幕末維新期の日時

幕末維新期の日時

[1] 江戸時代末期から明治時代初期にかけ、 西洋式日時制度の影響を受け、 日本の日時制度には大きな変革がもたらされました。

現行制度については日本の暦日本の標準時

洋学

[59] 江戸時代欧州との交流は和蘭に限定され、 直接的接触も一部の役人や商人にのみ許されていましたが、 西洋文化は少しずつ取り入れられていきました。

[60] 仙台藩大番士遠藤曰人 (わつじん) は、 誰彼集 を出版しました。 夕暮集蘭序 として、 アルファベットの影響を受けた奇抜な書体、奇抜な表記の文章を掲載しました。 そこには、 「文化4 () Herfst (ヘルフスト) 」 (左横書き) とありました (Herfst = (オランダ語))。 横書き登場 p.34 左横書きアルファベットを利用した早い例として知られますが、 この時代にはまだ一般的な表記とはなりませんでした。 日付表記としては、 アラビア数字を用いたことが注目されます。

[61] http://eichi.library.pref.miyagi.jp/eichi/detail/3-60373-0 とみられますが、 Web では公開されていません。
[70] オランダ正月 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%AD%A3%E6%9C%88

ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、便宜上、翌年以降は冬至(太陽暦では毎年ほぼ同じ日であり、太陽太陰暦の計算にも使用される)から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。

京都暦

[55] 旧暦は、 元々支那のものをそのまま使っていましたが、 江戸時代日本独自の暦法が開発され、 日本経度に合わせて計算されるようになりました。 貞享暦宝暦暦寛政曆天保暦京都経度時刻を使っていました。

[32] 渋川春海は、 はじめ授時暦採用を働きかけましたが、 失敗しました。 渋川は里差 (経度差) がずれの原因と気付き、 大和暦を完成させました。 3月、 日本政府 (朝廷) は大統暦の採用を決定しましたが、 渋川は里差問題を指摘し、 大統暦ではなく大和暦改め貞享暦へと改暦されることになりました。 >>31

[33] 渋川は、 マテオリッチの世界図 (坤輿万国全図成立) に基づき、 北京京都里差を 15度としました。 >>31

[37] 頃、 伊能忠敬は全国測量を行い、 経度の測定も試みました。

[34] 高橋至時は、 その 暗入利亜 (あんげりあ) 暦考 によると、 カラッパ暦を参照したり、 英国航海暦から計算したりと、 大変苦労して里差測定を試みました。 ロンドン京都間を +09:03 としました。 ロンドン京都間を +09:01:30 としました。 >>31

[35] 渋川景佑新巧暦書 (成立) の序は、 パリ京都間を8時54分27秒、 グリニジパリ間を9分16秒 (ラランデの値)、 従って +09:03:43 としました。 >>31

[36] ロシア人クルーゼンシュテルン (長崎に来航) は、 +09:02:40 (134.40E) としました。 シーボルト日本から持ち出した伊能忠敬日本図にこの値を使いました。 >>31

[27] 江戸幕府天文方渋川家は から 万国普通暦として旧暦グレゴリオ暦ユリウス暦の対照表を毎年発行していました。 万国普通暦

[28] 朔望二十四節気などについて、 日本京都平時と、 グレゴリオ平時 (旧天文時) が併記されていました。

[29] 京都+09:03:43 としていました。

[30] 時刻24時間制で記述されました。 漢数字2桁、 は「初」(= 0) または「一」から「二三」の漢数字で表されました。

  1. |
    1. 一-九
    2. 一〇
    3. =
      1. 一-九
    4. 二〇
    5. 二一
    6. 二二
    7. 二三
  1. |
  2. |
    1. 一-九

条約締結

[75] 幕末日本政府 (江戸幕府) は欧米諸国条約を締結しました。 条約では両国の暦法紀年法が併用されました。

一般的事情は外交文書の紀年法

琉球の事情は南西諸島の日時

函館政府の事情は北日本の日時

[77] 日仏修好通商条約 の署名の日付は、次のようにありました。 >>76 (5) PDF 4ページ

[77] 日仏修好通商条約 の第3条 >>76 (3) PDF 7ページ、 第20条 >>76 (5) PDF 3ページ、 第22条 >>76 (5) PDF 4ページ には、 両国が同意した期日が記載されていました。

[87] 日仏修好通商条約 に基づく 貿易章程 には、 時間の長さが次のようにありました。 >>76 (5) PDF 6ページ

[91] 日仏修好通商条約 には漢字かな混じり版、 カタカナ版、 フランス語版、 オランダ語版があり、 相違ある場合はオランダ語版によるとされていました。

地方時の時代

[729] 江戸時代の状況については、江戸時代の時刻も参照。

[515] 大政奉還王政復古により、 幕府は廃止され、幕府領は朝廷 (明治政府) の管理下に入りました。
[562] 版籍奉還により、 諸明治政府の管理下に入りました。
[563] 廃藩置県により、廃止され、本土全域が明治政府の直接統治下に置かれました。

[52] 施行改暦ノ布告 >>53 により、グレゴリオ暦定時法が実施されました。 それまでは不定時法だったといいます (江戸時代の時刻参照)。 日の出日の入により時刻が決まるため、季節と位置によって変動がありました。

主要都市ではなどがあった (報時参照。) 他、和時計も作られていました。

[140] Time ChangesJAPAN は、グレゴリオ暦が採用されたが、 庶民は太陰暦を使い続けた、としていました >>139

[4] 、 各地の郵便局に運送時刻管理のための時計が設置されました。 正午計によって地方真太陽時合わせられていました。 >>1031

[223] 明治時代初期には、各地の地方時が用いられていました。 気象台では京都時電信局や編暦では東京時と、 分野ごとに異なる“標準時”も使われていました。

[334] この時期の時刻について、色々な (相互に矛盾する) 情報があります。 そのほとんどは、根拠が定かではありません。

  • [489] 「明治初期は東京時を用いていた」 >>194, >>263, >>262, >>267, >>330, >>397
    • やや正しい
    • 明治6年-明治20年の編暦には東京時が用いられていた (>>57)
    • 明治6年-明治20年のには東京時との時差が記載されていた >>273
    • 明治11年/1878年に電信局が東京時報時開始 (>>266)
  • [490] 「明治6年改暦で東京時が標準時となった」 >>446
    • 暦は東京時を用いるようになった
    • それを標準時と言えるのなら正しいが...
  • [491] 「明治9年秋に +09:00 が標準時となった」 >>118, >>209
    • 明治19年の誤り? (ただし7月なので秋ではない)
  • [484] 「明治12年/1879年に東京時が標準時となった」 >>330
    • そのような情報は見つかっていない
  • [485] 「明治13年/1880年に東京時が標準時となった」 >>271
    • そのような情報は見つかっていない
  • [486] 「電信局は東京時を用いていた」 >>249, >>331
    • 正しい
    • 明治11年/1878年に電信局が東京時報時開始 (>>266)
  • [487] 「関東の鉄道は東京時を用いていた」 >>248, >>336, >>1031
    • おそらく正しい
    • >>255
  • [488] 「明治以前は京都時を用いていた」 >>263, >>267, >>271
  • [478] 「明治11年/1878年に京都時が標準時となった」 >>321, >>322, >>323, >>332
    • そのような情報は見つかっていない
  • [479] 「明治12年/1879年に京都時が標準時となった」 >>325, >>377
    • そのような情報は見つかっていない
  • [476] 「気象台は京都時を用いていた」 >>249
    • ほぼ正しい
    • 以後、明治21年/1888年の中央標準時施行以前は、京都時を標準として観測していた (>>225)
    • 明治18年/1885年頃、京都時に統一された (>>261)
  • [480] 「明治20年まで政府機関は京都時を用いていた」 >>331
    • 気象台に限れば正しい
    • それ以外でそのような情報は見つかっていない
  • [481] 「関西の鉄道は京都時を用いていた」 >>252
    • おそらく誤り
  • [482] 「明治初期に関西では大阪時を用いていた」 >>262, >>263
    • 大阪市内と関西圏の鉄道に限れば正しい
    • それ以外でそのような情報は見つかっていない
  • [483] 「関西の鉄道は大阪時を用いていた」 >>248, >>1031
    • おそらく正しい
    • >>255
  • [477] 「明治11年/1878年まで真太陽時、明治12年/1879年より平均太陽時を用いた」 >>325, >>326
    • のことなら、正しい
    • 明治11年までのは真太陽時、明治12年以後のは平均太陽時を用いていた >>327, >>329

