保和

天靖

[31] 天靖 (旧字体: 天靖) は、 後南朝の元号とされるものの1つです。

[356] 近世を遡る実用例がなく、 天靖および関係する元号がどのように成立し今に伝えられたのかは謎が多いです。

元号名

[23] 読みは「てんせい」とされます。 >>1 /82, >>5, >>11, >>12

[5] 天靖(てんせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク, 精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%9D%96-1374298

てんせい【天靖】

私年号の一つ。嘉吉三年(一四四三)に当たる。この年、南朝の遺臣日野有光らが後亀山天皇皇子金蔵主を擁して宮中に乱入し、神璽宝剣を奪って延暦寺に拠ったが敗死した事件(禁闕の変)があり、彼らの使用した年号。

出典 精選版 日本国語大辞典

【異年号】より

1443年(嘉吉3)天靖の年号が南朝の遺臣の間で用いられ,15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。…

【元号】より

南北朝合一後に南朝の遺臣の間に天靖という私年号が用いられたことが知られる。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

天崝

[435] 長慶天皇落人伝説に関係して天崝 (新字体: 天崝󠄂) と大道後南朝元号とする江戸時代の元和8年付けの文書があり、 明治時代以後に出版されています。 日本南北朝時代の日時

[49] 天崝󠄂天靖の誤りではないかといわれています。 日本南北朝時代の日時

天請

[313] 天請 (旧字体: 天請󠄄)

[38] >>319, >>110天靖から変化したもの。

天晴

[315] 天晴

[283] >>319, >>20, >>366天靖から変化したもの。

[314] >>280は他の時代。天靖との関係は不詳。

[373] 幕末の私年号にもありますが、無関係です。 天星

紀年法

[120] ほとんどすべての資料が、 元年としています。

宝暦3年説

[119] 昭和時代初期の 最新日本歴史年表 は、 嘉吉3年との両方に 「天靖 」 と書いています。 索引でも両方を掲載しています。 >>118 /142, >>118 /143, >>118 /12 しかし年表という性質上、その根拠は記載がありません。 >>69

[121] 日本私年号の研究は、 この資料だけが両説を挙げることを紹介しつつ、 根拠がないため通説通りに嘉吉3年としています。 >>69

[150] 近い時代の「3年」で、掲載ページも1枚めくってまったく同じ位置です。 何らかの編集作業上の手違いで発生した誤説の可能性もあります。

近世系図資料

上嶋譜

[255] 昭和時代日本国兵庫県伊丹市で発見された 上嶋譜 は、 上嶋氏の系図ですが、 南朝関係の次のような日付がみられます。 >>162

[256] : の左側は >>162 により、右側は干支年に基づく比定年を表す。

[257] 日付表記の方法の揺れはあるものの、 初出は丁寧で徐々に省略されていくという規則性に気まぐれのようなぶれと誤記が混ざった感じなので、 系図になる前の原資料の表記揺れが反映されているかは疑わしく、 系図作成者のある程度の統一の意図が感じられます。

[260] 元号年年の字の間に干支年を書くのは近世の書き方とされます。 東洋の日時表示

[258] ところどころ誤記または誤写はあるものの、 公年号干支年の対応はほぼ完璧で、 独自元号の自己矛盾もなく、 どこかの段階で年表のようなものを見ながら正確に年を表記できたと思われます。

[259] 南朝退転の記事の後に独自元号が途切れると共に記事自体が少なくなるので、 元号と記事は何らかの後南朝資料から採取したと考えられます。

[261] 南朝時代の世代と天靖からの世代がきっちりわかれていて、 両者にまたがる世代がなく、 その間の記事もないことには注意が必要かもしれません。

[297] 公年号を除くと、

  • [298] 天靖1(1443)年癸亥9月11日
  • [299] 天靖1(1443)年癸亥9月26日
  • [300] 天統1(1444)年甲子1月1日
  • (天統2)
  • (天統3)
  • [301] 天統4(1447)年丁卯1月6日
  • [302] 天泰1(1448)年戊辰1月1日
  • (天泰2)
  • [303] 天泰3(1450)年庚午11月1日
  • [304] 天和1(1451)年辛未1月1日
  • (1452)
  • (1453)
  • (1454)
  • (1455)
  • [305] 延治1(1456)年丙子1月1日
  • [306] 延治1(1456)年丙子2月3日
  • (1457)
  • [307] 保和1(1458)年戊寅6月1日
  • [308] 保和1(1458)年戊寅11月11日
  • (1459)
  • :
  • (1464)
  • [309] 健享1(1465)年乙酉1月20日
  • [310] 健享2(1466)年丙戌1月7日
  • (健享3)
  • (健享4)
  • [311] 健享5(1469)年己丑冬

の範囲の日付が含まれています。

[330] よく知られている天靖の他に、 天統, 天泰, 天和, 延治, 保和, 健享と一連の元号が使われています。

[312] ないし明応説にちょうど接続しそうにも見えますが、 不思議とその時期の直前で終わっています。 これは偶然でしょうか。筆者は明応を知らなかったのでしょうか。

