[4] 門守と門元と則吉は、 室町時代頃の日本の私年号です。
[109] 本項は関連して日本刀の銘文で使われたとされる成化も扱います。
[5] 刀銘で門守2年とされるものが1例知られています。
[6] >>13 は、現所在不詳ですが、昭和時代の論文で最近みたと書かれています >>1。
[55]
第1字は門と読めます。
上部の2つの日が押形ではやや不明瞭な部分を含むのが気がかりですが、
問題はないと思われます。
構えの内側に何かがあったようには見えません。
>>12
[56]
第2字は守と読めますが、よく見ると上部が宀かどうかははっきりせず、
二のように見えます。
>>12
宀が二のようになることはあり得そうなものですが、
他の刀剣銘に事例があるのか確認しておきたいです。
[57]
寸の丶は、一般的な活字のような丶の向きではなく、
ノ的な逆向きの点となっているように見えます。
手書きでもまま見られる形です。
[16]
銘文には作者「□京」とあり、□は成か戌とされます。 >>1
[23] 成京と読み、室町時代のものであり、あるいは信国の隠し銘か、 とする説があります。 >>2 根拠は不明ですが、様式によるものでしょうか。
[8] 信国は室町時代の刀工で京で活動、 信国派はその後各地に広がり江戸時代には九州、 越後、 南部で活動したとされます。
[9] 「信国系の作風」というのがどの範囲を指すのか不明ですが、 >>1 の著者の見立てでは初代信国本人の室町時代頃の様式に近いということなのでしょうか。
[36] 刀銘で門元2年とされるものが1例知られています。
[47] 、 日本のオークションWebサービスに出品されました。 >>38
[46] 既に終了しており、その後の行方は不明です。 >>38
[53] 日本国岐阜県での登録ということで、おそらく近代には (もしかすると近世あたりも) 岐阜県域で伝来したものでしょう。しかしそれ以上の詳細は不明です。
[40]
第1字の門の中には元から何もなかったように見えます。
>>37
[42] 第2字は、写真から正確な字形を読み取ることが困難です。 >>37
[58]
写真が不鮮明なのか実物が既に不明瞭なのかわかりませんが、少なくても写真では、
第2字が元であることを肯定も否定もできません。
>>37
[59]
強いて言えば齐のような形に見えますが、上部が特に不明瞭です。
>>37
[52]
写真を見ると「門元」の2字目は守ではなさそうですが、
伝播のより上流で関係があるかもしれないという程度には字形が似ている気もします。
[60]
>>52
守と読むこともできそうな形ではありますが、不明瞭すぎて何とも言えません。
左下にノとあるように見えるのが字画の一部だとすると、寸の丶と思われますが、
それにしては長すぎるし左寄り過ぎるように思えます。
が、字画と画質的に生じた幻影が組み合わさったもののように見えないこともありません。
[51]
登録証は元と読んでおり、オークション出品者もこれを踏襲しています。
[71]
実物を見ている人達が元と読んでいることは尊重したいところではあります。
[43]
第6字は正と読まれていますが、伝統的楷書の系統の正のように見えます。
>>37
[44]
第7字に日があるとされますが、よくわかりません。
>>37
[45]
>>44 字形としては読み取り難いですが、文字らしきものが小さく書かれているのが
日
でしょう。
>>37
[61] 銘文には二王の作とあります。 二王は、日本国周防の刀匠グループです。 >>38
[54] 令和時代に至るまで、学術研究において紹介した事例は見当たりません。
珍しい菖蒲造りの脇差しになります。 菖蒲造りは室町期にはやりなぜか新刀期あたりより作刀が見られなくなります。 白鞘拵で岐阜の昭和38年の登録です。 所有者変更届の提出をお願いします。 刃渡り37,2cm反1.0cmです。 銘は二王作で年期は門元二年正月日です。 二王は周防の刀匠一派です。 清綱を祖とし鎌倉より新刀期まで続いています。 年期は門元とありますが不明で刀の時代は少なくとも室町後期はあります。 刃紋は五の目のたれで肌は柾がみえます。 ハバキは本歌の赤銅製です。 身幅31mm重ね5mmです。
[72] 刀工の信国の刀の銘文に則吉の用例があるとされます。 信国は南北朝時代から室町時代に山城を中心に数代にわたって活動した有名な刀工(の系譜)です。 複数の刀(銘)が知られていますが、則吉銘は1例だけです。