[393] 中央標準時制定時点で各地の地方時が用いられていてばらばらだった旨が政府内で述べられているので ( 中央標準時 )、(分野を限定しない) 標準時が定められたというのは明らかに誤りです。

[474] 京都時京都標準時とも呼ばれますが、 当時からそのように呼ばれていたという資料は見つかっておらず、後の時代の俗称でしょう。

[619] なお、東経135度子午線京都府京丹後市も通過しています。 日本標準時のことを俗に明石標準時ともいいますが、 それならばある意味で京都標準時でもあるわけです。 もちろんここでいう京都時東経135度子午線時ではなく京都市地方時であり、 数分の差があります。
[1031] 今年は日本標準時制定130周年!, 明石市立天文科学館, 星空のレシピ VOL. 331, () http://www.am12.jp/kankouhoushi/pdf/hoshipi331.pdf#page=2

明治の初めの頃、東京・横浜間の鉄道は東京の 地方時を、京阪神の鉄道は大阪の地方時を使っていました。また、 全国の気象台は、京都の地方時で一斉に気象観測をしていました。

1873年(明治6年)に太陽暦が導入されると、暦面上は東京の 地方時が使われるようになります。旧江戸城の天守台を経緯度の 基準とし、各地の時差(経度差)が掲載されていました。また、 1874年(明治7年)より各地の郵便局には、運送時刻の管理のた めに時計が備え付けられ、時計の時刻あわせには正午計が使わ れました。正午計は、それぞれの場所での南中時刻により時計の 針をあわせるもので、離れた地域間では経度差による時刻のず れがありました。


[226] その後明治21年/1888年1月1日より中央標準時が実施されました。

[218] 実施に先立つ明治20年/1887年7月4日には、各府県庁所在地の地方時との時差一覧が官報觀象欄に掲載されています >>217

[328] 他に、にも主要都市の地方時との時差一覧が掲載されています。

[141] Time ChangesJAPAN+09:00 が採用されたものの、政府のみで庶民は用いなかった >>139 としていました。根拠は不明です。

[144] Time ChangesJAPANFormosa, Pescadores group, Yaeyama group, Miyako group は +08:00、 それ以外は +09:00庶民にも施行された >>139 としていました。 根拠は不明です。

[157] 以後、 各都市の報時機構は中央標準時ベースに切り替えられました。 地域により多少の移行の遅れはあったかもしれませんが、 庶民が用いなかったと全国的にいえるほど普及しなかったということはないはずです。


[730] 以後の状況については、中央標準時、夏時刻の項を参照。

[221] 官報 第壹貳〇三號 明治二十年七月四日 觀象 >>217

○標準時ト各地方時トノ差

昨明治十九年七月十二日勅令第五十一號ヲ以テ来ル明治二十一年一月一日ヨリ英國綠威ノ東經百三十五度ノ子午線時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定メラレタルニ就テハ明年一月一日ヨリハ本暦ヲ初メ其他凡テ時刻ヲ記スルモノハ全國皆此標準時ニ依ラサルヘカラス故ニ各地方ニ於テ從來用ヒ來レル其他ノ時刻(地方時)ト此度定メラレタル標準時トノ差ヲ知ラサレハ百時差支ヲ生スルヿアルヘシ依テ左ニ各地方廳(根室函館ノ如キハ即今地方廳所在ノ地ニアラスト雖モ昨年マテ縣廳所在ノ地タリシヲ以テ特ニ之ヲ附記ス)ニ於ケル時差ヲ掲ケ以テ地方時ヲ改テ標準時トナシ或ハ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求ムルノ便ニ供ス(内務省)

減ノ部

府縣廳所在地 時差
和歌山三十三秒
兵庫三十四秒
大阪一分五十五秒
京都三分〇〇秒
滋賀三分十七秒
福井四分四十九秒
三重五分五十三秒
石川六分三十三秒
岐阜六分五十一秒
愛知七分三十三秒
富山八分四十九秒
長野十二分四十一秒
靜岡十三分二十九秒
山梨十四分十三秒
新潟十六分十秒
群馬十六分十七秒
埼玉十八分三十三秒
神奈川十八分三十五秒
東京十九分〇八秒
栃木十九分三十四秒
秋田二十分十七秒
千葉二十分二十九秒
山形二十一分〇九秒
福島二十一分三十七秒
茨城二十一分五十七秒
函館二十二分五十三秒
靑森二十二分五十九秒
宮城二十三分二十九秒
岩手二十四分二十五秒
札幌二十五分三十一秒
根室四十二分二十秒

加ノ部

府縣廳所在地 時差
德島一分四十七秒
鳥取三分十一秒
岡山四分二十七秒
高知五分五十五秒
島根七分五十一秒
愛媛八分五十八秒
廣島十分十二秒
大分十三分三十六秒
山口十四分十五秒
宮崎十四分二十三秒
熊本十七分十二秒
鹿兒島十八分〇四秒
福岡十八分二十七秒
佐賀十八分四十九秒
長崎二十分三十一秒
沖繩二十九分十九秒

地理局觀象臺ニ於テハ毎日標準時ノ正午ヲ全國各電信局ニ電報スルカ故ニ電信局所在ノ地ハ同局ニ至リ精密ナル標準時ヲ聞知スルヲ得ヘシ然レ𪜈電線未タ接セサル地方即沖縄等ニ於テハ暫ラク從來用ヒ來レル地方時ニ就キ前記ノ分秒ヲ加減シテ標準時ヲ求メサルヘカラス即加ノ部ニ列セル地方ハ其地ノ時刻ニ前記ノ分秒ヲ加ヘ減ノ部に列セル地方ハ其地ノ時刻ヨリ前記ノ分秒ヲ減スレハ即チ標準時ヲ得ルモノトス若シ既ニ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求メントスルモノハ右加減ヲ相反シ加ト書スルモノハ標準時ヨリ此差ヲ減シ減ト書スルモノハ標準時ニ此差ヲ加フレハ即地方時ヲ得ヘシ

[274] 東京時差>>57 とは異なりますが、 こちらの表では浅草司天台 (現浅草橋3丁目) との時差を採用していると思われます。
[314] 京都時差は、当時の京都府庁があった二条城二の丸御殿付近と思われます。 朝廷を担当していた土御門家に縁のある晴明神社や、 その屋敷や天文台があった現梅小路公園付近、 あるいは西三條台改暦所といったに関係する歴史的な施設がほぼ同経度上に存在していますが、 少しずつずれています。
[369] >>333 に写真が掲載されている明治時代か大正時代の携帯日時計には、 各地の時差一覧表があり、この官報の表と同じもののように見えます。 官報またはの時差一覧表に基づき作成したものと思われます。
[12] 讀賣新聞 , 一面
旧字旧仮名変体仮名は新表記に改め、ルビは省略した。 送り仮名も現代風とし一部漢字から仮名や数字に改めた。 句読点を補った。

