[3] 江戸時代の研究者伴信友が、 応安の頃の妖偽年号としました。 >>6 ただし一覧のみで出典等の詳細は不明です。
[1]
昭和時代の日本私年号の研究は、
伴信友の言及以外の情報がないため、
私年号とは判断できないとしました。
>>7 p.
[8] 平成時代の日本語版ウィキペディアは、 伴信友の記述を引いて私年号の一覧に掲載していますが、 詳細不明としています。 >>10
[24] 日本私年号の研究は用例がなく一覧表にしか掲載実績のないものを原則私年号として認めない方針を採っていますが、 研究史上一旦広く私年号として知れ渡ってしまったものは、 「実在の疑わしい私年号」として私年号の一分類に収容するのが妥当とも考えられます。
[13] https://dl.ndl.go.jp/pid/1140317 (非公開)
東京府史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第5冊
図書
東京府 編 東京府, 昭和2
8: し所なるか。また文德二年四月に軻過突智命を、應永元年十一月に稻荷明神及白山權現を、延文三年八月に
[14] 実際そう書かれているのか OCR 誤読なのかわからないが非常に興味深い用例。
[9] 大日本時代史 平安朝史, 早稲田大学出版部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/770057/1/196
安子が文徳2年12月26日に立后。
[11] 藤原安子 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%89%E5%AD%90
天徳2年(958年)10月27日、中宮に冊立。
[12] >>9 と >>11 は少々日付が違うけど同じこと? だとするとこの文徳は天徳の誤記。
[16] 室生寺, 土門拳 撮影, 北川桃雄 文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2468753/1/122 (要登録)
仏隆寺の堂の後ろの十三重の石灯「文徳二年」
様式は鎌倉風
[21] 大和古寺巡礼, 青山茂, 川副武胤, 平岡定海 共著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3009010/1/164 (要登録)
仏隆寺 十三重の塔に 「鎌倉末期の文徳二年の銘」
[17] 佛隆寺(ぶつりゅうじ), , https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0733.html
境内には、重要文化財に指定された石室(内部に堅恵の墓と伝えられる五輪塔がある)、元徳2年(1330)の銘をもち、修円の墓とされる十三重石塔などがある。
[18] 仏隆寺(ぶつりゅうじ)十三重石塔, , http://kawai25.sakura.ne.jp/nara-uda-buturyuji-13tou.html
基礎は低く側面は無地。正面に「元徳二年(1330)十一月日」の紀年銘がある
写真があるが判読困難。
[19] 奈良県銘文集成, 土井実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2995180/1/92 (要登録)
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[20] >>16 >>21 の文徳は >>17 >>18 >>19 より元徳の誤記。
[22] 岩波講座日本文学史 第4巻, 岩波書店, , https://dl.ndl.go.jp/pid/1336884/1/108 (要登録)
「