[4] 国史叢書, 国史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3441746/1/81
天正五年丁丑、或旧記によると光永元年。東西に光り永く映く故、とのこと。
6月に竜造寺が云々の記事。
[5] 肥前叢書 第2輯, 肥前史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1257500/1/156 (要登録)
同 >>4
[2] 佐賀県史料集成 第7巻, 佐賀県立図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9769654/1/221 (要登録)
鶴田家文書 五四 (全文翻刻)
「
[3] 武雄市史 上巻, 武雄市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9769753/1/260 (要登録)
鶴田家文書 光永元年八月廿日
永野御書キ物抜書所収 光永元年八月六日
永野御書キ物抜書所収
後藤家戦功記所引 光永弐年十二月十二日
4通中2通は家信発、2通は家信着
後藤貴明が家督を実質後藤家信 (竜造寺家からの養子) に譲った時期と推測され、 家督を継いで新時代に入るという抱負の私年号か、 満15歳だから本人主導でないにせよ周囲の雰囲気から
[6] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/9 (要登録)
光永元年 天正4年 1576年
[12] 昭和時代後期頃の研究者が私年号を数個挙げるときに、 光永が選ばれることがままあったようです。 Google Books の検索などから伺えます。 >>6 もその類。なぜこれが選ばれたのかは謎です。
[11] 日本私年号の研究は先行する辞典類から天正4年説を引くものの、 確実な根拠を発見できていませんでした。 関東の金石文かもしれないという関係者の曖昧な証言を載せるのみです。
[8] 新熊本市史: 史料編 - 新熊本市史編纂委員会 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=wHYNAQAAMAAJ&q=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
1253 ページ
板碑は、天文 4 年(は3ら) 9 月吉大明辰銘の釈迦坐像線刻板碑、永禄 10 年(は6?)の追善塔、光永 2 年の阿弥陀種子板碑がある。特に、光永 2 年塔については天皇が定めた公年号ではなく、それ以外で定められた私年号であり貴重である。全長 51001、厚さ 8010 のもので、主要部を残して他は紛失している。熊本県内には他に、子平 5 年(永正 2 年: 1505〕、永政元年(永正 2 年: 1505〕、加平元年(永正 14 年: 1517〕、神治元年(慶応 3 年: 1867〕がある。
[7]
史料番号 | 日付 | 表題 | 頁 |
---|---|---|---|
72 | 光永二年 | 上町光永私年号板碑 | 935 |
[18] 前川清一は熊本県の私年号の1つとして紹介しました。 光永元年は干支よりとされました。 >>513 pp.31-32, >>23
[21] >>23 に拓本、翻刻。拓本は印刷のためか現物が既にそうなのか不鮮明で判読不能
[20] 大日本年表 は天正4年としていること、 日本私年号の研究 によれば関東の板碑が出典かといわれていることを引きながらも、 その実物が確認不能となっているために、 熊本県では干支により天正9年、よって元年は天正8年だとされました。 >>513 pp.31-32, >>23
[24] 天正とするのは旧説の時代に従ったものであるようです。 60年遡って大永元年とし、よって元年は永正17年となる可能性もあり、 その場合子平や加平とも同時代になるとも指摘しています >>23。
[25] 千々和到の指摘によると、同時代の公年号に近い文字が使われる傾向がみられますから、 その場合永正説が有力となります。ただし関東の私年号の法則性が適用できるかはわかりません。 >>23
[13] 前川清一によって熊本の私年号の事例(の1つ)として報告され、 関東中心と考えられてきた私年号研究に一石を投じることになりました。 日本私年号の研究には間に合いませんでしたが、 千々和到の表には途中から反映されています。
[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 光永 - 天正4年(1576年) 不明 熊本県熊本市西区上野家蔵板碑、『北肥戦誌』(但し元年を天正5年とする[4])
『北肥戦誌』に、「或旧記(詳細不明)にいふ、今年光永元年と唱ふ。東西に光り永く映く故と云々」 との記述がある。
[1] 1576年 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/1576%E5%B9%B4
- 日本
- 天正4年
- 光永元年(私年号)
- 皇紀2236年
[14] 関東と九州をつなぐ存在とされた当私年号ですが、 関東説は曖昧な証言しかありません。 再発見されない限りは保留とせざるを得ません。
[15] 元年を天正4年とする説と天正5年とする説があり、 元年の用例と2年の用例がある点、利用された期間と広がりは再検討が必要。