◎時刻改正の注意

標準時施行のことはしばしば記載せしが、今その要領を挙げれば、 従来時刻を定むるには各国とも太陽を標準とし太陽その地の子午線に南中する時を正午12時 (開明国にてはすべて平太陽時を用ゆ) と定むる例なり。 故にその地異なれば時刻もまたしたがって異なりて各地の時刻まちまちにしてしばしば不都合を感じたることありき。 現に本邦のごときも根室の1時は長崎の11時過ぎなるが故に例えば根室にて午後1時に電信を発するに長崎において午前11時過ぎに受け取る訳にして商業上には往々行き違いを生ずべく実に不都合千万なる訳なり。 また東京の正午は神戸の11時42分なり。 故に東京にて時計を改めて乗船し神戸に着しそれより汽車にて大阪に至らんとするに鉄道局の時計とは18分余の相違あり為に汽車の出発を停車場にて待ち合わせもしくは油断して汽車に乗り遅るる等の不都合もまた往々これあり。 しかり故に電信局にては右の不都合を除かんがため夙に東京の時を各電信局一般に用いしがその他は不便ながらも皆その地その地の時を用いたり。 されど本邦の如きは国土甚だ広からざればしたがって国内時刻の差もまたはなはだ大からざるをもって不都合ながらもその害やや少なき方なるがアメリカのごとく東西経度の差数十度に連亘する国に在りてはしばしばはなはだしき不都合を生じたることありき。

続きは中央標準時

tzdata

[338] tzdataAsia/Tokyo は、 標準時施行までの LMT を、 +09:18:59 としています。付けの注記によれば、 理科年表版の東京の座標東経135度44分40秒90に基づく値です >>159, >>277

[339] 正確には +09:18:58.727 です >>159 が、 tzdata精度なので四捨五入されているようです。ちなみに北緯35度39分16秒0で、 旧東京天文台の位置です。

[63] tzdata の改訂以前は、 +09:19:04 としていました >>62Shanks (2003) >>270 は、 Tōkyō35N42 139E46 +09:19:04 としています。 これは湯島聖堂の位置を表しているようです。

[341] この理科年表由来の東京の座標は、 大正7年/1918年9月19日文部省告示號外の値に基づき理科年表/暦象年表 (いずれも東京天文台/国立天文台編集) において大正9年/ 1920年版から採用され、 平成14年/2003年版まで用いられていました。 (その翌年から世界測地系に移行しました。)

[64] 東京天文台は明治21年/1888年設立で、 明治24年/1891年版のからその位置が計算に用いられていました。 >>340

[65] ということは 時点の東京の代表点として適切な値でしたが (他に日本経緯度原点でもよかったかもしれませんが)、 明治20年/1887年以前の東京の位置として妥当な値とは言いきれません。 東京

[23] そのため tzdata を誤りだと主張する人達がいますが >>194, >>348, >>349, >>350, >>153, >>276、 修正を提案した人はなぜかいないようです。

[68] 伝言ゲーム(?)で理科年表が「天文台」と「天守台」を取り違えたことになっていますが >>350, >>153、そんなわけないでしょう。

[66] 標準時制定以前、 日本全国の唯一の時刻といえるものはありませんでした。 東京に限っても単一の代表時刻といえるものを確定させることはできません。 したがって以前の Asia/Tokyo の値は当時の東京中心のどこかでありさえすればよく、 それ以上の厳密性を求めても意味はありません。 (世界の他の都市でも同じようなものです。)

[67] もし何らか根拠のある数値を採用するべきだとすれば、 当時東京時として電信などで使われていた時刻 (の理論値) である、 日本政府の暦東京の値が適切でしょう。 この値を知るのは時点では困難でしたが、 現在は国立天文台Web で公開しています >>56

[194] tz databaseの1888年以前の時差は2秒ずれてる? - きしだのはてな ( 版) http://d.hatena.ne.jp/nowokay/20150109/1420772562 (移転確認 )

tz databaseの1888年以前の時差は2秒ずれてる? - きしだのHatena, https://nowokay.hatenablog.com/entry/20150109/1420772562

問題は、それ以前の標準時です。9時間18分59秒というのは、東京天文台の位置を東経139度44'40".90を基準に算出したということが、tz databaseのコメントに書かれています。

しかし、国立天文台のwikiによると、1888年以前の基準は元江戸城天守台で、東経139度45'17".0が基準にされ、時差は9時19分1.13秒となっていたことがわかります。

暦Wiki/時刻/日本の本初子午線 - 国立天文台暦計算室

次のサイトでも、「星の古記録」という本に1888年以前の時差は9時間19分1秒ということが書いてあったという記述があります。

すのものの「いろいろ」(その4) http://www5a.biglobe.ne.jp/~sunomono/iro0004.html

斉藤国治「星の古記録」(岩波新書、1982)の 195 ページによれば、 現行の日本標準時が採用されたのは 1888 年 1 月 1 日だそうだ。 それまでは旧江戸城本丸跡中央気象台の地方平均太陽時を使っており、 両者の差は 19 分 1 秒、とのこと。

ということで、どうやら1888年以前の時差を9時間18分59秒とするのは妥当ではなく、9時間19分1秒とするほうがいいように思います。

東京暦

[69] 東京奠都により、 の基準も京都から東京に変更されました。

[57] からまでの東京の時刻に基づき計算されていました >>56

和暦西暦時差名称注記
明治6年1873年+09:19:01東京時刻
明治7年1874年+09:19:01東京時刻
明治8年1875年+09:19:01東京時刻
明治9年1876年+09:19:01東京時刻
明治10年1877年+09:19:01東京時刻
明治11年1878年+09:19:00.5東京時刻赤坂区溜池葵町内務省地理局測量課
明治12年1879年+09:19:00.5東京時刻
明治13年1880年+09:19:00.5東京内務省地理局測量課平時
明治14年1881年+09:19:00.5東京内務省地理局測量課平時
明治15年1882年+09:19:00.5東京内務省地理局測量課平時
明治16年1883年+09:19:00.5東京内務省地理局測量課平時微修正が行われた
明治17年1884年+09:19:00.5東京内務省地理局測量課平時
明治18年1885年+09:19:01.13東京内務省地理局測量課平時東京天主台
明治19年1886年+09:19:01.13東京内務省地理局測量課平時
明治20年1887年+09:19:01.13東京内務省地理局観象台平時
から旧暦にかわりグレゴリオ暦が採用されています。
[272] この時期のには、日本各地との時差も記載されています >>57

[259] 標準時実施後は中央標準時により計算されていました。

旧暦も参照。

気象観測

[370] 気象観測結果の正確な記録には時刻が必要となりますし、 全国の結果を比較したり、天気図を作成したりするためには、 各地の観測時刻を揃える必要があります。

[225] 明治初期の気象観測は地方時に基いていましたが、 明治9年/1876年10月から京都時の観測も行うようになりました >>252

[260] には京都時による天気図が作成されました (現存最古の日本天気図) >>251日時Thursday, March 1. 1883. 6 A.M. Kioto Time. と記載されていました >>973

[224] 明治16年/1883年7月2日の官報第1号の「地理局報告」欄には、 「明治十六年七月一日京都時午前六時東京時午前六時十六分長崎時午前五時三十六分」 と注記があります >>222

[475] 東京時+09:19 だとすると、 京都時+09:03長崎時+08:39 ということになります。 実際に気象観測に用いているのは京都時と各地の地方時ですから、 長崎時を示したのは単に西部の主要都市という意味に過ぎない (九州の標準時のような意図のものではない) と思われます (東京時標準時ではなく、東部の主要都市としてでしょう)。

[261] 明治18年/1885年 (?) 1月1日には地方時の観測を廃止し、 京都時に統一されました >>253

[208] >>207 によると、次の時刻が用いられました。

[371] 中央標準時施行後は、そちらを採用しています。 西部標準時夏時刻の実行中も、中央標準時を使っていたようです。

[2065] -中央気象台年報には、 観測時は帝國標準時 (英文では Japanese standard time) とありました >>2064, >>2066

[2067] 中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (英文では Central standard time) とありました >>2068

[2069] -中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (英文では Central standard time)、 ただし臺灣西部標準時 (Western S. T.) とありました >>2070, >>2074

[2071] その後の年には、 石垣島大韓帝国 (後に朝鮮)、 関東州滿洲支那にも観測地点が増えていっていますが、 観測時の説明はほぼ変わりませんでした。

[2076] -中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (英文では Central standard time)、 ただし臺灣滿洲西部標準時 (Western S. T.) とありました。 日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2075, >>2077, >>2078 以後、 日界夜半二十四時制ともありました >>2077, >>2078

