慶喜

慶喜

[72] 慶喜は、 江戸時代寛永年間に用いられた日本の私年号 (改元デマ) の1つです。

石川の用例

[3] 輪島市史 : 資料編 第1巻 (奥能登十村土筆) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536979/1/85 (要登録)

慶喜弐年付の文書2件を「長カ」と注釈をつけて慶長2年と解釈して配置しています。 上梶家文書二の一、 上梶家文書二の二

[41] 輪島市史 第7巻 (通史・民俗編) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536984/1/138

上梶家文書に5点ある (うち1つを参照), 越前に「慶喜元年」がある

田川捷一 (編集委員) の考証によれば寛永21年

「幕藩体制づくりも延びなやみ何となく行きづまりからの脱出を願う気持ちが原因」の私年号との推測。

[43] >>3 と同じシリーズながら見解が更新されている。 (建元理由の推測にいい考えに及ばない行き詰まりの気持ちが表れているようなw)
[66] 越前にあるというのが何を指すのか不明、 >>46 なのか?

[44] 輪島市史 第7巻 (通史・民俗編) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536984/1/144

慶喜2年証文の白黒写真 (解像度低く判読困難)

[4] 能都町史 第5巻 (通史・人物誌編) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539070/1/161

筆者田川捷一は上梶家文書の調査で慶喜2年文書を再発見。

輪島市史の慶長2年説を否定、寛永21年と推定。

が確認されているとのこと、 うち能登国古文書のものが引用されている。

藩が私年号を使う動機がないので、代始改元の誤報によるものと推測。

[92] 田川捷一久宝の発見にも寄与。

[11] 珠洲市史 第3巻 (資料編 近世古文書) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537697/1/7 (要登録)

尾間谷利行家文書54 白黒写真、文字判読可能

[12] 珠洲市史 第3巻 (資料編 近世古文書) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537697/1/220 (要登録)

尾間谷利行家文書54 翻刻 慶喜弐年正月廿一日

注釈で寛永21年の私年号と推定する田川捷一説に言及。

[25] 寛永21(1644)年甲申

[40] 加越能近世史研究必携/2011.7. | テーマ別データベース | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館, https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/023118259.html

  • 15寛永十八年六月 鳳至郡東印内村人改211
  • 16慶喜二年正月 里村川除人足仰付願212
  • 17承応二年三月 間改人など御尋ねに付書上213

[42] 加越能近世史研究必携 - 田川捷一 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=91D1hgng-rAC&dq=%E6%85%B6%E5%96%9C

2 ページ

16 慶喜 2 年正月,鳳至郡里村川除人足付願. 该乡南知 WM77 15 寬永 8 年 6 月鳳至郡東印内村人改合今 is hozha Stegovo 年 2 Cli . ...等名人色 G's 行为中内江分行為过 2 49 ( :东杂集各為多重一年差分. 公分對多设てる{ " PU 在”之 MJ6zt NAAA24 3 5 9 ...

6 ページ

202 六月十六日前田利家朱印狀天正十四年三月羽咋郡藏島村校地打渡状天正十五年六月珠洲郡折戶村年貢皆济状慶長五年七月前田利長禁制慶長 w H 寬永十三年七月年貢皆济前借金銀返济停止中渡 b 寬永十八年六月凤至郡東印內村人改 b 慶喜二年正月里村川除人 ...

212 ページ

一 16 慶喜二年正月鳳至郡里村川除人足仰付願乍恐申上候一、里村本用地之内取分住吉川原辻/うしろ弐ヶ所、事ノ外川崩ニ罷成申候、就其川ょけ仕申度奉存候間、人足三百人与中「被仰付可被下候御事一、最前御うら判被下候私新開川よけ人足百人可被下候、 ... 「慶喜」と記されたこの私年号は、単に庶民の間で使用されたばかりで 役人は比較的大きな間に十村や村肝煎 212 〔解説 5 ] ...

