[1] 日蔵夢記には、 満徳法主天 (宇多法皇) が道賢上人日蔵に 「天慶三年を太政元年に改元せよ」 と伝えた、 とあります。 >>2 PDF 14頁
[18] 日蔵夢記 関連は平成時代に研究が進められており、 その中には太政元年に言及するものもあります >>11。 ただ、太政元年自体が主たる論題にはなっていません。
じわい異界訪問を行ったとされるのであるが、その時期 が、 A 『日蔵夢記」とB 『道賢上人冥途記』とでは、以下に示すごとく微妙に異なるのである。 A では、その時期を入峯以降「十六箇年」とするので、延喜一六(九一六)年+一六年=承平元(九三一)年こそが、 臨死体験の時期となる。これに対して、 B では、その時期を入峯以降「廿六ヶ年」とするので、延喜一六(九一六) 年十二六年=天慶四(九四一)年が、臨死体験の時期とな る。 従来、この両説は A 『日蔵夢記』の方が書写の誤りをうけたものとされてきた。その最大の理由は、 (8) のところで、太政天が天慶三(九四○)年を「太政元年」とせよと述 べる点にあった。 (1) と(8) の記述が連動するものとすれば、A (1) のごとく臨死体験の時期を承平元(九三一)年とすることはできなくなる。しかし、前節でも述べたごとく A ・B ともに「秘事・口伝」の体系的集成であるから、これら所 伝の全体を必ずしも一貫したものと理解する必要はない。 (8) に天慶三年の記述があったとて、(1) はそれが付加される以前に成立したものだから、「十六箇年」であった可能性 もこのままではすてきれない。 そこで注目されるのは、道賢の臨死体験の時期を承平四 (九三四)年のこととする所伝の存在である。このように承 らに (8) で天慶三年を太政元年とする所伝が成立すると、逆に道賢の臨死体験を天慶年間に結びつける必要が出てく る。それは、当然、道賢の入峯修行を「十六箇年」から 「廿六ヶ年」に再解釈することで、彼の臨死体験を「天慶 四年」にもってくることを必然とする。 天神信仰の要素を初期的な所伝に付加してゆく中で、天 慶三年を太政元年とせよという所伝も現れる。こうなる と、道賢の臨死体験自体が天慶年間以降に行われたものと せざるを得なくなってくる。それに合わせて、所伝自体の 再解釈がなされ、修行期間を「廿六ヶ年」、入峯の時期を 「天慶四年」とする言説が生み出されてきたのではないだ ろうか。ちなみに太政元年とされた天慶三年は、将門誅殺 を転機に承平天慶の乱の転換点となった年である。翌年に は純友も追討され、その翌天慶五年には、北野鎮座のきっ かけとなる多治比奇子への託宣が起こったとされる。荒ぶ る火雷天神の威力が統御神化して祭りあげられてゆくのに ふさわしい画期となる年といえる。 本来は、道賢の臨死体験とその夢想は延喜十六年から 「十六箇年」をへた承平元年に起こったものと考えられて おり、これをもとに誤写を通じて承平四年説も唱えられ た。その一方、前項で述べたように、十一世紀以降、道賢 の臨死体験に天神信仰が習合させられてくると、承平元年
[22] 史実にないためなのか、元号研究の分野ではほとんど取り上げられたことが無いようです。 わずかに次の事例が知られています。
[20] 平成時代の日本年号史大事典は、 コラムにおいて >>19 を出典に 日蔵夢記 の太政改元の物語を紹介しています。 >>4
[9] 説話の真偽がどうであれ、 夢で改元するよう告げられただけで、 それに従い改元されたと記録したものではありません。 現実世界の年との対応関係が定まっているとはいえ、 実在する(した)元号とはいえないものです。