中世の元号

日本の元号

[1] 日本では紀年法として元号が使われています。

[3] 現在の日本の元号令和です。

概要

元号一般、表記、読み、用法などについては元号

改元の一般的事項については改元改元手続き

[25] 日本の元号大化に始まり、現在まで200個以上、 1400年近くにわたり使われています。

[26] 現在日本の元号日本政府内閣府の所管となっています >>8 日本の元号法制


[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号建元はほとんど見られません。

[29] ただし、南北朝時代には北朝元号の他に南朝元号が並立しました。 また中世幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。

[30] そのようないくつかの例外を除けば、 私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号) その他の異年号は反政府的な意味が薄く、 制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。 日本の私年号

時代区分

[446] 日本の元号時代区分にはこれといった標準的なものはありません。 時代による分類がなされるときは、 日本史の一般的な時代区分が使われることが多いです。 しかし時代区分改元のタイミングはずれていることが多いので、 どこで区切るかには揺れも多いです。

[445] 令和元年の論文中世の元号は、 「仮に後三条天皇延久から後陽成天皇慶応までを 「中世の元号 (年号)」 としています。 >>440 この時代区分に元号史的に特別な意味はなく、一般的な歴史学的時代区分の中世に相当するという意味での 「仮に」と思われます。

[447] 元号法制史に基づき区分するなら、

という感じでしょうか。中世の扱いが難しいです。

古代

[4] 日本の古代には干支年などが使われていましたが、 やがて元号制度が導入されました。 最古の元号大化でした。 現在まで途切れず続く流れの最初は大宝でした。 日本古代の日時

[7] 現在のいわゆる「和暦」では大化以降の元号を用いるのはもちろん、 元号の建てられなかった期間は天皇即位紀年元号風に扱う慣習となっています。 天皇即位紀年

[31] 中世には、古代の出来事を記述するため元号大宝以前に遡って設定することもありました。 古代年号

[59] 大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。 日本古代の日時


[1027] 日本の元号 (奈良時代)

[1029] 元号の使われ方に特に注意を要するもの: 養老白亀正法, 4文字元号

[10] 日本史研究 (100);1968・9, 日本史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13000468/1/26 (要登録)

平安時代

[266] 平安時代異年号:

[183] 菅原道真と二つの改元, https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja

[62] ノート:東武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。

源平合戦期

[150] 平安時代末期には、関東源頼朝勢力や西国平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。

[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、 平氏側の改元源氏側の元号も採用しているようです。 日本年号史大事典は併記していますが、 国立天文台日本の暦日データベースは一方 (新しい方) のみ記載しています。 元号一覧

西暦
西暦
時期
時期
平氏
平氏
京都
京都
源氏
関東
備考
備考
西暦
1181年
平氏
治承5年
京都
治承5年
源氏
治承5年
西暦
1181年
時期
治承5年7月14日
平氏
養和元年
京都
養和元年
源氏
治承5年
備考
養和改元
西暦
1182年
平氏
養和2年
京都
養和2年
源氏
治承6年
西暦
1182年
時期
養和2年5月27日
平氏
寿永元年
京都
寿永元年
源氏
治承6年
備考
寿永改元、 寿永2年7月平家都落ち源義仲入京
西暦
1183年
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
治承7年
西暦
1183年
時期
寿永2年10月14日
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
寿永2年
備考
寿永二年十月宣旨
西暦
1184年
平氏
寿永3年
京都
寿永3年
源氏
寿永3年
西暦
1184年
時期
寿永3年4月16日
平氏
寿永3年
京都
元暦元年
源氏
元暦元年
備考
元暦改元
西暦
1185年
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年3月24日
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
備考
壇ノ浦の戦い平家敗退
西暦
1185年
平氏
元暦2年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年8月14日
平氏
文治元年
京都
文治元年
源氏
文治元年
備考
文治改元

[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和改元したとしています。

[122] 一方で、源氏元暦改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和寿永) を使わなかったとしています。

[131] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏寿永を使うようになったともあります >>146

[123] 平氏元暦改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治改元したのも無視したとありますが >>146改元壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。