[64] 内浦町史 第2巻 (資料編 近世・近現代・民俗), 内浦町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538948/1/130 (要登録)

内浦町秋吉の文書1件。慶喜2年は私年号で寛永21年と断言。


[13] 加賀藩林制史の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=bb8eAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

8 ページ

寛政九年の十村役列は、左の如く九階層に区分されていた。 ... 両人の「由緒書」にも「寛( 6 )一、無組御扶持人之始は、山本清三郎等四人、寛文元年改作奉行被仰付、存寄可申上旨被仰出候処、一郡一人宛成とも、縮 ...

しかし、慶喜二年(三章一節を参照)の山林縮に関する定書の一条には「一、在々脇之者家作り申時分致吟味、七木少も遣申候者有様=村肝煎方十村かたへ理り可申御事」とあ既に慶喜二年に「十村」の名称を見ることができる。後述するが、この十村の上には、承 ...

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山口隆治 59 第三章加賀藩の七木の制について 右の御立書は、「輪島市史資料編第一巻』所収の「上梶家文書」に慶長二年のものとして掲載されたものである。右の御立書の日付では「慶喜弐年正月廿一日」と明記するものを、『右書』において「慶長」の誤記 ...

73 ページ

山口隆治 73 333 第三章加賀藩の七木の制について ( 9 )所三男氏の御意見では、「慶喜」年代の文書は木曽・天竜地方でも二・三点見られ、「私年号」であろう。また、その年代的位置としては、寛永末から正保頃とのことであった。最近刊行された『能登輪島上梶家文書目録』(石川県立図書館)には、次の八点の慶喜年代文書を紹介している。( 8 )『史料二』三六頁( 7 )『輪島市史・資料編第一巻』一一一頁( 6 )前掲「徳川時代に於ける林野制度の大要」(『山林彙報』三二ー三)一五五頁( 5 ) ...

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( 2 )『資料』六〇〇頁( 11 )『資料』四三四頁( 10 )『資料』一二九頁同書では、この中の F と H が加賀藩の御算用所と郡奉行より出された藩の公文書であることを指摘しながら、「慶喜弐年」の実代年代は寛永二一年であるとしている。

そして、加賀藩が慶喜の私年号を使用した理由として「『改元格』の例から慶喜と改元されたと誤って伝えられた。それで、慶喜年号は正月の一と月だけで、誤りが判明した後、使用したかったと思える。また、逆に『改元格』の古例により、 わざわざ加賀藩が『慶喜』というめでたい年号を正月のみ使用したとも思える。 その理由の一つに、五代藩主となった綱紀が寛永二十年十一月十六日に生まれたので、寛永二十年を慶喜元年として、二十一年正月だけを祥瑞記念として使用したのかも知れない。しかし、これも問題がある。それは、慶喜年号の遺存があるのは現在のところ奥能登だけで、それ以外の地では発見されていない。

ページ

116 , 126 , 133 , 135 七郎右衛門(小泉村) 120 ..34 私年号: .73 119 柴山 93 , 106 , 147 , 150 107 , 116 柴山割· 103 40 , 44 島崎丞 49 • 47 嶋田久次郎... 141 .46 御鷹山 28 , 49 鎌留山· .36 iii 五兵衛(田井村) .96 11 下鳥越村(鳳至)

[14] 加賀藩山廻役の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=tFw6AQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

17 ページ

ところで、『増訂加能古文書」「輪島市史」には慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五九七)の誤記として収載する。その一部を左記しよう。御法度立書之御事一、七木之儀者不申上及御事一、唐竹戴之御事一、野竹數之御事一、薙畑仕 ...

18 ページ

右之趣私共与中へ堅申付、御誕之通相背候者御聞御見付被成次第急度可被仰付候、其時一儀之子細申上間敷候、仍後日之書付如件慶喜関年正月廿一日名舟与太郎左衛門嶋田勘右衛門樣小森又兵衛様三吉佐助様(故人)は慶喜年号の文書が木曽・天竜地方にも三点ほど ... 「慶喜」は私年号(偽年号・異年号・逸年号)であり、現在、能登国奥郡(珠洲・鳳至郡)に限って「慶喜二年 ... 加賀藩主五代前田綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏 討を必要と ...

