[82] 確実な事例は1例のみ知られています。
[21] 昭和48年論文によると、 専称寺廃寺跡に板碑は27基あります。 建武4年が上限で南北朝時代に12基、 室町時代に5基+1基(>>9)あります。 >>6
[103] 平成4年論文によると、 専称寺廃寺跡に板碑は38基あります。 うち紀年銘らしきものがあるのは: 建武4、元弘元、暦応元、文和3、康安元、 貞治5、6、7、7、応安元、 応安7、永和2、永[和]4、康暦3、永徳2、2、 3、至徳元、康广2、明徳3、応永2、3、18、 21、21、□22、応永27、永享6、文鬼元、 11/14、[9]/2□、[6]年、貞□、応安2、 永和4 (日付なし4基) >>5
1501 文鬼元年 惟次豊前馬ヶ岳於いて戦死
[94] 昭和時代後期に紹介されて以来、地元研究者を中心にいくらかの議論がなされてきています。
[95] いずれも文亀の異表記の私年号とする説を軸にしつつも、 断定の程度には差があります。が、否定的な論も文亀説の不自然を指摘するに留まり、 文亀説を完全否定はしていません。
[96] 文亀への比定は主に同音によることが根拠となっているようです。
[97] 文亀だとすると同地の板碑群の他の板碑の最新よりも新しいことになり、 当地の廃寺の存続時期とも絡み、評価にいろいろな見解があります。
[98] 板碑の様式や書風にも言及はあるものの、本格的な板碑編年による年代の推定は行われてきていません。
[102] 文亀説以外には室町時代後期との説明もありますが、 文亀への比定と独立のものかは定かではありません。
[99]
文亀に比定するべきとしたとき、
鬼に置き換えたことの妥当性、
鬼のめでたさや祥瑞性といったことも色々な議論があります。
[100] ただ、それらは公年号の元号名の典拠を熟知した上で文字を置き換えたとか、 私年号は縁起の良い文字へと置き換えるものだといった特定の発生モデルが暗黙的に前提とされています。
[101] 文亀という正規の文字を知る者が、それとは明らかに異なる文字を、 明確な意図を持って置き換えて使った、という条件のもとでなければ、 このような議論は意味を持たないのであり、 そのような高次の議論の前に基礎的な議論がなされるべきでしょう。
[105]
その割にこれまで十分に検討されていないのが、漢字としての亀と鬼の関係性です。
写真によれば一部不明瞭ながらも確かに2字目は鬼のような字形がありそうに見えます
>>11。が、亀であると言われれば納得できそうにも見えます。
実物を見るとまた印象も違うでしょうし、模写では明確に鬼と描かれている >>15
ことには注意を要しますが、亀と鬼の字形が明朝体のイメージほどには隔絶されていません。
[106]
亀は元の字形が複雑なためにいろいろに書かれてきた歴史があり、例えば
>>104 の「文亀」の亀はとても簡素に略されています。
>>11 の見え方からも遠くありませんし、国立国会図書館デジタルコレクションの
OCR はこれを「文鬼」と誤読しています。
[107]
>>9 が鬼のつもりで書いたか亀のつもりで書いたかは別として、
鬼と亀の字形が混同されたり、間違った状態で伝わってきたりすることも、
まったくありえないとまでは言えなそうに思われます。
[108] もっとも、こうした字形の変化・誤りとする仮説も、成立するのは >>9 が板碑様式や書風や銘文内容から文亀年間として問題ないと判断される場合に限られます。
[16] の書籍は、 >>9 を紹介して、次のように述べています。 >>6
[34] 平成2年の報告書は、 昭和62年の調査について >>9 を紹介して次のように述べています。 >>3
[59] の書籍 (平成2年8月初出記事) は、 >>9 を紹介して、 次のように述べています。 >>12
[85] の地域史は、 >>9 に言及して、次のように述べています。 >>83
[49]
の史迹美術同攷会の雑誌は、
第八五回東京例会の記録を掲載していますが、
の記録に専称寺の板碑群があり、
「
[51]
の論文は、
>>9
を紹介して、
「
[57]
の史料集は、
>>9
を紹介して、
[73] 千々和到本人の表には掲載されていませんが、 その系統の表で掲載されているものがあり、 室町時代後期とし文亀かと説明しています。 >>72 どのような判断によるものか、断定は避けているようです。
[79] 付の Webページは、 「文鬼」 を掲載して文亀年間としています。 >>78
[75] 日本語版ウィキペディアの表は、 当初から文鬼を掲載していますが、 平成19年に文亀年間から文亀元年へと変更し、 更に平成20年に文亀の異表記と明記しています。 いずれについても直接の根拠は不明です。 >>9 を典拠としています。 >>74
[81] 中文版维基百科の表は、 文龜において 「宮城縣石卷市專稱寺跡板碑」 が文鬼と表記するとして、 >>3 を出典にしています。 >>80 出典である >>3 と違って異表記に断定しています。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 文鬼 - 文亀元年(1501年) 不明 宮城県石巻市専称寺跡板碑。公年号「文亀」の異表記。
[54] 付の Webページは、 >>9 を紹介して、 文鬼は私年号であるとし、 同音の文亀かどかは不明としながらも、 同音異字を刻む事例が全国的に稀にあることや、 >>9 の様式から、文亀元年ということでも信じられる、 と説明しています。 >>1, >>52
専称廃寺跡 名号石塔婆 (南北朝~室町時代 文鬼元年、粘板岩、高さ 94Cm 幅 21Cm 厚さ 8Cm)
石塔婆は、中央に大きく「南無阿弥陀仏」の六字名号、その下に「文鬼元年七月廿九日」の私年号、下方の左右に「臨阿弥陀仏、孝子敬白」と刻む。
名号の下に「文鬼元年七月廿九日」、向って右側に「臨阿弥陀佛」、左側に「孝子敬白」と刻む。
全国的には、同音異字を刻む例がレアケースとしてあるという。であれば、文鬼元年は文亀元年(1501)ということになるのだが。
本石塔婆群の中で、種子を刻んだ碑は南北朝時代に現れるが、それには「孝子敬白」又は「施主敬白」と刻まれている。また、本石塔婆群の中で、
名号を刻む碑の下限は永享二年(1430)で、種子を刻んだものは長享年間(1487~89)になっている。いずれにしても、本石塔婆が南北朝から室町
時代中期の間に造立されたことは間違いないとおもわれる。であれば、文鬼元年が文亀元年(1501)となっても信じられる。口口口口
名号の下に「文鬼元年」という私年号を刻む石塔婆で、同音異字(文亀)の年号かどうかは不明。