法徳

法徳

[32] 法徳は、 近世初期の日本能登国偽造されたとみられる中世文書に出現する元号です。

[46] 私年号の1つとして紹介されることがありますが、 偽文書以外で普通に利用された形跡は現時点で見つかっておらず、 一般的な元号とは区別されるべきものです。

元号名

[102] 元号名法徳の他に□徳、清徳宝徳としたものがあります。 清徳は誤読、 宝徳宝暦年間に筆写したことによる誤写かと推測されています。 >>51

紀年法

[141] いくつかの説があります。

用例

[119] 日本国石川県能登地方に用例がいくつかありますが、 いずれも元は同じ文書を写したものです。

[126] 諸本の書写の関係は >>51 に考察がありますが、 伝写過程を完全に解明できているわけではありません。

[127] 1文字目が読めない「□徳」の状態の写本が未発見というのがどうにも不審です。

[140] >>17 >>135 を見比べると他の虫食い位置は似ているので >>54 こそ >>62 の原本という気もしますが、でも >>17 の「法」は読めるのが謎です。

[21] 能登国阿部判官ノ古書等写 | SHOSHO | 石川県立図書館, https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B101001556
タイトル
能登国阿部判官ノ古書等写
解説
前半は,珠洲郡南方村の三杯助兵衛家所蔵で,法徳9年8月6日阿部某発給の珠洲郡分界の券書。後半は,山姥の手跡という「一盃一盃又一盃」の書を,嘉永7年4月29日,三杯助兵衛宅で,森田良見が写したもの。法徳なる公年号なく私年号である。印記●。落款●。
出版/書写者
森田良見手写
出版/作成年(西暦)
嘉永7年4月 1854-04-01

研究史

[120] この元号の用例は1系統の文書にしかなく、 元号研究史 ≒ この文書研究史です。

近世の研究

[121] この文書の記録上の最古はの書写 (>>56) で、 第3者による関与の最古はの訴訟 (>>78) です。

[69] 研究史上の初出は成立の富田景周の引用 (>>94) です。 富田景周は、「徳」がついて9年まで続く元号はなく、不審だと指摘しました。 >>53 不審としつつも、偽文書とまでは考えなかったようです。


[3] 森田平次によると、 「法德九年八月六日」付けの郡界を定める文書の古写本があったそうです。 >>1 >>2 にはその写本についてもう少し詳しいことが書かれています。 そして「法德」の正体が考察されています。

[33] この元号がいつなのか、誰もわからずみな頭を悩ませていました。 >>2 直接引用されているのは >>62 だけですが、「先達皆不審せり」 >>2 というからには、 (考察を書き残したかはわかりませんが) 他にも考えた人が近世加賀藩あたりにいたのでしょう。

[6] 宝德 (3年まで) の誤記で、奥地ゆえの延長年号ではないかという説があったようです。 >>2 「或云」 >>2 とあるので、 >>33 の「先達」の1説でしょうか。

[35] 宝徳日本の元号の1つで、 延長年号室町時代足利義政の頃に当たります。

[7] >>2 の著者は「法」の字のある元号(公年号)はないのだから、 偽年号に違いないとしています。 ここでいう偽年号は、中世私年号の類を指しているようです。 何年に相当するものかは何も言っていません。

[34] >>2著者偽文書だとまでは疑っていないようです。

近代の研究

[76] 昭和時代日本国石川県の歴史研究者日置謙石川県史 などを編纂しましたが、 法徳は他に見えない異年号私年号だとしています。 >>41, >>43 (どちらも同文)

[9] >>8 は文書の著者は架空の人物で元号は他にない私年号で、 文書の体裁も怪しく、 真贋は来歴から察せ (≒ 偽文書だ) としています。 >>41


[123] >>40 偽年号であると断定し、そのため偽文書かどうかが問題になるとする。 ここでいう偽年号がどういう意味かは不明ながら、真贋に寄与するものらしい。

[124] >>42 こちらでは私年号と呼んでいる。

[122] 文書本文の引用はありません。出典の明記もありませんが、 記載内容は >>2>>41 に基づくと思われます。


[5] >>22>>41 翻刻文を引用、 >>2 を参照。

[23] >>22宝徳改元知らなかったのだとしても、 と宝徳説に触れつつも、 山論に使われたことから上限も定まる、と否定的 (しかしいつとは断言していない)。

[19] >>18 当該文書の所蔵者とのエピソード、平成中期。 (紀年や内容には言及なし。)