79 ページ

「指上申名舟与借塩釜貨銀之事」(慶喜式年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜式年正月廿一日)「川除普請心付与中人足願」(慶喜式年正月廿一「用水川崩心付与中人足願」(慶喜式年正月廿二「永代立申田中屋敷之事」(慶喜式年正月廿七日)「寬永拾九年若山与御 ...

[15] 加賀藩林野制度の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=A9cxAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

48 ページ

( 2 )ところで、「増訂加能古文書」「輪島市史」は慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五檜・栗(七樹)が、同一一年(一七二六)に松・杉・桐・樫・槻・檜(六樹)が七木であった。なお、加賀国でも天明六年(一七八六)に石川・河北両郡が ...

49 ページ

慶喜弐年正月嶋田 た林制は、ここに至って一本 49 第 2 章留木制度の設定 七木制度は能登国奥郡で創始され、その後能登国口郡および加賀・越中両国でも施行されたものの、七木の種類は用されていた。( 5 ) ( 1 )保」と改元した。 五代綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏は慶喜年号の文書が木曾・天竜 ...

66 ページ

山口隆治 66 「指上申名舟与借塩釜賃銀之事」(慶喜弐年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜弐年正月廿一日)「川除普請に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「用水川崩に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「永代立申田中屋敷之事」(慶喜弐年正月廿七 ...

[16] 所三男は日本林業史研究の草分け的な研究者。特に尾張藩が専門で、 木曽、天竜に2,3点あるというのは実見した可能性がありそう。 論著等にあるのかは不明。

[63] >>62 と同じものなのか、別にあるのか?

[17] 能登輪島上梶家文書目録田川捷一らによる上梶家文書調査報告書、昭和51年度。 >>5 では5点あるといい、こちらには8点収録されているというので、 その間に3点新発見されたことがわかります。

[18] 加能古文書 増訂 松本三都正増訂 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536229/1/516 (要登録)

慶長弐年と書かれていて何の注記もない。校訂で注釈なしに書き換えられてしまった?


[19] 奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - 和嶋俊二 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

203 ページ

... をしたいう出つ迄罷越、最前被仰出之ことく御請可申上之由申候へとも、一度御仰付を背申付而于今相延申候、此上ハ御けちろんとおほしめし人なみ之御百姓ニ罷成申候様ニ御相談ヲ以被為仰付被下候ハゞ難有森可奉存候、以上若山与之内(ママ)慶喜弐年正月 ...

204 ページ

言 204 ニもにその頃のものと考えられる文書) [追記、慶喜二年=寛永二十一年]すなわち前田藩は天正十一年から、元和六年にかけて検地を行っているが、これはその間における有様であろうか。この検地を通して過去の中世的な勢力がほとんど一掃されるので ...

[58] 歴史手帖 8(9)(83), 名著出版 [], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2246743/1/28

(非公開、未見)


[75] 平成時代日本国石川県の歴史研究者和嶋俊二法徳に絡めて慶喜も簡単に考察しています。 >>151


[1] 石川県/上梶家文書・平家文書 (石川県著, ) https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/komonjyo/k-16.html

特異な文書として、「慶喜2年」(寛永21年《1644》の私年号使用の文書や、「急々如律令」の文言をもつ呪符、さらに、承応4年(1655)より明治3年(1870)にいたる161点の暦の伝蔵は、県下に類例はみられない。

昭和60年「石川の文化財」より

[93] >>1 白黒写真あり あまり解像度は高くない

[94] >>1 の写真見ると草書 () は字形が似ていますね。 元号名の元ネタは慶長そのものの可能性、あると思います


[73] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
慶喜-寛永20年(1643年)不明『上梶家文書』

