 具体的な根拠を示したものではありません。


[163] どのような形態で使われたかについて、諸説積極的には主張していません。

[164] 用例文書は宗教的儀式の文脈で使われています。従って、 何らかの宗教的意味を持って使われたと主張することも可能でしょう。 しかし、用例文書中で本文と元号名に特段の結び付きは見られず、 他に積極的に宗教的文脈に限定するべき理由も見当たりません。

[198] たまたま現存する用例が宗教的文脈のものであっただけで、 この元号自体は広く一般に使われたと主張することも可能です。 しかし、これを積極的に肯定する材料も否定する材料もありません。

[199] 伽羅陀山寺で(?)作られたものが法隆寺に伝来していることからみて、 少なくても法隆寺の僧侶らを含むコミュニティーに於いては、 これを特に秘密にするべきものとも見ていなかったと考えられます。

[202] 公年号との使い分けについても、諸説とも十分に説明できていません (>>196)。


[200] なぜ使われなくなったかについて、諸説積極的には主張していません。

[201] 平和祝福説に從うなら、十分に祝福できたから使用を止めたということになるのでしょうか。

研究史

[13] 大日本史料>>5 を収録しました。しかし迎雲に注釈等はなく、 私年号史料としての扱いではありません。 文書の最終的な書写日である正治元年の部への収録でした。 >>2

[12] 古事類苑は、逸󠄄年號の部に >>5 を収録しました。 >>1

[24] 国史大辞典は、 私年號の項に「迎󠄃雲」を収録しました。 正治元年に相当し、継続年数は不明としました。 >>26 出典は記載がありません。

[27] その後昭和時代に至るまで多くの辞典・年表類が迎雲を収録しました。 その大部分が正治元年に比定しています。 出典を法隆寺文書と明記するものもいくつかあります。 >>26, >>213, >>214

[68] 奈良県下の私年号を研究した田村吉永は、 昭和32年および昭和47年の論文で、 他の私年号と共に言及し、 いずれも法隆寺と関係することを指摘しました。 大和の私年号


[28] 久保常晴の昭和39年の論文および昭和42年の日本私年号の研究は、 >>5 を引用し、 >>27 の正治元年説を示しつつも、

... との見解を示しました。 >>114, >>23

[38] 昭和39年の論文では、「建久元乃至以前」にあたると結論付けています。 >>114

[80] しかしながら、昭和42年の日本私年号の研究では 「正治元乃至直前」にあたると結論付けています。 >>37

[39] 変更の理由は不明です。 より前もの「直前」 とはいえるのかもしれませんが、弱気を感じずにはいられません。

[40] 迎雲の解釈について、 日本私年号の研究および先行論文は、 次のように述べています。 >>114, >>37

[79] 日本私年号の研究は、次のようにも述べています。 >>114

[56] なお、では話が通じず、 の誤記/誤植と考えられます。

[81] 先行論文では「理由根拠」を「遷都?」と書いていますが、これは >>51 を有力説と見ていたものと思われます。 また、公家的名称か否かは「非」とし、仏教的色彩を指摘しています。 >>114

[207] こうした久保常晴説について、 Gemini

... と痛烈に批判します。

[257] 先行論文と日本私年号の研究の間にあたる昭和41年の論文で久保常晴は、

つぎの南北朝には南朝の旗色悪く孤立した状況の中で南朝の者が、雲即ち天子を迎えると云う意味の迎雲とか、

と説明しています。 >>258 ここでは迎雲南朝方の元号とされていますが、論文の本旨ではなく、 詳細な説明はありません。

[57] 「雲」を天子とする解釈は >>51 と共通しますが、 舞台が源平合戦ではなく南北朝時代となっています。

[58] 当論文以外には出現しない解釈であり、しかも詳細は不明ですが、 検討中の仮説ないし何らかの誤解によるものと考えておくのが良いでしょうか。

[78] なお、日本私年号の研究には翻刻文のみで写真は掲載されておらず、 久保常晴が実物を調査したかは不明です。


[85] のある一般書籍は、私年号の一覧を掲げており、 何らかの辞書類からの転記ではないかと思われますが、 迎雲「~」と記述しています。 >>84

[83] 昭和61年の元号事典は、私年号の部が基本的に日本私年号の研究の要点をまとめつつ、 一部独自の見解を示したものとなっているようです。 迎雲についても日本私年号の研究を踏まえているようですが、 に使われたと断定的に記述しています。 和勝と同様に和平を願う意味と考えられ、 「雲」は雲上 (くものうえ) で朝廷を意味すると断言しています。 >>82

[61] 平凡社改訂新版 世界大百科事典は、 迎雲源平騒乱の終結による平和を寿ぐ者が、 祝意を公年号を拒否する政治的態度で表明した私年号と解説しています。 >>373

[62] 出典の記載は無いものの基本的には日本私年号の研究の説に従ったものと思われますが、 断定的な説明となっており、しかもにあたるとまで断言しています。 >>373

[63] 平成時代には千々和到系の私年号の表に迎雲が掲載され普及しましたが、 この系統の各表の比定年代は

... と少しずつ違いがあります。 >>26

[70] いずれも独自の根拠を持った改変とは思われず、 日本私年号の研究説やそれ以前の説が転写によって違った形で切り出された結果と考えられます。

[90] 日本私年号の研究千々和到の表の普及後も、 と断定的に記述した辞書や一般書籍等は発行が続いています。 ウィキペディアもこれに当たり >>10、 初期から掲載されています >>211。 「法隆寺文書によれば正治元年に用いられた」 のような不適切な要約を掲載する辞典もあります >>4

[97] 平成30年に Twitter に投稿された記事で、 源平合戦の終結による平和を寿ぐものらしい、 「雲」は瑞雲、 と説明しているものがあります。 >>96 このアカウントはしばしば私年号に関する投稿を行っていることが確認でき、 何らかの情報源からの転載のように思われますが、詳細は不明です。 日本私年号の研究の説の系統のようにも思われますが、 「らしい」と曖昧にしつつも特定の解釈に限定的となっているほか、 正治元年説と断定していることが注目されます。


[72] 私年号の中では古いものの1つであり、私年号の代表例としていくつか挙げるときに拾われることがしばしばあります。 >>88, >>87, >>168, >>165


[91] 要するに日本私年号の研究以後、研究は停滞しており、ほとんど何も分かっていないに近い状態のままです。 転写を繰り返した不確実な情報がときに断定的な形で流動的に伝播しているのが現状といえます。

関連

[92] 前後の出来事 :

[191] 日本年号大観日本年号史大事典によると、 日本の公年号およびその候補でが使われたのは >>175 の2例だけであり、 が使われた例はありません。


和勝

メモ

[203] 以上を単純化すると、「迎雲」は以下のプロセスを経て「歴史」となったといえます。

  1. [204] 情報の亀裂: 12世紀末、情報の不明瞭な伝達経路の中で、「迎雲」と記された請文が作成される。
  2. [205] 学術的肉付け: 昭和の大家・久保常晴が、断片的なの字に 「源平合戦終結」という歴史的文脈を接合する。
  3. [206] 情報の洗浄: 事典類が学説から不確実性を剥ぎ取り (留保の剥奪)、 確定した事実としてカタログ化する。