[331] 他の史料にまったく見られず、これを直ちに史実と考えるのは大変躊躇されるものですが、 近世頃にこうした元号後南朝を記述しようとする人がいたことはおそらく認めてよいと思われ、 貴重な史料です。

[332] 厳密にいえば確定できるのは昭和時代にこの資料が出現したことと天靖近世初期に存在していたことだけなので、 この資料と各元号近世初期に遡るのかはなおも検証が必要です。

[333] 元号名は一般的な私年号と違って仏教色が見られず、 他の公年号に使われがちな文字で構成されていることに着目できます。 ただし「靖」と「健」はあまり例がありません。 「健」は「建」を意図していた可能性もあります。 「靖」はに例がいくつかあります。

[334] 天統 (天統六年), 天和, 延治立原翠軒が採録した賀名生堀家の家譜に用例があるとされます。 この家譜の紀年は 上嶋譜 とは一致しないところがあるとのことです。 >>157

[357] 天統は他に大陸公年号としての利用例があります。また、 朝鮮半島では偽史で使われています。 渤海国の元号

[265] 生理学研究 2(11), 国民生理学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1544667/1/9 (要登録) 左

[266] >>265天泰元年」とあるが並びからおそらく天養元年の誤り。 「清和帝觀元年」も貞観元年の誤り。

武家功名記

[43] 武家功名記 (本朝武家高名記) の上島、下島両家の章に、 「天靖元北ハ嘉吉三年ナリ」 (楷書) とあります。 南北朝時代南朝の元号と同じ書き方です。 >>42

[44] 後醍醐天皇の5世の正統の主を奉じて南朝を再興したとの記事です。 >>42

[153] 編纂当時に使われた原資料と深い関係が想定される 上嶋譜 (>>255) が昭和時代に発見され、 天靖の記述があることが平成時代末期に報告されました >>162

[327] 上嶋譜 には 本朝武家高名記 にない天靖より後の元号も書かれています。 上嶋譜 の原形ないし原資料と 本朝武家高名記 の原資料の関係の解明が待たれます。

[328] 本朝武家高名記 には天靖1件以外の日付が書かれていないのは気になる点です。 それ以外は些事として省かれたのでしょうか、 それとも 本朝武家高名記 の原資料には存在していなかったのでしょうか。

[329] 上嶋譜本朝武家高名記 も、細かな表現は異なるものの、 南朝の元号天靖に「北ハ」と北朝の元号を注釈する形になっています。 これは注釈まで含めて元号部分が共通の原資料に由来するとみていいでしょうか。


[50] 江戸時代以来多くの研究者がこれを直接または間接に参照しました。 江戸時代から現在までのほとんどの天靖の情報は遡ると本書に到達します。

[56] 江戸時代水戸学小山田与清 (-) 松屋叢話 は、 武家功名記天靖元年と書いて嘉吉3年と注釈されており、 後南朝がこの頃まで年号を建てていたと考えられるとしていました。 >>53 (また、中世私年号全般を後南朝に関係づけていました。 日本南北朝時代の元号 )

[33] 江戸時代の研究者伴信友によると、 忠義王嘉吉の頃に天靖建元したことがあり、 上島下島両氏の古家牒に記されているといいます。 >>208, >>66 明記されていませんが、 武家功名記 を直接または間接の出典としている可能性があります。

[161] それらしきものが現存するので (>>154)、 伴信友が実見できた可能性も一応ありますが、 だとすると他の元号にも言及があるはずで、 天靖のみということは孫引きの可能性が高いでしょう。

[71] 昭和時代日本私年号の研究は、 伴信友逸年号表補考から武家功名記を引いています。 >>69 資料1

[51] 江戸時代から明治時代に一部で主張された私年号 (中世東国私年号を含む。) を後南朝元号とする説の中でも、 武家功名記 が引かれました。 日本南北朝時代の日時

後南朝史書

[151] 江戸時代以後に作られた後南朝をテーマにした史書の多くが天靖改元記事を置いています。

[30] 江戸時代の研究者飯田忠彦 (-) 野史は、 嘉吉3年に天靖元年と建元したと書いています。 続正統記、 紀伝、 上月記を出典としています。 >>2

[57] 江戸時代から明治時代の研究者菅政友 (-) 南山皇胤譜 は、 松屋叢話 (>>56) を引いた上で、 それを時代から尊秀王に比定しました。 >>58

[64] 干支年についても記述があり、日本南北朝時代の日時参照。

[61] 昭和時代南山遺響 は、 松屋叢話 (>>56) を引用して天靖を使っています。 >>60 /88

[62] 編年には公年号を使っていますが、 天靖も併記しています。

[63] 巻末まで併記は続き、最後は「南方天靖十六年」です。 >>60 /103

[65] 干支年についても記述があり、日本南北朝時代の日時参照。

南朝遺史

[21] 明治時代の研究者林嘉三郎による史書南朝遺史は、 「 (テン) (セイ) 元年」 (楷書) から 「天靖十三年」 (楷書) までで編年しています。 >>1