[2073] -中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time)、 ただし臺灣滿洲 (滿洲國) は西部標準時 (Western S. T.)、 ただし旅順中央標準時 (C. S. T.) とありました。 日界夜半二十四時制日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2078, >>2080, >>2081, >>2072

[2083] 中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time)、 ただし臺灣西部標準時 (Western S. T.) とありました。 日界夜半二十四時制日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2082

[2086] -中央気象台年報には、 観測時は中央標準時 (Central Standard Time) とありました。 日界夜半二十四時制日照時数観測は真太陽時とありました。 >>2085, >>2087

[2089] 中央気象台年報には、 観測時は中央標準時とありました。 日界夜半二十四時制とありました。 >>2088

[2084] この他観測項目ごとに10時や22時を日界とする旨の注記がありましたが、 年ごとに少しずつ違っていました。

[355] 南洋群島でも中央標準時基準の同時観測が行われていました。 南洋群島の標準時

[252] ー' 2, 3. 4' はじめに ( 版) http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:O06KPad1Nb4J:libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108475.pdf

中央気象台一覧によると) ジョ イ ネルの気象観測は地方時の午前9時30分, 午後3時30分' 「司9時30分の3回で, 外に地震器械の見廻り) 空中電気の測定, 観測資料の整理などであ る か ら, 一人でできないほどの量ではない。

そのうちに伝習生も一人前になったと見えて, 明治9年10月からは観測回数を増加す る こ とになり, 地方時の観測には新に午前3時30分が加えられて 1 日 4回となり, この外に京都時 の午前及び午後の3, 6, 9, 12 時の都合8回を加えたので, 総測回数は1 日 12 回に 及んだ。 そのうち地方時の観測はジョイ ネルが自ら担当し, 京都時の側は日本人に担当させた。 地方時 をジョ イ ネルが担当したいという ことは, 当時の観測では気候の方を重視したのか屯知れない。 京都時というのは, 当時まだ中央標準時が制定されていなかったので, 鉄道な どで用いられて いたらしい。 日本人観測者に京都時の観測をさせたという ことは, 一つには訓練のためであろう が, いずれは天気図を作成する時の準備という考えがあったのかも知れない。

[251] ( 版) http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_237/yj23702.pdf (リンク切れ )

気象庁に現存する日本最古の天気図 () http://www.sonpo.or.jp/news/publish/safety/dizaster/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-237.pdf

口絵の天気図は気象庁が所蔵する日本最古の天気図で、東京気象台(気象庁の前身、当時内務省地理局所属)が1883年(明治16年)3月1日に日本で最初に配布した天気図である。天気図時刻は当日午前6時(京都時:当時の日本標準時)である。

[253] 国立公文書館 アジア歴史資料センター ( 版) http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A07061702900

[254] 明治18年?1月1日より、地方時による気象観測を廃し、京都時による観測のみに変更。

電信

[216] 長崎日本初の国際電信事業が開業しました。 海底ケーブル長崎-上海線および長崎-ウラジオストク線が開通しました。

[266] 明治11年4月1日より、東京時が全国の電信局へ送信されるようになりました。

[372] 標準時施行後は、そちらを採用しています。

[459] >>458東京時から標準時への移行時の取り扱いの規定が収録されています。

[165] 国際電信会社の中には、標準時実施から何年も経った1899年頃に、 次のような情報を提示していたところもあったようです >>148

[166] こうした時差を示していた会社が実際にその時期にもこれを使っていたのか、 あるいは古い情報が更新されずに残っていただけなのかは不明です。 東京よりも西横浜を1分進んでいるとしている会社があるのも謎です。

[250] ( 版) http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_08.pdf

電信による報時は、明治5年に初めて工部省が地方局に正午の時報を送り、その後は明治8年3月から工部省本省と築地局間で正午報時が行われたようである。電信による全国への正午報は東京の正午を基準にして明治11年から実施された。これを定めたのが明治11年3月「正午報辰規則」である。これによると、明治11年4月1日から東京の正午時午前辰に基づき各地の電信分局へ同時に通報することとしている。

[264] ( 版) http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/download/pdf/leaflet_07.pdf

以下に明治11年4月1日から実施された「正午報辰規則」(関

東電信電話百年史上巻による)の一部を紹介する。

1、毎日(1月1日、日曜日を除く)正午12時前5分には、本 線、枝線を経過する電報の送受を停止すること。

2、正午12時前3分にスイッチを向き換え、電流を流通させる こと。(これで電鈴が鳴り出す)

3、その流通は正午12時になると止む。その時刻をもって正午 とすること。

4、枝線あるいはその他の接続局は、この時限中器械の電鍵を 押し下げ、電流を通ずること。

[265] ( 版) http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/download/pdf/leaflet_07.pdf

当時は報時器を介して中央局から送られた信号により、各地方電信局の標準時間(当時は歯車式の時計を自鳴鐘といった)を鳴らしたようです。

鉄道

[255] 明治時代初期の鉄道は、東京近郊路線は東京時、 京阪神路線は大阪時を用いていました >>389 16ページ、>>248, >>1031

[256] 京都時が用いられた >>252 という説もありますが、 根拠は不明です。

[533] 北海道の炭鉱鉄道 (官営幌内鉄道) では、 札幌時計台の時刻が採用されました (通知)。

[257] 明治21年/1888年1月1日の標準時施行時点で次の路線が開通していました。

[258] 東海道線が全通して東西が接続されるのは明治22年/1889年です。

[373] 標準時施行後はそちら (昭和のサンマータイム期間中は夏時刻) を採用しています。


[47] 明治時代鉄道が開業してから昭和時代までの切符は、 時代により何度か形式が変更されましたが、 日本語英語等欧米語による駅名や説明が記述されていました。

[48] 国鉄の切符は、 当初日本語横書きの場合右横書き、 欧米語は左横書きでしたが、 運賃改正以後印刷分から、 日本語横書き左横書きに改められました。 横書き登場 p.119

[49] 出札時に切符に押される日付印は、 左横書きで日・月・年の表記でしたが、 このとき年・月・日に改められました。 横書き登場 p.119


[50] 時刻表冊子は、 明治20年代から出版されるようになりました。 日本全国汽車時間表-汽車汽船旅行案内、改称して 公認汽車汽船旅行案内 は、 漢数字縦書き右綴じでした。 横書き登場 pp.121-122

[51] 創刊の 汽車時間表 (後の JTB時刻表) は、 アラビア数字左横書き左綴じでした。 「大正十四年三月十一日改正」の時刻表では、 時刻は 「8.01」 のように表記されていました。 (例外的に着駅が縦書きで記載され、 その右横の行に左90度回転した横書き時刻が表記される (下から上に表記される) 部分もありました。) 午前午後は違う書体で印字されており、 11.59 と 12.00 の間が境界でした。 (0時台はなく12時と表記。) 横書き登場 pp.121-122

市民生活

[291] 江戸時代には、和時計その他を根拠に、内には太鼓で、 城下町にはにより定期的な報時が行われていました。

時の鐘参照。

[292] 明治以後は午砲サイレンに置き換わっていき、 その根拠も電信等で受信した標準時となっていきました。 西洋式の置き時計や懐中時計も徐々に普及してきました。

ドン参照。

居留地

[102] 1859年/安政6年6月2日の横浜開港から1899年/明治32年7月17日の返還まで、 いくつかの都市に居留地がありました。

[104] 時期は都市により異なります。詳細は居留地参照。

[105] 居留地内で独自の時刻に関する定めがあったかどうかは不明です。 欧米人は (居留地内外に関わらず) 自国式の日時を使っていたものと思われます (西暦グレゴリオ暦またはユリウス暦曜日定時法)。 時間帯は、地方時と思われます (標準時施行後は標準時かもしれません)。

[437] 日本側の改暦標準時の導入の前から、 時計のある建物もあったようです。 例えばに建設された横浜町会所には時計台がありました。 報時参照。

[552] 国際的な電信の会社が日本の都市の時刻として示していたもの (>>165) が、当時の欧米人が各都市で用いていた時刻だったと思われます。

紀年法

[6] 幕末の政情不安の中で、 日本各地でいろいろな元号 (私年号) が使われた記録が残されています。 日本の私年号

[213] 万治から慶応改元は、 長州藩蛤御門の変京都侵攻に失敗した後であり、 慶応は「慶喜に応じる」と解釈できるということで、 長州では改元されなかったといいます。