[53] 源頼朝寿永を使うのは2年以降でした。 >>13 (平泉澄 1917)

[54] 動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため >>13 普及版 p.349 (>>55)、 あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため >>13 普及版 p.349 とする説もあります。

[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。

[375] この時期の前後には、私年号として保寿和勝迎雲といったものが使われていました >>373

[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

[149] 1987_2/解法のヒント ( 版) http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html

設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

[241] 志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用(北爪真佐夫 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / Twitter, , https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576

中世

[490] 中世には分権的な社会を反映していくつかの時間軸が存在しました。 しかし基本的には朝廷元号が使われました。 時に延長年号私年号が使われることもあり、 日付干支がずれることはあったものの、 例外的な事象にとどまりました。 >>440

[491] これは朝廷官職名が実態のない官途名として使用され続けたこととともに興味深い現象 >>440 と評されています。

鎌倉時代

南北朝期

[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。 日本南北朝時代の日時

室町時代

[20] 明徳

[457] 応仁の乱 後南朝の元号

中世の延長年号

[300] 改元に従わずに従前の公年号利用を継続したものを不改年号といいます。 関東の事例が有名ですが、他の地方でもいくつか指摘されています。 近年では多くのケースで積極的な新元号の不使用を否定する見解が有力視されてきています。 日本中世の延長年号

中世私年号

[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。

[279] 日本中世の異年号:

[2] 分類、性質、研究史などは日本の私年号参照。

江戸時代

江戸時代の公年号

[45] 江戸幕府元号制定権天皇の権能として保持させましたが、 実質は江戸幕府が握っていました。 >>22 (天皇, 石井良助)

[34] 昭和時代の研究者山田忠雄は、 慶長20年5月8日の大阪城落城、 慶長20年7月7日の武家諸法度公布、 慶長20年7月13日の元和改元、 慶長20年7月17日の禁中並公家諸法度公布という時系列で、 武家諸法度禁中並公家諸法度の中間の時期に改元したことに注意を促し、 豊臣政権の制定した慶長が否定される運命にあったと指摘しました。 >>22

[35] 柳原紀光続史愚抄後水尾天皇代始改元としています。 >>22

[37] 松浦静山甲子夜話続編巻六十八 (国書刊行会本第二) は乱世が収まった時代なので元号を借りて 「其式大風なりし事の由」 と書いています。 >>22

[36] 森鴎外元号考は日付だけで理由を書いていません。 >>22

[38] 山田忠雄>>37 を引いて徳川政権の勝利を記念した改元であり、 代始にかこつけたものだろう、主体は将軍側だっただろうとしています。 >>22

[39] 山田忠雄はそれをよく示すのが禁中並公家諸法度第8条の改元の条項だと指摘しています。 そしてそれは従来余り注目されていないと書いています。 現在では江戸時代改元制度の根拠法としてよく知られていますが、 昭和時代にはあまり顧みられることがなかったということでしょうか。

[40] 有名史料である禁中並公家諸法度それ自体を研究者らが軽視していたとは考えにくく、 徳川政権を好ましからざるものだったと教育され、 天皇改元大権を重視していた近代日本の人達にとって、 自然と見えにくくなっていたのでしょうかね。

[41] 改元物語は、 慶長章帝元和憲帝元号としていました。 実際には慶長日本独自、 元和章帝憲帝元号です。 >>22

[42] 改元物語元和を京童部がケンクワ (喧嘩または煙火) と読めるといっているから、 と寛永改元されたと書いています。 >>22

[43] 改元物語江戸幕府改元担当者による信頼できる史料であり、 この例を初めとして民衆の元号への反応に敏感だったとの評価が平成時代の研究者らの間では定説となっています。

[44] ただ、改元物語の記述をそのまま鵜呑みにしてあまり研究が深化していないように見えるのが気になる所です。 元和は10年も続いてから寛永改元されているのであり、 「新元号を発表したら民衆の反応がよくなかったのですぐにまた改めた」 のような状況ではないことには注意が必要です。 「民衆の評判がよくないのでそろそろ改元しよう」 のような大義名分に使われた可能性をみておくべきでしょう。

