[9] 嘉政は、 文化度、 文政度、 弘化度、 嘉永度の元号名候補でした。 >>64, >>75
[10] 嘉政の噂 (>>2) が摘発されているにも関わらず、 弘化の次の嘉永度にも構わず提案されていることは興味深いです。 江戸での事件は些事に過ぎず京都の公家には伝わらなかったのでしょうか。 それとも気にしなかったのでしょうか。
[63] 、 天保から弘化への公年号の改元と時を同じくして出現しました。
[65] 弘化度の改元と嘉政の改元デマの経緯は次の通りです。
[3] この嘉政という嘘情報の新元号を信じて実用した事例は見つかっておらず、利用されたかは不明です。
[72] このスケジュールを見るとわかる通り、 朝廷と江戸幕府は天保から弘化への改元手続きを進めていました。 その最終段階で、朝廷で新元号が正式決定した後、 江戸幕府が新元号を公布する直前というタイミングで、 誤った改元情報が流布されました。
[77] 当時の朝廷や幕府の情報管理がどのようなものだったか詳しくはわかりませんが、 改元に向けて準備している情報を半年間まったく外部に漏らさずに進められたか、 といえば疑わしいですし、秘匿する必要があることとも思えません。 改元が行われる、ということは社会の共通認識というほどではないかもしれませんが、 江戸の一般市民でそろそろ改元がありそうだ、と知っていた人はいたと考えていいのではないでしょうか。
[78] 改元日が天保15(1844)年12月2日に決まったこと、 江戸城での新元号披露が天保15(1844)年12月13日に行われること、 新元号が弘化であること、 が事前にどれだけの人に知られていたのかもよくわかりません。 しかし朝廷での改元日は一般市民にとってさほど重要ではない情報だと思われますし、 江戸城での披露の日は朝廷の改元日ほどかっちりスケジュールを組まれているイメージもありません。 (イメージだけで裏付け資料はありませんが...) 冬頃に改元があるらしい、ということくらいは広まっていたとしても、 厳密な日取りまで知っている人はあまりいなかったのかもしれません。
[11] 当時の京都と江戸の間の情報伝達は1週間程度、早ければ3日程とされます。 天保15(1844)年12月2日に決定した新元号の情報が天保15(1844)年12月6日に江戸に到達していたかどうかは、 微妙なラインです。 また、京都でも朝廷が直接一般市民に新元号を発表するわけではないでしょうし (公家から一般市民へと伝わることはあるでしょうが。)、 一般市民が独自に京都から江戸に速報で知らせる動機も考えにくいです (速報といってもこの時代に公式ルートより早く江戸につくことはないでしょうし。)。 従って嘉政は新元号が正式に決定した改元日かそれ以後に京都から伝わった情報ではない可能性が高いということになります。
[79] といっても江戸幕府はそれ以前から決定に関わっていたので新元号が弘化であることは知っています。 また、 それ以外の6案も朝廷から提示されています。 ただ、計7案以外の案を知っていたのかは不明です。 嘉政は7案には含まれていません。 ですので弘化度の候補だった嘉政が江戸で一般市民に伝わった可能性は低いのではないでしょうか。
[12] ということで、
といった可能性が考えられます。
[14] 不採用案から発生した改元デマ事案は何度かあります。
有力でもない候補が誤認されるのは不思議ですが、
他の事案でも実際そういうことが起こっているので、
可能性はあります。
[70] 嘉政はこの前後の時期に何度も新元号案として提出されていました >>64 (>>9)。 既に世に出ていた過去の候補が弘化度の改元の動きに触発されて発掘されて誤解されて噂になった、 という可能性もあるのかもしれません。
[13]
嘉政のうち政
は天保の前の文政、そのしばらく前の寛政で使われていて、
当時の人にとって元号でいかにも使われそうな文字だったと思われます。
何らかの理由で独自の元号を作った人が政
を使うというのも、
考えられないことではありません。
[87]
他の候補が誤解されて政
になったという可能性はどうでしょう。
どの候補の2文字目も政
とは字形も音もあまり似ていません。
強いて言えば延
の字形が似ることは考えてみてもいいのかもしれませんが...
[86]
嘉
は次の嘉永が江戸時代で唯一で、前は嘉吉まで遡ります。
江戸時代の一般人も歴史知識がある人は知っていたかもしれませんが、
元号名としてあまり馴染みがない文字だったかもしれません。
この時期の新元号案の候補にはしばしば使われているので、
京都の公家 (のうち新元号の提案に関わる人々)
の流行だったのかもしれませんが、
江戸で勝手に独自の新元号を作る人 (がいたとして。) にとっても使いたい文字だったかは疑問が残ります。
[88] 以上まとめると新元号案だった「嘉政」がデマ化した可能性が (消去法で) 最も高いと思われますが、物証はなく、 新元号案がどのような経路でデマとなったのか、 疑問は残ります。
[96] 当時の江戸では合棟乞食が信憑性の疑わしい情報も含めて様々な情報を伝えていました。 >>20 現在のゴシップ誌に相当するような媒体でしょうか。
[97] 合棟乞食は改元の情報も伝えており、 嘉政もその1つだったと考えられているようです。 >>20, >>21 これが個別具体的な根拠あってのことなのか、 他の同様の情報伝達や事件と同様にそうであろうという推測なのかはよくわかりません。
[101] 合棟乞食グループが自ら取材して入手した情報なのか、 どこか誰かから伝わった噂を広めたに過ぎないのかは検証が必要です。
[98] 役人が新元号を嘉政とするべきかと協議しているのを、 合棟乞食の親方の仁太夫が聞きつけてスクープしたため、 先に報じられた嘉政を避けて別のものに変えたのだ、 とする説があります。 >>21
[1] このような嘘改元情報の出現を政治への不満を背景にしたものとする説があります。 >>40 p.599 (藤岡屋日記), >>64, >>15
[69] 歴史研究者の吉野健一は、 庶民に改元で新時代を期待する願望があったと解説しています。 >>15 また、改元伝達の時間差の最中に起きた事件で、 改元が為政者の論理だけでなく世間の改元待望論と連動していたことを示唆しているとの解説もあります。 >>64
[7] >>1 この推測の理由は明記されていませんが、 元号を偽造するという事自体や、 「嘉政」 という元号名からでしょうか。
のそれぞれの思惑があるはずで、 いつ誰が何を考えてどう行動したのかを明らかにしないままでの雑な評価は実態を見誤る危険があります。
[94] 「政治への不満」 が理由だといっても 「政治に不満があるのでそれを表現する嘘元号を作った」 と 「政治に不満があるので新元号を政府よりも早く流通させようとした」 と 「政治に不満があるので新元号情報が非正規ルートから届いても受け入れた」 とでは話がまったく変わってきます。
[112] 平成時代後期の 日本年号史大事典 のコラムで紹介されています。 >>40
[115] 研究はあまり進んでいません。史料が少ないためでしょうか。
[113] 私年号研究の多くは中世史の研究者によるもので、 近世の私年号は長らく視野に入っていなかったため、 近世の改元デマは異年号の研究からこぼれ落ちていたと思われます。
[4] 改正戸籍法註解, 沢野民治, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/952377/1/188
[5] >>4 「
[6] 弘化5(1848)年2月28日に嘉永と改元されているので1月4日は遡及年号だが、 後から書かれたものだから嘉永元年と書かれてもおかしくはない。