[4] 正中 (y~1429) は、日本の元号の1つです。 鎌倉時代末期、後醍醐天皇の元号の1つでした。
[392] この時代はまだ南北朝の分裂の前で、 大覚寺統 (後醍醐天皇, 南朝)、 持明院統 (北朝)、 武家方 (鎌倉幕府) のいずれもこの元号を使っていました。
[184] 墨書がいつのものかが問題。当時だとすると10ヶ月の遡及年号。 改元後に遡って書かれたものなら問題ない。完成直後に書かれたのだとすると1年ずれ正中 (>>174) の可能性が出てくる。
[174] 日本国大分県の灯篭や日本国鳥取県の棟札に1年ずれ (y~4191) のものがあるとされます。
[254] 石灯の4月は元年の方を信じると8ヶ月の遡及年号になるので、遡って書いたことになります。 干支の方を信じると改元の4ヶ月後。改元直後の誤解、新年早々の誤記とするには微妙に日が経ちすぎていますが。
[255] 棟札は改元の10日後。京都から鳥取まで改元伝達が間に合ったのか、 これも絶妙なラインです。同時代の他の事例と比較したいところです。 棟札という媒体は古く見せるための偽造も多いと言われるのも気がかりポイントです。
[199] 正中2年己酉、正中2年乙酉がいくつかあります。正中2年乙丑の誤りなのでしょうか。
[257] 写本奥書という媒体の性質や「二年乙」「閏正月」は正しいところを見ると、 >>186 は誤記と考えて良いかもしれません。
[258] >>191 は情報が少ないですが、鎌倉時代末期という鑑定が間違いなければ、これも誤記ですかね。
[189] https://dl.ndl.go.jp/pid/9540986/1/237 (非公開)
加能史料 鎌倉 2
図書
加能史料編纂委員会 編 石川県, 1994.3
237: 花押)○以上二通、巻正中二年乙酉七月十八日子一巻ニ収ム、○石川県羽咋〔洞谷記〕市永光寺所蔵洞
[204] 日本国滋賀県の古記録などに正中2年己、正中2年巳と書かれているものがあります。 正中年間に巳年は無く、十二支を伴わない十干も不審です。 乙丑 → 己丑 → 己、 と変化したものでしょうか。
[259] どちらも時代が下ってからのもの。単純な誤記、誤写なのか、 十二支が脱落した状態で伝言ゲームが続いた結果なのか。
[223] 計算が全然合わないので何も信じられない。
[227] 今川氏房は該当人物不明とされ、 この縁起などの当神社所蔵文書は後作とみなされています。 他に例えば建久元年正月十五日 (遡及年号) 源頼朝納書があります。 元禄頃の造作と推測されます。 >>224
[237] 偶然かもしれませんが、静岡県での用例というのは引っかかります。
[242] 史跡で綴る都於郡伊東興亡史 は日向三山陵実記から棟札を引いていますが、 「正中元壬辰」は「正平元年丙戊」であると訂正し、 他にも誤りが多いと指摘しています。 >>238
[243] 都於郡城について は棟札を引いていますが、 創建説は不当とは言い難いとし、 棟札に「正平元年壬辰六月」とあるとすれば誤り、 正平元年は丙戌、正平壬辰は7年で創健者の死後と指摘しています。 >>241 棟札の引用元は明記されていませんが、 棟札にあるとすれば、と述べているので孫引きでしょうか。 最初に棟札として「正中」と引用しながら、 2回目から「正平」にすり替わっているのですが、 説明がありません。
[244]
正中元年壬辰を正平元年丙戌に訂正すると正
しか残っていません。
誤りが多い史料だからといって他の根拠なくこれだけ書き換えてしまうのは無理でしょう。
[260] しかし正平元年丙戌とも正中元年甲子とも似ても似つかない正中元年壬辰がいったいどこから出てきたものか興味を惹かれるところではあります。
[17] 山田家文書に「正中二年」文書が1件あります (>>13)。 この日付を「正中二年癸亥」とするものと、「正中二年壬戌」 とするものがあります。 引用をたどればいずれも若林淳之が関与した文献で、 1つの文献では一方だけを紹介しています。 状況から同じ文書を指しておりどちらかが誤りと推測されますが、 原文がどちらなのかは不明です。
[360] 山田家文書には「正中二年」文書との強い関係が窺われる 「元和八年」文書があります (>>274)。
[369] 山田家文書はあまり注目されていないようで、ウェブ検索でもほとんど情報がありません。
[365] 壬戌年の次は癸亥年です。元和8年は壬戌年です。 「正中二年」文書の干支年のずれはこの処理で混乱した結果と思われます。
[370] 公年号の正中は鎌倉時代末期、後醍醐天皇の元号の1つです。 元和とは約300年の開きがあります。
[371] しかし「正中二年」文書の内容や様式は、とても正中時代のものとは思われません (>>266 >>262 >>281 >>344 >>347 >>348)。 元和と同じかより新しいものと見るのが妥当なようです。