[214] 東行庵 ( 版) http://yoshiko2.web.fc2.com/tougyo.html

高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年(1866年)8月、四境戦争(第二次長州征伐を山口県ではこう呼ぶ)小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰った灯籠。 「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。

実際には、「元治」は元年で終わり、「慶応」と改元されていたのだが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じろ」の意味とし、「元治」の年号を使い続けた。

[215] 平成3年、大政奉還。 - 長州に棲む日日 ( 版) http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/0e211bf6b15b1dff38c766db4c2ad08b

あん時、慶應じゃなく平成に決まってたら…。

長州に点在する「元治三年」とか「元治四年」とかの書類や石灯籠はなかったわけだなー。

(もともとそういう意味ではなかったのですが、長州は「慶應」=「慶喜に応じる」として嫌い、元治を使い続けることも多かった。

[7] 長州旅行3日目(長府)|月虹徒然日記 ( 版) http://ameblo.jp/seuru/entry-11110882532.html

踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。

[219] 戊辰戦争期の東北地方では、 奥羽越列藩同盟が定めたという「延寿」や「大政」が使われていました。 北日本の日時

[299] 榎本武揚函館政権は、独自の元号を用いず、 明治を使っていたようです。 北日本の日時

[13] 南部絵暦は、 明治改元後も慶応のまま発行が続けられており、 (絵暦なので絵で) と書いていました >>354

[15] 福岡藩内では文久2年に亀光元年が使われました。 >>18

[20] 土佐藩内では慶応3年に天晴 (天星天政) 元年が使われました。 >>18

[239] 人吉藩内では慶応3年に神治元年が使われました。 >>18

[103] 長徳

[19] 房総の船主組織では慶応3年に神徳元年が使われました。 >>18

[16] 佐賀藩内では久保が使われました。

[5] 孝明天皇の時代、ごく一部で天皇即位紀年が用いられたことが知られています。 孝明天皇即位紀年

[8] 皇紀も使われるようになりました。 明治政府皇紀を法制化し、 元号と併用することとしました。 皇紀

[96] 明治時代初期、 元号にかえて皇紀に統一することを提案する人もいました。 皇紀

[97] 尾崎行雄改元を廃し明治元号を継続することを提案していたといいます。 新日本

[14] 明治への改元と同時に一世一元の制が導入されました。 一世一元

[72] 干支年明治改暦時に併記が廃止されました。 日本における干支年併記の廃止 しかしその後も根強く生き残っています。 昭和時代の日時

[73] 干支年の用語
[74] 元号年の用語
[94] 第466回 東京は「トウケイ」だ! / Slownet -SNS- (日本テレネット 著, 版) http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200901131014-9442044.html

「明治」という元号を使わないで、頑として「今年は慶応18年だな」と「慶応」を使い続けた偏屈な旧御家人の頑固爺もいたという

西暦年

[26] 切支丹暦では西暦年干支年が併記された例が残っています。

[2] 琉蘭修好條約 - 维基文库,自由的图书馆 () https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E8%98%AD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84

天主降生千八百六十九年七月初六日,以荷蘭書漢書立字,應遵執據。

咸豐九年己未六月初七日,在那霸公館,鈐蓋關防。

[99] 切支丹暦に 「天主降生千八百六十八年歳次戊辰」 とありました。 >>98

[82] こうして元号は「時代を映す鏡」になった (所功(京都産業大名誉教授) ) https://ironna.jp/article/6276?p=5

キリスト紀元を「西暦」ないし「西紀」と証した初見ははっきりしないが、『日本国語大辞典』などによれば、明治2(1869)年に村田文夫(本姓野村)の著した『西洋聞見録』前編に「某皇暦某月々は西暦の某月々たるを知るべし」とある。また翌3年ころ仮名垣魯文の著した『西洋道中膝栗毛』六篇に「頃は西洋紀元千八百七十年」とみえる。

[43] 西暦併用を求める会: 1950年参議院文部委員会元号廃止法案調査 () https://seirekiheiyo.blogspot.com/p/1950.html

その後は昭和時代の日時現代日本の紀年法

明治改元日

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。太陽暦 (グレゴリオ暦) の導入が明治6年なので、 それ以前は当時旧暦を使っていましたが、 明治5年以前の日時に対応する場合でも、正しく換算していないことがよくあります。 いくつかの実例は元号一覧

[168] 改元日は、旧暦9月8日、グレゴリオ暦10月23日です。 しかし誤ってグレゴリオ暦9月8日としているものもあります。

[169] 明治への改元までは年初に遡って改元とする考え方があり 改元期日 、その場合旧暦1月1日、グレゴリオ暦1月25日が開始日です。 現代では明治以前の元号をほとんど使わないので、 年全体を明治として扱えると都合が良いこともあるのでしょう。 誤ってなのか意図的なのか、グレゴリオ暦1月1日を開始日とするものもあります。

[10] 年始に遡るという考え方は、 少なくても現代日本における過去の日時の記述方法としては、 主流とはいえません。 (また当時の方式として正しいとも言い切れません。 改元時期 ) 従って一覧表や変換ソフトウェアの類などでこの方式を採用することが適切とはいえず、 「旧暦9月8日、グレゴリオ暦10月23日」を正しい改元の日として取り扱うべきです。

他の改元との関係性は改元日

[164] 元号変換に関するメモ ( 版) http://www.cyberriddle.com/emperor.html

明治の開始は10月23日じゃなくて、1月25日とか、9月8日だろうという突っ込みもある。

それぞれの理由

10月23日
現代の元号は天皇の即位に合わせるのだから明治天皇即位の日である10月23日とすべき、という考えによるもの。
1月25日
慶応4年が明治元年であると定めたことから、1月1日、つまりグレゴリオ暦1868年1月25日にまで一気に遡ってしまおうという考えによるもの。
9月8日
なんでしょう?聞いておけばよかった。

[11] 明治天皇即位の礼 なのでこの解説は誤り。 なお一世一元なので元号の期間と在位期間が一致するべきとの主張も確かに存在するが、 それを明治天皇にも適用するなら (即位は慶応4年すなわち明治元年だが) 践祚 なので、明治0年から始まったことになる。
[44] 読者の声:明治改元は何月何日? - 毎日新聞 () http://mainichi.jp/articles/20181029/ddm/005/070/076000c

政府の明治150年記念式典(24日朝刊)について神奈川県の男性が電話で尋ねます。「明治改元は旧暦(太陰太陽暦)の9月8日ですが、今年の新暦(太陽暦)カレンダーの23日は旧暦9月15日、旧暦9月8日は16日。本当は何月何日ですか」

改元は新暦では10月23日です。この日は旧暦だと明治元年が9月8日、明治100年の昭和43年が9月2日でした。旧暦では月日が年により変わります。

改元制度整備

日本の元号法制

[38] 明治改元時に一世一元が定められました。

[39] 皇室典範では、それに従い践祚後に改元することが定められました。

[40] 登極令では改元についても定められました。

[41] この制度に基づき大正改元昭和改元が行われました。

[42] しかしその後の憲法改正によってこの体制は崩壊してしまいました。 昭和の元号危機

年度

[71] 年度が使われるようになりました。 年度

年齢

年齢

メモ

[249] 編集後記, 中村, RISTニュース No.59() ( 版) http://www.rist.or.jp/rnews/59/59s6.pdf

明治時代以降、電信や鉄道などの新 しい技術が導入されるにつれ、国内各地で 別々の時刻を使用するのは非常に不便に なってきました。そこで幾つかの動きが出 てきました、電信局は全国で東京時刻を使 用し、気象台では全国で京都時刻を使用す ることになりました。

[262] 青木信仰, 時と暦, 東京大学出版会, 44 ページ (Google Books より引用)

