永楽

永楽

[41] 永楽は、元号の一種です。東アジア各国で何度か使われました。

永楽 (高句麗)

[1] 永楽 (y~389) は高句麗の元号の1つです。

紀年法

[36] 元年は、 です。

用例

[40] 伝世文献にはまったく記録がなく、金石文近代に再発見されました。

広開土王碑

[2] 広開土王碑にあります。 >>7862 他の金石文にも文獻にもなく、現在知られる唯一の用例です。

[3] この元号の存在は長く忘れられていました。 碑の存在は現地住民らに知られていましたが、 の時代にようやく碑文が注目されました。 >>7862

[4] 近代に学術調査が進み、碑文の重要性ゆえに永楽も一躍有名になりました。

[6] 碑文には、元号年ではありませんが、 「甲寅年九月廿九日乙酉」 の日付があり、 晋義煕10(414)年甲寅9月29日に当たります。 >>7862

[7] この日干支の一致から年代比定の正しさと当時の高句麗で晋曆が忠実に実施されていたことが証明できる >>7862 とされています。ただ厳密に言えば晋曆が実施されていたかどうかは、 よく似たが使われていたという程度しか確実に言うのは難しいです。

[8] 日本書紀に基づくこの時代の暦日とも一致しますが、 日本書紀は晋曆ではありません。

北鮮出土墓誌銘

[25] 好太王碑に比べると知名度は低いですが、もう1例出土しています。 発見 >>1681

日時事例

[33] 書かれている日付の最古は好太王碑のものですが、 作られたのが古く完全な同時代用例であるのはこちらの方です。

[42] 読みに諸説あり、判読がかなり難しい状態と思われます。

[43] 朝鮮民主主義人民共和国での出土であり、外国人の調査も困難であると思われます。 情報がほとんどないのもそのためなのでしょう。

中原高句麗碑銘一説

[35] 中原高句麗碑 に 「永樂七年歲在丁酉」 と書かれているとする説があります。定説にはなっていません。 >>34

偽史説

[39] 桓檀古記超古代史では、 永樂 (영락) は高句麗元号の1つとして他の (一般的な歴史研究においてはその根拠が知られていない) 元号群に組み込まれています。 桓檀古記の日時

解釈

[5] 碑文による永楽の年とその記事は、 三国史記による広開土王即位紀年 y~3915 やその記事と1年ずれがあり、 その解釈は問題となっています。 >>7862

[17] 元号年の形式で歳在干支を伴うことから、 永楽元号であることは明らかです。 ただそれが即位からの年数であるとは限りません。 >>1543 p.六六

[18] 朝鮮半島で見られる (元号ではない) 即位紀年何々王即位何年、 何々御宇何年、 何々王何年のような形式を取るのが普通です。 >>1543 p.六六 朝鮮半島の紀年法

[13] 朝鮮史全般で即位紀年1年ずれが見られ、 数え方の違いによる混乱とされますが ( 朝鮮半島の紀年法 )、 それとの関連が示唆されます。 >>1543 ただ具体的にどう違いが生じたかは明らかになっていません。

[14] なお 日本私年号の研究 は史書にない朝鮮半島の古代の元号を一律で私年号としています。 >>1543 史書から漏れたものかもしれず「一応」と留保されていて、 十分検討した上での判断ではありません。 私年号

[15] 国王の顕彰碑に私年号が使われたというのは違和感があります。

[16] 紀年には歳在が伴う点も注意されます。 >>1543 歳在

[109] 古美術 (91), 三彩社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6063386/1/64?keyword=%E6%B0%B8%E6%A5%BD (要登録)

永楽の年号は好太王の私年号と考えられる


[9] 関係して昭和21年5月発見朝鮮慶州路西里百四十號墳出土蓋付青銅鋺底面銘に、

乙卯年國 岡上廣開 土地好太 王壺杅十

とあります。 >>7862

[11] 乙卯年は没後3年に当たり、解釈が問題となっています。 >>7862


[19] 元号名は、国家の永続性と人民の安楽への願いを表しているといわれます。 >>1555 (鄭雲竜1998)