[271] の佐久間町史史料編三下に山田家文書より 「正中二年壬戌」 文書が収録されているようです。 >>263
[261] 昭和時代の日本国静岡県の歴史研究者若林淳之は、 の論文 >>248 と書籍 >>5、 の書籍 >>6 で正中文書に言及しています。
[278] の佐久間町史 (通史) にも記述があります。 編集委員長は若林淳之でした。 次のように指摘しました。 >>12
[294] の佐久間町史 (通史) の編集委員長若林淳之の挨拶文にも言及があります。 >>293
[366] 昭和44年時点で既に若林淳之が町史の編集委員長を務めていたのかどうかは定かではありませんが、 昭和45年の著書にはやくも紹介していることからみて、 山田家文書の調査に初めから深く関わっていたとみて良さそうです。 山田家文書から「正中二年」文書を見出したのが若林淳之だったのかもしれません。
[367] 現在知られている限り、昭和44年が「正中二年」文書の研究史上の初出です。 「正中」私年号説は若林淳之の提唱と思われます。
[303] の書籍は、 尹良親王の伝説をメインに取り上げながら、 正中にも触れています。 >>302 該当部分は若林淳之らの執筆です。 >>302 /9
[11] 静岡県史: Kinsei - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=Icg0AQAAIAAJ&q=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
670 ページ
元和に代えて「正中」という私年号を使ったりもしている(『佐久間町史』上巻、若林淳之「郷土の成立とその展開」「国史論集』所収)。以下では阿多古領における「公文百姓」について取り上げてゆくが(佐藤孝之前掲書参照)、阿多古領は六名の「公文百姓」 ...
[338] 昭和時代の松尾四郎は、 中部地方各地の南朝関係の記録を集めて宗良親王らの足跡をまとめようと試みました。 >>337
[339] 民衆の南朝志向の類型の一側面として南朝方の私年号を使った事例、 明応2種と正中を挙げています。 >>337
[368] 正中の私年号説はその後しばらく私年号研究者の知るところにならなかったようで、 私年号一覧表の類にはあまり掲載されていません。
[327] 平成時代に日本語版ウィキペディアの私年号一覧表に正中 (y~1114) が追加されました。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 正中 - 元和7年(1621年) 不明 『山田家文書』(『佐久間町史 史料編3下』所収)[6]
若林淳之 「郷士の成立とその展開 ―三・遠・信国境地帯における―」(『国史論集―小葉田淳教授退官記念』 同教授退官記念事業会、1970年、NCID BN02380189)
[249] 平成時代の他地域の文化財調査関連の資料掲載の私年号の一覧に、
と記載があります。
[317] , なのでこの記載は矛盾しています。
[373] 用例である2年の西暦年を元年と誤認した結果とも、 干支年の1年ずれ (>>17) に混乱した結果とも考えられます。
[14] 私年号の使用を権力への反抗の証とみなすのは古典的な考え方ですが、 昭和時代後期以後の研究で見直しが進んでいます。 確たる根拠なくそう理解するのは難しく、本事例でも再検討が必要でしょう。
[15]
本事例の場合、
類似文書を日付だけ書き換えて写したという不審な点があるので、
特に慎重になるべきです。
[374] まず「正中二年」文書 (>>13) は干支年が文献により一定しません。 実物の文書に立ち戻って再確認しないことには、 どんな議論も無駄になります。
[375] 「元和八年」文書 (>>274) はその頃らしいものながら、 「正中二年」文書 (>>13) は紙質や書風に疑問がある (>>347 >>348) とされます。 その差は明らかだといいますが、 だとすると最初に報告した若林淳之が一言も触れていないのは不思議です。 この点も改めて検証されるべきでしょう。
[377] 干支がいずれであるにせよ、様式上の年代の如何を問わず、 公年号の正中とは干支が一致しないことは間違いありません。 正中と元和 (や近い時代の他の元号) を取り違えるというのも、 あまりなさそうに思われます。 すると、
のような可能性があります。
[388] 若林淳之の私年号説 (>>270, >>287, >>297, >>309) は >>384 でしょうか。 松尾四郎の私年号説 (>>350) は >>384 か >>387 でしょうか。 他の可能性も検討されるべきです。