[48] 寛永改元は甲子革令とされますが、 実態は徳川家光代始改元とされます。 >>22

[49] 改元物語は「街説」で「ウサ見ルコトシ」 などと不評だったとしています。 >>22

[51] ただし実際には寛永は20年続いていますし、 明正天皇の在位中は一度も改元がありませんでした。

[46] 正保改元は徳川家光徳川家綱元服を祝福して改元を贈ったものとされます。 >>22 (将軍政治の権力構造, 岩波講座日本歴史 近世2, 朝尾直弘)

[58] 正保改元は1つの元号が3代の天皇で使われた事例はないという理由で実施されました。 >>22

[60] 徳川家光は、元号は天下共に用いることだから武家より定めるのは勿論なりと述べました。 >>22

[61] 徳川家光はまた、公家武家の政治は正しきに若しはなし正しくして保たば大吉なり、 とも述べました。 >>22

[74] 山田忠雄はこれら (>>60, >>61) から将軍こそが空間と時間を支配するものだとの王者の意識によって立っていること疑いないと評し、 天皇代始は建前に過ぎないとしています。 >>22

[75] 寛永21年12月23日、 江戸幕府改元披露と同時に徳川家綱の改名披露を諸大名に行いました。 >>22

[76] >>22 が寛永21年2月16日を改元日とする >>22 のは12月の誤り。

[77] 改元物語によれば、

  • [78] 正保は「焼亡」と音が似ている
  • [79] 正保元年は「正に保元の年」と読める
  • [80] を分解すると「一にして止む」と読める
  • [81] を分解すると「人口木」となる

と「雑説」多く、京都所司代板倉重宗が内請して慶安改元となりました。 >>22

[92] 明和9年を迷惑年とする落首は有名で、 杉田玄白 後見草 下や、 神沢杜口 翁草 巻百六十一など多くの随筆が言及しています。 >>22

[93] 天明改元の折には 翁草 によると 「諺に天命に尽る」 といわれたり、 後見草 によると 「文字のひゝきあしかりけり」 と人々は噂しました。 >>22

[94] 弘化改元の折、 藤岡屋日記第拾六 (日本都市生活史料集成 二) 天保15年12月13日条に 「一 惣出仕有之、弘化と改元披仰出候段於席〻老中列座、伊勢守申渡之。」 とあり、

  • [95] 「天保十六で なし 是からどふか弘化よかろふ」
  • [96] 「こふか と はくさぎもなひく御仁政 是からしもをこやす改元」
  • [102] 「天保ももふ十五年辰の とし どふか弘化と元の世となり」

など落首を数首掲載しています。 >>22

[106] 山田忠雄>>94 の落首や嘉政改元デマ事件を、 天保の改革の鬱積した重苦しい社会的不満の解消の期待と捉えています。 >>22

[82] 改元手続き, 改元伝達も参照。

江戸時代の異年号

[173] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとかつては考えられていましたが、 実際にはいくつか私年号改元デマが知られており、 しかも改元デマは恒例化していたようです。

[19] 分類、性質、研究史などは日本の私年号参照。

日清貿易

[21] 日本随筆大成 別卷下, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914170/1/268?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)

幕末

[32] 幕末の政情不安のため、 日本各地で私年号延長年号が使われたことが知られています。 孝明天皇即位紀年皇紀のような元号以外の紀年法もみられるようになりました。 また開国によって西暦など欧米紀年法の流入も始まりました。 幕末維新期の日時

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。 明治改元日

明治以後

[64] 近代以降の日本では、 次の元号が用いられています。

[65] 近現代日本の元号

各元号の境界については改元改元期日

[5] この時代、元号を取り巻く状況は一変しました。

琉球

琉球の元号

朝鮮

朝鮮半島の元号

関東州および満鉄附属地

満州の元号

日本の元号名

元号の選定

未成改元

[405] 承元4(1210)年: 彗星出現 吾妻鏡9月30日条、改元するべきと学者が報告 吾妻鏡10月12日条

[455] 、 疫病のため改元が議論されましたが、 足利義詮が陣中にあるため改元するべきないと中止されました。 >>440 (後深心院関白記 延文5年閏4月24日条) 改元で気を改めることが戦争に不利に働くとの意識があったためかとされています。 >>440