国際子午線並びに計時法会議でが、これは東京付近に限られ、関西では大阪の子午線を基準にしていたらしい。たが、万事刷新の世の中の例にもれず、東京の子午線 での時刻を採用することになった

[263] 日本の時間・周波数標準制度の変遷, 森川容雄, 通信総合研究所季報 Vol.49 Nos.1/2 ( 版) http://www.nict.go.jp/publication/shuppan/kihou-journal/kihou-vol49no1.2/02-04.pdf

我が国においても、明治維新前は時刻を決 めるときの子午線は京都であったが、維新後は 東京の子午線での時刻を使用するようになった。 しかし、これも東京付近に限定され、関西では 大阪の子午線が用いられたそうである[2]。

文献 [2] は >>262
[267] Himuro essay:200007hm.html ( 版) http://homepage2.nifty.com/cat-fish/200007hm.html

江戸時代、時刻を決める子午線は京都であったが、明治には東京地域の時刻は東京の子午

線で決められた。一八八八(明治二一)年一月一日からグリニッチを基準とした東経一三五度の子

午線が日本の時刻の基準となった。

この標準時は有線電信で東京から全国の郵便局などに知らされ、全国で同じ時刻を使うことが、

かなりの精度でできるようになった。そのときの東京のあちこちの郵便局の時計の誤差は数分であ

ったという測定結果がある。

[268] 林善助の正午計 - 時刻の標準及時計の試験器 ( 版) http://www.kodokei.com/ot_011_8.html

明治19年7月勅令第51号により135度子午線による日本の標準時間が制定され同21年から施行された。 それに伴って全国の郵便局の時間を統一する事が出来た。 電信の通じる局は天文台より電信により時間を知る事が出来たが、 電信の無い郵便局ではこの正午計を以って正午を計り経度による時差を加減してこれを正したのである。

すべての郵便局に電信が普及するまでは、郵便局にとってはまだまだ正午計は無くてはならない道具だったのある。

[271] 時刻体系 ( 版) http://www.ffortune.net/calen/calen/zikoku-taikei.htm

この日本標準時が生まれたのは明治13年であるが、この時は明石ではなく東京の 地方時が用いられた。(それ以前は京都の地方時が準・日本標準時としての地位を 占めていた。)

[273] 暦Wiki/地方時 - 国立天文台暦計算室 ( 版) http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C3CFCAFDBBFE.html

明治6年暦から明治20年暦には、東京を基準とする各地の時差が掲載されていました。

[288] 時報 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%A0%B1

日本の郵便局では、日曜日、祭日を除く毎日、午前11時57分になると全国の一、二等局および特定三等局に通じる電信線は、通信が中止され、東京市の中央電信局の自動報時機に接続され、各郵便局の電鈴が鳴り始め、12時(正午)に東京天文台で自動報時機に通じる電流が断たれると電鈴が鳴り終る。この瞬間が正午であり、郵便局の電信係に行けばこの電鈴を聞くことができた。

日本の鉄道では、東京天文台から東京中央電信局内電信試験係経由で鉄道省東京通信所に通じて、午前11時57分になると全国の省線の各駅に通じる電線は直通または中継で鉄道省東京通信所につなげられた。このとき各駅の電鈴が鳴り始め、正午に東京天文台で電流が断たれると電鈴が鳴り止む。台湾では、内地とは別に台北測候所で時の観測が行われ、ここから全島の郵便局および停車場に報時された。

[289] 時報 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%A0%B1

日本では、船舶のために主要な港湾には報時檣が設備され、これによって報時された。日曜日・祭日を除く毎日、午前11時55分に報時球が報時檣の横桁に引き上げられ、12時(正午)に東京天文台から直通電流が断たれるとこれが落下する。この落下の瞬間が正午である。誤った時刻に落下したときは万国船舶信号旗 W が掲げられ、13時にふたたび繰り返される。故障で報時信号を発せられなかった場合は同信号旗 D が掲げられる。報時檣が設備されたのは横浜・神戸・門司・大阪・長崎で、ただし長崎は独立観測によって報時された。

[290] 時報 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%A0%B1

報時灯による報時も行われた。長崎港には報時檣の近くに報時灯の設備もあった。20時55分になると三角形の緑灯3個に点じられ、約2分間、明滅したのち不動点灯として、21時00分に消灯される。ただし不動点灯中予備信号として20時58分および同59分に瞬時、消灯される。もし報時に誤りがあれば、21時00分10秒から30秒間、明滅し、その旨、知らせ、さらに21時30分に同様の信号をおこなう。故障によって報時することができない場合は点灯されない。

[319] 京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅 ( 版) http://kyototeisyaba-hittyonosutensyo-m1025.blog.jp/?p=3

『遅刻の誕生』によると、元々、明治初期では時計を所持している身分も限られ、鉄道の運行間隔にも余裕があり、定時という概念が緩かった可能性が高い、と記載されています。

[321] 北海道と沖縄の時差はどれくらいなんでしょうか? - 先の方々の回答... - Yahoo!知恵袋 ( 版) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311942633

東京と京都の時刻に差があるのは不都合だということで、1878(明治11)年に一旦京都の時刻が標準時に定められたのです。

[322] eページ! ( 版) http://epe.jp/hp_view.php?aid=McjDmdQkzqzcEsfZ&page=2

100年以上の日本では、アメリカと同様に各地ごとに地方時間が定められていました。

その後の1878(明治11)年には、京都の時刻が標準時に定められていましたが、

[323] この日、初めて「時刻」というものを知らせたことによる記念日です・・・・・・5|KEIのブログ ( 版) http://ameblo.jp/kei-1969gemini/entry-11549520956.html

100年以上昔の日本では、各地ごとに地方時間が使われていました。東京と京都の時刻に差があるのは不都合だということで、1878(明治11)年に一旦京都の時刻が標準時に定められたのです。

[324] ( 版) https://www.jstage.jst.go.jp/article/agrmet1943/3/1/3_1_22/_pdf

萬国子午線會議の決議に基き, 明治21年1月1日より京都時を廢して, 東經135度の平時によることとしたが, 明治20年分の中央氣象臺年報はこの時間を採用している。明治29年1月1日より東經135度の平時を中央標準時と稱し我國に於て廣く一般に採用せせられ, 別に東經120度の平時を西部標準時と稱し, 臺灣, 八重山列島, 宮古列島に於て使用した。石垣島測候所は明治20年12月の創立であるが, 當時から観測時刻は總て中央標準時を使用していた。

[325] 明治7年の金星日面経過観測 ( 版) http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Venus1874/Venus1874_4.html

フランス隊について見てみると、同一の接触(たとえば第2接触)は長崎のほうが神戸より20分ほども早い。フランス隊以外についても同様で、神戸は長崎より20分ほど遅く、横浜、東京、函館は長崎より40分ほど遅い。

実はここに記載されている時刻は、各地点における地方時と解釈すべきなのである。実際、長崎は東経130°程度、神戸は東経135°程度、東京は東経140°程度だから、地方時の時差はちょうどこのくらいになる。

日本の時刻制度は、江戸時代には日出を「明け六つ」、日没を「暮れ六つ」とする不定時法だったのが、1873(明治6)年の新暦採用時に、現在のような一日を24時間とする定時法に変わっている。この1874年というのはその1年後である。しかし、この時はまだ、「各地域間の連絡網も不十分だったので」(世界大百科事典)、全国一律の時刻制はまだなかった。だから地方時、つまり各々の地点で太陽が南中する時刻を正午とする時刻が用いられていたのである。

因みに、1879年になって「平均太陽時」の時制が制定され、京都の地方時が採用された(といわれる。「世界大百科事典」)。さらに1885年にワシントンで国際子午線会議が開かれて、グリニッジが本初子午線(経度0度)と決まったことを受けて、東経135度(兵庫県明石市など)が日本標準時の子午線となった。また、1888年から東京天文台が全国への正午の時報の電信報時を開始している。この時になってようやく、全国の時計が統一されたわけである。因みに、1888(明治21)年というのは寺尾寿が初代東京天文台長に就任した年である。