[94] 昭和時代の論文は、 信国の「則吉二年」が 校正古刀銘鑑 に記載されていると書いています (>>85)。 ところが、 国立公文書館所蔵校正古刀銘鑑刊本 >>92 には見当たりません。 全文検索が出来ないので、どこかわかりにくいところに書かれている可能性は排除できませんが。
[95] 校正古刀銘鑑を見ると、他の記載は元号名か元号年までにとどまっています。 ところが >>73 は、校正古刀銘鑑由来と思われるものはやはり元号年までの記載ですが、 >>75 だけは「正月日」まで書いています。この掲載態様からすると、 >>75 は校正古刀銘鑑とは異なる出典があるように思われます。
[96] 校正古刀銘鑑よりとしたのは、他のこの種の資料からの誤引用でしょうか。 あるいは校正古刀銘鑑の同名異本に >>75 を掲載したものがあるのでしょうか。
[158] >>153 は年号が伝わりますが、実物の所在は不明です。
[159] >>155 は昭和39年7月30日に日本美術刀剣保存協会の第十二回重要刀剣に指定されています。 日本国東京都の大塚謙四郎名での登録となっています。 >>151
[160] 指定当時、茎は朽ち込んではいるものの、なお十分に判読できる、といいます。 >>151
[161] 押形が掲載されていますが、銘文の字形はおおむねわかるものの、 完全には自信を持って読めない、という状態に見えます。 >>157 実物だともう少し読みやすいのでしょうか。
[163]
第1字と第2字は、成, 化と知っているから容易にそう読めるものの、
点画が部分的に不明瞭で、知らなければ素直にそうとは読めないかもしれません。
[162]
第3字はちょうど目釘孔に左半分が重なっており、右半分は不明瞭です。
実物だと二と読めるのでしょうか。
[164]
第4字もやや不明瞭で、年にしてはバランスが悪い気もしますが、
刀剣に切られた年の字としては不審でもありませんし、
文脈的にも年で間違いありません。
[165]
第6字は月ですが、下端に接しており、磨上時にぎりぎり残ったと思われます。
更に下に銘文が続いていた可能性があります。
[204] 重要刀剣の指定には、「附」として「衛府太刀拵」が含まれます。 衛府太刀拵は、閑院宮家伝来と説明されています。 >>151
[10] 門守と読まれる >>13 と門元と読まれる >>39、 則吉と伝わる >>74 の各1点ずつ計3例が知られています。
[66]
門元の第2字がまさしく元であるか否かは明確ではありません。
今後実物または高画質の写真が出現する可能性はそう高いとも思われず、
真相は闇の中といったところです。
[67]
2つの用例は、元号名が門から始まること、
「二年●月日」
であること、
菖蒲造の脇差であること、などよく似た特徴を持っています。
[68] 一方で、 >>13 は信国風と判定され、 >>39 は周防の二王の銘があり、 大きく異なる出自が想定されます。
[69] 両者がいかなる関係性を持つ (持たない) かについては、 刀剣分野の専門的な知識に基づく検討が望まれます。
[29] >>13 が私年号として初めて報告されたのは刀剣の研究者による刀剣の論文誌であり、 刀工の信仰と結び付けられています。刀工が作り使ったと考えてのことでしょう。
[30] 刀剣銘以外の用例が発見されておらず、積極的に肯定するべき材料も、 否定するべき材料もありません。
[31] 作風から室町時代とされる他は、干支年などもなく、時期はまったく不明です。
[70]
元はともかく門も守も元号らしさをまったく感じない文字です。
公年号のみならず私年号にもなかなか見かけません。
[102] 則吉は、他の2つとは文字が異なる上に、実物の情報がほぼ皆無です。 唯一、信国の作であるとの情報があるものの、 他の作が知られる信国と同一人物かは定かではありません。
[103] しかし門守も信国風とされており、 信国は明の元号を使った例も知られていますから、 異年号を使いやすい何らかの素地を共有しているとも考えられます。
[105]
則は、門とどことなく字形が似ていないこともありません。
実例が知られている2つの門と読まれる字は明らかに門で、しかも左右対称ですから、
それを則とは読めません。これとは違ってもう少し歪んだり、不鮮明だった門は、
則と誤読し得るのではないか、あるいは銘文を崩し字や乱雑な字でメモ書きし、
それを再解釈した時に変化し得るのではないか、と考えられないでもありませんが、
想像の域を出ません。
[106]
守と読まれる字が吉である可能性はなさそうですが、
元と読まれる字は不鮮明過ぎて、吉である可能性は否定できません。
(しかし、あまりに不鮮明なので、およそどんな字の可能性も否定できなそうです...)
