[15] 現在までに1例見つかっています。
[17] 日本国東京都八王子市八日町 中野和夫所蔵で、 旧宅 (日本国東京都昭島市中神町) 土蔵から昭和51年7月に膨大な近世文書と共に発見され、 昭島市史 で紹介されると共に、その重要性に鑑み全文が刊行されたものです。 >>16
[18] 用留はいわゆる御用留とは違って私的な記録の小冊子で、 慶應3年2月から慶応4年閏4月に書かれたものです。 >>16
[19]
用留の表紙には「
[21]
用留の内容は「
[22]
表紙を書いた時点、おそらく慶応3年2月初には筆者は「長徳元年」と認識していたのでしょうが、
「
[23] 昭和時代後期に 昭島市史 編纂に関わった白河宗昭は、 近世以降の私年号は極めて稀で延寿しか知られず、 日本史上大きく取り上げるべき貴重史料で昭島市においても誇るべき文化財だ、 と指摘しています。 >>16
[20] 昭和時代後期に 昭島市史 編纂に関わった白河宗昭は、 長徳は私年号で、 用留の内容からに当たるとしました。 >>16
[37] 昭島市史 は、 この私年号を筆者の中野久次郎が建てたものと推測し、 その意図を推測しました。
[38] そこではまず民俗学者の宮田登の弥勒信仰の研究 (中世東国私年号の1つ弥勒に関連したもの) から、 改元とは前の年号の時代を否定し、 一新の後に新たなるものにすべてを期そうとするものだとの理解を紹介しています。 これに従って、 私年号は今までの元号を否定し、 改元されたと認識することで成立するから、 使用者は大きな社会変動=変革を求めたことを意味するのだと説きます。 私年号は客観的には現実の支配を否定し、 主観的には社会変動=変革を求める意識から成り立つのだというのです。 >>8
の2説が考えられるものの、前者は不可能だと断言します。なぜなら、
と考えられるためだとします。 >>8
[45] そして、 幕藩体制は強い集権制で、支配・交通は中世と比較にならないほど発達しており、 近世の私年号使用者の意識を中世と同レベルで扱ってはならない、 より強烈な主体的意識が存在した、 と断じています。 >>8
[44] 仮に前者が否定されるとしても、後者のうちには中野久次郎が一人で作って使ったケースと狭いコミュニティーで通用したケースが想定されそうなものですが、 どうも中野久次郎が一人で内々に作って使ったケースしか考えられていないようです。
[46] このように推測される長徳の建元は、 明治政府を「有司専制」政府と決めつけそれを転覆する目的の「革命軍」 が自由民権思想に基づく新しい時代になることを示した自由自治の私年号と共通するものだとまで考えられるものだというのです。 ただ中野久次郎がそこまで先鋭化したとは考えにくいとし、 現実に慶応であることを知りながらそれと対置して長徳としたことに強い社会変革を求める意識を見出すのは不当ではないのだといいます。 >>8
[48] 中野久次郎は具体的には少なくても3つの要因で社会の一新=社会変革を望んだとされます。 それは、
であり、このような複雑な現状への不満を一気に昇華し、 私年号使用に追いやられたと考えます。 >>8
の2説が考えられるとしつつも、 元号制度や漢文の素養のある人の解釈に期待したいと保留しています。 しかし、 世直しを求めた人々と同じように現状が不安定で新しい世が出現してくれることを願っていたことだけは疑いもない事実だと断じています。 >>8
[58] こうした解釈はこれ以前の私年号研究にない独特な考えを含んでいますが、それは当時
という認識 >>8 が一般的で、 近世や幕末の私年号が実は他にも多数あったことがまったく知られていなかったのが原因です。 近世や幕末の私年号に対する考察がほとんどなく、 他の時代に対する考察をベースにしつつもこの時代特有の性質も考慮して改変して独自説を唱えるほか選択肢がなかったのでしょう。
[61] 現在では他の私年号の存在により幕藩体制による元号支配がかつて思われていたほど強固ではなかったこと、 とりわけ幕末に弱まっていたことが知られるようになっています。
[70] 当初は用例が少なくても後から増えた例もありますし、 広島から東北まで噂が広まっている延寿でも数点しか用例が発見されていないことを考えると、 現在知られている用例の件数から当時の噂の広まり具合を推定するのは困難です。
[62] 他時代および幕末の私年号研究の進展により、 中世や近世の社会構造の特異性を私年号の発生や伝播の説明とする説の納得感は小さくなっています。 むしろ基本的な性質を通時代的に共有しながらも幕末の社会情勢を加味して発生、伝播、利用の様子を説明できるモデルを今後検討するべきでしょう。
[63] 昭島市史 の説には自治体史という媒体の性格がゆえの郷土の先人の顕彰という目的も見え隠れします。 長徳の背景に
といった社会情勢を説明し、長徳は現状の改変を強く求めていた者がいたことを示す史料として紹介しているのです >>8。
[68] 発行時期から考えて執筆者は明治時代後期から昭和時代初期の教育を受けていたと推測され、 尊皇攘夷から連なる明治維新を通じた明治政府の樹立の歴史は重視されていたはずです。 いわゆる維新の志士に地元出身者が含まれない (どころか佐幕派サイドである) ことに負い目を感じていたとしても不思議ではありません。 維新の志士ではないとしても、それに匹敵するような先進的な考え方の人が地元にもいたなら、 誇らしいと思うのは自然なことです。
[69] 自由自治に関連付けて語っているのも、この近辺に自由民権運動の盛んな地域があり、 秩父や八王子のような秩父事件に関係する地域と近接していること、 昭和時代の中期から後期にかけて自由民権運動の社会的評価が上昇していることとも無関係ではないでしょう。 自由民権運動ほどではないにせよ、それに連なるような思想の萌芽が見られるものと理解することを (意図的にせよそうでないにせよ) 望んでいたものと考えられます。
[73] 自由民権運動との関連の指摘は平成時代にもあります。 多摩地域が有力な単独の支配者を持たない地域だったこととの関連も指摘されています。 >>7
[81]
昭和時代後期に百姓一揆研究者の保坂智は、
一揆に生み出された私年号として長徳と亀光の2例があるとしました。
「
[85]
に歴史研究者河野昭昌が
江戸時代私年号に関する覚書
で取り上げたそうです。
[74] 私年号研究の分野ではしばらく見落とされていたようです。 平成時代の千々和到の表には掲載されていません。
[75] 平成時代のウィキペディアの表に掲載されています。 >>10
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 長徳 - 慶応3年(1867年) 不明 多摩の豪商中野久次郎が使用(『長徳元年用留』)[11]
昭島市史編さん委員会編 『昭島市史 本編』 昭島市、1978年、NCID BN0450395X