長徳

長徳

長徳 (日本公年号)

[2] 日本の公年号の1つ。

長徳 (日本私年号)

[3] 長徳は、 幕末維新期の私年号の1つです。

資料

[15] 現在までに1例見つかっています。

日時事例

[17] 日本国東京都八王子市八日町 中野和夫所蔵で、 旧宅 (日本国東京都昭島市中神町) 土蔵から昭和51年7月に膨大な近世文書と共に発見され、 昭島市史 で紹介されると共に、その重要性に鑑み全文が刊行されたものです。 >>16

[18] 用留はいわゆる御用留とは違って私的な記録の小冊子で、 慶應3年2月から慶応4年閏4月に書かれたものです。 >>16

[19] 用留の表紙には「中野」とあります。 中野家は旗本領村役人を務める仲買商で、 筆者は慶応2年正月に当主となった 10代目中野九次郎と考えられます。 >>16

[21] 用留の内容は「卯正月」付の記事から始まり卯、辰の十二支年日付が書かれていますが、 いくつか慶応日付文書があって、慶応時代のものであることは明らかです。 >>9

[22] 表紙を書いた時点、おそらく慶応3年2月初には筆者は「長徳元年」と認識していたのでしょうが、 「慶応三十一月」 の文書があり >>9 /97、 その翌年には 「慶応四 閏四月」 の文書があります >>9 /98改元改元取り消しの記述は特にありません。

[23] 昭和時代後期に 昭島市史 編纂に関わった白河宗昭は、 近世以降の私年号は極めて稀で延寿しか知られず、 日本史上大きく取り上げるべき貴重史料で昭島市においても誇るべき文化財だ、 と指摘しています。 >>16

[24] その後幕末の私年号史料の報告は増えていますが、 それぞれ貴重な史料であることは変わりありません。 私年号を表題に入れて刊行した昭島市の判断は素晴らしい。 今でも変わらず貴重な文化財として保存と研究を進めていればなお良いのですが、 どんなもんでしょうかね?
[25] 同じ土蔵にあった文書や市域の他の旧家にも探せば似たようなものが出てきそうな気はするのですが、 続報が出ていないようなんですよねえ...

研究史

[20] 昭和時代後期に 昭島市史 編纂に関わった白河宗昭は、 長徳私年号で、 用留の内容からに当たるとしました。 >>16

[37] 昭島市史 は、 この私年号を筆者の中野久次郎が建てたものと推測し、 その意図を推測しました。

[38] そこではまず民俗学者宮田登弥勒信仰の研究 (中世東国私年号の1つ弥勒に関連したもの) から、 改元とは前の年号の時代を否定し、 一新の後に新たなるものにすべてを期そうとするものだとの理解を紹介しています。 これに従って、 私年号は今までの元号を否定し、 改元されたと認識することで成立するから、 使用者は大きな社会変動=変革を求めたことを意味するのだと説きます。 私年号は客観的には現実の支配を否定し、 主観的には社会変動=変革を求める意識から成り立つのだというのです。 >>8

[39] そして長徳について、

  • [40] 広範に改元の噂が流布しそれを信じて記述した
  • [41] 現実に慶応が使われていることを認識した上で、 改元=社会変革を求めて敢えて私的書類に次の社会への理想を込めて記述した

の2説が考えられるものの、前者は不可能だと断言します。なぜなら、

  • [42] 広範な噂で信用度が強ければ、他史料にも用例が見えるはず
  • [43] 改元は代官等から付達され村役人の御用留に必ず写しがあるはずで、村役人、旗本の勝手賄い、仲買商で広く活動する中野家がそれを知らないはずがないし、 一定地域の噂に惑わされる可能性はない

と考えられるためだとします。 >>8

[45] そして、 幕藩体制は強い集権制で、支配・交通は中世と比較にならないほど発達しており、 近世の私年号使用者の意識を中世と同レベルで扱ってはならない、 より強烈な主体的意識が存在した、 と断じています。 >>8

[44] 仮に前者が否定されるとしても、後者のうちには中野久次郎が一人で作って使ったケースと狭いコミュニティーで通用したケースが想定されそうなものですが、 どうも中野久次郎が一人で内々に作って使ったケースしか考えられていないようです。

[46] このように推測される長徳建元は、 明治政府を「有司専制」政府と決めつけそれを転覆する目的の「革命軍」 が自由民権思想に基づく新しい時代になることを示した自由自治私年号と共通するものだとまで考えられるものだというのです。 ただ中野久次郎がそこまで先鋭化したとは考えにくいとし、 現実に慶応であることを知りながらそれと対置して長徳としたことに強い社会変革を求める意識を見出すのは不当ではないのだといいます。 >>8

