[9] 元号名は異体字により元咊, 元龢と表記することがままあります。
[11] >>10 の写真によると、磨滅によりやや不明瞭な箇所がありながらも、 確かに「亢和」と彫られているように見えます。 第1画は垂直に近い。
[48] 元和の異表記、癖字ないし誤字のようにも思われます。 ところが元和は10年で寛永に改元されています。 10年もの延長年号は異常です。
[47] この板碑群はある時期に近隣から集めたそうで、いろいろな時代のものが混在しています。
[40] >>39 は元和10年の題目板碑。これの1文字目は明確に元
。
フ
のような2画の書き方が亢
と明らかに違う。
ただ1角目が垂直の亠
に近いのはこちらも同じ。
[50]
元
を亢
のように書く事例があるのかどうかといえば、微妙なところです。
[12] くずし字解読辞典 普及版, p.45 の 3050 (元)、 3052 (充) は第1画が点の字形ながらも、写真の字形と似ています。 第2画と第3画はつながっている点は違いますが。
[51] ということはやはり写真の字形は元
と読み得るのではないか。
[17] 南方文化 = Tenri Bulletin of South Asian Studies (13), 天理南方文化研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7947642/1/76 (要登録)
行書「元和八年」。「元」は >>12 3050 に近い字形、 第2画と第3画の連なりは「フ」に近いという点は少し違う。 OCR は 「亢」と誤読。
[13] 日本刀研究便覧, 内田疎天, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1235416/1/289 (要登録)
刀銘の模写、「元和三年二月日」。「元」の第1画が点、OCR は「亢」と誤読。
[14] 張州雑志 第7巻, 内藤東甫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537303/1/267 (要登録)
手書き楷書「元和八 戌年」。「元」の第1画は点、第2画と第3画が「フ」と連なる点は件の字形とは違う。 OCR は 「亢」と誤読。
[15] 日本古典全集 古代數學集(上), 正宗敦夫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1912628/1/22 (要登録)
手書きやや崩れた楷書「元和八年初春」。「元」は >>14 と似た字形、 OCR は 「亢」と誤読。
[16] 図説福島県史, 福島県図書教材, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536550/1/117 (要登録)
左ページ中央写真、手書き楷書「元和七年」。「元」は >>14 に近いがやや第1画が垂直に近い。 OCR は 「亢」と誤読。
[18] 12_omote.pdf, , https://nagoyaengei.co.jp/osusume/201612/12_omote.pdf
「元和二十」と翻刻。原文写真を見るとたしかにそう書かれているように見える。
他の行は年月日を「元和九十卄四」 (元和9年10月24日) のように略記している。 なら「元和二十」は元和2年10月の可能性がある。
[19] 白桃 : 歌集, 斎藤茂吉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1128037/1/62
[20] 時制の変調 - 天野 翔のうた日記, https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/2019/03/14/000901
元和二十年十月二日にみまかりし慈眼大師は長生(ながいき)をせり
[21] 斎藤茂吉の歌。 慈眼大師天海は寛永20(1643)年10月2日没。 寛永はに改元。
[22] 当時元和20年と書かれたとされるものは見当たらない。 近世に改元後10年も続く延長年号があったとは考えにくい。
[8] 改元詔書, https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_02478_0051/index.html
[1] 元和 (日本) - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
[28]
日本私年号の研究
はこれを元和の同音異字年号とし、
に比定しています。
出典は
「
[30]
この銘文のある墓碑は、
光背型墓碑で、
南関東では江戸時代初期の形態です。
また、
夫婦の名があって、
一方の紀年は慶長です。
そこで元和の異表記と判断されました。
>>26 p.
[35] 穏当な推測とは思われつつも、干支のような年次を確定させ得る情報に欠ける点には注意が必要です。
[31]
日本私年号の研究
ではこれは一字異音年号とも考えられるとしつつも
「
[36] 日本私年号の研究 はこのような異表記の発生を、 武家諸法度 を強行し除封、減封で諸大名に威圧を加えたためだと説明しています。 改元物語 に見える江戸時代当時の元号の揶揄諸例を紹介して、 大名や切支丹への弾圧や庶民生活の実情から生じた消極的反抗ではないかと推測し、 それを 「賢和」 発生の土壌だとしています。 >>34
[37] ただ、現在まで賢和の用例は他に発見されておらず、 これがどの程度広範囲に用いられたかは不明です。 政治的、風刺的な異表記だとすると、それを敢えて墓碑に彫るものかは疑問があります。 被葬者がどのような立場の人物かもわかりませんし、 現状この1例からこれだけ推測を飛躍させるのも慎重にしておいたほうが良いとも思われます。
[56] その後の研究でこれを扱ったものは見当たらず、 文化財などの指定もない模様で、 現状は不明です。
[54]
しかし8年にもなって元
を賢
に書き間違えるというのは無理があろうかとも思われますので、
何らかの意図を推察したくなるのはそうです。
[55]
賢
の略字に𫯝
があります。
すると原稿に賢
になおしてしまったとか、あり得ますかね?
[58] 干支年がないのは悩ましいところで、 他の過去帳などの資料で確認できるといいのですが、 この寺はに戦争で米軍に焼かれたそうで、 古い資料は残っていないのかもしれません。