守や元と吉も、乱雑な字を媒介して繋がり得ると思われますが、
これも想像に過ぎません。
[108] 信国らが並んでいる刀工のリストの割と近いところに則吉なる者が並んでいる >>92, >>73 のは、 ちょっとした気になるポイントです。
[107] 同じ元号名の他の用例が出現するか、信国の素性がより詳しく判明するか、 といった新材料がないことには、不確定な要素が多すぎて、あまり推測に推測を重ねるのも骨折り損のように思われます。
[244] 成化について、確実な用例は昭和時代報告の成化二年銘の1件です。 他に、近世から知られる成化元年の1件がありますが、 正確な銘文や出典の詳細は不明です。 その他にもいくつか異なる情報がありますが、 別の判読または誤伝、不正確な要約の可能性があり、はっきりしません。
[245] 諸説いずれも明の元号と解釈しています。また、偽銘などではなく、 実際の製作年と考えているようです。
[246] 制作者については信国の銘がありますが、いつどこの信国か諸説一致しません。 古くからの説は、山城国の信国とみなします。 近年の説は、豊前国の宇佐の信国とみなすものが多くなっているようで、 系図も示されています。 いずれの所在にせよ、多くは成化と同時期にあたる文禄・文正の頃の活動が確認される信国と同一人物説を採っています。
[247] 諸説いずれも、明への輸出を目的として制作されたために明の元号が使われたと説明します。 その多くは、これが異例であることを指摘していますが、 それでは他の輸出刀剣類の銘文はどうだったのか、 刀剣類以外の輸出品ではどうだったのか、 なぜ明の元号を使う必要があったのか、 といったところまでは踏み込んでいません。 唯一、昭和時代初期の説は明の文明を吸収せんとする時代の風潮に根拠を求めています (>>130)。
[248]
陶磁器では明の元号が使われた事例が非常によく知られており、
偶然なのか否か、成化銘はその中でも最も多く作られました。
陶磁器の場合は、商業的理由から漢土の製品が模倣されたのであり、
銘文も実日付ではなく、成化銘であっても実際の製造は近世です。
[249] 日本のみならず輸出先の欧州等にも多数実物が現存する明の元号の日本製陶磁器とは違って、 成化銘の刀剣は日本でしか確認できず、漢土にも欧州にも実物・記録とも知られていません。 何らかの事情で輸出されなかったとする説や、 戻ってきたとする説はあるものの、 確証は示されていません。
[255] 模倣に価値がある陶磁器とは違って、日本刀は明らかに日本製品として輸出されたもので、 用途が美術品としてか実用目的かの問題はあるにせよ、 明の元号とするべき積極的な理由がありません。
[251]
昭和時代になって、輸出説の有力史料として
[252] もし明国政府に対する正式な献上品として製作された特注品だとすると、 異例の明の元号の使用や、類例がほぼ皆無であることも説明が付きます。 ただし、製作と遣使の時系列や国内に残った経緯など、未解決の問題は残ります。
[253] 一部の論者は明の元号を使用したことと則吉のような私年号を使用したことを関連付けていますが、 私年号側の性格がはっきりしないこともあり、歯切れのよい説明を出来ていません。 両者の信国が同一人物かどうかも未決のままですが、 全国に無数に記録される刀匠の中で、特殊な元号を使った者が信国派に集中しているのはまったくの偶然とも思われず、 明の元号と私年号の双方から検討を進めていく必要がありそうです。
[254] 成化2年銘太刀の年代鑑定が元号以外の条件で行っても同じ時代になるのかどうか、 が明確ではないのは不安要素といえます。
[77] の新刀古刀大鑑は、 信国の銘として >>74 を紹介しています。 >>73 それ以上の情報はありません。
[97] なお、信国を2つにわけて掲載しており、 著者は別人と認識した可能性があります。
