[1]
[21] 子平5年 (か) の用例が発見されていますが、 いつからいつまで使われたかは不明です。
[16] 日本国熊本県で金石銘に1件、用例が発見されています。 これが現在知られている唯一の用例です。
[9] かつては植木町の乗越横穴群に五輪塔残欠と共に放置されていたといわれます。 その後植木町中央公民館所蔵となりました。 >>23
[5] >>513 の拓影を見ると「子平」はバランスが悪く1文字のようにも見えますが、 「辛」ないし「年」1文字にしては「平」部の「ソ」が不審ですし、 年数の前なのでどちらも意味が通りません。 しかも宝篋印塔ということなので上にもう1文字書く場所はなさそう。
[53] 他の公年号と同定できず、私年号とされているものの、その性格はほとんど未解明です。
[54] 干支年と媒体の様式などから、 子平5年 = と推測されています (>>14)。 遡ると子平元年 = となります。
[55] 媒体の年代判定については、もう少し型式編年でしっかり年代を確定させたい感があります。
[6] 東洋の日時表示の形式であることと、 同じ地域の近い時代に加平もあるので、 これが元号名であるのは間違いなさそう。 両者は何らかの関係がありそうですが、「子」と「加」は字形が似てそうで似てないので、 直接的な誤写のような関係ではなさそう。
[56] 5年という大きな年数の私年号は全国的に見ても異例であり、 どのような事情があったのか気になります。
[116]
平成時代の地域年号説は、
加平や子平を阿蘇神社が制定したものとします。
[2] 昭和時代後期、 歴史研究者の前川清一が熊本県の私年号の1つとして紹介しました。 >>23 (白黒写真, 拓本, 翻刻), >>513 pp.31-32 (拓本、翻刻)
[17] これまで知られていなかった私年号です。 前川清一または前川清一と親しい熊本県民の発見と思われます。
[12] 同地域の同型の宝篋印塔がからに分布していて、同時期と考えられます。 >>23
[14] その範囲内の丙寅年で、加平との関係から、 を意味すると推測され、 元年はです。 >>23
[4] なお建元がと一覧表にある >>513 p.31 のは誤りです。
[106] に前川清一は、 戦乱を背景に「子孫のたいらぎ」を祈念する意味があるか、 と述べています。 >>45
[37]
の地域史は、
「
[18] 平成時代の千々和到の 板碑とその時代は、 が元年か、 子平5年はか、としていました。 >>31 確定させていないのは加平との関係しか根拠がないためでしょうか。
[39] その他千々和到は16世紀の九州の私年号として紹介しています。 >>38, >>42
[33] 千々和到の系統の表は文亀2年か、または文亀2年頃、5年丙寅の用例あり、 といった形になっています。 >>31
[34] 日本語版ウィキペディアの表には初期から掲載されています。 出典は不明です。 >>32
[35] の SNS 投稿は、 なぜか孔子の弟子の人名と連想させていますが、 元号名との結び付きは投稿者の感想だけのように見えます。 解説に見せかけたただの感想投稿でしょうか。 >>26
[50] 中文版维基百科は、 子平を文龟二年(1502年)から5年間継続の私年号とし、 >>7 を出典に熊本县熊本市北区植木町所在宝箧印塔铭にあるとしています。 >>49
[41] その他熊本県の私年号の事例として子平が挙げられることがあります。 >>40
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 子平 - 文亀2年(1502年) 不明 熊本県熊本市北区植木町所在宝篋印塔銘
[51] 言及数は私年号の中では少ない方とはいえないものの、 実質的な議論は前川清一による当初のもののみであり、 その後令和時代に至るまで研究は停滞状態です。
[52] 用例が1件のみで他に検討材料がほとんど無いことや、九州にあって中央の研究者の関心が向きにくいことが原因でしょうか。