[47] 永伝 (旧字体: 永傳) は、 日本の私年号の1つです。
日付に記された「永伝元年」は私年号である。入来院家文書以外では確認されていないが、田畠薗地并屋敷注文に「永伝元年<カノヘイヌ>」と記されていることにより、1490年に相当することが判明する。
永伝元年 八月廿一日 :hover注釈「延徳二年」
御自作
永伝元年 カノヘイヌ之年ノイ子カス :hover注釈「延徳二年」
[97] いつを表すかについては、諸説で一致しています。 干支年や用例著者が根拠とされており、 ほぼ確実と考えられます。
[98] 譲状の日付という媒体の性格から、 使われたのは当時の可能性が高いと思われます。
[99] 月日を伴う用例が1例のみであり、同著者の前後の他の日付用例の存在が明らかではないため、 利用期間を特定することは困難ですが、当該用例より8月21日に用いられたことがわかります。
[103] どこで誰が使ったかについて、 用例の1つは渋谷重豊の署名があります。 他方は無記名で、 その著者像を明言したものは見当たりませんが、 渋谷重豊に近しい者が暗黙裡に想定されているように思われます。 この点については慎重な検討を要します。
[104] 使用者層や地域の広がりについては、ほとんど正面から検討されていません。 渋谷家に限定的だったことを前提にする説があります (>>82) が、用例が2点しかないため、積極的に肯定することも否定することも困難です。
[105] 入来院文書としての伝来から、 鹿児島県下の渋谷家所領での利用が想定されていると思われますが、 この点も深く議論されていません。 特に東国所領の存在を論拠とする説 (>>89) が渋谷重豊の移動履歴を検討していないのは、 片手落ちに思われます。
[107] 誰が考案したかについて、 >>82 は使用者 = 考案者を前提としていますが、その根拠は示されていません。
[106] どのように伝達されたかについて、用例が2点しかない現状では検討が困難です。
[108] 元号名の意味と利用の目的について、 >>86 は元号名を「永久相伝」と解し、 所領の子孫への安定継承を願う私年号だと主張しています。 これは譲状に利用されたことを主要な根拠としていると思われます。 なぜこの時期かも、 相続のタイミングだったから、という主張でしょう。
[109] この説に従えば、東国での福徳の発生とは偶然の時期の一致であって、 無関係ということになります。
[110] 一方で、福徳が東国での改元伝達の混乱を実証しているように、 この時期九州でも混乱があって、永伝もまた改元デマに過ぎない、 とも仮定できます。しかし、この説には現時点で裏付けがなく、 福徳と異なり2例しか用例が報告されていないのも弱点です。
[111] なぜ利用されなくなったかについて、 >>86 説は明言していませんが、 相続の一時的なもので、はじめから継続されるものではない、 ということになるでしょうか。
[112] しかし、渋谷重豊だけがこのような私年号を使い、 祖先も子孫も使っていないのは不自然とも思われます。
[113] 永伝は私年号研究の中で決して無視された存在ではありませんが、 ほとんど議論の対象になっていません。その理由は、
によって、あまり手を付けやすくないためでしょう。
[119] しかし比定年以外はほとんど弱い根拠と推測だらけの仮説しかないのであり、 新発見や新たな研究者の参入が待たれます。
[100] 江戸時代後期から明治時代初期に編纂された 薩藩旧記雑録 本の >>18 >>20 は、 「永伝元年」を延徳2年と比定する注釈が付されているようです。 >>32, >>33
[101] 厳密にいつ誰が、どのように判定したものかは不明とせざるを得ませんが、 かなり早い時期に公年号では無いものとして認識され、 相当年代の推定が行われたことがわかります。
[29]
大正時代の史料集の翻刻では、「永傳元年」のうち最初3字の右ルビに﹅計3つの圏点があります。
同書の目次では、「永傳元」のうち最初2字の右ルビに﹅計2つの圏点があります。
>>6
それ以外の注釈は特にありません。
[34]
昭和時代の史料集の目次では、「
[67] 初出がいつかわかりませんが、東京大学史料編纂所のデータベースで公開されている >>18 の解題には、 >>20 の干支年から比定年が決定されることが説明されています。 >>66
[54] 昭和16年の辻善之助の大日本年表には、 永傳元年がとして掲載されています。 >>52
[96] 辻善之助 ( - ) は史料編纂所の幹部であり、 史料編纂所での入来院文書の調査の結果が反映されたものと推測されます。
[24] なお、
辻善之助を起点に昭和時代中頃から見られるようになった福伝なる私年号は、
永伝の誤伝が疑われます。
[125] の角川日本史辞典は、 私年号の表に永伝を掲載し、 から1年継続としています。 >>123 それを出典とするの岩手の懸仏は、 私年号の表に永伝を掲載し、 から1年継続としています。 >>124
[93] 昭和40年の久保常晴の論文は、 史料綜覧 が 薩藩旧記雑録 を引いて延徳2年に永伝があることに触れています。 薩藩旧記雑録 であるから九州で使用されたものであろう、 明らかではないが2,3の私年号の存在が考えられる、 と述べています。 >>115
[94] この時点ではまだ詳細な用例情報を入手できていなかったようです。
[73] 昭和42年の日本私年号の研究 は、 >>18 >>20 を紹介しています。 >>68
[75] 更に
より、延徳4年は重聰の時代であることから、 「重豊譲状」 の永伝元年は延徳3年以前であるとします。 >>68
[76] また、 >>20 の干支年が庚戌であるので、 永伝元年は延徳2年であると決定しています。 >>68
[77] 更に、 入来院系図の重豊条、重聰条、 特に後者に延徳2年庚戌8月21日に家督を相続した旨があることとも一致すると指摘します。 >>68
[80] なお、1箇所のみ永伝元年は延徳3年とあります >>78 が、 他 >>68, >>79 は延徳2年となっており、延徳3年は誤植と思われます。
[81] 日本私年号の研究は、 永伝の発生理由を次のように推定しています。 >>78
[286] の元号事典は、 日本私年号の研究 を参照しながらも、根拠不明の独自色をかなり盛り込んだ私年号の解説を有しています。 永伝については比較的 日本私年号の研究 と近い解説ですが、 に使われたとしています。 >>285
[15] 入来院文書の譲状は研究上重要文書らしくよく引用されていますが、 その方面では一々私年号と断らないことが多いようです。
[40] 多くの論文等が、これらを史料として利用する際に、 永伝元年がであると説明しています。 そのことの根拠は特に提示していません。
[38]
の妙法寺記の翻刻本は、
延徳2年記事の注釈で、
「
永伝元年=延徳二年(一四九〇)の入来院重豊の譲状によれば、
[39] の山崎真佐恵の論文は、 私年号の使用者がそれを公年号と異なる私年号と認識していたかを議論するものですが、 永伝も取り上げています。 日本私年号の研究 の見解を紹介した上で、 入来院氏文書の2つの用例に限られており、広範囲に伝播したとは考えられないため、 私年号と認識されて使用された例であると断定しています。 >>7
[48] 昭和時代中期以後の多くの辞典等が永伝をと説明しています。 >>52, >>25, >>4, >>10, >>55, >>120
[49] 継続年数を1年とするものがあります。 >>25, >>10 元年の用例のみ存在することによると思われます。
[50] 日本語版ウィキペディアには初期から掲載されています。 >>51
室町中期に用いられた私年号。永伝元年は延徳二年(一四九〇)にあたる。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 永伝 - 延徳2年(1490年) 1 『入来院文書』