[80] の書籍は、 >>74 を紹介しています。 居住国不明の信国によるものとし、 私年號であり、 国不明山城ならん、 としています。 >>79 その根拠は不明です。
[83] の書籍は、 >>74 を紹介しています。 居住国不明の信国による古刀とし、 私年號であり、 国不明、 山城か、 としています。 >>81 その根拠は不明です。
[174] の書籍は、 >>74 を紹介しています。成化と共に輸出に関連付けています (>>175)。
[17] の刀剣の私年号に関する論文は、 >>13 を紹介し、
... と述べています。 >>1
[7] 明言していませんが、文脈的に室町時代 (江戸時代になる前) と想定されているようです。
... と述べています。 >>1
[91]
更に、信国は成化元年銘 >>92 #page=8, >>73 /204, >>93 も残しており
>>1 (校正古刀銘鑑)、明への輸出品ゆえと推測されています。
>>1 /20
[22] の同じ著者の論文でも私年号の事例として >>13 が紹介されています。 >>2
刃長三九、二センチ、反り○、八センチあって、剣形は
菖蒲造り、庵棟、小板目肌、刃文直刃締まり心、鉄子小丸 で、これまた信国系と見える作風であるが、作者銘は□京と あって、一字は目釘孔にかゝっているため判読できない。残っ
[28] 令和時代に至るまで、私年号研究の方面では紹介された事例が見当たりません。
[25] 中文版維基百科の一覧は門守を 「※見《新刀古刀大鑑》,稱「門守二年」。」 と書いています。 >>24
[26] ところが、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索によれば、 新刀古刀大鑑 には門守紀年のものは見つかりません。
[27] 則吉は 「※見《新刀古刀大鑑》,稱「則吉二年」。」 となっており >>24、こちらは実際に 新刀古刀大鑑 にあります。則吉の出典を誤って門守にも記載したと思われます。
[65] なお、この一覧表は直接の出典を明記していませんが、その編集履歴から、 当 SuikaWiki の令和時代最初期頃の時点の私年号記事から、 いくつかを不明な基準で選出し、追記した可能性が強いと見られています。 SuikaWiki から採られたのは元号名のみで、 典拠は独自に記載されています。
[112] 江戸時代の刀剣研究者本阿弥長根の 校正古刀銘鑑 は、 信国に明の憲宗の成化元年の年号を打ったものがある、 としています。 >>93
[141]
校正古刀銘鑑
は、
信国に
「
[142] 各刀匠の代表的な(?)銘文を記載しているようです。 信国には「信国」「成化元年」のように書かれた刀が知られていて、 編者が注釈するに日本の寛正6年に当たる、 という意味と思われます。
[143]
の新刀古刀大鑑は、
信国に
「
[144] 校正古刀銘鑑 由来と思われますが、 特に説明もなく、2つの元号をどう解釈したものかよくわかりません。 なお、同じ山城の信国派の欄にもう一人別人扱いの信国がおり、 そちらには則吉が掲載されています。
[145]
の
刀工全集
は、
山城の信国の欄で、
「
[146]
隣に山城の信国で文
[220] の書籍は、 古刀の山城の信國の欄で、 成化元は異邦の年号で、寛正六にあたり、 長祿・文正頃の信國だろうとしています。 >>219
[147] の 刀工総覧 は、 山城の信国の欄で、 成化元年があり、寛正6年にあたる異邦の年号であるとしています。 長禄・文正の頃の信国と同人だろう、 としています。 >>81
[148]
隣に
「
[240] 日付不明の日本刀 Webサイト (English) は、 信国について、 銘文に
信國成化元年
があるとし、紀年作に
Chōroku 2,3. Kanshō 3,6. Bunshō 1, 成化 1, 2 (Bunshō 1) [1].