[74] なぜ継続年数が「2年以上」となっていないのか謎。 筆者が上梶家文書を直接参照したとは思えず、何かしらからの孫引きと思われる。

越前の用例

[46] 康継大鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/8799602/1/181

二代康継が越前敦賀気比神社に奉納した短刀の銘 「慶喜元年正月大吉日

そんな元号はない、在命中の元年は寛永と正保、私年号も鎌倉時代以降は存在しない、 よって「元年」「正月」「大吉日」と共に「最上のよい日」を意味する 「慶祝年紀」だと推定。

[45] 康継大鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/8799602/1/103

慶喜元年正月大吉日」のようなものは「慶祝年紀」だとしている。

[48] 康継大鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/8799602/1/392 (要登録)

拓影、翻刻

慶喜元年正月大吉日」は「慶祝年紀」だとしながら、 こうした例は康継にも他にもないとのこと。

[50] 拓影では「喜」は「㐂󠄂」。 拓影では「年」は「秊」に近い、翻刻では「季」。

[47] 私年号が中世以後は無いというのは事実誤認。ちょうど生前に「慶喜」私年号の期間が収まるので、 特別な意味を求める必要はなさそう。「元年正月大吉日」に目出度さを感じた可能性はある (がそれが元号名創作の理由とする必要はない)。

[49] 古くは五月丙午のような例がありますが、元号名の事例はなかなかみません。
[67] 改元は年中に行われるのでリアルタイムで「元年正月」というのはほぼあり得ず (正月中に改元があって正月中に伝わった場合のみ)、 日付を遡らせて書かれたものか (この種の銘文なら正確性よりも区切りや縁起で日付を決めることもあるでしょう、改元直後にわざわざ旧年号を使わないで新年号を使うのはあり得ること)、 改元が年末に伝わったので2年正月を元年正月と誤認したかということになるでしょうか。

[53] 刀剣史料 (46), 南人社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/8099939/1/9 (要登録)

近世私年号とする。

[52] 刀剣と歴史 (431) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/22 (要登録)

康継大鑑説を否定、 寛永期の私年号とする. 理由は「作品からみて」としか説明されていないが、作風によるものか。

[51] 刀剣と歴史 (465) - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/7901159/1/29 (要登録)

康継大鑑説を否定、 慶長にヒントを得た私年号とする.

静岡の用例

[62] 静岡県史料 第5輯, 静岡県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1220975/1/215

増参寺文書 慶㐂二年申 2件 (2月1日、2月2日)

出典は史料編纂所影写本

ママ注だけで比定なし

[61] 曹洞宗古文書 下巻, 大久保道舟, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2987494/1/200 (要登録)

増参寺文書 慶㐂二年申 2件

ママ注だけで比定なし

[65] >>16 も参照

薩摩の用例

[21] 旧記雑錄: 後編, 付錄 1 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=1rFlAAAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

234 ページ

... 兵衛尉被參候、其送狀慶喜二年と有之候、何方より改元之由御到來候て、御國中改候哉、希代不思儀成仕合候、天下之改元之刻者仰出有之候間、右之樣子承候、拙者共前よりも可中下、申出候人之御糺明被成へく候、御油断有間敷候、乍重言爲御存候、以上、

235 ページ 山田民部少輔樣北鄉佐渡守樣久通嶋津圖書頭新納右衛門佐© ( + » )卯月十三日之狀五月五日二屆、但西目表面高 ㄑ [川上〕、川上後藤兵衛受取被持下由候、一慶喜年號無之儀候問、其御心得可有由候、一春齋/狀被差下候事、(張紙)「光久公御譜中二無之」(本 ...

325 ページ

五匁三分ツ、利銀拾貫二百八拾三匁三分五厘「朱力 + 」「正保元年」右者寬永十四年十二月慶喜二年二月迄、月數七拾七夕月潤月籠但一三百目二二利本利合十四貫七百三十八匁三分五厘一毛「御文庫番箱四拾卷中」覺一志布志大慈寺事、昔東福寺派之儀無別儀侯 ...

