元明

元明

[18] 元明は、 元号名の1つです。

元明 (改元デマ)

[34] 江戸時代文化への改元の頃に、 元明改元されるというデマ日本武蔵国江戸で流布されました。

[33] 享和4(1804)年2月11日享和から文化改元があり、 江戸城では享和4(1804)年2月19日に諸藩に伝達がありました ( 弘前藩日記 )。 元明はこれと同時期に発生しました。


[35] この改元デマ石塚豊芥子 (-) 街談文々集要に記録が残ります。 本書は、序文によれば万延元庚申極月上旬 (12月上旬) の成立ですが、著者が見聞きしたことを先行諸書を参考に化政時代に書き綴ってきたものをまとめたものとなっています。 >>31

[37] 本書凡例は著者が見聞きしたことをそのまま記したと書いていますが、 本書のはじめの文化元年当時は数え6歳だったとも明記しています。 >>31 そして最初の記事こそ元明の記述がある文化改元の記事です。

[38] 筆者がどれだけ優秀な子供だったのかはよくわかりませんが (当時から改元に興味を持っていたのだとすれば知的好奇心はその頃から溢れてはいたのでしょうが)、 6歳の子供だと考えると、いかに優秀であろうとも、 50年以上経ってからまとめられた本書掲載の当該記事が当時の筆者本人によるものとは思われません。 筆者の成長後の見識や先行書籍からの引用も含めて成立した現形と考えるべきでしょう。

[39] つまり同時代の経験者の記録とはいえ、厳密に同時期に記録されたものではないことに注意が必要です。

[40] 街談文々集要 によると、 この年は甲子年で、 1中段の初めであり、 改元があるに違いないと噂になっていました。 >>32

[41] は60年の干支の1周期のことです。 中段とは三元甲子の中段、中元のことと思われます。 干支 () は甲子年から始まる60年間で、 三元甲子は3で構成される120年間です。 江戸時代には上元とする三元甲子説の一種が行われており、 それに従えば中元の初年となります。

[42] また、江戸時代には甲子年の改元が慣例となっていました ( 革令改元 )。 江戸の一般の人々もこれを知識として持っていたことがわかります。 また、 三元甲子革令改元の発祥に直接の関係はありませんが、 関連付けて理解していたようです。

[44] この噂が流れたのがいつのことかは明らかではありません。 新年早々に今年は改元がありそうだと話題になったということかもしれませんし、 あるいは前年末には既に来年は改元がありそうだと話に出ていた可能性はあります。

[45] 発表がないだけで改元があることはほぼ確定していたのであり、 噂というより新年はどんな年になるだろうという展望の話題の一部分かもしれません。

[48] 実際その年末年始にも朝幕間で改元のための協議が進んでいました。 改元の噂とそれが関係しているのかどうかは定かではありません。 改元があろうというだけなら、 朝廷幕府の動向を把握していようがいまいが発生し得る噂です。

[47] 街談文々集要 には 甲子改元記 として当時の候補案・典拠とそこから文化が選ばれるまでの朝幕間のやり取りが記された文書が収録されています。 12月付 () で、武家伝奏京都所司代の名前があります。 >>32 京都から江戸に送られた文書の写しでしょう。 筆者がこれをいつどのような経路で入手したのか不明ですが、 一般にもこのような情報が出回ったことがわかります。

[43] 街談文々集要 によると、 享和4(1804)年1月19日に諸大名江戸城に登城して改元発表がありました。 >>32

[46] しかし実際には朝廷改元定があったのは享和4(1804)年2月11日のことでした。 享和4(1804)年1月19日の発表は不可能です。 他の記録によれば江戸城改元披露は享和4(1804)年2月19日のことです。 本書の誤記または何らかの誤解で1ヶ月ずれてしまったのでしょう。

[49] 街談文々集要 によると、 文化への改元のことは、 享和4(1804)年2月17日がありました。 >>32

[50] ところが江戸城での発表が享和4(1804)年2月19日だとすると、 それより前にがあろうはずもなく不審です。 本書が改元発表を1ヶ月間違えている (>>43 >>46) ので、 これも文化元(1804)年3月17日の誤りとも考えられますが、 江戸での改元施行として遅すぎる感があります。 江戸城で既に諸藩に披露され武家で施行されたものを江戸市中で1ヶ月も施行遅延させる理由がありません。 遠方のでもこれより早く施行された記録があります。

