清水

清保

[17] 清保は、 日本江戸時代後期から明治時代にかけて作られた偽文書で使われた、 中世頃を表す元号です。


[18] 現在知られているところでは、 日本国大阪府枚方市茄子作村端野家文書で使われた例のみが知られています。 他でこの元号が使われた用例も、 端野家の一族の外に文書が送付・流出された形跡も確認されていません。

[553] 端野家文書には、 近世の偽作と考えられるものが複数含まれました。 それら偽文書には怪しげな日時表示が多くありました。 「清保」の元号名もその1つでした。


[15] 端野家文書には 「清保一一年>>552 p.181 なる元号年が使われたものがありました。

[1] 端野名字遺書 の末尾に 「 (永正) (#5) (#5) 十一年 () (#5) 二月廿三日」 の日付がありました (己一二五)。 ■の2つ目は「保」の断片がありました。 本文に「建武元年」から「凡百九十余年」とありました。 >>552 pp.170-177

[3] また別の文書に 「清保十一年 丑二月廿三日」 とありました (己一九・一三〇)。 「清保十一年丑年」から「明暦三丑年」まで「凡百廿一年」で 「建武元」から「三百拾 ((ママ)) 」とありました。 >>552 p.173

[5] 端野彦兵衛家当主の賢浄 (-) が前者の文書を作成し、 同じく当主で賢浄浄玄が後者に筆写し、 端野伝兵衛家当主の端野熊吉 (-昭和) が前者の一部を抹消したと推測されています。 >>552 pp.170-177, p.220

[16] 端野氏遺書 には 「永正十一年 戌二月廿三日」 とありました (己一二七)。 端野熊吉が更に筆写したものと推測されています。 >>552 pp.214-215


[6] 端野家文書の他の文書に 「 ((保)) 十一年」 から寛政8年まで 「三百余年」 としたものがありました (己一二八)。 >>552 p.177

[14] 茄子作村に清水家があって当文書群内でも言及されています。 元号名の「清水」はそれに引きづられて誤ったものでしょうか。


[7] このように「清保」は

... とばらばらの時代を指していました。

[19] 当該時代前後の日本の公年号にも既知の私年号にも似たような元号名は存在していません。 他の元号名の誤記の可能性は低く、また文脈的に元号名でないものが混入した可能性も低そうです。 この架空の元号の利用が何に着想したもので、 如何なる意味付けをもって命名したものか不明です。

[20] 「保」は日本の元号でよく使われた文字でした。 「清」は日本で利用例がなく (未採用案にすら「永清」の1例のみ)東アジア全体でも数例しか使われませんでした。 この元号らしさがあるようなないような元号名は、 意図的に選ばれたのでしょうか。

[21] 元号の継続期間は短いことが多く、 11年という年数は珍しいです。 「清保」が作られた江戸時代には10年以上続く元号も一般的になっていましたが、 それ以前の元号の多くは数年程度で改元されていました。 元号の一覧表を見ながら偽史を創っていたのであろう著者は、 そのことに気づいていたはずです。 指定された年数の近くに11年より長く続いた 「永正」 が位置していたのも偶然ではないかもしれません。 しかし名前が似てもいないし干支も一致していないのは、 どういう意図があったのでしょうか。


[2] また端野家文書には、 「嘉吉元」 のように書いたものが複数ありました。 「嘉吉元」 と十干部分を破ったものもありました (乙一一一)。 >>552 pp.162-166

[554] とは十干が異なり、 しかも「丙酉」は干支にありません。 後にそれに気づいた端野熊吉が破いたと推測されています。 >>552 pp.162-166, pp.220-221


[13] 他にも延長年号年数年干支の不一致、 存在しない閏月、 年紀部分だけ虫食い風に焼かれた文書といった不審な点がこの文書群にありました。 紀年以外にも不審な点がありました。 >>552 pp.177-178

[4] これらは賢浄が偽造したものと考えられますが、 賢浄は実用目的でなかったため意図的に虚偽の日付表記を用いたと推測されています。 跡を継いだ浄玄はその意図を理解できず、 誤記とみなして修正した写しを作成したと考えられています。 端野熊吉賢浄浄玄の文書を利用して偽文書を作成する過程で虚偽の日付に気づいたとみられ、 気づく前にそのまま写したものと気づいた後に作ったものがみつかっています。 >>552 pp.178-178, pp.218-222


[22] 関連: 偽文書元号, 遡及年号偽造文書事件