さて、原口pp14の表であるが、

「水路部沿革史 自明治二年至明治十八年、海上保安庁水路部所蔵、P.105~P.105」を基礎資料とした。

原口pp12

とある。おそらく観測時刻の地方時標記は、この(当時は)海軍水路部が行ったものであろう。各国観測隊は持参していたクロノメーターによって時刻を記録している。

[326] 太陽の描く曲線、アナレンマ(No.0553) (M.Suzuki 著, 版) http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0553.htm

日本も明治11年(1878年)までは、太陽が南中する瞬間を正午とする時刻(視太陽時または、真太陽時といいます)を用いていましたから、その当時に毎日正午の太陽の位置を観測して記録したとしても、太陽の位置は一年かけて子午線上を南北に行き来するだけ。太陽の軌跡は「8の字」ではなく「1の字」にしかならなかったのです。

日本では明治12年(1879年)から時刻系を直接の太陽を使う視太陽時から、一年を通じて長さの変わらない平均化した仮想の太陽を使った平均太陽時に変えました。その時から、正午に太陽が南中しないという事象が生じるようになったのです。

[327] 太陽の描く曲線、アナレンマ(No.0553) (M.Suzuki 著, 版) http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0553.htm

暦面での時刻系の変遷です。

地方視太陽時 ~明治11年暦まで

地方平均太陽時 明治12年暦~20年暦まで

標準時 明治21年暦から

[329] 暦Wiki/日の出入りと南中/日の出入りの定義 - 国立天文台暦計算室 ( 版) http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C6FCA4CEBDD0C6FEA4EAA4C8C6EEC3E62FC6FCA4CEBDD0C6FEA4EAA4CEC4EAB5C1.html

明治10年暦~明治11年暦 地方視太陽時 あり 中心

明治12年暦 地方平均太陽時 あり 上辺

[330] アンソニー・ギデンズの脱埋め込みメカニズムと空間を超えた相互行為の再編成 (Ryotaro Motomatsu 著, 版) http://esdiscovery.jp/knowledge/basic/social01/socio010.html

太陽暦が採用された当初は、旧江戸城本丸の号砲が日本の標準時とされていたが、1879年(明治12年)に東京地方平均太陽時が正式に『日本の標準時』と定義され

[331] 時刻制度 ( 版) http://homepage2.nifty.com/luminaries/guidance/uchuu_034.htm

[1030] 時刻制度 () http://mijikana.info/guidance/uchuu_034.htm

西洋式(ドイツ式注4)定時法が施行されたのは、明治6年1月1日(旧暦明治5年12月3日)で、当時の時刻は、真太陽時による地方時でした。

明治10年頃、電信設備が普及し始めると、東京の地方時が全国の電信局で用いられましたが、明治20年までは政府官署などは京都地方時を標準時にしていたようです。

[332] ○×クイズ 旅が3倍楽しくなる本 - 電子書店パピレス ( 版) http://www.papy.co.jp/act/books/1-15176/

1878(明治11)年に京都の時刻が標準時に定められた。

[333] 軽便日時計 - 江戸から昭和戦前までの日時計 ( 版) http://www.kodokei.com/ot_011_3.html

取説に有るように蓋の裏には「大日本帝国府縣廳所在地標準時之差異」と書かれた全国の都市の標準時との差が表になっています。 例えば「加ノ部 地方時ヨリ早シ 徳島県一分四十七秒」「減ノ部 地方時ヨリ遅シ 和歌山県三十三秒」などと有ります。 日本の標準時が制定された頃のものではないかと想像されます。

[335] 明治16年(1883)7月28日の熊谷の天気が知りたい。 | レファレンス協同データベース (国立国会図書館 著, 版) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000140815

『東京日日新聞 明治16年7月28日』

7月27日の東京の天気あり。「京都時間午前6時、東京時間午前6時16分、東京測候所 曇 温度23。」とあり。

[336] ( 版) http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/library/2014tosyo-news4.pdf

➃ 橋本毅彦+栗山茂久[編著]『遅刻の誕生 ― 近代日本における時間意識の形成』(365/H2/1)

「どん」は、旧江戸城本丸で撃った正午を告げる大砲の音で、本④によれば、明治政府によって鉄道時間の標準時に設定されたものである。

[368] 時の質問|よくあるご質問|明石市立天文科学館 ( 版) http://www.am12.jp/faq/toki.html

明治21(1888)年からの標準時実施に先立っては、明治20年7月4日付の官報には、各府県庁所在地の地方時と標準時の時差表を掲載したり、さらに同年12月19日の官報には、標準時はわが国全般に守るべきものであること、また標準時は、西の地方においては従前より早くなり、東の地方では従前より遅くなること、などを重ねて周知させていました。

このようにして、明治21年1月1日午前0時0分に、内務省地理局観象台から全国の電信局に通報され、東京やその他の都市で号砲のあるところでは号砲を発し、日本標準時が使用され始めたのです。

[377] 国際子午線会議(こくさいしごせんかいぎ)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AD%90%E5%8D%88%E7%B7%9A%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1316631

世界大百科事典内の国際子午線会議の言及

【時刻】より

…1879年に初めて平均太陽時の時制が制定され,京都の地方時が採用されたといわれる。

[397] 占星術用語事典 ( 版) http://www.ffortune.net/fortune/astro/dict/na.htm

日本の標準時は江戸時代までは首都である京都の平均太陽時が使用されていた。しかし明治維新以降、天皇が東京に「移動」してしまったため、一時的に東京の平均太陽時を全国の標準時とした時期があった。しかし明治17年、国際会議によって各国はグリニッジ標準時から1時間の倍数異なる時刻を使おうということになったため、日本の標準時として、東経135度線、つまり明石の平均太陽時が使用されることになった。これを「日本標準時」という。

その後、日本は一時期台湾を領有したため、台湾用に「西部標準時(JWT=Japan Western standard Time)」を定め、明石時刻は「中央標準時(JCT=Japan Central standard Time)」とした。しかし、太平洋戦争敗戦により台湾を失ったため、西部標準時は消滅し、中央標準時が、再び日本標準時と呼ばれることになった。

[211] 日本標準時-Japan Standard Time () http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/astro/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82 も同内容。

[430] 電脳六義園通信所 ( 版) http://www.den6.net/back_number/20040525.html

興味深いのは蓋を外した内側に貼られた一覧表で“日本帝国府県庁所在地標準時之差異”と書かれている。思わず「えっ!」と驚くのは、この日時計が作られた当時の“日本帝国”には各“府県庁所在地”毎に“標準時之差異”が存在していたらしい。

[431] Amazon.co.jp ( 版) http://www.amazon.co.jp/gp/aw/cr/rR1DPDK1VQQ6OHE

日本全国で共通の時刻を使用するようになったのは明治時代に東海道線が全通したときだし

[432] 南薩日乗: ぼんぼん時計はどうしてぼんぼん鳴るのか? ( 版) http://inakaseikatsu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html

ところで、最も早く西洋風の時間を必要としたのは鉄道業界だ。そもそも時間が定まっていなければ時刻表すらできないわけで、1873(明治6)年の「明治改暦」に先立って鉄道業界では既に定時法が採用されていた。この明治改暦というのは、太陰暦を太陽暦に、不定時法を定時法に一夜にして変えてしまうという随分乱暴な大改革だ。旧暦明治5年(1872年)12月3日を新暦明治6年(1873年)1月1日に変えたので、実は明治5年12月3日〜31日というのは存在しなくなったのである。

だがこの改革でも、時間は定時法で計ると決めていたのだが、時間の基準はやはり太陽に置かれていた。具体的に言えば東京で太陽が南中(最も高く上がる)する時刻が正午と定められ、その時に午砲が撃たれたのである。これを「東京標準時」という。このころから西洋の時計は輸入されていたが、現在のように時報もなく、周りにも時計がなかったので、一番始めのころはやはり各地で日時計を作り、南中時刻にあわせて正午を定めていたらしい。

[442] 国立国会図書館デジタルコレクション - 安濃郡誌 (大正4年、 版) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932614/53?viewMode=

