[2] 日本陸奥国の一部 (現在の日本国福島県の一部) で使われました。
[90] 天保5年を宝力元年に修正していること (>>43)、 天保5年の袋に宝明元年の文書が入っていること (>>47)、 天保5年と宝明元年が併記されていること (>>50)、 午年と併記されていることから、 天保5年 = 宝力元年 = 宝明元年であることは確実と考えられます。
[62] 「天保5年」、宝力、宝明の修正と他筆の順序関係はどう並べるべきだろう?
[76] に日本国福島県の地域史研究者小野孝太郎が紹介した >>3 のが研究史上の初見です。 次のように解説しています >>3。
[7] の日本国福島県で発行されている新聞 福島民報 のコラムは、 宝力を紹介しました。 出典はなくあたかも独自の見解かのように書かれていますが、 >>3 の説とほぼ同内容です。 >>6
[91] 令和時代に入って初めて認識された私年号で、 一覧表に掲載されたり、 全国的規模の研究で取り扱われたりはされていませんでした。
[92] 令和時代に入って全国各地でいろいろな近世私年号の新報告が相次いでいます。 宝力や宝明はまったく新規の私年号の報告ですが、 既知の私年号が従来の報告例と違う地域で報告されるケースも多数あります。 宝力や宝明も未だ見ぬ用例が眠っているかもしれないという前提で史料捜索と分析を継続していく必要がありましょう。
[60] 「宝力」「宝明」の異なる2つの元号が狭い範囲、同じ村の同じ人物 (名主馬場近右衛門) の周囲で発見されている (>>40, >>48) のは重要な点。 しかもどちらも2月。
[61] 新元号が何か、同時に2つの情報が流通していた?
[67] 私年号は同時代の公年号の文字を使う傾向が知られています。 私年号の発生原理が同時代の人々にとっての「元号らしさ」 の支配下にあるためなのでしょう。 江戸時代には「宝」が入った宝永、宝暦があり、 同音の「保」が入った元号も多数あります。 「明」が入った明暦、明和、天明があります。 従って宝明は当時の人にとってとても自然に感じられた元号名だったはずです。
[68] ところが「力」は江戸時代どころか東アジア史を通しても他に例がありません。 「宝力」はあまり元号らしく見えませんが、当時の人にとっても新奇に感じられたのではないでしょうか。 ただし「明暦」「宝暦」の「暦」との音の響きの類似には注意するべきかもしれません。 あるいは方言音も考慮が必要かもしれません。
[36] 唐の宝暦が宝力と書かれる例があるが (誤記? >>25)、日本の宝暦は天保5年より前で時期が合わず、 誤記とは考えられない。
[4] 久宝も同じ年の3月。地域は遠く離れていても、 まったく同じ月に「宝」が入った元号名。 偶然と片付けていいものか?
[8] 人吉市史 第2巻 上, 種元勝弘 編著, 人吉市史編纂審議会 編さん, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9776277/1/126 (要登録)
[24] この中なら宝治が最もそれっぽいがしっくりこない。
[35] 明はどこから来たのか。
[79] こちらでは「
[80] >>69 >>10 は同じもののはずなので、 >>69 が誤植?
[81] 球磨郡村誌は明治時代の成立らしい。 もし活字本なら >>69 の誤植は当時の本に遡る可能性が。
[33] 同じ人吉市域の他の八幡社でも
相良氏の”戦の神”として信仰を集めた八幡宮。宝治元年(1247)、2代相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれる。現存の建物は江戸時代中期の元禄12年(1699)の再建時のもの。
と宝治。
[22] 直前に嘉禎2年、直後に建治2年とあるので、その中間で宝治か。
[23] 明はどこから来た?
[84]
どちらも活字の出版物に遡るとすると、
よく一緒に使われるので明
, 治
の活字がセットで用意されていて、
間違えて違う方を使ってしまったのかもしれません。
他にも類例があります。
[25] 元稹简介_虚阁网, , https://www.xuges.com/mj/y/yuanzhen/000.htm
唐敬宗宝力元年(825年),元稹命所属七州筑陂塘,兴修水利,发展农业,深得百姓拥戴。
[27] 中華人民共和国のウェブページで他にも元年、2年などでこのような例あり。
[28] 在博物馆里 文雅过年 ——大唐宝船里的风物(上)_华语环球, ck 465, https://chinese.cri.cn/media/album/zdfw/4486/20210209/619079.html
长沙窑青釉褐绿彩“宝力二年”铭花草纹碗
新加坡亚洲文明博物馆藏
本器为“黑石号”沉船出水器物中非常重要的一件,因器外壁在入窑烧造之前刻有“宝力二年七月十六日”铭记,这为判断“黑石号”沉没的年代以及船上装载货物的制作年代提供了可靠的依据。宝力二年为公元826年,以此为依据可以确定,“黑石号”沉没的年代不会早于公元826年。
[29] 写真があるが「宝力」の部分の字形はわかりにくい。
[39] こちらの写真のほうがまだ見やすいが、「宝暦」部分がどういう字形なのかはっきりしない。
[30] 「沈没船文化財展」が伝える1200年前の世界 中国と中東を結んだ海のシルクロード 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News, https://www.afpbb.com/articles/-/3306229
船の材木はアフリカ産で、アラビア商人が中国の産品を中東に運ぼうとしたとみられる。西暦826年にあたる「宝暦二年七月十六日」と記された磁器があり、年代が特定された。船からは陶磁器、金銀器、銅器、鉄器、銭、ガラス、香料など6万点が見つかり、「まるで1200年近く前のタイムカプセル」と大きなニュースとなった。
[31] 从出土的陶瓷看唐宋时期中国与马来西亚的关系_杂志论文_文史博览(理论)杂志, https://www.zz-news.com/com/wenshibolanlilun/news/itemid-580215.html
船上有一件外侧下腹刻有“宝曆二年七月十六日”字样的长沙窑阿拉伯碗。[8]
[8] 陈克伦. 唐代“黑石号”沉船出水白釉绿彩瓷研究[J].上海博物馆季刊,2012.