[47] その自由自治は実は大変に疑わしいのですが、 この時代はまだこのように信じている人がいました。

[48] 中野久次郎は具体的には少なくても3つの要因で社会の一新=社会変革を望んだとされます。 それは、

であり、このような複雑な現状への不満を一気に昇華し、 私年号使用に追いやられたと考えます。 >>8

[52] 長徳という元号名については、

  • [53] 川氏の時代がく続くことを願う
  • [54] 道徳倫理の意味の「」のある人間が支配する社会が生まれてく続くことを願う

の2説が考えられるとしつつも、 元号制度漢文の素養のある人の解釈に期待したいと保留しています。 しかし、 世直しを求めた人々と同じように現状が不安定で新しい世が出現してくれることを願っていたことだけは疑いもない事実だと断じています。 >>8

[56] 元号名だけでなく改元というものへの解釈 (>>38) から断じているのかもしれません。
[57] 延寿東北で広まったという「噂」があったとする説は誤りで、 実は江戸の噂でした。 延寿東北の一部にも広まっていた可能性はあるものの、 実は西国にも広まっていました。 延寿
[77] 他にも長州藩に「徳」があることを示すだとか、 長州藩徳川家が対立する長州征伐を表しているとか、 どうとでも解釈できそうな元号名です。 具体的な根拠が何もない状況であれこれ詮索しても仕方がないことかもしれません。 徳川幕府がこの後すぐに滅びたという「結果」を知っている後世の我々から見たバイアスのかかった解釈であることも否めません。 ただ、当時の人もこんな感じであることないことを読み取ろうとしていた可能性はありますね。

[58] こうした解釈はこれ以前の私年号研究にない独特な考えを含んでいますが、それは当時

という認識 >>8 が一般的で、 近世幕末私年号が実は他にも多数あったことがまったく知られていなかったのが原因です。 近世幕末私年号に対する考察がほとんどなく、 他の時代に対する考察をベースにしつつもこの時代特有の性質も考慮して改変して独自説を唱えるほか選択肢がなかったのでしょう。

[61] 現在では他の私年号の存在により幕藩体制による元号支配がかつて思われていたほど強固ではなかったこと、 とりわけ幕末に弱まっていたことが知られるようになっています。

[70] 当初は用例が少なくても後から増えた例もありますし、 広島から東北まで噂が広まっている延寿でも数点しか用例が発見されていないことを考えると、 現在知られている用例の件数から当時の噂の広まり具合を推定するのは困難です。

[62] 他時代および幕末私年号研究の進展により、 中世や近世の社会構造の特異性を私年号の発生や伝播の説明とする説の納得感は小さくなっています。 むしろ基本的な性質を通時代的に共有しながらも幕末の社会情勢を加味して発生、伝播、利用の様子を説明できるモデルを今後検討するべきでしょう。

[76] 延寿の場合江戸の領主に会いにいったときに改元の噂を拾って地元で使い始めているので、 武家との繋がりがあっても非正規の改元伝達を信じる可能性はあることが現在ではわかっています。 交友関係が広いほどそのような噂に遭遇する可能性は高いとも言えます。 噂の媒介者になっている可能性までありますね。

[63] 昭島市史 の説には自治体史という媒体の性格がゆえの郷土の先人の顕彰という目的も見え隠れします。 長徳の背景に

  • [64] 平田国学などで積極的に尊攘運動で活動した豪農がいた
  • [65] が、多摩の場合新撰組を中心に佐幕派的色彩が強い、 が尊攘派と根は同一と言い得る
  • [66] 残念ながら、昭島市域では豪農の積極的活動の事例は知られていない
    • [67] だからといって、現状に安住していたのではなかった

といった社会情勢を説明し、長徳は現状の改変を強く求めていた者がいたことを示す史料として紹介しているのです >>8

[68] 発行時期から考えて執筆者は明治時代後期から昭和時代初期の教育を受けていたと推測され、 尊皇攘夷から連なる明治維新を通じた明治政府の樹立の歴史は重視されていたはずです。 いわゆる維新の志士に地元出身者が含まれない (どころか佐幕派サイドである) ことに負い目を感じていたとしても不思議ではありません。 維新の志士ではないとしても、それに匹敵するような先進的な考え方の人が地元にもいたなら、 誇らしいと思うのは自然なことです。

[69] 自由自治に関連付けて語っているのも、この近辺に自由民権運動の盛んな地域があり、 秩父八王子のような秩父事件に関係する地域と近接していること、 昭和時代の中期から後期にかけて自由民権運動の社会的評価が上昇していることとも無関係ではないでしょう。 自由民権運動ほどではないにせよ、それに連なるような思想の萌芽が見られるものと理解することを (意図的にせよそうでないにせよ) 望んでいたものと考えられます。

