[72] 慶喜 (y~609) は、 江戸時代の寛永年間に用いられた日本の私年号 (改元デマ) の1つです。
[382]
元号名は慶喜です。
喜
は草書に由来する異体字㐂
で慶㐂と翻刻されることもあります。
[381] 慶貴の用例が1つあります (>>90)。しかし写真などがなく詳細は不明です。 同音で字形も似ていて容易に混同され得たと考えられますが、 どの程度の広がりを持っていたのかなど、今後の検証が期待されます。
[383] 慶貴はラジオ番組で「けいき」と読まれた事例があります (>>90)。
[94]
>>1 >>105
の写真見ると草書の喜
(㐂
) は長
と字形が似ていますね。
元号名の元ネタは慶長そのものの可能性、あると思います。
から決定できます。
[409] 奥能登では、 1月初め頃から少なくても2月終わり頃まで使われました (>>122)。 農民や藩役人の用例が見つかっています。
[410] 静岡県下では、 少なくても2月初め頃に使われました >>117。 農民の用例が見つかっています。
[411] 薩摩藩では少なくても2月頃から3月頃まで、 おそらく1月頃から4月頃まで使われました。 藩役人の用例が見つかっていますが、 住民も含め広く使われていた可能性があります。 4月の中頃に江戸藩屋敷で発覚し5月の初め頃に鹿児島に連絡がありました (>>361, >>374)。
[412] これらより、 (= 慶喜元年) 末頃に改元情報が発生し、 年末年始に全国各地に伝播し、 (= 慶喜2年) の初めのうちにしばらく信じた地域があったと推測できます。 現在知られていない地域でも使われたことがあったかもしれません。
[47] 福井県下の短刀銘は「慶喜元年正月大吉日」で (>>227)、 唯一辻褄が合わない用例です。
[67] 改元は年中に行われるので、 「元年正月」 銘がリアルタイムで作られることはあまりありません (1月中に改元があり、1月中にそれが伝わった場合のみです)。
[413] 「正月大吉日」もそうであるように、刀剣銘は縁起を重視することがあり (>>286)、 月日単位の正確性はさほど重要とは思われません。 慶喜への改元(というデマ)を知ったのがいつであれ、 遡って「元年正月大吉日」とめでたそうな表記を選ぶのは、 ありそうなことです。
[414] あるいは年末年始をまたいで改元情報が伝わったため、 新年 (= 慶喜2年) を「慶喜元年」 とする説が一部で行われた可能性もあります。
[71] このの年始という時期に改元デマが広まったのは、 火のない所に煙は立たぬ、まったくの出鱈目ともいえません。
[70] 後光明天皇は、 寛永20(1643)年10月3日に践祚、 寛永20(1643)年10月21日に即位礼がありました。 そして寛永21(1644)年12月16日に正保改元がありました。 改元デマはちょうどこれらの間です。
[69] この間改元に向けた具体的な動きはありませんでした (>>367)。 先代の明正天皇は代始改元がなく、 3代にわたって寛永が20年以上も続くことになっていました。 これは前例がないと朝廷から要求があって結局改元が決まったのがの後半でした。
[424] 中世東国私年号は「改元のあるべきところにない」とき改元デマとして発生することが指摘されています。 慶喜も、「代始改元があるべきなのにない」状況で生じたものといえます。
[425]
江戸時代の改元は、
朝廷から江戸幕府へ、江戸幕府から諸大名へ、
初藩江戸屋敷から国元へ、
藩庁から一般庶民へ、
と伝えられました。
[426] それ故に本来なら江戸屋敷が把握しているはずの改元を知らないうちに薩摩藩が実施していたことに驚愕し困惑することになるのです (>>37)。
[427] 近世的な改元伝達機構が未成熟の近世初期にあって中世的な改元伝達の旧習が藩役人まで巻き込むレベルで残存していたと見ることもでき、 改元伝達の実態解明のためにも大変興味深い事案といえます。
の合計15件の用例が知られています。
[391] また、同時代の記録が3件、江戸時代の考察が1件残されています (>>239)。
[280]
