[18] 大延 (y~1294) は、 昭和時代の日本の私年号です。 自称天皇の熊沢寛道 (熊沢天皇, 大延天皇) が使っていました。
[12] 養父で先代に当たる熊沢大然と同じく南朝の後裔を自称した熊沢寛道は、 大東亜戦争前から既に 「大延天皇」 と称した名刺を持ち歩いていました。 >>2, >>25 (熊沢寛道は分家からの養子でした >>25。)
[29] 熊沢寛道の著書に 大延文叢, 日本昭和28(1953)年がありました。 >>1
[30] 大延の元号名は天皇の名前と同じとしたのでしょう。 どちらが先なのか同時なのか不明です。
[23] 大延の元号名は血統の連続性を強く喚起主張するものと評されています。 >>2, >>25
[67]
大延の私年号が使われ始めた時期や大延天皇の号を名乗り始めた時期がいつなのかはっきりしませんが、
「皇位継承」や元年は大正時代。
過去の私年号は同時期の公年号に近い字が使われる傾向がみられますし、
公年号も近い過去の公年号の用字に引きづられがちです。
[68] Google検索によると、若干数ですが、 原文に「大正」とあるのが OCR によって「大延」 と誤読された事例が独立に複数発生しています。 なるほど字面も案外似ています。
[17] 元年は、 大正4(1915)年です。 >>2, >>25, >>7
[19] 大正4年は先代の熊沢大然の没年です。 >>2, >>25, >>20 大正4年に熊沢寛道が即位 >>2, >>25 (ないし践祚 >>5) したことに始まる一世一元 >>2, >>25 の元号と思われます。
[15] 昭和24(1949)年、 日本の法学者で今では後南朝研究の第一人者としても知られる瀧川政次郎は、 熊沢寛道の南朝に対する認識を調べるため、 共に日本国奈良県吉野の南朝遺跡を巡りました。 >>72, >>14, >>27 というのも滝川政次郎は後南朝研究のため現地調査を望んでいましたが、 昭和23年秋に京都で熊沢寛道に会った際、 熊沢寛道がしばしば吉野を訪れていたことを知ったので、 案内を求めたのでした。 >>72
[16] 、 熊沢寛道と瀧川政次郎は、 日本国奈良県吉野郡川上村の旅館朝日館に宿泊しました >>38, >>72。 主人が画帳に揮毫を求めたところ、 熊沢寛道は、
後醍醐天皇遺詔
朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し
大延三十五年十月
廿 >>38 では二十 九日
... と書きました >>72, >>14, >>27, >>38。
[76] その場に居合わせた川上村の住川村長は、苦笑いしながら黙って見ていました。 >>72
[77] 滝川政次郎は、黙っていられなくなり、 熊沢寛道にその「御遺詔」がどんな書物にあるのかと尋ねました。 熊沢寛道は、 「どんな書物に見えているか知りませんが、 ある書物にあるということです。その真偽は知りません。」 と言葉を濁しました。 滝川政次郎は後醍醐天皇が英明だろうが600年後を見透かすはずがなく、 現代文で書かれるはずもないと詰問しましたが、 熊沢寛道は 「文章は私が現代風に改めたのです。」 と弁解しました。 >>72
[78] 滝川政次郎は熊沢寛道と2人になってから、 このような出鱈目を今後決して口にするなと説教しました。 >>72
[79] 滝川政次郎は、こんなインチキな偽遺詔で今の人間がごまかされると考えるのは、 文化国日本の国民を侮辱するものであると述べています。 >>72
[39] 瀧川政次郎は、 昭和を奉ぜず大延の私年号を奉じても、 人は相手にしないので世に害を及ぼさないから良いが、 後醍醐天皇の後遺詔などと偽るのは国法的にも道徳的にも許されないと述べています。 >>72, >>38
[41] この画帳は、 時点で尚も朝日館に現存していました。 >>40
[43] 現在 Web 上に見ることが出来る大延に関する情報のほとんどは、 この瀧川政次郎の記事から派生したもののようです。