[454] など、中世後期は費用不足により改元が実施できなかったことがありました。 >>440

[639] 頃、 改元するべきとの意見があり、天皇国会に提案したものまでありました。 昭和時代の日時

元号とその他紀年法の使い分け

一般的事項は元号の選択

現代の事情は現代日本の紀年法

時代特有の事情は日本古代の日時

外交関係は外交文書の紀年法

前近代日本の一般庶民と元号

[162] 前近代の一般庶民も元号を知り使っていたとするのが通説となっています。

[248] その証拠として、 元号を使った私文書が多数現存していることや、 元号が明記されたが広範囲に流布していたことが指摘されています。 都市住民は元号名の良し悪しをネタに風刺したり、 改元デマまでたびたび生じていたことが知られています。 地方でも元号年が刻まれた中世近世金石文が各地に残っています。

[249] ただし、専ら元号紀年法として使われていたわけではありません。 干支年十二支年も非常によく使われていました。 (日本史上、元号が唯一の紀年法として専用されていた時代や社会階層は無いのかもしれません。)

[163] 元号を使うかどうかの判断は、現代人とは違う感覚によっていたようです。 例えば江戸幕府の公文書で元号がなく、 干支年ですらない十二支年を書く形式のものも珍しくなかったようです。

表現形式は東洋の日時表示

[247] そうではなく一般庶民は元号に馴染みがなかったとする主張もみられますが、 根拠が不明です。

[103] 「一般庶民」にも幅がありますが、「庶民は元号を知らなかった」 との主張は、「一般庶民」を知識の低い方に偏って解釈する傾向があります。 ひとくちに「一般庶民」といっても、 都市住民もいれば農村民もいます。 地域の名士や知識層もいれば、 小作農もいれば、 貧民もいます。 近世中世古代とでも環境はまったく違います。 「みんな元号を知っていた」も「みんな元号を知らなかった」 も妥当とは思えません。

[105] 江戸時代東北で使われた絵暦では、 元号絵文字でおもしろおかしく表現されていました。

[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html

[226] 新元号「令和」発表前夜SP 元号に向き合った偉人たち | 日曜スクープ | BS朝日, https://www.bs-asahi.co.jp/sunday_scoop/interview/22/

本郷 当時の庶民は元号というものが生活に浸透していなかったかもしれない。彼らは何を使ったかって言うと干支です。それで時間を考えていた。

ただその点は色々ありまして、最近やっぱり色んな研究が出ますと、もうちょっと元号をみんなが知りすぎているから茶化して、そして、こんなの嫌だとか庶民が言ったのでそれで変えたと。それは江戸の中頃からありますから。

本郷 いわゆる京都の町人とかというと、かなりリテラシーが高いじゃないですか。農村部へ行くとそれほどではないですよね。

いやいや、私は日本のレベルは高かったと思います。

[156] 高札, http://web.archive.org/web/20111215100922/http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousatsu.html

[159] 江戸時代の人は元号を言えたか - 以前どこかで前世療法というものの- 歴史学 | 教えて!goo, https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html

[160] 天皇と国家への服従を求める「新元号」キャンペーン粉砕を 杉並区議選勝利、5・1メーデーへ - 『前進』, 発行日: 2019年4月 8日 第3026号, http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2019/04/f30260401.html

日本の歴史において「元号になじんだ」人間は、明治以前では支配階級の中のごく一部にすぎず、一般の民衆はもとより支配階級の多くも、日常的に用いたのは古くから「えと」(干支=十干十二支)であった。

[161] 元号は「不合理で非科学的な代物」と非難しているが、 根拠を示さずこうした独自の主張を断定的に書いて流布するのは科学とは相容れない行為だと自覚しているのだろうか。
[245] 元号はいつからあったのか - 歴史まとめ.net, , http://rekishi-memo.net/japan_column/gengou.html