慶喜元年銘短刀 (>>227)
には「
[281]
銘文には
「
[285] つまり尾張の住人が発注し越前の刀工が制作して越前の神社に奉納した刀の銘文に 「慶喜元年」が使われていることになります。
[392] 日本国石川県奥能登地域 (旧加賀藩領) の旧家などに多くの用例が残されています。
[99] 日本国石川県輪島市に残された上梶家文書に属する文書に用例があります (>>170)。 上梶家は寛永期から加賀藩の十村役を務めた有力農家です >>1。
[119] 加賀藩の地方統治機関である奥郡御算用場が発行した受領書に用例があります (>>115)。藩役人から地元の農民に対して発行したものです。
[239] 旧薩摩藩領関係で慶喜を使った文書や慶喜に関する議論の記録があります。
[355] 旧記雑録 は、薩摩藩内の古文書等を集成したものです。 薩摩藩記録奉行伊地知季安が文政時代の頃から作業を開始し、 子の伊地知季安によって明治時代まで編纂が続けられました。 昭和時代に鹿児島県より鹿児島県史料として刊行が開始され、 令和時代現在も続いています >>307。
[356] 現在ウェブ公開されている範囲の 旧記雑録 中には慶喜関連文書が数点含まれています。 うちいくつかは藩内での書写に由来するらしい重複です。 各文書には 旧記雑録 編者によるらしい注釈の他に別筆や朱書の注釈も加わっていますが、 どれがいつ誰による注釈なのかは検討が必要です。
[38] >>324 >>340 は利息に関する書付と、それを写して注釈を付けたものです。 いつのものかは定かではありませんが、本文中字下げされた部分に、 12月から慶喜2年2月まで、月数77ヶ月 (閏月込み) とあります。 (ただし >>340 は71ヶ月となっています。)
[27] >>324 >>340 とも慶喜2年にを意味すると注釈があり、 計算と一致しています。
[357] >>328 は薩摩藩士の根占重永 (禰寝重永, 藩主島津忠恒の子) による文書ですが、 日付が慶喜2年申3月となっています。
[358] >>328 の注釈には、慶喜は当時の誤りでに当たるとあります。
[359] 残念ながら近い時期に根占重永発給文書は他に収録されていませんが、 他者のものでは寛永21年2月22日 (378番)、寛永21年4月2日 (391番, 392番), 寛永21年4月5日 (394番), 寛永21年4月大吉祥日 (395番、文中に根占重永言及あり) など寛永と明記した文書があります。
[360] >>334 は藩主島津光久の子島津綱久から薩摩藩士種子島忠時に宛てた文書です。 日付は3月12日で、朱書でとされています。 >>334 本文には「改年」云々とあります。 これが改元を指すのか新年を指すのか、あるいは他の意味なのかは検討が必要ですが、 いかにもな時期なので一応紹介しておきます。
[361] >>314 は林鵞峰から島津久通への4月12日付文書です。 >>318 >>622 は新納久詮と島津久通から北郷佐渡守、山田有栄らへの4月13日付け文書です。 >>622 は写本です。
[362] 林羅山 (道春), 林鵞峰 (春斎) 親子は江戸幕府の儒学者でした。 正保度を含む改元にも江戸幕府方で関与し、 春斎が子孫のために改元の事情を記録したという改元物語は現在では当時の改元手続きの基礎的な史料となっています。 当時は日本武蔵国江戸に居住していたと思われます。
[363] 新納久詮は薩摩藩の家老でした。 島津久通は薩摩藩士で、 後に家老となりました。 この2人は当時は日本武蔵国江戸の藩邸に居住していたと思われます。 島津久通は江戸滞在中に春斎の門人となりました。
[364] 北郷佐渡守は薩摩藩士でした。 山田有栄は薩摩藩の家老でした。 この2人は当時は日本薩摩国鹿児島に居住していたと思われます。
[31] >>314 には寛永20年と朱書があり、 に配置されています。 >>318 には年がありませんが、 >>314 の次に配置されています。 >>622 は明暦2年と朱書があり、 に配置されています。