[130] >>18 の著者は >>22 の筆者。平成11年に伊予太郎家文書を見たとのことで、 >>22 執筆時点では未見。


[31] 日本歴史地名大系 - 平凡社. 地方資料センター - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=T_YUAQAAMAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22

902 ページ

... 庁に提示されたという阿部判官文害に「鈴郡山さかひ、羽根のほほ内より、はなかけ堂、ごんしやくのごりん石、きりはたのとちの木を境」とあるというが( ^登志徴)、この文害の日付として記される法徳九年は偽年号もしくは私年号で、真偽は定かでない。

903 ページ

... 加賀籌に提出した「法徳九年八月六日阿部判 00 口」という私年号 8 年号)をもつ文害に、榜示の一として「ごんしやくのごりん石」(能 8 志徴)とあるとされるところから、少なくとも近世前期には中世以来の膀示としての認識があつたと推測される。

平成時代の研究

[104] 平成時代日本国石川県の歴史研究者和嶋俊二は、 研究史を整理し、引用元の写本を発掘して考察を進めました。 >>51

[105] 和嶋俊二は近い地域の境界を定めた文書に 「天正□年八月六日」付のもの >>103 があると指摘しました。 この□は不明確なため慎重に□とされたものの、 和嶋俊二によれば (後世の写本で「九」と誤読したものもあるとはいえ) 注意してみると「元」なのだそうです。 つまり「天正元年八月六日」で、元号名以外は法徳の境界文書と一致します。 「あまりに安易すぎるであろうか」 と断りながらも関係の存在を推測しています。 >>51

[106] 元亀4(1573)年7月28日改元して天正元年。 改元してから少々日が浅すぎる感もあります。

[107] 和嶋俊二はこのように推測しています。 >>51

  • [108] 上に「法」がつくのは聖徳太子の時代だけ。
  • [109] 下に「徳」がつくのはあるが、9年も続くのはない。
  • [110] 「元年」とみて印判状のようなものとすると戦国時代延徳福徳があるが、政治的・社会的背景から15世紀は不適当。
  • [111] 私年号で天正元年に当たるか。
    • [112] 室町幕府の崩壊という政治的大事件もあるが、
    • [113] 郷村の地縁的協同体の有力者クラスの合議決定の法に、 神仏の加護を期待した「法徳」ではないか。
  • [114] 同じ奥能登慶喜私年号の事例がある。
    • [115] 「天正元年八月六日」文書 (>>105) の子孫でも用例あり。
  • [116] 「法徳元年」文書は天正元年、中世末名主層間の「定書」を阿部判官に仮託したものでは。

[117] 慶喜を引き合いに出しているのは、当時慶喜がこの奥能登だけのものだと思われており、 中世末から近世初期の連続性ある地域有力者グループがかつて法徳を使い、 その後慶喜を使ったという想定のようです。 ところが実は慶喜は全国で (薩摩でも!) 同時に使われたことが判明しており、 この論法は成り立たなくなりました。

[118] 和嶋俊二仮託した偽文書とはしながらも、 有力者間の同意そのものはあったと考えていたようです。

[26] 歴史と民俗: 神奈川大学日本常民文化研究所論集 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=kTMxAAAAIAAJ&dq=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22

209 ページ

... た「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。

[27] 奥能登と時国家調査報告編 1: 文書・書籍 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=b11MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22

70 ページ

... 和嶋俊二氏には、今回もまた、調査のすべての面にわたって御援助いただいたが、同氏の長年の御研究に基づいた御教示による、珠洲・鳳至両郡の境の確定に関わる阿部判官の伝説は、上時国家第二次採訪文書にも、寛文五年(一六六五)に書写された「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、 この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。

