[489] 古い時代の記録には、 年代について矛盾を内包するもの、 互いに矛盾するものがあります。 単純な書写時または執筆時の誤りの可能性もあれば、 暦の換算などの痕跡の可能性もあります。 紀年論などと絡めていろいろな説があります。 不整合な記録の相互の関係を逞しく想像する仮説もありますが、 まったく無関係に発生した誤りの可能性もあり、慎重な検証が必要です。
[1] 魏書/卷67 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8/%E5%8D%B767
鴻經綜既廣,多有違謬:至如太祖天興二年,姚興改號,鴻以為改在元年;太宗永興二年,慕容超擒於廣固,鴻又以為事在元年;太常二年,姚泓敗於長安,而鴻亦以為滅在元年。如此之失,多不考正。
[8] 康正, 至徳, 正保, 興国, 神治, 天晴, 永正, 正中
[4] 9Li2004.pdf, , https://www.teikyo-u.ac.jp/bunkazai/wp-content/uploads/2020/12/9Li2004.pdf#page=1
[5] 改元踰年問題, 光徳, 誕降後, 木星紀年法用例等年表, 一年引き下げられた干支紀年法
[392]
古代の戸籍の研究によると、
人名に含まれる十二支の文字は生年の十二支年であることが多いのに、
文武天皇時代は1年ずれている事例が知られています。
造籍と大化改新詔, 岸俊男
[2631] 日本書紀 と 日本霊異記 のずれ >>2629
[386]
法隆寺金堂薬師如来像光背銘 (
[388] 日本書紀自体にも、 天智天皇8(669)年冬に斑鳩寺の火災記事、 天智天皇9(670)年4月に法隆寺の火災記事があって、 重複記事と思われます。 >>387
[389] これら1年のずれは、 各資料の暦の違いか干支の計算法の違いに起因すると考えざるを得ない >>387 とされています。
[399]
日本書紀は聖徳太子没日について
(推古)「廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。」
(621年2月5日)
としていました。
更に訃報を受けた慧慈の言葉として、
「我以來年二月五日必死」
(自分は来年2月5日に必ず死にます)
と述べたとありました。
一方法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 (
[402] この銘文の日干支について、 当時の暦と合わず、 銘文作者の暦に問題があったか、 誤りと考えざるを得ない >>401、 とされています。 また古代朝鮮の金石文でも、 計算と1日または1年ずれる例がある >>401 とされています。
[508] 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳
では、
日本書紀
と
1年ずれた大化が使われました
(
[539] 法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(3)初期の法隆寺資料と「干食王后」 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/9297393d26c551dde1460d91069f70fd
その斑鳩寺の天智9年(670)の火災については、『日本書紀』では天智八年と九年に記されていることが知られています。別の寺の火事、あるいは火災が2度起きたと見る説もありますが、この時期は干支の計算法によって一年のずれがあるのは良くあることであって、東野氏は、同じ事件だとします。壬申の乱の前は、前徴として災異や異常現象の記事が多く記されているため、そうした例として二つの記事があげられたという考えです。
[6] 永楽, 朝鮮戦争の紀年法, 반미항전, 광주민중항쟁, 一年引き下げられた干支紀年法
[1032] 白村江の戦いを、 日本書紀 は天智天皇2(663)年とし、 旧唐書百済伝は龍朔2(662)年とし、 1年のずれがあります >>1031。
[410]
日本書紀
と
藤氏家伝 (
[420] 81005007.pdf () http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005007.pdf#page=15
[396] 日本古代碑の再検討 宇治橋断碑について 藤田友治, , http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/sekihika.html