[26] >>318 >>622 は明らかに同文です。 >>318 文中に春斎への照会の旨があり、 >>314 はその春斎からの返答であることが明らかです。 >>318 末尾には、4月13日の書状が5月5日に届いた旨が書かれています。 また、春斎の書状にも言及があります。 >>318 >>314 は同じ年に書かれ、 セットで鹿児島に届いて保管されたと解釈するのが自然です。
[28] >>314 >>318 とも、 林羅山と林鵞峰が「御即位」につき上洛した旨の記載があります。 >>314 に「去年」とあります。 後光明天皇が寛永20(1643)年10月3日に践祚、 寛永20(1643)年10月21日に即位礼で、 これに関係しているのだとすると、 4月と解釈しなければなりません。
[32] 説、 説はどちらも誤りで、 年月が経過してから整理した際に誤認したのでしょう。
[37] >>314 >>318 には次のような記述があります。
[374] >>349 は種子嶋左近丞と伊集院右衛門佑から申5月10日付で発出された文書で、 春の札改で改元があったからと改札に慶喜と書いていたものを、 改元デマだったため寛永に書き直すかどうかの話になっていたことが書かれています。
[375] >>349 の日付は申年としかありませんでしたが、 と書き入れがあります。 >>345 によると >>349 は加久藤古帳に書かれていたもので、 >>340 に書かれた「慶喜二年」の解釈に使われました。
[377] >>345 は伊地知季安の記述なのでしょうか、それとも更に古い記録の引用でしょうか。 時期不明ですが、これが慶喜の研究史上の初出と考えられます。
[90]
日本国鹿児島県薩摩川内市で
[378] に日本国鹿児島県姶良市のラジオ局あいらびゅーFMで放送され、 に YouTube で配信開始された たっつぁんのテラバナシ で川田達也が紹介しました。
[380] 川田達也はブログで10年以上にわたって鹿児島県下の石造物の写真を公開しています >>379。 しかし慶貴2年墓は掲載されていません。
[417] 正体が不明となっていた昭和時代に色々な説が提出されました。
[393] 江戸時代末期の日本薩摩藩の歴史研究者伊地知季安の記録中 (>>345) に、 文書中の「慶喜二年」を当時の薩摩藩公文書を引いて正保改元時の改元デマと考察したものがあります (>>377)。
[394] これが当時の用例そのものや同時代の公文書等を除いた研究史上の慶喜の初出といえます。 同時代記録にアクセスできたことで改元デマという「正解」に初めからたどり着けていました。
[395] しかし残念ながらこの考察は平成時代まで広く刊行されることがなく、 他地域の研究者は独立した検討を重ねることになります。
[279] 日本国静岡県下の用例 (>>269 >>270) は昭和10年代が研究史上の初見でしたが、 ママ注のみで年代の比定は行われていませんでした。 日本国石川県下の用例は昭和20年代が研究史上の初見でした (>>254)。 これらはしばらく埋もれていました。
[233] 佐藤貫一は、 昭和時代の日本刀研究の権威として知られ、 には東京国立博物館刀剣室に勤めていましたが、 著書 康継大鑑 で多くの刀剣類の1つとして慶喜元年銘短刀 (>>227) を紹介しました。 >>46
[282] 本書がこの短刀の現在知られている初見ですが、これ以前から知られていた可能性はあります。
[283] 本書によれば、銘文は「慶喜」としか読めません。 しかし日本、支那、朝鮮の元号にはありません。 古くは私年号というものがありましたが、それも鎌倉時代以後にはありません。 >>46
[286] そこで本書は 「元年」「正月」「大吉日」と共に「最上のよい日」を意味する 「慶祝年紀」だと推定しました。 それが奉納者の創案なのか、作刀者が奉納者の意を察したものなのかは不明としました。 >>46
[48]
ただ本書は
「
慶
, 喜
がいかにも目出度い文字ではあります。
しかし類例がない限りは慎重になりたいところですね。
「慶喜」に改元して目出度いのに合わせて
「元年正月大吉日」
という日付を選んで書いたという逆向きの可能性もあるでしょう。[45]