[73] 自由民権運動との関連の指摘は平成時代にもあります。 多摩地域が有力な単独の支配者を持たない地域だったこととの関連も指摘されています。 >>7

[78] ごとに領主が違うような地域と、 令制国レベルで同じに属する地域とで、 改元伝達やその他の情報伝達にどのような違いがあるのか、 それが私年号の発生と伝播にどのような影響を及ぼすのか、 は確かに検討が必要なテーマといえますね。
[82] 私年号研究と地域ナショナリズムについて他にも類似例があり、日本の私年号を参照されたい。
[35] 昭島市史はウェブサイトでも公開されています。 HTML でテキストになっているので画面上では見やすいですし、 国会図書館デジタルで閲覧できるようになる前からウェブ公開していたのは先進的で評価できる点ではあったのですが... (>>36 に続く)
[32] 「デジタルアーカイブ」がリンク切れというギャグみたいなことになってますが...
[34] しかもURLが変わった (全ページ一律でトップにリダイレクトされる) だけではなくリンクHTTP(S) URL になっていない、検索結果にリンクできない、などウェブサイトの品質が激しく劣化してますね... まあ前のやつも専門知識がある業者が開発したとは思えない低品質ではあったのですけど、 前のはまだ一応まともに動くレベルだったのが、今のは素人レベルに...
[80] 同じシステムを採用している他の自治体でも同じように悲惨な状況みたいです。 Webサイトリニューアル失敗事例
[36] 今後もまたこのように突然 URL が変わりそうで信用ならず、 国会図書館デジタルの書籍画像の方を参照しておくのが無難そうです。 せっかく市史を電子化してウェブ公開していても、 業者選定を誤ると使い物にならない、市民の金の無駄遣いになってしまいますね。
[91] 昭島市史 - Google ブックス, 1978, https://books.google.co.jp/books?id=2NJnAAAAIAAJ&q=%22%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E2%80%9D

慶応二年と明治元年を頂点として、全国で発生した一揆の多くは、「世直し」を スローガンにかかげて闘われた。 ... B 私年号「長徳」貧しい人々を中心として、 現実の幕藩制社会を否定する考えが広がっていたことを見てきた。そこには、 ...

人々にとっての新しい社会像はいろいろであるが、昭島市域の村々に発生した 最も興味深い現象は、私年号「長徳」を使用したことがあげられる。本項では、 この二っの現象を考えながら、幕藩制社会の終末にあって、新たな社四社会変革 を ...

その後、自由民権運動の一環である秩父事件の参加者が使用した「自由自治」と 、日露戦争の時期の「征露」が存在している。ところで、この私年号の意味を 理解するためには、元号の持つ意味を考えておかねばならない。 本来元号とは、「識緯説に基づいたり、天皇即位、祥瑞・災異 などにより、時代的な理想・願望をこめて、朝廷により制定されたもの」(宮田登 『 ...

B 私年号「長徳」貧しい人々を中心として、現実の幕藩制社会を否定する考えが 広がっていたことを見てきた。そこには、新しい社会の設計図は描かれていない こと、きわめて素朴な社会平等論と小農経営復帰論でしかないという欠点があっ た ...

民権思想にもとづく新しい時代になることを人々に示した私年号であった。 もとより中野久次郎の意識が、そこまで先鋭化していたとは考えにくいであろう 。 だが、現実には「慶応」という元号に示される時代であることを知りっっも、 あえてそれに対置して、「長徳元卵二月」と記録したことに、中野久次郎の強い 社会変革を求める意識を見い出すことは不当ではない。ではなにゆえに、中野久 次郎 ...


[81] 昭和時代後期に百姓一揆研究者の保坂智は、 一揆に生み出された私年号として長徳亀光の2例があるとしました。 「長徳元卯二」 の長徳は一揆によって現実の政治体制が動揺し、 社会変動を自覚したことから私年号が生み出されたことが疑うべくもないと指摘して >>186久次郎による建元と断定していました。

[85] に歴史研究者河野昭昌江戸時代私年号に関する覚書 で取り上げたそうです。 江戸時代私年号に関する覚書

[74] 私年号研究の分野ではしばらく見落とされていたようです。 平成時代千々和到の表には掲載されていません。

[75] 平成時代ウィキペディアの表に掲載されています。 >>10

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
長徳-慶応3年(1867年)不明多摩の豪商中野久次郎が使用(『長徳元年用留』)[11]

昭島市史編さん委員会編 『昭島市史 本編』 昭島市、1978年、NCID BN0450395X

関連

[71] 幕末の私年号は他にもいくつかありました。

[72] 神徳のようにを使ったものは他にもありました。 令徳のように公年号の候補でを使ったものもありました。

メモ