時差

[443] 国立国会図書館デジタルコレクション - 最新大阪府地理 (大正13年、 版) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972088/31?viewMode=

時差

東京 正午十二時

大阪 午前十一時四十二分五十二秒

此時差 十七分八秒

[451] Himuro essay:200007hm.html () http://homepage2.nifty.com/cat-fish/200007hm.html

江戸時代、時刻を決める子午線は京都であったが、明治には東京地域の時刻は東京の子午 線で決められた。一八八八(明治二一)年一月一日からグリニッチを基準とした東経一三五度の子 午線が日本の時刻の基準となった。

この標準時は有線電信で東京から全国の郵便局などに知らされ、全国で同じ時刻を使うことが、 かなりの精度でできるようになった。そのときの東京のあちこちの郵便局の時計の誤差は数分であ ったという測定結果がある。

一八七三(明治六)年九月二二日の大阪府枚方市の中振村役人日記には、「午後一字地震鳥渡ゆ る」とあり「字」が使われている。「一時ちょうど」といっても基準の子午線が大阪あたりの子午 線だとすれば、東京の時刻から二〇分近く遅れていることになる。

[518] こよみの読み方(16)月が消えてしまう空間分割法 () http://www.ffortune.net/calen/calen/yomi99/yomi016.htm

現在の暦と同様の天保暦は1844年から行われています。ただし その元になる日本の標準時は、1887年(明治20)までが京都標準時、1888年以降 は明石標準時を使用します。

[531] 時刻制度 () http://luminaries.life.coocan.jp/guidance/uchuu_034.htm

身近な自然と科学 Vol.109 【時刻制度】から

西洋式(ドイツ式注4)定時法が施行されたのは、明治6年1月1日(旧暦明治5年12月3日)で、当時の時刻は、真太陽時による地方時でした。

明治10年頃、電信設備が普及し始めると、東京の地方時が全国の電信局で用いられましたが、明治20年までは政府官署などは京都地方時を標準時にしていたようです。

[532] 秋田地方気象台 | 歴史と沿革 () http://www.jma-net.go.jp/akita/history.html

1888年

(明治21年) 1月 1日 京都時観測を廃止し、中央標準時観測に移行。

[175] 出島(長崎)における19世紀の気象観測記録 (地理学評論 Vol. 75 (2002) No. 14 P 901-912, ) https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/75/14/75_14_901/_article/-char/ja/

記録の一部に,日々の観測記録とは別に,気温と気圧の2日間 にわたる毎時の観測記録(1828年2月19・20日と 8月25・26日)がある(von Siebold文書番号 04957, 20224-20225). その観測記録と日々の観測 記 録 とを照 合 した結果,実 際 の観 測 時間 は長 崎地方 時(Loca1 Time以 下L. T.と 略 す)の6:00・12: 00・22:00で あ るこ とが判 明 した.ま た,当 時世 界 各 地 に居留 して いたオ ラ ンダ人 は,経 度 か ら算 出 し た地 方 時 を 使 用 して お り,長 崎 の地 方 時(L. T.) は現 在 の 日本 標準 時(JST)+0:20で あ る.

[395] PostgreSQLとOracleの仕様の相異 () http://interdbconnect.sourceforge.net/oracle_fdw/difference-ja.html

1888年より過去のUTCとAsia/Tokyoの時差は+09:18:59です。(1888年は日本標準時が適用された年です。) 1888年より過去のUTCとAsia/Tokyoの時差は+09:18:00です。 1888年より過去でUTCの日付/時刻データ型の値と1888年より過去でAsia/Tokyoの日付/時刻データ型の値の差を算出すると、PostgreSQLの演算結果とOracleの演算結果で59秒のずれが出ます。

[3] 林善助の正午計 - 時刻の標準及時計の試験器 () http://www.kodokei.com/ot_011_8.html

[21] 茜堂の鐵路趣味|硬券切符の歴史 () http://akane-dou.com/rekisi.html

[22] 明治の鉄道切符一枚発見 - レトロの小部屋 () https://blog.goo.ne.jp/mz88/e/4342e777d9f2005c2ad98e65aaaf6f5f

日付が明治12年10月62日って有り得ない。

[24] 官報. 1890年10月31日 - 国立国会図書館デジタルコレクション (大蔵省印刷局 []著, ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945456/1

[25] 貴重資料展示室029 江戸後期の天文暦 - 国立天文台暦計算室 () https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/029/

[45] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1953/pdf/195301.pdf#page=11

[46] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1952/pdf/195212.pdf#page=5

[576] ( 版) http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2004/ashida.pdf

44 新刊輿地全圖 佐藤政養 文久元年 (1861) 木版 (色刷) 1 舗 86.1 × 118.1cm(34.3 × 23.0cm)

幕末を代表するメルカトル図法による方角 (方眼) 世界図で、明治時代になってからも影響力をもった。原図は 1857 年オランダのアムステルダムで出版された航海用地図。内容が詳しく正確なうえ、余白には諸州の面積・人民あるいは動植物の数表、世界の主な都市・山川などの地理的統計一覧を載せる。地図の中央上部に大日本国旗を、周囲には 158 の世界各国旗などを載せる。西洋と日本の紀年法の違いを「年号ハ皇國ヲ以テス月日ハ西洋ニ准フ」として処理している。世界地理知識の啓蒙をめざしたもの。(04-86)

[92] 五行学歴史年表(3) 明治時代~昭和時代①-戦前|五行学研究所 () http://www.interq.or.jp/chubu/sarai/historyJapan3.htm

[93] 新神戸駅「明石のおにぎり弁当」(720円)~昔からテイクアウト!「駅弁」135周年の節目に「時」を感じていただくおにぎり駅弁! – ニッポン放送 NEWS ONLINE () https://news.1242.com/article/220921

「明石市立天文科学館」の井上館長によると、鉄道の草創期には“東京時間、大阪時間”があり、東西の鉄道がつながることで、安全のため「標準時」が求められるようになったそう。

[555] 金光教合楽教会ホームページ/教典/両書の関係 ( 版) http://airaku.org/kankei.html

『覚帳』を書き始めたのは、慶応三年と言われている。

理由は、「慶応六年」という記述があり、明治と元号が変わる以前に、記されたと思われる。

[100] 原発被災地・広野町=兵士は150年前に死す、故郷に戻れず|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして (更新日:2013年05月03日 ) http://www.hodaka-kenich.com/fukushima/2013/05/03120254.php

2011年3月11日に、東日本大震災が発生した。2年1か月が経った今、警戒解除になった広野町に入った。

「広田の戦」が行われた、浅見川の河口には修行院がある。境内には芸州(広島)藩の4人と長州藩の2名が眠っている。

芸州藩・神機隊の墓は明治元年7月26日だった。長州藩は慶応4年7月26日である。明治と慶応と、この表記の違いなんだろうか。

[101] 幕末芸州広島藩研究会広報室さんはTwitterを使っています 「@ka_003_ori 憶測でごめんなさい。 戊辰戦争にて戦死したのは慶応4年7月ですが、お墓を建てたのが戦後の明治に入ってからだと考えると実際は9月が改元だったとしても建てた日から数えで元号を計算してしまい7月でも明治と表記したのではないか?という考えでまとまりました。 たしかに戦中に墓は建てないですよね…」 / Twitter (午前7:07 · 2019年9月22日 +09:00, ) https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1175531974263328768

[106] 南亭亭長の正体 (, ) http://shinmatsu.main.jp/s1401.html

1.商務印書館と金港堂が合弁して、『繍像小説』の発行日が記述されなくなったのは、中国と日本の両地で発売しやすくするためではないか、明治維新以後の暦が中国とは違ったものとなってもいるから。

回答:当時の刊行物には、明治と光緒を併記するものもある。『繍像小説』の場合も発行日を併記すればすむものを、なぜ記載しなくなったのだろう。疑問は残る。

[107] (, ) http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-09/9-01-matsui.pdf

[108] アメリカ独立宣言 - Wikisource (, ) https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80