本書は二代康継は「鏗
の字で、「
[287]
ところがその鏗
は康煕字典にも大漢和辞典にもあり、
現在はJIS第2水準漢字にもなっています。
昭和時代当時は見つけることが難しかったのかもしれませんが、
実は普通の漢字として用いられているものですから、再考が必要でしょう。
洒落者という評価も例示のが疑わしいとなれば怪しくなってきます。
[295] に刊行された講演記録で日本の刀剣研究者福永酔剣は、 刀剣銘文の日時表示の解釈をめぐって私年号をいくつか紹介しています。 >>50
[296]
慶喜は「
[299] 、日本の刀剣研究者すいけんは、 刀剣銘文にみられる私年号をいくつか紹介しています。 >>297
[300]
慶喜を「慶祝年紀」とする康継大鑑説 (>>286) に対して、
慶喜は永喜のように私年号だとしています。
そして「
[303] 、 日本の刀剣研究者福永酔剣は、 慶喜元年銘短刀 (>>227) の銘文を検討しました。 >>302
[294] 慶喜を「慶祝年紀」とする康継大鑑説 (>>286) に対して、
を挙げて、慶喜は慶長にヒントを得た私年号と見るべきだとしました。 >>302
[204] 日本国石川県能登地方の用例は昭和20年代が研究史上の初見で (>>254)、 昭和40年代になって存在がよく知られるようになりましたが、 当初は時代と字形が近い慶長と誤認されていました。
[100] の輪島市史資料編は、 上梶家文書から慶喜の用例2件を収録しました (>>181 >>98)。 慶喜を慶長の誤りではないかと疑い、 慶長2年の見出しをつけて配置しました。 >>3
[201] 刊行の 加能古文書 の補遺は、 上梶家文書から慶喜の用例2件を収録しました (>>196 >>200)。 慶喜は慶長と翻刻されて、何の注釈もありませんでした。 >>18
[202] 輪島市史と加能古文書の収録する2件は同一のものです。 両者に参照関係なり、同じ調査結果からの書籍化なりの関係性があるのかどうかは不明です。 田川捷一は加能古文書は輪島市史を引いたと思えると書いています >>164。
[203]
加能古文書
が注釈もなしに長
と読んだ理由も不明で、
誤読の可能性もありますし、
草書㐂󠄂
が長
のように見えなくもないので、
敢えて注釈するまでもない軽微な誤字として暗黙に校訂した可能性もあるでしょうか。
いずれにせよ翻刻にはこうした「正規化」が紛れ込んでいるケースが他にもあろうこと、
注意が必要です。
[208] 加能古文書 の補遺は、の原編者死去以後に編集されたものとのことで、 少なくてもその頃までには慶喜の存在も研究者に知られていなかったと考えられます。
[209] に刊行された輪島市史の編集のための調査 (やそれと前後した頃であろう加能古文書補遺のための調査) で慶喜が初めて見出された可能性が高そうですが、 単純な誤記と片付けられて重視されなかったと思われます。
[92] 石川県で見出された慶喜が慶長の誤記ではなく私年号であることは、 昭和50年代の調査研究で田川捷一らによって明らかにされました。 田川捷一は昭和時代の能登近世史の研究者です。 日本国石川県七尾市で小学校長を務めたほか、 能登地方各地の自治体史の編纂にも関わりました。 私年号関係では他に久宝の再発見にも寄与しました。 昭和50年代に続々と刊行された自治体史等に、 新発見を通じて私年号説が発展していく様子が残されています。
[108] 田川捷一は、 上梶家文書の調査で慶喜2年文書を再発見しました。 >>4 ところがその本文は輪島市史の説では時代が合わないことに疑問を持ちました。 >>4
[207] 田川捷一は昭和51年度の上梶家文書調査を率い、 昭和52年刊行の報告書で私年号説を発表しましたが、 それに先立ち昭和51年1月印刷の市史にもその見解が反映されています。 市史編集のためか他の事業か個人でかはわかりませんが、 昭和51年度になる前にも調査を行っていたのでしょう。 市史の慶長説に疑問を持ち私年号説に至ったのはおおよそからの間と思われます。 時点で慶喜の考察が公表されていたのか、 関係者間の情報交換に留まっていたのかは不明です。