[29] 嘉吉3年9月までは、南朝の元号と合一後は北朝の元号で編年されています。

[24] 天靖元年条に、嘉吉3年を天靖と改元したとあり、 嘉吉3年10月から長禄2年までとあります。 >>1 /82

[25] 吉野の奥十津川を御所とし天靖と改元したとの記事があります。 続正統記、 南方紀伝、 上月記、 野史、 上島下島家牒、 残桜記が出典とあります。 >>1 /83

[26] 残桜記によると改元は神器を犯擁したためとされます。 >>1 /83

[27] 干支年についても記述があり、日本南北朝時代の日時参照。

[102] 天靖13年乙亥条まであります。

[28] 翌年は「康正二年」 となっており、以後北朝の元号で編年されています。 >>1 /96


[73] 明治時代後期に編纂された地誌 大日本地名辞書近江国甲賀郡長野条に、

南朝󠄃遺󠄃史󠄃云、嘉吉三 年、楠二郎は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び、攺元し て天靖の號󠄂を建󠄁つ、信樂谷小川村大光寺は法親王の暫 く留まらせ給ふ所󠄃歟云々。

とあります。 >>72

[75] 大正時代甲賀郡志に、

〔南朝󠄃遺󠄃史󠄃〕 嘉吉三年、楠二郎は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び 改元して天靖の號󠄂を建󠄁つ。信樂谷小川村大光寺は法親王の暫く 留まらせ給ふ所󠄃歟云々。

とあります。 >>74

[76] 昭和時代中期の日本私年号の研究に、

資料2 『南朝遺文』にも、その根拠となる資料はあげていないが、嘉吉三年に楠正儀の子孫の二郎という者が、

空因法親王を奉じ甲賀郡に及び、改元して天靖の号を建つ。信楽谷小川村大光寺は法親王の暫く留まらせ給ふ 所歟

と、述べている。

とあります。 >>69

[84] 南朝遺史 について、 国会図書館デジタル, Google検索, 国書データベースのいずれでも、 >>1 と異なる本の存在は確認できません。

[85] 南朝遺 について、 国会図書館デジタル, Google検索, 国書データベースのいずれでも、 該当しそうな書籍は確認できません。 昭和時代 >>86 は明らかに異なります。 平成時代の文化財報告書に引用があります >>87。 他は 日本私年号の研究 の孫引きと思われるものしかありません。

[88] >>73 >>75 >>76 は細部が違いますが、明らかに同系統の文章です。 これらに一致する部分は >>1 に見い出せません。 が、その構成要素は >>1 に含まれています。 >>73 は「南朝遺史云」で文を始めていますが、 原文のそのままの引用ではなく要約だったりするのでしょうか。

[89] >>73 >>75 >>76 は互いに参照していませんが、 国会図書館デジタルの全文検索の範囲では >>73 が初出と思われます。

[148] 日本私年号の研究 はこの資料を元に、 武家功名記 系とこの資料と少なくても2系統の異なる伝承があると判断しました (>>96)。

[149] しかるに、オリジナルの 南朝遺史 まで遡ると氏が云々、甲賀郡が云々といった情報と天靖改元の情報は必ずしも結びついていません。 南朝遺史 が出典として示す資料も、 改元のことを記すのはみな 武家功名記 系統の資料です。

[369] なお甲賀郡改元説はその後発展を見なかったようで、 平成時代以後これに言及したものは見当たりません。


[16] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/104 (要登録)

小倉宮と尊義王を擁立して南山で蜂起、 嘉吉3年改元して天靖、 記録に残っている、 吉野あたりの古文書は合一後も北朝元号を使っていない

[14] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/137 (要登録)

嘉吉3年10月 天靖建元

[17] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/122 (要登録)

嘉吉3年10月 天靖元年 建元 自天王 川上村の奥三之公

[18] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/95 (要登録)

嘉吉3年10月 南方、天靖と建元

[123] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/68 (要登録)

南朝遺史から「天靖十三年(康正元年)二月五日

[124] 昭和時代の研究者田村吉永私年号六題は、 吉野川上村史後南朝記 を引いて天靖は13年までは記録に残っていると報告し、 吉野川上村史後南朝記残桜記国史便覧 を引用していると紹介しました。 >>69, >>379

[125] これは具体的には >>123 とその前後のページを参照していると思われます。

[380] また、私年号六題後南朝論集 (昭和31年12月2日発行) で滝川政次郎嘉吉の乱のとき北朝と別の元号を建てたと書いていること、 しかしその元号自体については何も書いていないことも紹介しています。 >>69

[381] 田村吉永は、天靖が13年続いたものなら、これこそ私年号というべきものだと述べています。 しかし、出典のいずれも二次資料であり、「当時の史料としての記録」 には見出し難く、当該元号を書いた「文書記録を一見したいものである」とまとめています。 >>69

[382] 昭和32年という時点で天靖の実在を確定できる史料が皆無であることを指摘できたのは慧眼というべきでしょう。 近現代歴史学の基本とはいえ、天靖の存在が広く信じて疑われなくなっていた時代のこと、 他の研究者はみな実在を前提にしてしまっていました。

[383] 奈良県下で私年号史料を探し求めた田村吉永だからこそ、 人々の記憶から消えていた私年号が出現するのに、 13年も続き知名度も高い天靖の実態がまったく掴めないことに疑問を持ったのでしょう。