[47] なお後醍醐天皇遺詔の出典は明治時代以降成立とされる偽書の富士宮下文献とされます。 >>25 (吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件) 熊沢寛道らはそうした文献を理論武装に使っていたようです。 こういった状況で提示できるように予め調べていたのでしょう。
[48] 大延云々の日付は、当然ながら遺詔に属するものではなく、 画帳に熊沢寛道が揮毫した日という意味でしょう。 (その部分だけ引用したために文書を書いた日のようにも見えてしまいますが。) (熊沢寛道は自分の名前は署名しなかったのでしょうか。) その場で咄嗟に元号を建てることを思いつくとも考えにくいですから (あり得ないことではないかもしれませんが...)、 それ以前から使っていたのではないでしょうか。
[32] いつからいつまで、どの程度使われたものかわかりません。
[49]
吉野の宿の一件以前から既に使っていたのだとしても、
即位の時から用意していたのかどうかはわかりません。
あるいは終戦後の改元の提案に着想を得たのかもしれません。
[31] いつまで使われたのかも不明です。 昭和32(1957)年の譲位 >>1、 あるいは昭和41(1966)年の死去 >>1 の頃まで使っていたのでしょうか。
[46] Wikipedia は、大延43年まで継続したとしました。 >>7 根拠は不明です。 43年は昭和32(1957)年に当たります。
[52]
昭和25(1950)年の雑誌記事は、
熊沢天皇一派が大延を使っていることに言及していました
>>10。
Google Books で確認可能な範囲ではその出典が書かれているか不明です。
瀧川政次郎の記事の出版後と思われますから、
それが出典でしょうか。
あるいは他にも情報源があったのでしょうか。
なおこの記事は、当時社会問題化していた元号廃止と西暦採用について扱ったものだったようです。
[50] Wikipedia は、 熊沢寛道の他に、支持者も使用したとしました。 >>7 出典は不明です。
[62] 熊沢寛道は、 大東亜戦争の終戦後の混乱期に一時注目を集めたものの、 同時期に私年号を建てた他の宗教指導者達とは違って、 大規模な支持者組織を作り(れ?)ませんでした。 そのためもあるのか、 大延が支持者によって使われたという実例は見つけることができません。 それどころか本人の用例も全然知られていません。 瀧川政次郎が出会った頃をピークに自然消滅した可能性すらあります。
[81] 滝川政次郎の論文が紹介する熊沢寛道自身の言によると、 京都の同志が支援するといいながら反故にされ、 大阪の支持者組織は官憲の圧力で解散させられ、 かつての雑貨屋の事業資金も底をつき、 困り果てていたといいます。 >>72 熱心な支持者の吉田長蔵がいたものの、 知名度のわりに大した支持者組織は作れなかったようです。
[34] 昭和54(1979)年の書籍に、 「大延三九年(昭和二十八年)」 など大延に昭和を併記して熊沢寛道の生涯を説明した記事があったようです。 >>8
[44] 、 Wikipedia は私年号の一覧表に括弧付きで掲載しました >>45。 括弧は一覧表中のいくつかの私年号に付されています >>7 が、 その意味ははっきりしません。 また Wikipedia の頼った出典も不明です。
[82] Wikipediaは本人のほか支持者も使用したと書いていますが >>7、 具体的には不明です。
[63] その他辞典類が熊沢寛道を紹介する時に大延に触れることがままあるようです >>9, >>4。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 (大延) - 大正4年(1915年) 43 自称天皇熊沢寛道(大延天皇)とその支持者が使用
[36] 熊沢寛道は天理教とも関係していたようですが、 知られているのはかなり遅い時代です >>8。 天理教の私年号の立教を熊沢寛道が知っていたのかは不明です。
[64] 同時期他にも私年号が建てられました。
[21] Web や SNS で検索すると熊沢寛道は知名度が高く毎年相当な頻度で言及される自称天皇の代表格であることがわかるが、 それに比して大延の知名度が低い。 熊沢寛道が大延何年と書いたものを積極的に残していたなら、 もっとそれへの言及があったはずだ。