[212]
田川捷一によると、
年表にない慶喜を慶長の「
[213] ところが、慶喜2年文書(B) (>>96) には
との問題があり、 説では通説の再考を要します。 >>164
[216] そこで他の文書を参照すると、
であることから、これらを総合して慶喜2年の実年代はと判明します。 >>164, >>4
[219]
「
[110] の能都町史によると、 次の用例が知られていました。 >>4
[121] >>9 >>10 は「その後」判明したとのことです。 >>4 具体的にいつかは不明なのですが、 昭和50年代中頃でしょうか。
[278] 増参寺文書慶喜文書 (>>269 >>270) は慶喜2年申と十二支年が明記されており、 慶喜2年をとする結論を強化するものといえます。
[211]
輪島市史通史編は、
慶喜は「
[120]
その私年号というものは、
「
[205]
の輪島市史通史編は、
「
[66] ところが、 慶喜文書(F) (>>112) と慶喜文書(H) (>>115) の差出人は加賀藩の御算用所の役人や郡奉行で、 つまりこれらは藩の公文書であるにも関わらず私年号を使っています。 当時の加賀藩は反幕の姿勢を疑われ寛永の危機とも言われた時期に当たり、 敢えて私年号を使って江戸幕府の反目を買う必要もありません。 >>164, >>4
[118] の報告書では、
と3説提示していました。 >>164
[228] 筆者も断定を避けていますが、どうにもしっくり来ないですね。
[229] 改元物語の「例」「古例」というのもよくわかりません。 改元物語自体は近世初期の改元について江戸時代初期の幕閣が記録したものです。 改元物語に記録された「1元号で3天皇にまたがらない」 慣例を指すようにも思われますが、 説1の「例」はそうだとしても、説2の「古例」はよくわかりません。
[230] 説2の正月だけ特別な元号を使うというのは他で聞いたことがない風習です。 藩が元号を作るというのも聞いたことがありません。 (私大の例もありますし、他にないからあり得ないとは言い切れず、 検討するのはいいことですが、説得力に欠けます。)
[231] 藩どころか出先機関でだけ祝賀のために使ったという説もかなり無理を感じます。
[232] 改元物語の「古例」から出た説2がなぜ藩主の子供の誕生祝いになるのかもよくわかりません。
[237] 私年号の性格を大きく変えてしまっているというのもよくわかりませんが、 反政府とまでいかずとも社会不満・不安の現れという昭和時代当時の通説的(中世)私年号感と乖離しているということを言っているのでしょう。 ちなみにこの祝賀説を採るなら、類例は征露ですかね。
[238] この時点では説2が一番有力と考えていたように文章からは感じられます。
[109] の能都町史は、 の後光明天皇の即位があったこと、 1つの元号で3代の天皇にわたる例がなかったことから、 代始改元の誤報があったと推測しました。 >>4 つまり報告書3説のうち説1 (>>221) のみが残りました。 これはこの間に新たに静岡県の用例が報告されて説2 (>>222) が成立し得なくなったためと考えられます。
[122] 用例から、「慶喜2年」の1月から2月の頃に誤報が伝わったものと推測され、 奥能登と静岡に分布するため今後の各地からの発見が期待されるとしていました。 >>4 果たしてその後薩摩でも発見されることになります (>>239)。
の文書があり、完全に時期を絞り込むには至らないまでも、 慶喜が通用した期間が短かったことが確かめられます。
[284] 越前の刀銘用例 (>>227) はの時点で既に知られていたにも関わらず (>>102)、 の報告書でも一応申し訳程度に関係を示唆する程度で (>>226)、 関係性を十分検討し切れず、 静岡の用例が知られるに至って加賀藩独自説を破棄することになりましたが、 その後も説明に組み込まれていません。