民衆に年号を馴染まなかった

江戸時代は元号より「干支」

頻繁に改元されていた事もあり、年号はあまり民衆には馴染まなかった。 江戸時代の庶民は元号よりも干支赤字を使用する事が多かったようだ。

民衆に馴染んだのは明治から

明治時代に改元ルールが改変される。 「一世一元の制」(天皇の在位中は元号を変えない)が導入された事で、元号が日本国民に定着していった。

[246] このウェブページは頻繁に改元されるから馴染まなかったと主張しています。 それ以上の根拠や出典は記載なく不明。

[97] Xユーザーのyunishioさん: 「あとさー、日本で元号が使われたのはせいぜい儀礼的な文書(公卿の任命書とか)、契約にかかわる文書くらいで、一般には使用されてないんだよね。🙂 たんに年数を数えるだけなら干支で事足りたので、庶民はみんな干支ですよ。あとはざっくりした時代区分(元禄の世とか)。😎 https://t.co/bVU4qq3Avk」 / X, , https://twitter.com/yunishio/status/1721439557210812924

[98] このように元号廃止論デマになっている。

[99] ところで「元禄の世」は元号ではないのか...

[100] 元号廃止論の人は元号明治政府に強制された「新しい伝統」だと主張したいために、 それ以前は元号が使われていなかったことにしたいようです。 いわゆる歴史修正主義の一種です。

[101] 「昔はいろいろな紀年法を使っていた。これからもいろいろな紀年法が使われていく。」 では何がいけないのでしょうかね。

[193] 「天下」支配権の所在を示す 元号の成り立ちと役割:日本古代から近世まで(池享) | Web日本評論 () https://www.web-nippyo.jp/13171/#%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7

しかし、民衆側がそれをそのまま受け入れていたわけではない。日常生活で普通に使われていた紀年法は、おそらく干支だっただろう。頻繁に改元が行われる状況下では、元号によって時間を計ることにはかなりの無理がある。平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったかなど、すぐにわかるものではない。しかし、干支は60年で一回りするので、効力の永続性が求められる土地売買の証文などには、元号が記されている。そうした限定された機能しか、元号は果たしていなかったと思われる。

[104] 「平氏追討を命じる以仁王の令旨が発せられた治承4年が、平氏が滅亡した元暦2年の何年前だったか」 を「民衆」が「日常生活」で「すぐにわか」りたいという場面を想像するのがそもそも難しい。 そもそも「日常生活で普通に使」う紀年法という概念が、 どんな状況を想定しているのか謎。 当時 (源平合戦の頃?) の「民衆」の「日常生活」で紀年法を使うのがどういう場面なのか。 それを明らかにしないまま日常で使う、使わないという話をしても意味がない。

[112] 元号 全247総覧 >>110 pp.28-29

庶民にとって縁遠かった元号と、はっきりしない元号の読み方

日本で、公式の記録に元号が使われるようになったのは、「大宝律令」で定められてからのことだ が、実は庶民の生活で元号が使われることはなかったし、飛鳥時代に元号の存在を知っている人は、 朝廷周辺の限られた人々にすぎなかった。

日本の律令制度が完成する奈良時代になると、さすがに (ぐん) () (地方を治める役人) あたりまでは 文書で伝わった。その郡司から (さと) (おさ) あたりまでは、口伝てされたかもしれないが、それが庶民の間 にまで広がることはなかったと考えられている。なにしろ、当時は文字を読み書きできるのはごく わずかな人に限られていたし、人々の暮らしに元号はまったく関係のないものだった。

そうした時代は長く続いた。元号が一般庶民まで伝わるようになったのは、江戸時代になってか らのことである。幕府や諸藩は、庶民に () (ふれ) (がき) や日常用務を通達するために (かい) (じょう) を出すシステムを つくり上げた。

改元の際も、江戸幕府はすぐに下部組織に改元の旨を伝え、それが「代官 (領主)」より廻状とし て各村々へ順達され、各村では「御用留」にその内容を写し取って記録。村の名主は、その内容を 村人たちに読み聞かせるようになったとされる。