[51] 街談文々集要文化への改元が2月17日にがあったと書いた後、 これより10日ほど前に改元デマ事案があったとして判決文を収録しています。 >>32

[52] あるいはこの判決文がとして出されたのが享和4(1804)年2月17日だったのではないかとも思われます。 本書が江戸城の発表を享和4(1804)年1月19日と誤ったのも、 享和4(1804)年2月17日改元があったと誤解して、 辻褄を合わせるために訂正したのかもしれません。

[54] しかし事件の旨をこのような形で江戸の町民に伝えたのものかどうか、 「早速」逮捕されてから約10日というスピード感がこの当時の事件処理として通常なのかどうか、 はよくわかりません。 同時代の他の事件等の慣行との比較検討が必要でしょう。

[20] 昭和時代の雑誌記事は、 享和から文化への改元のあったのは西暦1804年2月11日で、 その公布の10日ほど前に偽の改元情報が流布されたと説明していました。 >>19 「公布」の時期の説明がなく、 雑誌記事筆者は西暦1804年2月11日のことと理解していたのかもしれませんし、 不詳のため時期を説明しなかったのかもしれません。

[22] 平成時代日本年号史大事典等は、 享和4(1804)年2月、文化への改元直前の江戸で、 元明改元されたと紙に書き付けて売り歩いた者があり、 中追放に処されたとしています。 >>23 普及版 p.599 (街談文々集要), >>16

[53] そもそも「十日程以前」とある >>32 ので筆者も正確にいつの出来事だったか把握していなかった (知らなかったまたは忘れていた) のでしょうが、 享和4(1804)年2月の初め頃がデマ流布のあった時期という理解が妥当と思われます。

[55] 街談文々集要 に収録された文章によると、 事件で処分されたのは日本武蔵国江戸神田紺屋町2丁目金次郎店文蔵という者でした。 >>32 単独の犯行だったのか、当局に逮捕されたのが1人だけだったのかは不明です。

[56] 街談文々集要 によると、 「年号かわりました〱」 といって売り歩いていました。 >>32

[57] >>30 は 「年号かわりましたかわりました」 と解釈しており、 >>19 は 「年号かわりました」 と引用しています。 「年号かわりました! 年号かわりました!」 の方が解釈として妥当なようにも思われますが、 そもそもが売り文句を正確に記録したものでもないでしょうから、 細かいことはあまり意味はないかもしれません。 「年号! 年号かわりました! 年号!」 と叫んでいたこともあったかもしれませんし、 他の文句が挟まったりもしていたでしょうし。

[21] 街談文々集要 およびその引用文章によると、 その者は元明改元ある旨の印刷物を1枚4文で売り歩いていました。 >>32 値段は4文は瓦版としては標準型でした。 >>19

[24] 瓦版の内容は元号名以外伝わっていません。 >>19

[60] 街談文々集要 によるとその者は「早速」逮捕されました。 街談文々集要 の引用文章によると、 その者に対して当局はとんでもないことだとして中追放処分としました。 >>32

[61] 具体的にどれだけ「早速」かは書かれていませんが、 売り歩いているその場で現行犯として連行された感じでしょうか。 処分決定までどのくらいの時間や手続きがあったものかはよくわかりません (>>54)。

[32] 街談文々集要 所収 甲子改元記并偽年号 >>28, >>15, >>30

文化元 甲子 畧暦

第壱 甲子改元

当年ハ甲子とし一元中段の初なり定めて年號改 元あるべしと風聞の處正月十九日列侯諸士惣出仕 於営中年号改元ノ旨土井大炊頭殿伝達せらる

甲子改元記

文化
嘉徳
嘉政
萬寳
嘉永
文政
萬徳

年号字七號の中文化嘉徳可然

主上 仙洞 思召候 尤丞相衆中え勅問有之候所両号多被挙 奏候但文化ノ號殊可然哉ノ御沙汰ニ候得共於関東思召有之候 嘉徳ノ号可被用候哉 両號ノ中関東思召被聞合可有御法定候 此旨関東え宜被申入候事

