[1] 永長は日本の元号の1つです。 これまでに公年号1種、私年号 / 改元デマ3種の計4種類が確認されています。
[6] 永長 (y~342) は、 日本の公年号の1つです。 平安時代、堀河天皇の元号の1つで、 、にあたります。
[108] 日本国大阪府大阪市平野区 (摂津国) の融通念仏宗総本山大念佛寺に、 良忍上人引接の鋤といわれるものがあります。 >>103
[112] 良忍は融通念仏宗の開祖です。 つまり平安時代末期の開祖の遺物とされるものが総本山に伝わっているのであります。
[18] 昭和時代には偽作と考えられています。 >>19, >>109
[20] 大正時代に大日本金石史 >>103 など >>107 で紹介されましたが、当時は偽作とはされていませんでした >>103, >>105, >>106。
[114] 岩井武俊は大正時代当時から明瞭なる偽物と指摘していましたが、 編者木崎愛吉は断定する勇気がないと答えていました。 >>104
[115] 偽作とみなす根拠が何なのかはよくわかりません。 昭和時代に偽作と明確に指摘する研究があったのかどうかもよくわかりません。
[116] 鋤の様式や銘文と教学史的な事情の関係についても考察が必要でしょうが、 銘文の日付にも不審な点はあります。
[117]
良忍の12月15日銘と作者祐光の12月1日銘と、
干支年と年の字の順序が違います。
良忍銘のように年の字の前に干支年が入る形式は近世のもので、
平安時代末期とするのは難しいでしょう。
[118] 嘉保から永長への朝廷での改元日は12月17日でした。 京都から摂津まで何日か伝達に時間がかかったことも考慮に入れると、 12月1日は1ヶ月弱、12月15日は数日の遡及年号に当たります。 少し遡って区切りの良い日付にするようなこともあるにはあるでしょうが、 やや不審です。
[88] 日本国千葉県成田市西大須賀 (平成の大合併以前は香取郡下総町) の八幡神社の明治時代の社寺明細帳等によると、 の古文書があったそうです。 しかし平成時代の町史によると、 所在不明となっています。 >>87
[119] 八幡神社は社伝ではの創建とされますが、 確実な記録はからのようです。 >>87
[120] 文書の真偽は慎重にならなければいけなそうですが、 現物も (おそらく文面も) 伝わらないとなると判断材料は皆無です。
[25] 文化14(1817)年、 日本武蔵国江戸で永長 (y~4194) の改元デマがありました >>3。
[123] 江戸時代の元水戸藩士で江戸在住の加藤曳尾庵の随筆 我衣 に記録があります。
[124] 我衣 によると、 文化14(1817)年4月27日, 文化14(1817)年4月28日の頃、 改元があると江戸の町中で噂になっていました。 >>91
[125] その中で、 小さい紙に「永長と改元也」 と書いて町々を売り歩く者がありました。 その者らはことごとく逮捕されて入牢しました。 >>91, >>53, >>23 (我衣、藤岡屋日記)
[28] また、江戸から箱根関へ向かった者が通行を許可されない事案がありました。 文化14(1817)年4月28日には永長に改元されるとの噂があったため、 菓子屋の召使の関所切手に文化と書くのはまずかろうと思った番頭が 「永長元年四月」と書きました。 しかし改元の触もないような元号を書くのは不届きであるとし、 召使は通行を許可されませんでした。 >>51, >>94
[90] 残念ながら、 我衣 は現時点で知られている唯一のこの事件の記録です。 入牢者の判決文は伝わりません >>89。
[121] 文化14(1817)年3月22日、 光格天皇は仁孝天皇に譲位しました。 (仁孝天皇は文化14(1817)年9月21日に即位、文化15(1818)年4月22日に文政と改元しました。) 当初から翌の代始改元の方針があり、 1月には4月か5月の改元の意向を朝廷から江戸幕府に示しました。 >>23
[127] の4月という改元デマのタイミングは、 仁孝天皇の践祚の約1ヶ月後です。 一般の情報伝達のタイミングでいえば、 代替わりの知らせが届いて間もない頃に当たります。 新天皇の時代になったのだから改元があるはず、 というところからデマが生じたものでしょう。
[129] 「改元がある」「永長と改元される」「4月28日に永長と改元される」 の3段階の噂があったようにも読めますが、 言葉の綾とも思われ、はっきりしません。
