天和

燕の元号

[10] の時代安史の乱支那地方の一部を統治した国, 燕の元号は数個ありました。

[1] 燕の元号

[2] 2代安慶緒載初, 天成と同じ年に2回改元したとされてきました。

[3] 中文Wikipediaは出土金石文から載初の期間にまだ聖武が使われていたことを引いて、 載初は実在しないものとしました。

[4] 中文Wikipedia墓誌から、 天成改元年を1年修正しました。

[5] 天成に当たる元号名天和, 至成を掲げるものがありました。 墓誌を信じるなら、これらは誤記等とみなすべきでしょうか。

[6] 3代史思明応天, 順天と同じ年に2回改元したとされてきました。

[7] 燕王として応天, 燕皇帝として順天と一応理由付けはされていますが、 記録に混乱があります。

[8] 旧唐書応天改元した後に、 順天改元かつ応天皇帝と称した、 としました。

[9] 応天順天も本来は1回の改元だった可能性を検討するべきように思われます。

[11] 史思明の応天年号: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201410/article_9.html

[417] 臆造类之背阴刻文钱 ——鎏金宫钱堪作证(十二) - 知乎, 辽金宫藏 草撰, 辛丑年 子月望, 发布于 2022-01-04 12:18, https://zhuanlan.zhihu.com/p/453018310

四、

3 安史之乱类之应顺元宝背大燕四年

相关赝品,应天通宝背亥、大燕二年

[15] >>417 「大燕四年」 「大燕二年」 銭を、民国紀元以前に国名紀年はなかった、という理由で贋作認定。

[16] この古銭もどきの真贋はともかく、この理由はまずいのでは。 国名紀年法は史記に記述された時代から存在してるので。