154 ページ

文書・書籍 神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会 154 ついで、和嶋氏は「私年号『鳳珠郡界文書』の一考察」と題し、鳳至郡と珠洲郡の郡界の定書として古くから知られ、宝徳(法徳)九年八月六日の年紀と阿部判官の署名を持ち、日置謙氏によって偽文書と断定されて以来、余り関心を持たれていなかった文書について、上時国家文書の中に見出された寛文五(一六六五)に書写されこの文書第三日(五月四日)はまず、田島氏が、昨年度に行った安部屋での調査をはじめ、能登と松前との関係を追究するため、史料の探索を続けていること、現在のところ、未だ適当な史料を見出していないことを率直に報告、今後を期しているとのべた。

155 ページ

の写、及び粟蔵の白山神社の瀬野宮司による同文書の写に関連して、あらためて注目され、試論を展開された。 そして「向谷賢治郎家文書」の延宝七年(一六七九)の山論に関する文書により、勝訴した大町泥木村の提出した境界文書の作成年代が天正初年であり、「下補正行家文書」の寛永二年の山出入文書に「天正元年之山堺証文」の見えること、さらに「久保宝二家文書」に山の堺に関連する天正九年(一五八一)八月六日の文書があり、これが元号の違いをのぞくと、さきの阿部判官の偽文書と一致する点など、きわめて興味深い推論を展開され、能登における私年号、阿部判官の墓と伝えられる近世の石塔などにも言及された。 ... 岩倉山に鎮座する式内社石倉比古神社の別当寺岩倉寺は、中世、広い信仰圏を持つ寺院として繁栄した時期があったと伝えられ、日置謙編『加能 ...

167 ページ

こうした点を考慮すると、ここに記された年紀・元号の「伝承」は、平時忠に関わる「伝承」とはレベルの全く異なる「伝承」であり、それが事実であるか否かについて、追究することは十分に意味のあることと、われわれは考えていた。

196 ページ

また、池田周三家文書についても、前回の作業を継続し、一点一点を封筒に入れ、年号を確定するなどの仕事を進め、ダンボール箱十三箱中八箱を完了、全体の半分ほどの整理を終えたものと思われる。その過程で、明治期の私年号「征露」二年付の文書を発見したなどの副産物があった。同じく、井池光夫家においても、襖下張文書を一点ごとに封筒に入れる作業を前回に続けて進行させた。[補註 1 ]だくことになっている。(脱アルカ) (一七○○ )のそれの中 ...

[29] 日置謙>>8 の編者。

[28] 奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - 和嶋俊二 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22

21 ページ

「言若」とは宝立山の黒峰城主であったという伝説上の人物、阿部判官義宗が、法徳九年八月六日、珠洲・鳳至の郡境を定めたという文書に「言若の五輪」とあるもので、郡界を示す塚上に五輪の塔(近代になって古い ...


[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
(法徳)宝徳寛文元年(1661年)不明『能登志徴』

[11] Wikipedia>>10 の記述は何を根拠にしているのか謎です。 出典に能登志徴が挙げられていますが、 能登志徴のどこにそのような記述があるのか謎。

[12] この表の「(」「)」が何を意味しているのか、がまず説明がなく謎です。

[13] 能登志徴によれば 「(法徳)」こそが本来の元号名。 異説とされる「宝徳」は相当する公年号の1説。

[14] 相当年とされる「寛文」は、 寛文9年に初めて加賀藩当局に「法徳」文書が提出された >>8 ことに由来するものでしょうか。

[45] Wikipedia 編集者が能登志徴を見ていたならこのような間違いは起こるはずがなく、 継続年数は「9年以上」となるはずです。そうなっていないということは孫引きなのでしょうか。

[125] これに限らずWikipediaの日時関連記事は不審な記述が多く信用なりません。 日本私年号一覧表

メモ

[4] しかし境界を決める文書の写本というのが既に怪しい...

[15] 山論用の証拠の偽文書だとするなら「法徳」が具体的にいつかはどうでもよくて、 「とにかく昔からそう決まっていたのだ」と言いたかっただけということに。 類例: 清保

[47] 清保もなぜか元号名だけ読めなくなっている文書が発見されてます。

[36] >>27 の調査によると偽文書確定ということで良さそう。

[37] すると偽文書の「偽造」性の構成要素である「法徳」がいつであるか、というのはもう意味のない問ということに。 「中世のなんかよくわからん昔」という以上の答えはないだろう。