[298] 干支がなく静岡の用例と違って時期の確定に直結しなかったことや、 「慶祝年紀」説は知っても刀剣研究者の私年号説は知らなかった (引用されていない) こと、 前田藩領と同じ北陸ながらも能登から遠い小浜藩 (藩主酒井忠勝) 領の敦賀所在で尾張人の奉納という微妙な扱いにくさ、 そして「元年正月」という改元デマ説と矛盾する日付のため、 扱いあぐねていたのでしょうか。
[141] の輪島市の広報誌の上梶家文書の紹介では、 わずかな紙面で慶喜文書が代表例として取り上げられており、 今なお地元で高く評価されていることがわかります。 >>137
[142]
しかしよく見ると図題はまったく間違っています (>>139)。
「
[248] 和嶋俊二は、 昭和時代の日本国石川県能登地方で高等学校長などを務めながら、 地域史を研究しました。 慶喜の他に法徳にも寄与しています。
[249] 夏、高等学校教員だった和嶋俊二は、 民俗学や社会学など9学会の能登調査の際に偶然、 尾間谷家文書を調査することができ、 翻刻文をに発表しました。 >>247
[251] そのうちの1つが慶喜2年文書でした (>>189)。 元号名にはママ注が付されていました。 また、
と注釈していました。 >>247
[253] つまり寛永に近い慶長ではないかと考えたものの、断定までは避けています。 誤記と誤読のどちらを疑ったのかはっきりしませんが、 慶喜と書いてママ注を付けているので誤記と考えたのでしょうか。
[254] 従って慶喜という元号名も、慶長比定説も、 実はこの論文が近代史学的な初出ということになります。 寛永時代と見抜いたのも慧眼です。 しかしこの成果はしばらく埋もれていました。
[75] 時代は下って平成時代、 和嶋俊二は法徳に絡めて慶喜も簡単に考察しています。 >>151 この間の新たな発見を踏まえて私年号説となっています。
[58] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246681/1/28 (非公開)
歴史手帖 3(7)(21)
雑誌
名著出版 [編] (名著出版, 1975-07)
28 コマ: 間を示すその年号は「慶喜」。(北国新聞金沢5/5)奥能登初の繩文前期の土器繩文中期と見られていた
[160] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246700/1/30 (非公開)
歴史手帖 5(2)(40)
雑誌
名著出版 [編] (名著出版, 1977-02)
30 コマ: 。例えば「久宝」や「慶喜」など、県立図書館の調査で明らかにされた。(読売新聞高岡12/12)▽徳
[161] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246743/1/28 (非公開)
歴史手帖 8(9)(83)
雑誌
名著出版 [編] (名著出版, 1980-09)
28 コマ: 前が連署された後に「慶喜二年二月二十一日」と年号と日付けが記されている。「慶喜」という年号は
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 慶喜 - 寛永20年(1643年) 不明 『上梶家文書』
[74] >>73 なぜ継続年数が「2年以上」となっていないのか謎。 筆者が上梶家文書を直接参照したとは思えず、何かしらからの孫引きと思われる。
[255] 山口隆治は日本国石川県の歴史研究者で、 近世地域史を研究しています。 前田藩の林業政策七木の制の研究の前提として慶長2年説の当否は重大な関心事であり、 当該慶喜2年文書 (>>96) について検討しています。
[256] の論文 >>154 が最初の言及です。 翌に続編論文 >>155 があります。 (いずれも未見)
を引用しています。 >>144 /52 左
[158] ところが、 発行元の江沼地方史研究会の公式サイト上でも、 所蔵図書館の書誌情報でも、 この題名の論文は第22号に収録されています。 >>146, >>147 第23号には山口隆治の後続の論文が収録されていることになっています。 >>146
[159]
明記されていませんが、
山口隆治の単著のうち
[259] さて、そのの単著では、