があるとしています。ここで [1] は
Nihonto Meikan, Honma, Junji, and Ishii Masakuni , Tokyo, p.1618, (1976)
です。 >>239
[222] に
なる論文が発表されています。 >>221
[209] 以来の内田疎天の書籍に、 信国の成化元年銘刀についての記述があります。
[212] そのうち、の書籍は、 古刀の信國について次のように書いています。 >>208
式部亟の二代也、二字銘、長祿三年、文正元年の裏銘あるものあり、支那への輸出刀中成
化年號の信國あり、支那の成化元年は我邦の寛正六年に當るを以て、成化年號の信國は、 長祿、文正の信國なるべし。成化年號の信國は二字銘、信の字非常に大きく國の字稍小さ し、國の中右打ち、刄文は五の目亂、出來は先普通也。
[218] 他の版もほぼ同文です。細かな表現の違いがある中で >>215 がやや詳しいと思われます。
[210] ほぼ先行文献通りですが、最後の1文は根拠不明です。実見したのでしょうか。
[119] の書籍は、
と述べています。 >>118
[116] の史料集は、 信国銘のある短刀の紹介文で、 信国には如何なるわけか、あるいは対支貿易を物語るのだろう、 明の「成化元年」の年号をきったものがある、 と述べています。 >>115 当該短刀には年号銘はなく、信国にだけ着目して説明を加えたものです。 出典は記載がありませんが、 校正古刀銘鑑 でしょう。
[139] の書籍は、 信国の刀で成化元年の年号をきったものがあり、 支那の年号であるとし、 長禄・文正の頃の信国の作と思われ、 支那貿易の対象で作られたためか、研究すべき、 と述べています。 >>138
[111] の福永酔剣の論文は、 校正古刀銘鑑 を引いて、 信国の成化元年の刀があるとし、 対明貿易品として明の元号を用いたのだろうと述べています。 >>168
[225] の福永酔剣の書籍は、 日本刀の輸出について、 信国には成化元年九月と明国の年号を切ったものさえある、 としています。 >>224
[110]
のすいけんの論文は、
>>111
より少し詳しく、
京の信国が室町時代に作ったものであり、
当時刀剣の対明輸出が盛んであり、
輸出用だったのだろうと述べています。
また、
信国は明の元号だけでなく則吉という私年号も使う
「
[166] 、 日本国東京都の個人所蔵信国銘太刀が日本美術刀剣保存協会の重要刀剣に指定されました。 その図録に掲載されています。 >>151
[167] その説明によると、成化二年は明の元号で、 に当たるとし、 明の年紀をきったものは他に類を見ないものの、 銘鑑に成化元年紀のものが掲載されており、 日本刀が対明貿易品として盛んに輸出された事実を立証する貴重なものとされています。 >>151
[132] の書籍では、
と説明されています。 >>131
[137] 対談の書き起こしの形式の文章で、厳密な文意は曖昧なところがありますが、 佐藤寒山は成化元年銘太刀を実見したように読めます。
[171] しかし重要刀剣の太刀と言っているので、成化2年太刀をを指しているようにも思われます。
[172]
の書籍は、
明の元号の「
[175] の書籍は、 成化元年銘の信国と則吉二年正月日銘の信国 (と他の信国派刀匠たち) を紹介しています。 >>173 これ自体は銘鑑の系譜の資料からの引用と思われます。
[176] それについて、
右に信国作に成化とか則吉とかの年号があるが、成化は当時の中国の年号で、則吉は中国にもない
が、別項「海外流出刀剣」の条にもあるように、当時、外国貿易品の第一位が刀剣であったから、こ れらは輸出品として作られた刀剣であろう。
... と推測を述べています。 >>173
[207] の論文は、 >>155 を紹介し、 珍しい年号、中国の年号の脇差で、 閑院宮家の蔵刀だとしています。 対明貿易品として最初から作ったものと思われる、 としています。 >>206
[180] の書籍は、 次のように述べています。 >>177
[198] ややこしくて理解しづらい... 「信国は有名」「高価になる」「私貿易のため作らせた」は全部仮定?