[384] しかし残念なことにこの問題提起を昭和時代平成時代の研究者らが活かすことはできませんでした。

[385] なお私年号六題の冒頭には「元靖」とあります。1箇所だけで、 他の資料にも見えないので、単発の誤植と考えられます。

近現代吉野周辺住民による歴史記述

[19] 後南朝史論集 : 吉野皇子五百年忌記念, 後南朝史編纂会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3006092/1/148 (要登録)

[354] >>19 天靖も10年を数え (のこと)


[341] 大塔宮之吉野城, 中岡清一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1256257/1/277 (要登録)

[342] >>341阪合部村大字上野 櫻井後藤次所蔵の 櫻井氏系圖 が収録されています。 (わかりにくいですが) その続きと思われる人物説明中、 宣澄なる人物の条に、 南朝天靖7年春、同九年、同十三年とあります。

[343] それに対する注釈で、後亀山天皇の皇子小倉宮の御子が吉野朝の回復を目指して吉野郡即位し、 天靖と称した、 と説明があります。

[347] この注釈が誰によるものかわかりませんが、人物説明が漢文であるのに対し注釈はかな漢字混じり文で、 大塔宮之吉野城著者によるものと思われます。

[364] 櫻井後藤次家所蔵文書は史料集などで参照されていることがありますが、 桜井家系図やそれを参照した論文などはウェブ上では他に発見できません。 いつ成立したものかなど不明です。


[344] >>345 /52 は 「後南朝廷の存在を窺う史料として、次の文献がある」 として 「大塔宮之吉野城」 なる資料を示しています。

[346] それがどこにあるどのような性質の資料なのかまったく説明がありませんが、 昭和時代初期に同名の書籍があり、 そこに収録された系図資料中の一節 (>>341) の漢文書き下して語句を補ったものです。

[348] 改変して引用したものに原文収録書籍の題名を付けて史料と呼ぶのは斬新です。 或いはその中間的な資料が何か (昭和時代の誰かの読書メモとか?) 存在していたのでしょうか。 どちらにしても信頼できる史料といえないことは確かですが...

[349] こちらの大塔宮之吉野城では、 南朝天靖七年春には宝徳二年カ、 南朝天靖九年には享徳元年カ、 南朝天靖十三年正月には康正二年カと注釈があります。

[350] 注釈は通説通りの公年号への換算ですが、「カ」と確定させないのはなにか理由があるのでしょうか。

[351] なお乙亥年文書について日本南北朝時代の日時参照。

[352] 本書は川上村住民により執筆されたものです。 美作後南朝説に対しては懐疑的ながらも肯定も否定もせず参考にはできるという温度感で紹介しています。

[353] 天靖に対する温度感はちょっと興味深いですね。地元にそれを使った記録がないからでしょうか (>>342 は一応奈良県域ですが)。


[371] 昭和時代初期、 天川村出身の井頭利栄は、 天靖を用いた古文書が天河社家に保存されているはずと書いています (が具体例は示していません)。 天靖元年から天靖十三年まで天靖を使って出来事を記述しています。 >>370

[372] 明応も参照。
[270] 後南朝序曲 ( 版) http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap4/01gonancho.html

去る元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)、後亀山天皇が還京されて以来五十余年ぶりに「天靖」と云う南朝年号が復活した。

その他の後南朝史記述

[201] >>200 南朝史が説明されている。

[362] 吉野朝と高野山 : 並芳山千株乃遺薫・長慶院御陵立証, 岩谷白嶺, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1264647/1/101 (要登録)

[363] >>362 嘉吉3年10月に改元の記述があり、 その後天靖13年まで年表上で併記されています。

[378] 平田篤胤全集 〔第4〕, 室松岩雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1088265/1/55 (要登録) 左上

玉たすき: 私に年号を立て天靖元年

吉野葛

[11] 谷崎潤一郎 吉野葛, , https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56867_58205.html

[79] 後南朝を題材にした作品ですが、単なる歴史小説ではなく、 作家の随筆の形を取っています。

[81] 時代背景として、南北朝正閏論があります。

[80] 現代日本において文学研究の題材にもなっています。

[4] https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00790001-0043.pdf?file_id=70361 #page=16

[7] 和州探訪 ~いにしえの旅人とゆく深く美しい日本~, , http://www.enyatotto.com/yamato/sannoko/sannoko.htm

[77] 18.shibata_ronnbun.pdf, , https://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics//journals/2018ics22/18.shibata_ronnbun.pdf#page=12

[78] >>11>>21 など信憑性の低い資料に依拠している >>77 とされます。

後南朝皇胤諸説

[358] 後南朝には謎が多いため、独創性が大いに発揮された説がいくつもあります。 しばしば元号にも独創性が表れています。

[359] 天靖は1次資料が皆無 (= 新設定を入れ込む余地が大きい) である一方、 江戸時代以来その実在性は研究者も含めて広く信じられている (= 信憑性の根拠にできる) という便利な元号のようです。

[361] そもそも吉野地域の後南朝伝承も根拠が疑わしい部分が少なくなく、 現在それが信用されているのは江戸時代以来の歴史研究者と現地住民の共同作業の結果のようなところがあるようです >>360。 だとすると吉野後南朝説を信じてそれ以外の後南朝説を信じないという線引きには説得力がなく、 吉野後南朝における天靖も信頼できる史料に基づき議論するという基本に立ち返ることが必要でしょう。
[272] 本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?: 戦国史最大の謎、本能寺の変の真実!, サイボーグ, 時刻 13時16分, 閲覧, 閲覧 http://sengoku-1.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fc5a.html

また信長が強く押した「天正」なる元号はとなりの中国にもあるが、その時の王の名は「豫章王」、豫とは「巨象」を示す文字である。

信長の跡継ぎ信忠を生んだのが、その生駒山に名のちなんだ家の女なのは、偶然の一致なのだろうか?