と指摘して、 説の再考を促しています。 >>144
[262]
この2点は初出論文刊行と同じの報告書が指摘した説の問題点
(>>213) と同じです。
報告書サイドと本書サイドで独立して同じ課題を検出したのか、
参照ないし情報交換があったのかはわかりません。
(この程度なら独立して一致しても偶然とは言い難いでしょう。)
本書は注釈
[16]
注釈
[63] 所三男は、加賀藩の慶喜2年文書に関係して (>>16)、
との見解を示しました。 >>144 /43
[266] 所三男は、 日本林業史研究の草分け的な研究者でした。 特に尾張藩が専門でしたので、 木曽、天竜という地域にも馴染みが深かったと考えられます。
[65] 所三男の弟子に当たる山口隆治が伝聞で記したもので、 山口隆治の研究に関する助言ですから、 所三男の論著にあるとか研究していたとかいうことでもなさそうで、 研究上たまたま得た知識なのでしょう。
[267] そうなると木曽・天竜に2,3点というのもどれだけ正確なのかわかりません。 磐田の用例 (>>117) と同じものなのか、別にあるのか、どうなのでしょうか。 磐田を指して木曽・天竜というのかどうかは絶妙なラインです。
[428] 昭和時代に提出された諸説は、 石川県の研究者によって石川県の用例の解釈に組み込まれたものの、 全国的な視点で詳細に再検討されることはないままでした。
[429] 前項までに示したように平成時代にもいくつかの論考は発表されていますが、 ほとんど既発表論文の再刊行や既存説の再紹介の域を出ていませんでした。
[430] 私年号研究者による収集にも漏れて、一覧表等にも掲載されていませんでした。 日本語版ウィキペディアにはに追加されました >>432 が、 出典は不明です (>>74)。
[433] 令和時代になって、 薩摩藩の用例と研究 (>>239) や刀剣類研究者の説 (>>295) が再発見されました。 国立国会図書館デジタルコレクションや鹿児島県史料の電子版公開によって全文検索が可能になったことで得られた成果です。
[434] 今後は全国各地に未だ眠っているかもしれない用例の発掘や、 改元デマ情報の発生、伝播過程の解明が期待されます。
[2] 慶応や慶暦が OCR の誤読で慶喜になる事例がままみられます。
[59] 日本の古建築, 太田静六, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1058829/1/102 (要登録)
松本城が慶喜二年頃完成とある。隣には慶長何年が並んでいる。誤植か。
[60] 松本城天守の完成時期は諸説あり、しかし正保元年だと遅すぎる?
[54] 日本大観 第19号, 世界文化社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3042334/1/25 (要登録)
[56] 公式サイト説明によると1200年前、大同年間の坂上田村麻呂が発見したという伝承があるとのこと。
[57] 誤りだとしてもどこから「慶喜」が出てきたのか謎。慶雲は時代が古すぎる。 延喜は新しすぎる。
[436] 鎌倉遺文フルテキストデータベース - 検索, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w11/search?keyword=%E6%85%B6%E5%96%9C%E5%85%83%E5%B9%B4&resultoption=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%A1%A8%E7%A4%BA&page=1&itemsperpage=200&sortby=jc_date&sortdesc=false&sortitem=%E5%B9%B4%E6%9C%88%E6%97%A5%EF%BC%9A%E6%98%87%E9%A0%86
延慶元年12月27日
延慶喜元年十二月廿七日
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内閣文庫蔵摂津国古文書