[391] 偽文書とみる (>>350) なら、 唯一の用例が偽文書である偽文書元号群の1つということになります。 偽文書元号にはそれが指す時代が明らかでないもの (特定の時代を指さないもの) もあります。
[16] 元和前後の幕府権力とのトラブル (>>268)、 中世への懐古 (>>290, >>298)、 南朝との結び付き (>>300, >>304, >>345) といった私年号の動機論は、 いずれも確実な根拠があって「正中二年文書」と結び付けられたものではありません。 今後より確実な史料が出現するまでは、 あくまでいくつかの可能性を示唆する程度に捉えておくのがいいでしょう。
[389] 権力との対立 ≒ 固定的な権力構造の不在は、 改元デマの温床という考え方もできます。 ほぼ同時期の慶喜は同じく静岡県下でも用例が見える改元デマで、 参考になります。 もし今後他にも正中の用例が出現するなら、 改元デマが流れていた可能性も検討の必要があるでしょう。
[390]
中世懐古論はなぜそれが正中につながるのかをよく説明できていません。
南朝との結び付きや反幕尊王的観点からの後醍醐天皇の連想なら一応理解はできますが、
後醍醐天皇の元号からなぜ正中を選んだのかも説明が求められます。
(建武の方がより象徴的とも思われます。
[121] 現在までに用例は多数報告されていますが、 干支年が併記されたものや前後関係がはっきりしたものが数点あり、 それ以外も正平の誤写の可能性がある1系統2例を除き、 正中と判断して矛盾しないようです。
[122] 中を仲と書くことがある元号は他にもあり、 元号以外の一般の文章中でも交換されることがあるので、 特段意味のない前近代日本語の表記慣習に基づく表記揺れの範囲内の異年号 (同音異字年号) と考えるのが良さそうです。
[126] 地域、媒体、社会階層などの偏りも特になさそうで、 正中の石造物が多い地域にぽつりと正仲が出現したりするので、 使い分けようとする意識もなく、 伝播経路といえるようなものもなさそうです。
[146] 同時代用例か同時代用例由来が多く、後の時代に新規に書かれた用例はあまり見つかりません。
[147] 同時代の人は深く考えずに同音の通用字で書くことがあった、 後の時代の人が何か言及するときは資料などを見ながら書くので新しい正仲を生産しない、 というような感じなのでしょうかね?
[33] 大正時代の論文は春日版で正仲のもの (>>32) を紹介し、特に注記もなく正中のものとしました。 >>30 判断の理由も書かれていませんが、 類似した正中のもの (>>31) もあるためでしょう。 著者大屋徳城の数年後の単著ではママ注が付されています >>49。
[25] 昭和時代初期の代表的な板碑概説書である服部清五郎の 板碑概説 は、板碑 (>>22) を引き誤刻といえばそれまでだがと断りつつ私年号として示し、 正中のことだとしました。 >>19 判定の根拠は述べられていませんが、 板碑の様式などから推測したものでしょう。
[27] 昭和時代初期に日本国大分県の師範学校が発行した 郷土要録 では板碑に私年号が使われることがあるとし、 大分県の板碑の私年号例として正仲を挙げました。 私年号を意識的に使用したのかは不明と説明しました。 >>136 なお具体例や年代比定は示されていません。
[129] 昭和時代初期の大分県の金石文一覧では、 板碑 (>>22) を引いて、 正仲を正中のことと解していました (年代比定のみで明示的な説明は無し)。 >>128
[26] 昭和時代初期の学術書 仏教考古学講座 では、 正仲は正中のことだとし、 異年号とまではいかなくても普通と異なる文字を使ったもの、 文字の詮索を怠慢したものとして紹介されました。 >>18 (用例や根拠の説明はされていません。)
[55] 昭和時代初期に金沢文庫所蔵文書を刊行した金沢文庫古文書では、 文書 (>>21) の日付で文仲とあるところに(中)と校注しています。 >>50 判定の根拠は述べられていませんが、 文書内容などから推測したものでしょう。
[133] 昭和時代中期の佐賀県の史料集成では、 文仲文書2件 (>>131, >>132) を特に注記もなく文中に配列していました。 >>130
[23] 日本私年号の研究は、 板碑と文書各1例 (>>21, >>22) 引いて同音異字年号とし、 文仲 (文中) の事例と同様に正中の異表記だとしています。 >>20 p.一七四
[24] 日本私年号の研究は、 他の「中」を「仲」とした事例とあわせ、 動乱の時代にあって「中」という精神的、徳高きものを求めるよりも より現実的な「仲」、親愛を標榜するものが求められたと考察しています。 >>20 p.一八󠄃四