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。


[374] 令和時代の独創的な歴史観を披露したブログ記事の中に、 南朝元号としてを書いたものがあります。 >>20

[375] この記事には後南朝明応の1説も使われています。 明応
[20] 麒麟が来るが終わって マムシの道三は三人いた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。, 2021年02月10日 10時30分32秒, https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12655765321.html

そして六年後の嘉吉三年(南朝年号天晴元年一四四三)九月二十三日には、「楠木二郎」の率いる河内の武者共が、皇居の北門より入って清涼殿を占領。

神器を取り返し後村上帝の玄々孫の尊秀王の即位の儀をおこない、京をでて叡山の根本中堂によって幕軍を迎えうった。しかし南風競わず尊秀王以下楠本二郎も包回されて殺された。

美作後南朝説

[34] 美作後南朝説では西暦1443年10月29日美作植月御所尊義親王 (高福天皇) が即位したとされます。 >>12, >>37

[35] 美作後南朝説は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。

[36] 改元は西暦1443年12月 >>15 25日 >>37, >>285 のことだとされます。 >>15, >>37

[117] 嘉吉3年12月25日という日付は三河吉野朝説にも出現し (>>108)、 何らかの共通の元ネタがありそうに思われますが、不明です (それともどちらかの独自説を他方が採用したのか)。

[12] 美作(後南朝と菅家)探訪記, 山崎泰二, , http://www.hasukura.com/site/7yamasaki.pdf#page=4

正史南朝最後の第 99 代後亀山天皇からそ の孫の尊義(たかよし)親王は三種の神器を 奪回し美作の植月にて第 101 代高福(こうふ く)天皇として 10 月 29 日即位します。年号 も嘉吉から天靖(てんせい)と改元(1443) され美作後南朝初代であります。

[6] 舞!組曲 <日本! 115 南朝( 義仁王、義有王、尊雅王、信雅王 )>, http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n115/

あるいは嘉吉3(1443)年に義有王は吉野新帝と称し、南朝の年号を天靖元年とした という(※2)

尚、義有王には『美作南朝(津山市付近に存在した後南朝)』における異説が有る。 紀伊で戦死の報に接した美作の尊義王(高福天皇;美作南朝の初代天皇)は義有王の 6歳の遺児を猶子とし、美作南朝第二代天皇である尊雅天皇(興福天皇)としたとい う (※3)。年号の「天靖」は美作南朝でも用いられている。

(※2)伊藤獨氏著『悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について』

(※3)原三正氏著『美作天皇記』


[366] >>365 では元号名天晴とされ、即位改元がになっています。

[365] 王子御塚社(後南朝第三代忠義天皇陵) - 津山瓦版, https://www.e-tsuyama.com/report/2018/01/post-1496.html

王子御塚社の由来(後南朝第三代忠義天皇陵)

1442年(嘉吉2)99代後亀山天皇長男小倉宮良泰親王第四皇子尊義親王、植月御所で即位、御南朝高福天皇と称し年号を天晴と、改元1446年2月15日高福天皇第二皇子忠義親王誕生、1458年第二代興福天皇崩御の後、第三代忠義天皇と称し即位、その後10年、1467年京郷に応仁の乱起こり、山名宗全が忠義天皇を京都に迎え、1471年京都北野梅松院に入御の後、安山院に天皇ろとして遷座ましますが応仁の乱後、山名刑部少輔清成と共に植月御所に遷幸、皇子尊朝親王に譲位し金森山新蔵坊(新善光寺)に隠居をなし禅定法皇と称す、1480年(文明12)3月17日、35歳にして崩御、この地に葬れりと伝えられる。平成8年10月8日 謹書(文:案内板より)(2018年1月6日撮影)


[274] 美作後南朝説では天靖の後に続く元号もあります。

[275] 興福天皇は天靖九年辛未正月八日 () の譲位即位改元して大明としたとされます。 >>45 /42, >>45 /102, >>285

[276] 興福天皇は大明八年戊寅八月二十八日夜 (長禄2年) に死去したとされます。 >>45 /45

[48] 東作誌所収土居妹尾家 (本陣妹尾良之助家) 所蔵古文献 仁田四郎忠常跨猪図 落款に 「大明五年亥正月十三日」 とあります。 >>45 /97, >>296 /301 左