[130] 「永長」がどこから出てきたものか、 「4月28日」がどこから出てきたものかもよくわかりません。 たまたま27日頃に噂になっていたところで、 「もう今日明日中にも」とどんどん具体的に尾びれが付いたようにも思われますが、 どうでしょう。
[131] 筆者はこうした情報をどこで入手したのでしょうか。 改元デマには自ら接して見聞きしたのでしょう。 「紙を売り歩く者がいた」 「紙を売り歩いた者が捕縛された」 も自ら目撃したのでしょうか、それとも噂を聞いたのでしょうか。 「入牢した」 はどうでしょう。噂でしょうか、それとも当局からの発表があったのでしょうか、 それとも関係者から聞いたのでしょうか。 箱根関の一件はどうでしょう。当事者から聞いたのでしょうか、 それとも噂になっていたのでしょうか。
[29] 箱根関の逸話が事実なら「永長」は改元デマとはいえ (わずかながらも) 実用された私年号の1つとなります。
[79] 幕末に往来手形に私年号の神治を書いた例があります。 時代も地域性も違いはありますが、 信頼できない改元情報を信用して書類に書いてしまう事案が起こり得るという実例が他にあるということで、 永長の事案もリアリティーが高まります。
[95] 紙の販売について、 瓦版研究者の平井隆太郎はこの事案を瓦版屋によるものと断言しています。 >>89 当時このような行為をするのは瓦版屋ということなのでしょう。
[132] 「悉く」捕縛されたとあり、 多数の瓦版屋が活動していたと考えられます。
[133]
この事案に言及されることはしばらくありませんでしたが、
に瓦版の研究者平井隆太郎が新聞業界の雑誌で紹介したものがあります。
江戸時代の改元デマと瓦版屋の関わりを列挙していました。
>>89
[92]
平井隆太郎は文政改元の際に事件があったとして、
「四月二十七、八日」云々と引いて、
文政改元が西暦1818年4月22日で、
「
[134] どうもこれは文政改元があったの4月と事件のあったの4月を混同しているように思われます。 改元の決定 (22日) 後に公布されるまで時間がかかり、その合間 (27日・28日) に誤報があったという理解なのでしょう。
[48] 、 歴史研究者の河野昭昌が我衣記載のこの永長を報告しました。 >>47
[136] 平成時代後期の日本年号史大事典はコラムで永長を紹介しています。 >>23
[17] 平成時代後期の文化財行政関連資料で永長に触れたものは、 江戸の事案を、 箱根の事案をか、 と紹介しています。 >>60 #page=13 しかし両事案は日付も一致しており、 後者ものこととみて良さそうです。
[207]
令和改元を間近に控えたには一般雑誌で紹介した事例もありました。
[45] 、 平成時代の日本の小説家永井義男は、 ウェブサイトに 我衣 の永長記事を翻案した小説を掲載しました。 >>27
[137] この記事の末尾で「筆者曰く」として、次のように主張しました。 >>27
[57] しかしこの主張には一切の根拠が示されていません。 幕府からの漏洩であるとの根拠が無いだけでなく、 幕府が当時元号を検討中だったとする根拠すら示されていません。
[145]
光文事件については、
日本政府が検討していた光文案が漏洩したので昭和に差し替えられた、
とする陰謀論説が昭和時代に出現し、
現在もマスコミ関係者などに信仰されています。
[143] 永長は、過去に採用例のある日本の元号の1つです。 江戸時代当時明文化された規則ではなかったものの、 過去の日本の公年号を再利用した事例は1回もありません。 仮に候補に上がったとしても、最終候補となる前に落とされるはずのものです。
[146] また、この時代の改元は江戸幕府と朝廷が協議を重ねながら決めるものです。 情報伝達に片道だけで数日かかることを考慮しなければなりませんし、 幕府や朝廷が一度決めたことを変更できるのか、 といった手続き的、政治的な検討が一切なされていません。
[147]
実のところ江戸幕府が施行前の元号案が庶民に漏れることを問題視していたのかどうかも定かではありません。
朝廷の改元日を過ぎてから未発表の新元号が知られた事例はありますが (
[148] 結局のところ「漏れたから差し替えた」という光文事件陰謀論の筋書きを江戸時代の制度を調べもしないで当てはめただけの稚拙な説なのでしょう。