[20] 涅槃の永遠の楽しみという仏教的意味が含まれるとの説もあります。 >>1555 (趙景徹2008)


[22] 永楽は銘文とその三国史記暦日との対照によって高句麗の元号であることと広開土王の在位期間を通じての元号であることが明らかです。 このような高句麗の元号は唯一のものであります。 そのため今では多数の断片的な情報が発見されている高句麗紀年の復元の研究のベースキャンプのような位置となっています。

[12] 朝鮮古史の研究, 今西竜, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1921111/1/257

[21] 고구려의 稱元法과 年號 운용, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784 (PDF 全文あり) #page=6

永楽 (前凉)

[61] 永楽 (y~2000) は、 前凉の元号とされていた幽霊元号の1つです。 前凉の元号

永楽 (中天八国)

[60] 永楽 (永乐, y~574) は、 漢土五代十国時代の反乱勢力である中天八国張遇賢元号です。

永楽 (方臘)

[44] 永楽 (永乐) は、 漢土北宋の時代の反乱勢力である方臘 (方腊) の元号です。

紀年法

改元と改正月

[45] 中文维基百科によると 续资治通鉴続資治通鑑長編拾補所引紀事本末に、 11月1日戊戌に改元し11月を正月に改めたとありました。

[46] 中文维基百科によると 大宋宣和遺事 元集と 紀元編 に西暦1120年10月改元とありました。

[48] 中文维基百科に西暦1120年農暦10月9日、陽暦11月1日に蜂起、 改元とありました。 >>47

[49] 10月9日とする根拠は明らかではなく、換算の誤りでしょうか。

[50] 10月と11月にいずれが正しいかは明らかではありませんが、 10月に蜂起し改元改正月を決定し、11月=新1月より実施したとも考えられます。 11月を正月としたとする情報が正しいのであれば、 10月改元より11月改元の可能性の方が高そうです。

[51] 11月の改正月と同時に改元されたのだとすると、 を元年とする (y~780) よりも、 を元年とするのが適切に思われます。

[52] WHEN.EXE の解説は、 「方臘永楽0.子~同1.酉」 を正月、2月 - 10月としていました。 >>47 ここでの年数はを元年とする数え方に当たります。 (なお、10月を終わりとした根拠は不明です。)

[54] WHEN.EXE農暦 Chinese1119 の定義の注釈によると、 これは方臘紀元暦に基づくもので、 建子月を年始としたからの範囲のものです。 >>53 この範囲の根拠は不明です。

永楽 (明)

[56] 永楽 (y~1499) は、永楽帝元号です。

永楽 (日本私年号)

[55] 永楽 (y~1632) は、日本の私年号とされるものの1つです。

用例

[73] 確実な用例は1つ知られています。

高野山教誡律儀奥書

[68] に発行された、 高野山にある宝寿院の所蔵品目録に、

32 教誡律儀 版本一帖 永楽元年(大永か一五二一)辛巳七 月四日於高野山谷上多聞院初後書續畢 住持重義 泉慶房 五十七

とあります。 >>37

高野山大日経疏二末抄奥書

[62] 国史大辞典私年号の表に、 永楽元年はである旨の記載があります。 出典は「高野山宝亀院蔵『大日経疏二末抄』奥書」とされます。 >>268

[64] 筆者である千々和到論文には同様の表がありますが、 のものには掲載がなく、 のものには掲載があります。 日本私年号一覧表

[65] ただし昭和58年のものは発表で、 その後の知見が追加されていなそうなことが昭和58年の附記にあります。 従って昭和56年から昭和63年の間に千々和到が知ったということになります。

[66] 日本語ウィキペディアは典拠を 「高野山宝亀院蔵『大日経疏二末抄』奥書」 としています。 >>10 出典不明ですが、直接または間接に国史大辞典に由来すると思われます。

[67] 私年号の一覧で元号名などを示しているものは他にもある ( 日本私年号一覧表 ) ものの、 これ以外の情報を示しているものがなく、詳細不明です。

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
永楽-寛正2年(1461年)不明高野山宝亀院蔵『大日経疏二末抄』奥書