[295] 南朝宋大明とは無関係です。

[277] 忠義天皇の8月28日に即位、 10月1日に改元して明応 (明應 >>285) としたとされます。 >>45 /48, >>45 /102, >>285 大乗院雑事記により実証されたとされます。 >>45 /48, >>45 /102 明応 文明元年は明応12年とされます >>45 /50

[278] その大乗院寺社雑事記の記載とは元年がずれていますが... 明応

[47] 乙亥七月十八日、乙亥八月八日の文書の「乙亥」は、 続け字の誤読で応仁元年丁亥とされます。 >>45 /49, >>45 /50 日本南北朝時代の日時

[46] 明応20年丁酉 (文明9(1477)年) に譲位したとされます。 >>45 /51, >>45 /103, >>285 それ以後は後南朝年号不明とされます。 >>45 /103

[286] >>285 の系図ではその後公年号文明が使われています。

[279] この明応は論者により少しずつ違う説もあります。 明応

[281] 明応公年号にもありますが、無関係です。

[280] 寛永3年 (とされるが誤りか、史実では) 10月20日に譲位された高仁天皇が寛永4年 (史実では) 1月に天晴改元したとされます。 しかし寛永6年(史実では西暦1629年)11月8日後水尾天皇から明正天皇譲位されました。 >>273 (寛永6年の譲位は史実通りですが、美作後南朝説ではその間に高仁天皇が割り込んでいたことになっています。) 明言はないのですが、元号も当然高仁天皇の即位抹消で消滅したことになっているのでしょう。

[368] >>367 にも寛永4年に天晴に改元された説があります。

[282] 天晴という日本国高知県を中心に使われた幕末の私年号がありますが、 無関係です。

[376] 平成時代初期の日本国高知県の郷土史家の論文によると、 日本国岡山県の人が高知県天晴の用例を、 南朝の元号ではないかと言ってきたそうです。 天晴 それが >>366, >>280 のどちらの系統を想定していたのかは不明です。

[377] 高知県の人は時代が合わないと取り合わなかったようです。 岡山県の人もそれで納得したのか、 美作後南朝説側に高知県の用例が組み込まれたという話は見当たりません。

[288] 昭和時代後期の論文 >>285, >>287美作後南朝説の全体を信じていないものの、 その中にも有用な情報はかなり含まれるとみて検討しているように思われます。

  • [289] 天靖を使っていることから、作者は大和国吉野郡の者だとします。 >>287 /21
  • [292] しかし大明は「文字の悪戯にしかならない」、 明応公年号と衝突するので「混乱迷惑するところが多い」 とまったく相手にしていません。 >>287 /21
    • [293] 両者は「悪戯にしては随分ではないか」と思い 「どのような意識でこのような発案をはじ めたものか多くの疑問がある」 とし、 「正史とは異なる空想のご とき年号を作り、何らかを自慰し画策を計っているがことく」 だというのです。 >>287 /22
[294] これだけはっきり否定していながら (でもその根拠は何も挙がっていないですが)、 この否定は2つの年号に対してのもので、全体に対するものではないのです。 そこまでいうだけの偽書なら全部信用できないと結論づけても良さそうなものですが...
  • [284] Ina - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=S1MzAAAAMAAJ&dq=%E5%B9%B4%E5%8F%B7

    38 ページ

    ... 年号を用いていることは、作者が大和国吉野郡人たることを証するものであると断ぜざるを得ない。すなわち尊義親王が第百一代をうけて、高福天皇に即位せられるのは三種神器併立のうえのことであり、それは嘉吉三年癸亥(一四四三)十月二十九日即位であり ...

    39 ページ

    ... 尊雅王で御父は義有親王になっている。興福院殿天皇大都正尊儀尚尊王のことで、御母皇后武野姫とあるも誤りで、実は井光伊藤五良兵衛大夫祐国女多美(民)なるも天靖六年戌辰(一四四八)三月二十八日誕生とあるだけ後後は記さず、武野姫の皇子となす。祭祀の場所によって諡名法号の異なるのは当然であるが、山伏修験者によっての御名であるように思われるところが少なくない。また美作後南朝たる植月御所での皇統順位 ...

    40 ページ

    ... 大明・明応年号の改元は悪戯にしては随分ではないかと思われるが、いったいどのような意識でこのような発案をはじめたものか多くの疑問がある。この系譜を公開することによって作者は如何なる利得を入手するものか、意図するところ 国ニ遷幸坐しまし、片 ...

    44 ページ

    ... 天靖四年丙寅(一四四六)貳月拾五日誕辰大明五年乙亥(一四五五)自宮城、苫田郡高野鄉西奥高倉東谷江遷座、称高野宮大明八年戊寅(一四五八)七月貳拾五日、成興福天皇東宮仍而埽植月北方仙洞御所 橫矢姫康正元年乙亥(一四五. 父尊義親王從遷座美作國勝田郡大明五年乙亥(一四五五)将兵卒自御所內鳥羽 ... 正月八日讓位、執政故通嘉吉-癸亥拾貳月貳拾五日、年號天靖改元(一四四三)九月二十三日三種神器奪還、楠木正秀、橋本兵庫助 ...