[59] それでも幕府がこっそり撤回したのだと主張したいなら、根拠を持って行われるべきです。 そうでないならただの虚偽情報です。 (政府批判のネタに何百年も前の江戸幕府の政治判断を捏造 (妄想) するとかどうかしています。当時改元デマを流した人も、そんなに後世まで影響を与えるとは思っていなかったでしょうね。) 光文事件といい、 改元デマは陰謀説と相性がいいようです。 (嘘が嘘に結びつくのも必然なのでしょうか。)
[15] 文政13(1830)年12月10日に天保と改元された頃、 永長と改元されたと紙に書き付けて売り歩いた者があったといわれます。 >>64, >>86
[65] 江戸時代の商人の日記藤岡屋日記の天保15(1844)年12月6日条に記録があります。 >>86
[58]
記録は回想ですし (
[61] 頃、日本全国各地で永長 (y~295) が使われました。
[154] 訓みは「えいちょう」とされます。 >>80 自然な読み方ではあるのですが、根拠は不明です。
[206] 用例が広範囲に分散しているだけでなく、時期もばらばらなのがこの私年号の特徴です。
から、天保8年と断定できます。 輪中の用例 (>>14) も天保8年と断定されています。
[224] 入間市の用例 (>>31) は詳細不明で、天保8年なのかどうかわかりません。
[225] 用例が知られているものは、いずれも私年号を意識的に使うべき明確な原因を見いだせません。 比企郡の用例 (>>39) は不自然に併記していること、 伊達郡の用例 (>>170) は公年号に訂正していること、 加賀国の用例 (>>49) が公年号からの改元と明記していることから、 私年号の利用が意図的ではなかった可能性が示唆されます。
[39] 日本国の埼玉県立文書館所蔵森田家文書に永長が書かれた 御用留 があります。 >>35 埼玉県立文書館の目録検索で
文書群番号 目録-018-01 文書番号 森田家260(CH31)
の文書が所蔵されていることがわかります。 >>38 (ウェブサイトで公開されているのは目録だけなので、 特にこれといった情報は得られません。)
永長元年丁酉正月吉日
御用留
天保八酉年正月日
大野村
会所
とあります。 私年号は表紙の他の文字と違和感なく同筆と考えられます。 >>35
[41] 内容は天保8年正月21日から天保9年正月21日までの48記事です。 現存する直前の御用留は天保7年5月22日までで、 約半年分が現存しません。 >>35
[44] 森田家は日本武蔵国秩父郡大野村 (近代の日本国埼玉県比企郡都幾川村大野、平成の大合併でときがわ町) の村役人の家でした。 >>42 /12
[46] 表紙は同筆とのことですが、永長と天保がいつ (どちらが先で、 どれだけ時間を置いて) 書かれたのかは気になります。 同筆とはいっても左右に対照?に書かれているのに日付の表記は統一されておらず、 後から体裁を気にせず追記したようにも思われます。 普通に考えれば「永長元年」が先でしょうか? そして「永長元年」が書かれたのは天保8年正月21日頃でしょうか。
[31]
に出版された自治体史所収の日本国埼玉県入間市上小谷田滝沢達夫家所蔵文書の目録によると、
目録のみで本文不明ながら、永長元年2月付の質流証文文書があるとのことです。
目録には、根拠不明ながら「
[200] この目録中に同じ発給者の文書は天保10年のもの1通のみです。 同じ名前だから同じ人物とは限らないものの、 他に1つだけしかないなら同一人物、同時代と考える有力な根拠になるでしょう。
[2] 「永長元丁酉暦」 と書かれた大小暦の絵暦があります。 天保8(1837)年のものとされています。 >>54
[55] 絵暦の詳細はわからない。ウェブ検索では出てこないし、 国立天文台所蔵の岡田芳朗の旧蔵暦リスト >>56 にも載っていない。
[62] 詳細不明とはいえ元年の暦はかなり例外的で、 普通は前年末に暦が作られるので旧元号で発行されるはずです。 来年改元があるという前情報から作られたのでしょうか。 それとも通常の暦と違って大小暦は新年になってから作られることもあったのでしょうか。
[96] この史料は、 木屋藤右衛門、 梶屋九郎兵衛、 木屋藤蔵、 酒屋九兵衛の4商人が日本加賀藩領加賀国石川郡大河端村 (現在の日本国石川県金沢市) の新開の土地を購入した際の文書であり、 大河端村の宗左衛門らを雇って測量させ、 出資金に応じて分配し明確に図示した文書です。 4人が1枚ずつ所持したと考えられます。 >>34