十二月

伝奏衆

広橋前大納言

千種前中納言

所司代

青山下野守

改元赦ノ事先例ノ通可有 御沙汰候事

文化元甲子大小

甲暦班周典寅賓應夏正六花呈國瑞十雨試 王耕桂閾三層麗蓮峰八朶霜髯君莫臘酒慰 春情

ねづミがでればよがなをる 但にごり無之分大の月

右改元二月十七日御触有之 是ゟ十日程 以前ニ年号かわり ました〱ト四文ツヽに賣歩行しが早速被 召捕

神田紺屋町弐丁目

金次郎店

文蔵

右ノ者義不如意ニて取続難相成候迚不斗存付年号 元明ノ改元有之旨偽内分ニて板行ニいたし又は相認メ壱枚ニ付 四文づヽニ売歩行候段不軽儀不恐 公儀仕方不届至極ニ付 中追放被 仰渡候

[25] >>19 が「諸書」に引用された判決文の原文とするもの

右の者不如意にて取続き相成りがたく候とて、 ふと存じつき、 年号元明と改元これある旨偽り、 内分にて板行にいたし、 又は相 (したた) め、 壱枚につき四文づつに売り歩行候段、 軽からざる儀、 公儀を恐れざる仕方不届至極につき申追放

[58] >>19 によるが、改行振り仮名等は >>19 に忠実ではない。
[59] >>32 所引のものを書き下したものにほぼ一致するが、完全に同じではない。 「諸書」とは何か不詳。

[17] 時系列にやや不明な点があるものの、

という順序でしょうか。

[62] 売られた瓦版を買った者がどれだけいたのかは定かではありません。 当時の江戸の町では瓦版が商売として成立しており、 自ら印刷して売り歩ける者がいたほどの経済力があったのですから、 今回も購入した者はそれなりにいたと推測するのが妥当でしょうか。

[63] そのうちそれを信じて実際に利用した者がいたのかどうかもよくわかりません。 現在までそのような文書は発見されていませんし、 見聞きした記録も知られていません。

[64] 文蔵が実際のところどのような動機でこの事件を起こしたのかは、 明らかではありません。 偽の新元号の元明文蔵が思いついたものでしょうか、 それとも何者かから吹き込まれたのでしょうか。 前者とすれば経済的な理由 (「儲けたい」) でしょうか、 それとも何らかの政治的理由もあるのでしょうか。 後者とすればどのような人脈によるものでしょうか、 文蔵はなぜそれを信用したのでしょうか。 幕府当局はなぜその情報源をたどって処分しなかったのでしょうか。

[72] 日本ではたびたび改元デマが発生してきましたが、 偽情報の流布者が処罰されたことが知られる最古の事案が元明の一件です。 (関連: 宝永)

元明 (天明の誤り)

[10] 江戸時代元号天明を誤って元明と書いたもの (y~4192) が、 無視できない程度にあるようです。

[11] 近代から現在に至るまで、誤記、誤植、誤変換、OCR 誤読と思われる例がバリエーション豊富です。

[13] ごく一部の用例を拾うと次の通り。

[1] 陶器全集 日本陶窯史尾戸焼下卷, 小野賢一郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3437742/1/10 (要登録)

[2] >>1元明元年」は天明の誤植。1箇所だけで他は正しい。

[4] 古本屋 (10號別冊その3), 荒木伊兵衛書店 [], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1492880/1/13 (要登録)

[5] >>4 目録。1箇所「元明元年」とある。原本ママの可能性もあるが誤植か。

[6] 鑑定必携日本画人伝 13, 北村佳逸, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/851363/1/19

[7]元明元年」手書き楷書 (和装刊本)。誤刻?

[8] 若越郷土研究 11(4)(59), 福井県郷土誌懇談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6072809/1/7 (要登録)

文書の引用部に「元明元年」。参照して書かれた本文は天明年間の話題。 原本の誤記かもしれないが、引用時の誤植の可能性が高いか。

[9] 日本周辺海域火山通覧(第4版), 伊藤弘志, 堀内大嗣, 芝田厚, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11000276/1/1 #page=5

1781年(元明元年)4月高免沖の島で噴火.5月 に高免沖で海底噴火. 1782年(元明2年)1月高免沖で海底噴火.

メモ

[3] 元明天皇

[12] 検索だと元明天皇天明の誤記と「元・明」のような例が大量に出てくるので、 それ以外の用例を探すのがとてもむずかしい。