〔信国〕康応~應永 祥雲 貞光 後宇佐へ
の次の代に
〔信国〕長禄二,成化二、吉久宇佐住
を繋げています。 >>229
[231] の信国系図に関する論文は、 >>112 (の一本である雲智明集) と >>230 を引用しています。 >>229 #page=16, >>233 #page=10
[234] の続編には、 次のような注釈もあります。 >>233 #page=15
③ 1466 年:【刀】銘「信國」。(「本間銘字」p.85 では「銘字の太刀に表《信國》裏に「成化二
年九月(〔明〕の元号)(以下切)」と切る二尺二寸五分の貴重な資料がある」と記される。ま た、p.84 では「このころの宇佐信国は長禄二、文正元年記のある〔信國吉家〕の時代で、こ の工の作に有名な成化二年紀の作がある」と記される(『戊子入明記』に関連記事あり34全文)。 しかし、「柳原系図」では〔信國吉家〕は「文安三[1446]年死ス」とある。従って、〔吉家〕 であれば、文正元年作は「柳原系図」にある〔吉包〕文龜之頃[1501-03]─〔吉勝〕永正之頃 [1504-20]、あるいは「守次信国系図」の五代〔吉包〕、六代〔吉政〕、七代〔吉勝〕が〔吉家〕 をも名乗ったことも考えられる。「昌国記」では〔信國吉久〕長禄二[1458]成化二[1466]を比 定している。
34 Boshi Nyuminki |『戊子入明記』(『続史籍集覧. 第 1 冊』所収:国会デジコレ 1259144)コマ 240 URL:
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259144/240 「龍太刀 二腰實三貫文充信國作之」応仁の入明記に明皇帝 への献上品の一つの信國太刀である。銘「信國作」裏銘「成化二年」と本作の関連は要調査。
⑤ 1474 年:【脇指】銘「豊前宇佐住信國」裏銘「文明六甲午年八月」(「本間銘字」p.86 では「「宇
佐住」とあるのは永享三、長禄二、文正元、天正二年紀のみであったが、ここに文明六年が 加えられ(中略)成化の太刀はこの作者ではなく、その先代であろう」と記される。「昌国 記」では〔吉包〕を比定)。銘「信國」裏銘「文明六年」(「福永信国」p.5 は、③と同作と 推定される)国字の終画はこの頃から「へ」から「一」に戻る。
[203] の論文は、 >>155 を紹介し、 刀剣類の輸出の説明に加えています。 >>202
[227] 美術館 Webサイトの解説 (日付不明) は、 豊前国の「信国 (宇佐)」の刀剣の解説において、
なお、本工の作であろうと思われるものに成化二年紀の作品が残されています。成化二年は明の年紀で日本の文正元年にあたり、対明貿易の資料として貴重な作品です。
と述べています。 >>226
[228] >>155 を参照しているものと思われます。「本工の作」と推測した根拠は不明です。
[237] の Webページ記事 (English) は、 日本刀の輸出に関係して、
For example, there exists a tachi signed „Nobukuni“ (信国) which bears a Chinese nengô, namely „ninth month Chénghùa two“ (成化二年九月), what corresponds to the first year of Bunshô (文正, 1466) (see picture 2). This is an important reference pieces as it is one of the very few export swords which did not make it abroad for whatever reason. And this Nobukuni blade is also of special interest as it backs up the transmission of the Kyôto-based sword dealers where the origins of the Nobukuni school were, and the founding of the Kyûshû-offshoot the Tsukushi Nobukuni school (筑紫信国).
[3] Google Books だと「文殊二年」が多数見つかりますが、 OCR の誤読のようです。
[117] 大谷学報 35(2), 大谷学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4437044/1/37 (要登録) 右下
[32] 唐土の経典の目録ですが、唐開元年間のものに混ざって
とあります。 >>117
[34] 目録著者が開元と解釈したのは明らかですが、 注記も何もないため、誤植なのか実物にもそう書かれているのかはわかりません。
[35] 日本刀の用例とはおそらく独立したものでしょう。 他に類似用例が見当たらないので、偶発的な誤記でしょうか。