[97] この文書はおそらく石川県のどこかで見つかって調査されたもの、 もしかすると石川県立図書館に収蔵されたものかもしれませんが、 詳細が説明されておらず不明です。 少なくても4枚存在したと推測されていますが、何枚見つかったのかは不明です。 特記がないということは1枚でしょうか。 4家のうちどこかに伝わったものなのでしょう。
[149] この用例より永長は加賀の商人によりに使用されたと考えられています。 >>16, >>60
[98] 本文の肩に明らかに注記の形を取って加筆された永長の私年号の部分ですが、 同筆なのか別筆なのかなど考察はなされていません。
[232]
論文掲載の白黒写真 >>52 からの判断は困難です。
年
は本文と字形差があり、
永
や長
は本文のものと微細な差がありますが、
他人の筆と断定できるような違いではありません。
[233] ともかく天保8年2月に原文が成立した後に、改元を知って注記したということでしょう。
[14] 昭和時代の日本国岐阜県安八郡墨俣町 (現在の大垣市墨俣町) の自治体史墨俣町史によると、 に 「輪中一円」で私年号の永長元年 >>13 /198, /273 を使いました。 >>13 /391
[159] 史料は何かあるのでしょうが、 墨俣町史 は通史、年表とも特にそれを明記はしていません。
[161] 「輪中一円」が具体的にどのような範囲なのかは定かではありません。 現在墨俣輪中と呼ばれるのは墨俣町域の他に岐阜県安八郡安八町北部 (旧結村域) があるとされます。
[160]
年表では「
[208] の江戸の改元デマ (>>25) は同時代的記録もあった (>>123) ものの、 昭和時代まで広く公刊されずに埋もれていました。
[211] 天保改元の頃の江戸の改元デマ (>>15) は約15年後の記録があった (>>65) ものの、 平成時代 >>23, >>64 まで紹介されていません。
[12] 昭和時代中期の 墨俣町史 は、同地で私年号の永長が使われた (>>14) としています。 >>13
[162] 同書はからの天保の大飢饉と関連付けて、 飢饉や疫病が理由で改元したとしています。 >>13 /198, /273 しかしその理由は示していません。
[63]
同書は「
[212] 墨俣町史 の私年号説は令和時代に至るまで私年号研究の分野で気づかれずに埋もれていました。
[209] 昭和時代後期から平成時代にはの江戸の改元デマ (>>25) が知られるようになり >>89, >>84, >>47, >>23, >>60、 一般書等にも紹介されましたが >>27, >>3, >>207、 史料的制約によるものか興味が限られるのか、 研究は広がりを見せていません。
[216] に加賀の用例 (>>49) が報告され、 私年号とされました。 しかし私年号研究の分野では平成時代半ば頃まで気づかれずに埋もれていました。
[234] 昭和時代の日本国石川県の歴史研究者田川捷一は、 加賀の用例 (>>49) を次のように報告、考察しました。 >>34
[214] に入間市の用例 (>>31) が私年号と判断されました。 しかし令和時代に至るまで私年号研究の分野で気づかれずに埋もれていました。
[198] 、 平成時代の歴史研究者の白井哲哉は、 埼玉県の用例 (>>39) を報告しました。 >>35 昭和時代後期に整理された文書群ながらも、 その際には私年号として認識されなかったものでした (>>43)。
[213] なお報告では先行研究 >>47 から江戸の事例 (>>25) をも引いています。 >>35 (公年号を除く) 別種の永長が同時に紹介されたのはこれが始めてです。
[199] 分析結果は改めて報告する予定だとしています >>35 が、その報告は見つかっていません。その後何らかの形で報告されたのかは不明です。
[215] 、 日本の暦研究の大家岡田芳朗が永長元年暦 (>>2) の存在に触れました。 これより前から存在は知られていた可能性はありますが、不明です。
[151] 日本語版ウィキペディアは天保8年の永長のみを掲載しています。 >>16 の改訂で追加されました >>322。
