天延

天延

天延 (日本の公年号)

[13] 年号「天延」入りの平瓦出土 太宰府市の小正府遺跡 平安時代の窯跡、軒丸瓦とセット|【西日本新聞me】, https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1083008/

大延

[2] 公年号天延の異表記 (誤記?)

[14] 日本国志年表にあります。

[1] 日本の私年号にもありますが、無関係です。 大延
[15] 太延の異表記にもありますが、無関係です。 太延

天延 (日本の私年号)

日時事例

[16] 異年号資料としては昭和時代に知られるようになりました。

[29] 昭和時代日本国熊本県の歴史研究者高田素次 (-) の調査記録 千年墓 があります。 昭和16年6月に発表したものが、 出版の書籍に収録されています。 >>28

[30] 高田素次が現地を訪問したのは、 吉野朝以前に於ける球磨の金石文資料 をまとめるために調査していた時期だとされます。 >>28

[32] 吉野朝以前に於ける球磨の金石文資料 は、 国会図書館デジタルの全文検索によると昭和16年出版と 熊本県文化財調査報告 第4集 に書かれているそうです (本文非公開)。 吉野朝以前に於ける球磨の金石文資料3 というの書籍が地元の図書館に所蔵されています >>31。 それ以外はNDLサーチでもGoogle検索でもカーリルローカルで九州各県を探しても見つかりません。

[33] 高田素次は、茅場道隆に1000年も前の墓石があるというが自分は未調査だ、 と教えられて訪問したそうです。 詳しい場所は知らず、近くの祐玉寺 (日本国熊本県人吉市東間上町3640) で尋ねて東円蔵宅とわかりました。 しかも東円蔵は2人いてそのうちの1方でした。 庭先の大木の下に墓はありました。 >>28

[34] 寺では「千年墓」と名が通っていたようです。地域ではよく知られていたのでしょうか。 茅場道隆もそれを噂で聞いたのでしょう。 東円蔵宅で応対した老婆は1000年も前で誰もわからない 「やんぼしどんの墓」と言っていました。 >>28 「やんぼし」とは山法師, 山伏です。

[38] 高田素次によると、 墓石は苔むしていたものの、 銘文に朱を入れたものがまだ明らかに見えていて、 1000年も前のものとはどうしても思えませんでした。 公年号天延の時代の文字ではないと直観しました。 >>28

[39] 高田素次私年号ではないかと推測しました。 >>28

[8] 昭和時代後期の人吉市史は、 奈良時代蔵骨器に関する注釈で近くの墓として紹介して、 天延私年号と思われるとしています。 >>7

[5] 昭和時代後期の日本国熊本県の歴史研究者前川清一は、 江戸時代を遡るとは思えず、 私年号でもないものとしています。 >>3

[17] 平成時代私年号一覧表などには掲載されていませんでした。 私年号ではないという判断でしょうか。

[40] 「私年号」は由来のよくわからない元号を入れる雑多なカテゴリーになっているので、 これも正体が判明するまで私年号扱いでいいのではないでしょうか。


[6] 何らかの正しい日付を誤ったものか、偽ろうとしたものかは不明。 天延3(975)年11月7日。 あまりに時代が離れすぎていて、偽造するにも無理がありそうな。

[9] 寺社縁起か何かとか古い石塔とかならともかく墓碑でこんな偽造するのかなあって疑問ですよね。

[10] でも江戸時代に3年になるような改元デマ私年号が出現するとも思われず、 かといってわけあって私年号を建てるような人や組織が存在したとも思われず。

[11] 消去法で何かの間違いのように思われますけど、書き間違えそうな公年号も思い当たらないという...

[12] 万延? でも万延は2年のはじめに改元されてるのですよ。 は書き方と風化によってから誤読されることはあるものの...

[18] 近世かという以上に時代が絞れないのも厳しいですね。 様式や所在地から何かヒントはないのですかねえ。

[41] 修験道関連の伝承か何かと関係ないですかね?

[27] 弁覚というのはいかにも僧侶にいそうな名前で、 誰を指すのかよくわかりません。

[24] 弁覚という大僧都太田氏系図に出現します。 >>22, >>21, >>23

[25] しかし中世東国の人で、関係があるかは疑問です。

[26] 他に覚弁という大僧都もいたようですが、関係があるのかはやはり疑問です。

メモ