[2] 孝明天皇は、 幕末時代の天皇でした。 お名前は統仁でした。
[21] 欧州とロシア帝国に滞在していた森有礼の日記に孝明天皇の即位紀年の用例があります。
[22] 表紙には即位紀年・旧暦とキリスト紀元・グレゴリオ暦が併記されています。
[23] 本文は英国ロンドンからロシア帝国へと往復した過程が記されています。
[24] 最初の日には即位紀年・旧暦とキリスト紀元・グレゴリオ暦が併記され、 それ以降はグレゴリオ暦の月日だけが書かれています。
[27] 初日には旧暦の6月21日と併記されていますが、「頃」となっています。 換算に不安があったのでしょうか。 それ以後旧暦がないのは、換算が容易でなかったのでしょうか、 それとも煩を避けただけでしょうか。
[28] 表紙には7月とありますが、実際には6月末に始まって7月に続いています。 表紙は後から付けられたのでしょうか。
[29] 本文所収9月3日付文書は単に「丙寅」とだけ書いています。
[31]
グレゴリオ暦の1日が「
[272] 幕末に海外留学した森金之丞の旅行記 (森有礼全集第二巻所収 >>275、 航魯紀行 (慶応二年六月ー同年九月)、 1866年) の表紙には、 「統仁弐拾年丑寅七月」 とあり、統仁 (孝明天皇) 即位紀年を用いていた >>273 とする解説もあります。
[13] この日記を翻刻した >>8 は、 「統仁」は孝明天皇の名前であり、 西洋流儀で「孝明天皇二十年」と書いたもので慶応2年を意味すると推定しています。
統仁二十年は孝明天皇のお名によったもので西洋風に孝明二十年、すなわち慶応二年に該当する。
と解説しているらしいです Google Books。
[276] 孝明天皇が践祚した の翌年で即位の弘化4年9月23日 (西暦1847年10月31日) の年が元年だとすると、 20年は、 慶応2年丙寅 (1866年) となります
[5] 英国王即位紀年のような欧米の即位紀年の影響が指摘されています。 >>273
[4] 改元が頻発した孝明天皇の時代にあって、 海外留学中に日本の情報を得るのは困難だったでしょうから、 元号によらない紀年の必要性を認識したのかもしれません。
[7] 当時西洋では日常でキリスト紀元が既に普及していたはずですが (実際本書でも併記しているわけですが)、 それに対応する日本の紀年として即位紀年を使ったことが注目されます。
[34] 森有礼のこれ以外の用例は見つかっていません。 他の人の用例も見つかっていません。 故人の一時の実験に終わったということなのでしょうか。
[1] 孝明天皇 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87