応享

応享

[3] 宮崎県史: 中世 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=UjUzAAAAIAAJ&dq=%22%E6%87%89%E4%BA%AB%22

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... 有主 LU 者也、仍為後日被仰下状如件、應享二年办$ ^二月九日伊東祐春(花押)历[南力]元小森給一所口方上太郎三段(寄進)今度奈古八幡二 L 元之 L 正方八所宛行也、仍登(下) 新名爪八幡宮文二新名爪別符內 - 110 -- 奈古神社文書.

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一所祝無田一所同所一所白山権現田一所立聞田一所龍王田一所不老田九段是いひたたり田二反二反一反一反以上田数一町五段(ママ)應享弐年かのヘ二月九伊東祐春(花押)宮崎庄奈古八幡宮正祝へ奈古八幡宮正祝職算田目録(瑞裏書)「笠本奈古正祝」日向國宮崎庄 ...

[1] 宮崎県の地名 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=UvczAQAAIAAJ&q=%22%E5%BF%9C%E4%BA%AB%22

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永禄七年(一五六四)三月二五日の善神王再興日記写(奈古神社文書)によると、再興の法会に柏田の「つくの門」から溢取の儀式があり、南方代官から料足五〇○文と太刀一振が奉納されており、奈古社は南方鎮守として重視されたことがわかる。なお奈古神社文書  ... あるいは私年号の一つであろうか。応享二年三月四日の奈古八幡宮正祝職算田目録(同のりされたみひき書)には「宮崎三百町之内南」が地域として使用され、図帳の数がなお継承されている。また正祝の屋敷一ヵ所が記され田は牟田にあり、奈古社の管轄に属ちぎする社として白山権現と南方に立 ...

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弘長元年(一二六一)二月日の奈古神社領注文写(奈古神社文書)に南方の奈古社領総計二四町余の社田が書上げられているが、地目に霧島田・祇園田などが含まれており、あるいは後世の内容を含むかもしれない。同年一二月一五日、奈古大宮司職は海清久から清景 ... ... 11 えだ四)三月二五日には奈古社の善神王再興の法会に南方代官が料足五〇〇文と太刀一を奉納しており(「善神王再興日記写」同文書)、奈古社は伊東氏領下で重視されていた。なお室町期の私年号ともみられる応享二年三月四 ...

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また室町期の私年号とみられる応享二年二月九日、伊東祐春は笠本の神官正祝職を安堵し、正祝の屋敷と田、末社の白山権現・立聞権現などの田を安堵している(伊東祐春書下など)。長禄三年には五月七日からの ...

[6] >>5 「応享二年かのへ子」文書

応享2年2月9日、応享2年3月4日

私年号か。

[9] >>8 応享2年3月4日

室町時代の「私年号とも」

[7] >>11 応享2年2月9日

室町時代私年号

[12] 項目によって謎に断定度合いが違うw

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
応享-文明11年(1479年)?不明『奈古神社文書』

[2] 南方(みなみかた)宮崎庄の地域区分 : 歴史徒然:Rekishi Tsuredure, matmkanehara10, 2021年03月18日, https://matmkanehara10.livedoor.blog/archives/52072083.html

 なお室町期の私年号ともみられる
 応享二年三月四日の
 奈古八幡宮正祝職算田目録(同文書)には
 「宮崎三百町之内南方」とみえ、
 建久図田帳の田数が継承されており、
 竜王田が南方の宮後六丁にあり
 江田との境界になっていた。