其の他

[69] 元号法の制定が議論されていたの雑誌に、 私年号の例として福禄, 永楽, 弥禄があります。 >>70

[71] 元号名を列挙しているだけですし、 福徳弥勒を意図したのではないかと思われる他の2つも怪しげな表記になっており、 信頼できる情報源から正確に転記したものとは考えられませんが、 永楽が何に依るのかは気になります。


[72] 他にも用例や言及が存在する可能性はありますが、永楽の用例が多すぎて検索が困難です。

メモ

[75] 現在知られている研究史上の初出は昭和50年の目録 (>>68) ですが、 そこでは大永元年かと推測されています。 目録という性質上、それ以上の詳細は説明されていません。

[76] は、 おそらく元号名の字が一致することと、 干支年が一致することに由来するのでしょう。 実物や他の所蔵品と比較してその時代で違和感ないという判断もありそうです。

[93] 誤記と判断したのでしょうか。

[79] なお、 これは「書續畢」とあって書写の日付のようですが、 「版本一帖」 となっています。書写奥書込みで印刷されたものが現存するということでしょう。 すると現存する版本自体は「永楽」年間より後のものかもしれません。

[78] 昭和50年代に千々和到と判断しています (>>62)。 この推測が千々和到自身によるものか、 それとも他の研究者の推測を引いているのかは不明です。 また、実物の表記も不明ですが、年次を確定的に記載しているからには、 辛巳年と干支が明記されているのか、 前後の他の奥書に他の元号年が明記されているのか、 何らかの根拠があるのでしょう。

[80] >>75>>78 では同じ辛巳年でも干支1周り分の違いがあります。 状況から見て、実際にはどちらも同じ「永楽元年辛巳」と思われます。 どちらかの説が正しいのかもしれませんし、どちらも間違いという可能性もあります。

[81] 大永は、 永正18(1521)年8月23日改元されたものです。 >>75 説によれば、 >>68 の書写の日付は正確には大永元年に改元される1ヶ月余り前のを表していることになります。

[82] 大永改元災異改元とされているものの、実際には事実上空位の将軍足利義晴が就任 (12月) するのに先立った代始改元的なものだったと考えられています。 7月28日に室町幕府から朝廷改元の申し入れがあり、 8月7日には朝廷から8月23日の改元実施が発表されました。 >>83

[84] 日本年号大観に掲載の歴代不採用案に永楽はありません。

[85] 永楽は、永楽帝の時代に22年間使われたもので、 永楽帝永楽大典などで現在でもよく知られていますが、 当時の日本でも有名な元号だったのではないかと思われます。 永楽銭永楽帝の時代から江戸時代の初頭まで、 日本でも事実上の標準の貨幣として通用していました。

[86] よって当時の日本人の知識層は明の元号永楽を知っていた可能性は高く、 それが理由で新元号案に一度も浮上しなかったのでしょう。 私年号として使われたとすると、考案者や利用者がそれをどう考えていたのかが問題となります。

[87] もっとも当時は外国の元号との重複を徹底的に排除しようという考え方や制度はなかったので、 明の元号を知っていたとしても、そう決まったと言われたならそういうものかと思う程度だったかもしれません。

[88] 明の元号と比較すると、

... の癸未から辛巳に誤記、誤写で変化するとは考えにくいですし、 利用期間中に辛巳年はないのでその誤りの可能性もありませんが、 元年が2年ずれると辛巳年になるのは気になります。

[94] 革除の関係で永楽元年以前の紀年は特殊であり、 遡って 「永楽辛巳」 のような表記がなされた可能性もあるかも、と検索してみましたが、 そのようなものはなさそうです。

[92] ただ高野山明の元号を使うというのも考えにくいものです。 (国人の僧侶がいたならあり得るのかもしれませんが。)

[95] 日本の公年号を使った例はありません。

[96] 同時期の公年号を使った事例は、

があります。また、異年号では、

があります。

[108] 改元デマ其の他の異年号公年号の文字に影響される傾向が指摘されており、 それによれば永正18年 = 大永元年説がより環境が整っているように思われます。

メモ