[23] 日本で素性不明の永平 (y~4189) の用例が1例あります。
[24] 時点でこの供養塔は教性院にありました。 >>1 /728 前庭にあります。 >>1 /678
[25] 元は小谷山長寿院にあったものが教性院に移されました。 >>33, >>1 /728 長寿院は、
にあった寺で、 廃寺となってわずかに礎石 >>1 /678, >>1 /728 と池の跡 >>1 /678 が残っています。 >>1 /728
[26] 教性院 (38.071755,140.702887) のある大字小山田 (旧小山田村) の小字鴻の巣の南隣に小字五輪 (38.069462,140.705576) があります。 小字矢作はその北東側の地域です。
[41] 長寿院は明治7年頃に他の寺に統合されました。 >>1 /678
[27] この供養塔は高月桂公禅定尼の菩提を弔うと銘文にあります。 >>1 /728 何者かは不明です。 >>1 /678
[28] この供養塔の銘文等を記した
があり、 「永平五年十月十九日」 と記録されています。 >>34, >>32, >>44 はほぼ同文です。
[29] 時点でこの永平の元号も摩滅してほとんど解読できなくなっています。 >>1 /728
[30] 安永風土記書上げ は、永平は年代記にない元号だと書いていました。 >>1 /728
としていました。
[9] 様式や風化度合いで時代を絞れないか。
[10] 情報がなく現況不明
[46] 文化財指定などはされていなそうです。町史以後に考古学的調査がされたこともあるのかどうか。
[45] 現地に行けばまだそのままありそうな雰囲気ではありますが...
[4] 長寿院があったときに作られたとすると、 開山 慶長15年 と 安永風土記 の間。
[5] もっと前にあったものが移された可能性もあるが...
[47] 安永の時に記録に残したり、廃寺の際に移動したりしているからには、 他の一般の人の墓などとは違って一目を置かれていたのでしょうし、 元々それなりの身分なり由縁なりがあるものだったのでしょう。
[48] しかし安永の頃にはそれがどういうものかも説明できなくなっていたわけです。 風土記稿は勝手に書いたものではなく寺の人なり古老なりの聞き取りを経てまとめられたもののはずで、 誰もそこにあるという以上の有益な情報を持ち合わせていなかった、 それくらいの時が安永時点で既に経っていたという。
[7]
「
[8] 「寛」が磨滅していればあり得ないことではない?
[49] 昭和の頃 (>>29) に読めなくなっていたのが元号名だけなのか元号名を含めた紀年全体だったのか (あるいはもしかすると他の銘文もなのか) というのはいまいちわかりませんが...
[50] 近代 (>>33 >>42) もあるいは安永の頃の銘文記録があったから読めただけで読みにくくなっていた可能性はありますね。
[51] そしてもしかすると安永の頃にも既にいくらか読みづらくなっていて強引に読んだという可能性を考えておいたほうがいいでしょう。