[113] >>112 これは大筋においてはおかしな記述ではないのですが、見出しで「庶民とは縁遠」 いとまとめてしまうのは、誤解を招くものです。 「庶民」とはどの時代のどの層なのかよくわかりません。本文では江戸時代の庶民に元号が伝わったと書いているのですから、 見出しが本文の要約として成立していないのです。

[114] 本文も細かい点には疑問が残ります。大宝律令以後の飛鳥時代といえば大宝慶雲和銅の時代ですが、奈良以外の金石文木簡戸籍元号を書いた例が知られています。 日本古代の日時 「朝廷周辺の限られた人々」 が何を想定しているのかよくわかりませんが、その字面から受けるイメージよりは広く使われていたように感じられます。

[115] 中世には石造物などで元号が書かれたものが日本各地に造られ、設置されています。 「庶民」の範囲によりますが、少なくてもそうしたものを作れる知識人が全国各地、 地方の山間部にまで広まった時代で、 自分自身が読み書きできない下級農民などであっても日常風景として見ていたはずです。 「庶民とは縁遠」いという言葉のイメージほどには遠い所にあったようには思われません。

元号の一覧

[566] 元号 (やその他の紀年法) の一覧:

[569] 地域ごとの元号の時系列一覧:

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元号、改元日、読み方などの一覧表や換算ソフトウェアの実装状況などは元号一覧

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元号

研究史

[11] 元号改元については古くから支那でも日本でも様々な議論がなされてきました。 近代日本の学問としてもいろいろな角度から研究されてきました。

[89] といっても昭和時代後期の時点で元号に関する刊行済みの史料はほとんどありませんでした。 類聚国史大日本史 のような前近代の歴史研究成果にも、 元号の特集はありませんでした。 群書類従 も雑部に菅原道真編御記三善清行革命勘文 を掲載しているだけで、 塙保己一は当初元号関連史料を集める必要性を認識していなかったようです (が続群書類従で大量に収集整理されました)。 >>88

[87] 史料集成として、 続群書類従公事部 (巻二七八-二九一など)、 古事類苑歳時部年号, 明治41年刊がありました。 >>502

[16] 森鴎外は、 元号考 (大正15(1926)年) で日本の元号の典拠を検討しました。 森の研究は吉田増蔵に引き継がれ、 昭和改元に活用されたと考えられています。 元号考

[86] 森本角蔵は、 日本年号大観 (昭和8(1933)年) で元号の選定手続きや採用案・候補案の提案者や出典などを総合的に明らかにしました。 後に所功は、日本の元号の「すべてについての本格的な研究成果」 は本書くらいだったと述べました >>13 普及版 p.2

[14] 山田孝雄は、 年号読方考証稿 (昭和25年) で日本の元号がどう読まれてきたかを明らかにしました。 元号の読み方

[184] 石田茂作久保常晴は、 日付表記の形式を研究しました。 東洋の日時表示

[12] 久保常晴は、 日本私年号の研究 (昭和42年) で日本の私年号の全体像を明らかにしました。 詳しくは私年号古代年号日本の中世私年号

[23] 瀧川政次郎は、 元號考証 () を著しました。 >>24

[15] 所功は、 昭和末期から日本の元号制度に関する多数の論考を発表し、 日本の年号 (昭和52年)、 年号の歴史 (平成元年) として出版しました。 それでも「まだ判らないことが沢山あり、さらに調査研究をしなければならない」 ところ「公私とも多忙」で進まず >>13 普及版 p.2、 平成末期になり若い世代の研究者と共にようやく 日本年号史大事典 (平成26年) が成ったといいます。 日本年号史大事典平成までの日本の元号制度を総合的かつ詳細に説明した、 日本の元号研究の現時点の集大成というべき書籍です。

[18] 日本の年号には 年号関係文献目録 が収録されました。 年号の歴史所功日本の元号に関する既存の研究として >>87>>16>>86>>14>>12>>23 を特に挙げたほか、 「年号に直接関係のある研究論文」が数十篇あったとしました。 >>502 日本年号史大事典には、 さらにその出版時点まで増補された目録が収録されました。 日本年号史大事典