[127]
なお同じ著者の昭和時代初期の旧論文
[57] 昭和時代中期の日本国山形県上山市の文化財調査報告書は、 当地の板碑1例 (>>54) を紹介し、大分県の板碑 (>>22) も引きつつ、正仲は正中のことだとしました。 >>56 判定の根拠は明言されていませんが、 大分の正仲 >>19 を引いたのはそれと同じと判断したということなのでしょう。 山形県の文化財保護の中心人物だった川崎浩良も同時期の著書でこの板碑を引いて、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し) >>64, >>65。
[135] 昭和時代後期の日本国大分県の町史は、 当地の板碑1例 (>>22) を紹介し、 正仲は正中だと説明しました。 >>134 判定の根拠は明記されていません。
[68] 昭和時代の日本国岩手県の文化財調査報告書は、 当地伝来の職原抄写本奥書 (>>67) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>66 判定の根拠は明記されていません。
[102] 昭和時代の論文で職原抄諸写本の奥書を比較したものがあり、 そのうち1本 (>>96) は正仲2年を朱書訂正して正平2年とされています。 その訂正について特に言及はありませんが、 紹介されている他の諸本は元々正平2年と書かれているようです。 >>93
[103] 訂正されているもの (>>96) は上巻、 されていないもの (>>67) は下巻の他の本と書写月日が一致しており、 同系統であることは間違いなさそうです。 2本で同じように「正仲」になっているのは偶然とは思えませんが、 他の多数の「正平」本のがみな訂正後の本から派生したようにも見えません。
[75] 昭和時代の日本国新潟県の村史は、 当地伝来の写本奥書 (>>69) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>70 判定の根拠は明記されていません。
[92] 昭和時代後期の市史は、 伽藍開基記󠄂 (>>39) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>91
[90] 平成時代初期の県史は、 峯相記 (>>47) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>88 判定の根拠は明記されていません。
[82] 平成時代初期の町史は、 中世文書2点 (>>81, >>77) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>79
[107] 平成時代初期の石造物銘文集は、 日本国山形県の石塔婆 (>>105) を紹介しています。 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>105
[29] 平成時代初期の石造物銘文集は、 日本国千葉県の石塔婆 (>>28) を紹介しています。 特に注記もありませんが、 正仲2年を正中2年に配列しています。 >>9 なお他に正中年間の関東地方の銘文が多数収録されており、 「仲」の1文字以外は同じような石造物が多く現存することがわかります。
[85] 平成時代初期の東京大学の所蔵目録は、 経典の日付 (>>84) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (正中への読み替えと西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>83
[123] こうして振り返ると十分な根拠がなくまたは根拠を示すこと無く文中に校訂ないし同定されることが多いようです。 結果的にはそれで間違っていないことが多いようなのですが、 「正平」の誤写が疑われる例があるので、安易な断定は避けた方が安全ではあります。 正中と正平は時期が近いので、区別はつきにくいこともありそうです。
[137] https://dl.ndl.go.jp/pid/11199119 (非公開)
史学雑誌 88(6);1979・6
雑誌
史学会 編 (史学会, 1979-06)
20: (マヽ) 12 武·正仲三年二月六日藤原康門田地売券(佐(二)-九八) 13 中·正平十二年十月廿五日れん与譲状
[138] https://dl.ndl.go.jp/pid/3140498
景観にさぐる中世 : 変貌する村の姿と荘園史研究
博士論文
服部英雄 [著]
253: 〇三)。 12 武·正仲三年二月六日藤原康門田地売券(佐(二)-九八)。 13 中·正平十二年十月廿五日れん与譲