永延

永延

延長年号

日時事例

[33] , 昭和時代中期の史料集は、 >>28 を紹介して、 「永延四 ((三)) 年」 (明朝体, 楷書) と注釈し、 永祚元年 (= 永延3年) に配置しています。 >>40, >>32

[35] の史料集は、 >>36, >>38 を紹介して 「永延三 ((二)) 年」 (明朝体)、 >>28 を紹介して 「永延四 ((三)) 年」 (明朝体) と注釈しています。 >>34

[44] 日本国語大辞典 は、 >>28 を紹介して、 「永延四年(990)」 と注釈しています。 >>43

[42] 令和時代に至るまで、元号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

[45] 平安時代に太宰府まで7ヶ月も改元伝達が遅延することは通常考えられないため、 誤記・誤写の類とみなされているものと思われます。ただ、 二と三のような取り違えは容易にあり得ても三と四の間違いは起き難いこと、 複数例あることを勘案すると、背景事情を慎重に検討する必要がありそうに思われます。


[46] 高代寺の由緒「高代寺記」 official site : 高代寺日記・農園・スピリチャル体験など, x7924, https://hokusetuhist.exblog.jp/33808542/

「髙代寺記」

(唯一東京大学史料編纂所に写本が蔵書されている)

天元五年壬午(九八二年)八月右寛運法眼タリ、

永延四年(九九〇年)九月寛運権大僧都タリ、此時六十七才、

正暦二年(九九一年)五月十二日寂ス、


[49] 甲斐国志046古蹟部009巨摩郡中郡筋, , http://ventussolaris.web.fc2.com/html/kaikokushi/kaikokushi046koseki009.html

古今著聞集ニ、永延五年五月九日右近の馬場にて競馬五番ありけるに、三番左 府生下野公里穂坂七葦毛に乗りたりけり。右近衛三宅忠政九鴇毛に乗りたりけり、トアリ。

[50] 677 永延元年五月九日右近の馬場にて競馬五番ありけるに・・・ [やたがらすナビ], https://yatanavi.org/text/chomonju/s_chomonju677

永延元年五月九日、右近の馬場にて競馬(くらべうま)五番ありけるに、

特殊な用例

[41] >>40 /263, /264 に永延二年戊子を三年己丑に校訂する事例


日時事例

[4] 昭和16年より、玉川流路変更工事が開始され、 新玉川の開削工事が行われた折、 多数の板碑が出土しました。 >>1

[5] 小野竜鳳寺の住職の大下義雄は、出土板碑2基を収集し、 温水菩提寺本堂に保存していましたが、 その後厚木市教育委員会に寄贈されました。 >>1, >>13

[14] 残余の板碑は土中に埋められました。 >>13

[6] >>2 の出土地は、平成元年現在の国道246号の船子橋付近といわれています。 >>1

[15] もう1基 >>13 (九 - 二) は文字の痕跡のみで判読不能。 >>1 (48)

[8] 銘文はまったく判読不能ですが、 わずかに永, 延らしき文字が見えるとされます。 >>1

[17] の地域史は、 >>2 を紹介して、 彫刻粗雑で年号判読不能、作風は室町時代と判定しています。 >>13

[9] の地域史は、 >>2 を紹介して、次のように述べています。 >>1

[19] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介した事例は知られていません。

[20] この板碑に関する言及はほとんど見当たりませんが、 その中で「永延」が唯一の解読案で、 しかも実見したであろう市史が昭和49年にはまったく判読不能とし、 平成元年が判読不能としつつも「らしき文字」としているに過ぎず、 慎重に扱うべきものと考えられます。

[21] 仮に「永延」だとすると、板碑の元号名とするのは不審であること、 平成元年市史の指摘の通りです。この場合、他の板碑の事例も勘案し、 次のような可能性が考えられます。

[26] 現状ではどの可能性も肯定・否定する材料が皆無でありますが、 同時代・同地域・同様式の他の板碑との比較などによって強弱を付けることはできるかもしれません。

メモ