    45 ページ

    ... 八月貳拾八日夜刀疵重、於高福寺崩御、壽拾参在位七年、仙洞御所境内葬、高福寺境内祠尊霊称王子若宮称市川宮、天靖九年辛未(一四五一)正月八日即位年號大明改元六良盛矩女、天靖四年丙寅(一四四六)参月五日誕辰諱尊雅、父義有親王、母横矢姫、野長瀬興福天皇第百貳代第五拾参世文明拾年庚子(一四八〇)参月拾七日薨、壽参拾五葬上村之山陵、新藏坊境内壹 ...

    45 ページ

    ... 天靖九年)拾老月拾日誕明應九年丙戌(一四六六)参月貳拾参日誕辰二品叙、皇太子明應貳拾年丁酉(一四七七)父帝從、自京都植月 ... 大明八年戊寅(一四五八)七月貳拾五日、於鳥羽山見正庵襲赤松党小寺藤兵衛入道性說、肩口一刀浴、向北山仙洞御所逃走中倒土橋、即刻半山高福寺江舁入治療、同年八月貳拾八日夜刀疵重、於高福寺崩御、壽拾参在位七年、仙洞御所境内葬、高福寺境内祠尊霊称 ...

[15] , http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html

小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3年 (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。 

宝徳3年(1451) 尊雅親王は第2代興福天皇として即位、改元大明となった。

[273] , http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa02.html

天皇が勅許により京都の僧に与えた紫衣や上人号を幕府が取り消したこと等、 幕府の横暴に立腹された第108代後水尾天皇は退位を決意した。 度重なる 幕府の無礼と弾圧に怒りと絶望を詩に詠み、幕府に相談なく寛永3年(1632) 10月20日植月御所におられた美作南朝の9才の高仁親王に譲位され上皇の身 となった。

高仁親王は践祚の式をして高仁天皇となり、寛永4年正月、年号を天晴と改めた。 即位式は後水尾上皇の御所が完成してから京都で挙行の予定であったがこれは行 われなかった。 しかし、徳川幕府はこの譲位を快しとせず直系の興子内親王を天 子とするよう強要した。 後水尾上皇は幕府の恫喝に屈したため「寛永6年11月 8日譲位」と発表され、7才の興子内親王が明正天皇として即位した。 これを機 に幕府は南朝の弾圧を増々露にした。

寛永11年6月失意の高仁天皇は後水尾上皇との約束の履行を正すな どの交渉をさせるため津山藩初代藩主森忠政に 上洛させたが忠政は毒殺され、幕府は高仁天皇 を廃帝とした。

高仁天皇は貞享2年(1685)67才で崩じた。

[367] 霊仁王「角田清彦氏の至誠には心から感動」 - 定斎屋の藪入り, 2020-06-07, https://josaiya.hatenablog.com/entry/2020/06/07/220015

『正さねばならぬ美作の歴史』は美作後南朝正史研究会 霊仁王(こまひとおう)編著、発行は岡山市の流王農、発売は温羅書房。「謹呈 流王農」の署名と印。平成5年6月初版、平成10年11月2刷。昭和50年発行のものの新装版。写真が追加されてゐる。

美作国、現在の岡山県にあったといふ後南朝の存在を論証しようとした書。熱意が余って分かりにくいところもあるが、系図などの資料が参考になる。

「後水尾天皇御譲位の真相」は、正史では後水尾天皇は明正女帝に譲位されたことになってゐるが、実は美作国植月御所の高仁親王に譲位された。親王は高仁天皇として即位し、寛永4年を天晴と改元したのだといふ。灯篭に天晴と刻まれたといふ証拠写真も載せる。津山藩主の森忠政は、天皇即位式のために上洛したところ「桃之中江毒挿入」され毒殺されたといふ。高仁天皇は廃帝とされた。

三河吉野朝説

[104] 三河吉野朝説では楠木氏により三河国で擁立された南朝中興天皇元号天靖であるとされます。

[105] 三河吉野朝は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。 昭和時代初期に提唱されました >>106

[108] 嘉吉3年12月25日に空因法親王即位して中興天皇となり、 天靖改元したとされます。 >>106 /114, >>106 /144

[107]天靖十三年(康正元年)二月五日」 に中興天皇は死去したとされます。 >>106 /109

[110] 一部はなぜか天請󠄄となっています。 >>106 /147 誤植でしょう。

[111] 天靖は13年まで、 天請󠄄は14年と15年の用例があります。

[109] 南朝遺史 に従い吉野を調査しても遺跡が見つからないので、 三河が真の地だと主張しています。 >>106 /145 天靖南朝遺史 の説をそのまま転用したと思われます。

[267] 三河に於ける長慶天皇伝説考 : 民族学の視点から南朝の史蹟と伝説を探る 本編, 藤原石山, 南朝史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537843/1/28 (要登録) 右下

楠公秘史から引用、 嘉吉3年9月23日蜂起南朝中興天皇即位、 12月25日天靖改元。

/29 右下 「美作南朝史資料」 (『』なし) からの引用あり。 南朝遺史から嘉吉3年天靖改元

/29 左上 御贈位並位階御陞叙申請書 嘉吉3年9月23日蜂起南朝中興天皇即位、 12月25日天靖改元。

[268] 三河玉川御所と広福寺 : 南朝の秘史を伝える, 松井勉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537874/1/23 (要登録) 左