[152] 絵暦 (>>2) と加賀 (>>149) の用例を、 それらを紹介する論文を出典に紹介しています。 >>16
[153] のツイートで、 ウィキペディアの記述によく似たものがあります。 >>80 ウィキペディアにない情報もあります。 投稿者が足したものなのか、 足された出典が(明記されていないが)あるのか、 何らかの共通の出典があるのかはよくわかりません。
[156] このツイートは、公年号の永長を踏襲したのかどうかは不明としています。 >>80 「不明」ということでその根拠も何も示していないのですが、 ここでいう踏襲とは、 かつての公年号に何らかの愛着のようなものがあって私年号として敢えて再利用した、 という可能性を指摘しているのでしょう。
[157]
日本の私年号でそのような主張がなされたものはいくつかありますが、
どれもこれといった根拠はありません。
[155] 木谷藤右衛門は日本一の豪商で、年号まで自分のものを使用したとも解説しています。 >>80 何でもほしいままにしたととらえられる説明ですが、その根拠は不明です。
[150] 平成時代の文化財行政関連資料では、 加賀の用例 (>>149) を引いて、 加賀の商人が使用した私年号と紹介しています >>60 #page=13, #page=18。 参考文献がいくつか示されていますが、これの出典は不明です。
[172] 、 日本国福島県の歴史研究者小野孝太郎は、 福島県の用例 (>>170) を報告しました。 この際次のような見解を示しました。 >>163
[192] 改元待望論は中世東国私年号の伝播の説明として通説になっているものを、 ここでは近世にも適用したものです。
[194] 私年号が公年号を否定するもので公文書では使用しないというものも、 従来そのように説かれることがあったものに従ったのでしょう。
[11] 5月3日に帰宅し、5月中に改元情報を得たというのは、 5月3日より後に陸奥国内で改元デマを受け取ったという想定なのでしょうか。 具体的にいつどこでどのように情報を得たのかは書かれていませんし、 それを推定できる材料も無いということなのでしょう。 だとすれば改元デマの受取地は陸奥国内とは限らないはずで、 江戸なり道中なりで知って大橋儀助が陸奥国に持ち込んだという可能性も想定するべきでしょう。
[196] 「広範囲に伝播」したという以外に記述がなく加賀国の事例と具体的にどう関係していると考えているのかよくわかりませんが、 「伝播」があったとするのなら加賀国発祥説も再検討が求められるはずです。
[226] まだまだ不明なことが多いです。
[21] 江戸でずっと燻っていた改元デマがある時ついに地方にまで波及したというシナリオも考えないといけなそう。
[22] 飢饉で世が荒れていたとはいえ幕藩体制がまだ盤石だった時代。 東海北陸東北の3箇所で同時に私年号が使われていた形跡があるとは衝撃的ではないでしょうか。
中世私年号は乱世で正規の改元伝達経路が麻痺したところに公年号と誤認された私年号が流通したというのが近年の主流説になっていますが、 それとの関係も含めてよく考えた方が良さそうですね。
天保期に正規の改元伝達路が機能していなかったとは考えにくい。 それなのに民衆はどこかで改元の噂を聞きつけて、勝手にそれを使い始めているわけですから。
[75] 宝永の事例を見ると本当の改元のときも幕府からの正式な通知の前に民間に噂を触れ回っている輩が表れて処罰されていたとのこと。 正規の改元情報が手続きを経て通知されるために時間がかかるので、 いち早く知りたい人と知らせたい人がいて非正規の改元情報が出回り得る「隙間」は生じていたらしい。
[218] 慶喜や命禄の事案とも合わせて、私年号の伝達媒体としての暦の役割はよくよく考察される必要があるでしょうね。 永長を含めていくつかの私年号の用例が1月、2月あたりに集中しているのは偶然ではないかもしれません。
[219] 暦の出版が統制された近世になぜ、という疑問もありますが、大小暦というのは大きなヒントですね。
[24] 公年号があるせいで私年号が検出されにくくなってる気がしますね。 ウェブ検索でも公年号情報が多く、見落としがありそう。
[26] 本来私年号なのに、質の悪い偽作とみなされ無視されてる史料もありそう。
[66] これ、私年号研究の研究史反省ポイントが詰め込まれた事案ですな。