327 ページ

... 大小神祇別者當國鎮守新田八幡大菩薩開聞正一位大隅正八幡大菩薩霧嶋山大權現當所鎮守五社大明神愛岩山大天狗小天狗天滿大自在天神、神罸冥罸可蒙罷身上者也、仍起請文如件、根占七郎(花押)慶喜二年申三月吉祥日重「右慶喜 2 年號八當時/誤二亍正保元 ...

346 ページ

... 長次郎」「此御書四拾八番箱御卷物中二在之」御返報又三郎投 N 「上包」 843 御返報又三郎般霜月十六日◎ (花押)日新疆御判〕 2 就實名下〈字改替、使者賀札其外種~慶喜不少候、仍從是茂太刀一腰・青銅二百疋令表祝儀候、恐 z 謹言、御返報又三郎殿谷軒.

[22] 旧記雑錄: 拾遺. 伊地知季安著作史料集 - 伊地知季安 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=BUD5kNabzWAC&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

443 ページ

... 二五三分》、二但京都三午一之賦人林披官并夫八万五千四百六十人出水·阿久根·高尾野架一人数专万五千九百六十五人利銀拾貫式百八十三红三分五 9 ( ?? )右者、寬永十四年十二月上少慶喜二年二月迄月数七右(閏)十七午月、王月籠、但它今月二百目二式分?

446 ページ

558 NN 一人二付专 5 月二五三分銀子四貫四百五拾五久一/賦 y 、、但京都三分所賦利銀拾貫二百八拾三三分五厘『正保元年软』右者、寬永十四年十二月上 5 慶喜二年二月迄月数七拾一个月、潤月籠、但一夕月百目二二红》、、菁之利、本利合十四貫七百三十八 ...

[23] https://dl.ndl.go.jp/pid/9639989/1/237 (非公開)

慶喜と被書付候、然處慶喜年号風説之由候間、寛永ニ被書直候様ニ我〓前より可申渡由、御家老衆より被

[24] >>20 薩摩藩内で慶喜二年文書がやり取りされていて何事だと騒ぎになっていたらしい、明暦2年(朱書)4月13日

[27] 正保元(1644)年甲申 (= 寛永21年)

[26] 明暦2(1656)年丙申

[28] >>20 だけ >>21, >>22, >>23 と12年ずれている。 >>20 の朱書で明暦2年と推定した者の誤判定?

[31] >>29 は年が (朱書も) ないが、 >>20 と同文と書かれていて、実際本文は同じ。 そして寛永21年に配列されている。

[32] ということで明暦2年は誤認でよさそう。

[37] >>33 別筆で正保元年と推測している >>35 別筆で正保元年に比定している >>22 >>23 正保・寛永と推測している

[38] >>22 >>23 月数から見て正保・寛永の推測を裏付ける

[90] 薩摩川内市で一部欠損貴2年の墓、中世末期から近世初期頃、 を見たとのこと。 >>91 40分頃

メモ

[70] 後光明天皇は、 寛永20(1643)年10月3日践祚寛永20(1643)年10月21日即位礼

[69] 寛永21(1644)年12月16日正保改元。

[71] その間の寛永21年正月、2月頃に各地で慶喜2年が使われたというわけです。


[68] 徳川慶喜とは無関係ですが、検索ではよく引っかかります。

[2] 慶応や慶暦が OCR の誤読で慶喜になる事例がままみられます。

[59] 日本の古建築, 太田静六, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1058829/1/102 (要登録)

松本城が慶喜二年頃完成とある。隣には慶長何年が並んでいる。誤植か。

[60] 松本城天守の完成時期は諸説あり、しかし正保元年だと遅すぎる?


[54] 日本大観 第19号, 世界文化社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3042334/1/25 (要登録)

日本国岩手県台温泉の説明中に「慶喜元年」発見とある。

[56] 公式サイト説明によると1200年前、大同年間の坂上田村麻呂が発見したという伝承があるとのこと。

[57] 誤りだとしてもどこから「慶喜」が出てきたのか謎。慶雲は時代が古すぎる。