[69] 所功は、 日本年号史大事典編集時に痛感したこととして、

... を挙げました >>68

[72] 平成31年に出版された 年号と東アジア―改元の思想と文化― の序文で、 水上雅晴は、 本書が所の挙げた2つの課題を「解決する一助になり得る」とし、 「年号学」なる学術領域が将来構築されるなら、 本書中の各論点が 「基本的な枠組みを形成する、と思われる程に多彩な論考」 を集めたものだとしました。 研究分野としては、 中国哲学、 中国科学思想史、 日本漢字、 日本史 (古代、中世、近世)、 朝鮮史、 ベトナム史、 日本思想史、 日本文学、 国語学、 日本法制史、 書誌学などを含むものであり、 今後の元号研究に少なくてもこれら領域の研究者の参画が必要だ、 としました。 >>67

[73] 歴史学の範囲を超えた総合的な「年号学 (元号学)」 としての発展を目指すには、 さらに加えて現代社会における元号と西暦の受容、 元号以外の紀年法との文化論的比較、 情報システムの日時処理と元号、 創作物における日時、 などといった観点も必要になって来ましょう。

[17] 日時制度の諸相の中で日本の元号は比較的関心を集めやすくよく研究されてきた分野といえますが 日時研究 、 それでもなお未解明なことは多いようです。

[242] 元号、特に日本の元号については実は個別の研究は既に膨大な蓄積があるのですよね。 でもそれら個別研究をまとめて俯瞰するタイプの研究はそれほど多くないから、 全体像がはっきり見えてる部分がまだまだ少ない。 そしてそこから視野を広げて行こうとすると、まだまだわからないことだらけで、 個別の研究だって全然足りてないじゃないかと呆然とするんです。

メモ

[9] KJ00000189327.pdf () http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2799/1/KJ00000189327.pdf

[47] 暦Wiki/歴史/元号 - 国立天文台暦計算室 () http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB8B5B9E6.html

[85] 古事類苑 (歳時部三, 年號上, 第 1 巻 155 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000155.html

年號ニシテ正史ニ見エズ、僅ニ金石文ニ存スルモノ、又古キ年代記、古社寺縁起等ニ記サレタルモノアリ、之ヲ逸年號ト謂フ、多クハ僧徒輩ノ僞作ニ係ルト云フ、又後世亂離ノ際、政令遠遐ニ遍カラズシテ、邊土ノ民、私ニ異號ヲ用ヰシコトアリ、之ヲ僞年號ト謂フ、今併セテ逸年號ノ後ニ載ス、

[181] 《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題 - ライブドアニュース () https://news.livedoor.com/article/detail/19333042/

[190] (, ) https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf

[191] 京都産業大学 学術リポジトリ (NetCommons, ) https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10274&item_no=1&page_id=13&block_id=21

日本文化研究所公開シンポジウム : 元号の世界 : 最新の研究から

[192] 服部英雄のホームページ (, ) https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//uugon.html

[659] 歴史の見かた, 和歌森太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12148751/1/78 (要登録)

[251] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)

[177] 12_2022_ippan_nihonshi.pdf, , https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2022/07/12_2022_ippan_nihonshi.pdf#page=3

[141] 6.吉田家文書の調査・撮影 - 東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo, https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/46/saiho_46_006/

44 年号覚書

[610] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/5 (要登録)

[654] >>653 令和改元の直前に出版された本。日本の公年号を一覧しそれぞれに解説を加えている。一般向けの書籍であり、学術的には特にこれといったところは見当たらない。

本編は編集部によってまとめられたものという。その前に十数ページほど宮瀧交二による解説があるが、これも一般向けに平易に概要をまとめたものにすぎない。

[655] >>654 その解説中で、第二次世界大戦後何年や阪神タイガース優勝から何年という言い方と元号の類似性を指摘している (単にそれを指摘しているだけで、特に何か用例を示したり考察したりしているわけではない)。 戦後, 阪神タイガース

[656] >>654 またその解説では法興元云々は法興という元号ではなく法の興った元(はじめ)から何年の意味だと思うと著者の感情が紹介されているが、 特に根拠は示されていないし何かを引用しているわけでもない。法興六年には言及もしていない。