嘉吉3年天靖改元 (出典はとくになし)。

熊沢天皇説

[317] 熊沢天皇昭和時代に有名になった自称天皇ですが、 その系統の後南朝説も昭和時代に出現しました。 信頼できる史料に基づかない説です。

[337] 昭和時代のある本では本文と年表に後南朝元号を使っています。 >>316

[318] 年表南朝欄は南北朝合一で一旦空欄になりますが、 応永25年に「後亀山天皇」「元中」とあります。 >>316 /207 応永25年はの端にあたるで、 この自体には深い意味はないと思われます。 「元中」とだけあるのは本来「元中1」のように元号年も書かれるはずですが、 なぜか元号名しか入っていません。 復活して継続したことだけを漠然と表したかったのでしょうか。 その後また空欄が続きます。

[319] 年表の嘉吉3年は頁境界を挟んで2箇所あって、 1つ目は「天晴1」、2つ目は「天請1」となっています。 その後「15」まで続きます。 天請1年の天皇は小倉宮太上天皇とされ、 その後南朝中興天皇 (天請2年即位式記事)、 自天皇 (天請6年譲位記事, 8月15日 >>316 /120) の即位の記事がありますが、 改元はありません。 天請15年 (12月2日 >>316 /88) には自天皇の殺害と南天皇の即位の記事があります。 >>316 /208

[320] 年表南朝欄はしばらく空欄に戻った後、明応に続きます。 明応

[321] 本書中、天晴は年表の1箇所のみで、誤記または誤植の可能性が高いと思われます。 その他はすべて天請です。 天靖は1例もありません。 本書は他に長禄誤記または誤植しています。 長禄

[322] 天請の由来は不明です。 ほとんどが天請で天靖は0個なのですから、筆者は天請だと認識していた可能性が高そうです。 天靖と明らかに同じで、天靖の方が古いのですから、 天靖から生じたものとするべきですが、 筆者がこれを誤読、誤記したものか、原資料の記載に由来するのかは不明です。

[323] 天請 (>>313), 天晴 (>>315) とも他にも用例があり、偶然同じ誤記が生じたのか、 継承関係があるのか検討の余地があります。

[324] 小倉宮尊義親王中興天皇に即位して >>316 /87, >>318 /118、 嘉吉3年10月25日に天請と改元したとされます。 >>316 /87, >>318 /118, >>318 /129 天請2年に即位式があったとされます。 >>316 /87, >>318 /118, >>318 /127

[355] >>108 >>117 と10日違います。

[325] >>316 /129 には「天請元年十月二十二日」と遡及年号で説明があります。

[326] >>316 /129 には「南朝の天請十六年七月二 十五日の夜」 の説明があって、 「同年十二月二十日」 に南天皇が死去したとあります。 これが本書の天請の最後の日付です。

[336] 昭和時代の別の本では本文と年表に後南朝元号を使っています。 >>335

[338] 年表の嘉吉3年10月1日に「天靖元年」とあります。 それまでは南朝の元号欄は南北朝合一以来空欄でした。 >>335 /74 この日に吉野尊義親王即位して中興天皇となり、 同時に年号天靖と定めたとあります。 >>335 /74, >>335 /30

[339] 自天皇, 興福天皇即位を経て長禄2年が「天靖十六年」 とされます。 この年の12月20日に興福天皇が死去し、 次の年以後南朝の元号明応まで空欄になっています。 >>335 /75

[340] こちらの本には天請天晴は出現しません。 >>316 >>335 はほぼ同時期に出版され似た内容も多いのですが、違いも多いです。

研究史

[41] 天靖江戸時代後南朝元号の研究者の知る所となりました。 後南朝史の記述には必ずといっていいほど登場する有名な私年号でした。

[103] 中世東国私年号後南朝のものとする説のベースにもなりました。 日本南北朝時代の元号

[70] 明治33年から昭和37年まで主要な辞典類はすべてこの私年号を収録し、 嘉吉3年に比定していました。 >>69

[126] 昭和時代私年号六題で紹介されました。 一次史料が見当たらないことが指摘されています。 (>>124)

[90] 昭和時代中期の日本私年号の研究 は、

ことから、現存するのはすべて二次資料であるとはいえ、 「おおむねその実在を認めても誤りなかろう」 と判定しました。 >>69

[122] 先行する同著者の我が国の私年号に関する研究とほぼ同内容。

[128] また、

と分析しました。 >>127

[146] 先行する同著者の我が国の私年号に関する研究に大幅加筆。

[99] 以後、平成時代千々和到の表 ( 日本私年号一覧表 ) やウィキペディアの表 >>10 などもこの私年号を嘉吉3年が元年後南朝関係として掲載しています。

[100] 千々和到の表では元年が使われたとのみしています。 日本私年号一覧表

[101] ウィキペディアの表は15年まで継続としています。 >>10 根拠は不明です。

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
天靖-嘉吉3年(1443年)15『武家功名記』などの二次史料。後南朝関係者が使用。

[269] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/8 (要登録)

[271] >>269 南朝後裔の元号の例として天靖を挙げています。

メモ