元号

元号 (暦)

[7] 元号 (げんごう) は、東洋で長く用いられている、 上の時期を表す名前です。

[8] 現在では日本平成が用いられるのみとなっていますが、 かつては東アジア各国で用いられていました。 本項では、特に明記しない場合、唯一現在まで継続して用いられている日本の事情を表します。

呼称

[350] 「平成39年」の「平成」のような紀元を表す名称を元号といいます。 しかし文脈により「平成39年」全体を指して元号と言ったりもします。

[293] 元号のことを年号ともいいます。語源的・歴史的には年号の方がより意味に即した用語のようで、 中国語では現在も年号と呼ぶのが一般的です。しかし年号は、 元号以外の紀年法も含めたり、 元号によって表記されたやその他の紀年法のことまで含めたりすることがあり、 意味に揺れがあります。元号という語の方が意味は明確です。

[294] 英語では era と呼ばれますが、紀年法紀元の意味でも使われるので曖昧です。 regnal yearfinite era (name) と呼ぶとそのような曖昧性は排除できます >>9 が、元号でない在位紀年も含まれることがあるようです。

[295] 日時パターンの表記などでは、ローマ字表記頭文字である 「g」や「G」で表現されることがよくあります。

意味

[255] 元号は、1つ以上の (原則として連続した) に対して与えた名称です。 その改元日から始まり、次の改元日までの期間を表します。 (改元日を含むは、途中からまたは途中までしか含まれないこととなります。)

[380] 元号は、前の元号からの改元という形でその時期が定義されています。 直接的な定義には含まれませんが、への記載や現実の運用などから、 西暦皇紀のような他の紀年法との対応関係も定まります。

[381] ただし、私年号や滅亡した勢力の元号の中には、 正確な時期が伝わっていないものもあります。特に私年号は、 改元の手続きが行わず自然発生的に使われ出し、 いつの間にか消滅しているようなものなので、 終了の時期もはっきりしないことが多いようです。


[254] 元号が何かについて、元号法 >>54 は定義していません。 法令上は自明のもの、あるいは慣習的なものとして扱われているのでしょうか。

[613] JIS は次のように定義しています。

[16] JIS X 0301:2002 3.34

日本で用いる暦年の上位呼称

[614] しかし「暦年の上位」といわれても何となくの雰囲気はわかりますが、 それ以上の情報は得られません。暦年は約365日を表す用語のようですが、 元号の期間は JIS 上も約365日の整数倍となるとは限りません。 「上位」の意味が定義されていないので、この定義と実際の元号が合致しているかどうかもよくわかりません。

法令

[253] 現在の日本の元号制度は、元号法で定められています。 元号制度の元で用いられる実際の元号は、改元政令により定められています。

[615] 他のには元号制度は無いようです。

文脈

[262] 元号は、日本で公私問わず広く用いられています。

[263] ただし日本でも元号表記よりも西暦表記が多くなってきています。 詳しくは日本の暦を参照。

元号を用いた日付表記

[287] 日本元号を使った日付の表記を、和暦邦暦と呼ぶ >>285 ことがあります。

これらの語義については、和暦も参照。

元号による年の表記

[257] その元号への改元日が含まれるを、 元年 (がんねん) と呼びます。 次のを2年、その次のを3年と順に数えていきます。 元年は、1年と表記されることもあります。

[535] 歴史的に「元年」が正式な表記で「1年」が代替的な表記と考えられているようですが、 明確な定めがあるわけではなく、公的な書類でも「1年」と表記する例もある >>533 ようです。

[258] 現在では、「平成28年」のように、元号の数を並べて表記するのが一般的です。 年数は、横書きではアラビア数字縦書きでは漢数字とするのが普通です。

[478] 文脈上明確な時には、元号名を省略して元号内の番号だけでを表記することもあります。

[288] 年数は正整数で2桁以下となるのが普通ですが、将来の日付の表現 (>>242) などで3桁以上となる場合もあります。 の換算の関係で0年を設けることもあります (>>178)。

[289] 改元前を負数や紀元前のような形で表すことはなさそうです。

[261] 近年では西暦と併記することも多いです (について >>174 も参照)。

[259] かつては、更に連ねて干支を併記するのがより正式な表記と考えられていたようです。 改元が頻繁で西暦が一般的でなかった時代、干支が併記されていると年同士の関係を比較しやすく便利だったようです。

[609] あまり正式ではない場面 (民間など) では、十干十二支ではなく十二支だけを元号数に添えることもあったようです。

[55] 日本の暦紀年法の項も参照。

元号利用時期の表記

[610] 元号名に「年間」、「時代」、「期」のような接尾辞をつけて、 あるいは元号そのものにより、その元号が用いられていた時期を表すことがよくあります。

[611] 昭和時代は、昭和が用いられた時期を指します。

[612] 寛永年間は、寛永が用いられた時期を指します。

[642] 享保の改革は、享保が用いられた頃の政治改革を指します。

元号の名前

元号名の表記

[296] 元号名のほとんどは漢字2文字です。日本の古い元号私年号には、 4文字のものもありました。他のには3文字や6文字の例もあります >>9。 5文字や7文字や8文字のものが挙げられることもあります。日本の私年号にも3文字のものがあります。

[272] 元号の中には、旧字体新字体 (当用漢字字体表常用漢字表) で字体の異なるものもあります。現在は新字体を使って表記するのが普通です。

[344] 斉衡は、斎衡とも表記されます。 (更にそれぞれの旧字体齊衡齋衡もあります。)

[376] 意図的なのか誤記なのか、あるいは同音の漢字の選択が緩い時代なのか、 異体字以外でも異なる漢字を使うものがあります。 古いものは異年号私年号と呼ばれています。近年のものは誤記 (漢字の変換ミスなど) でしょう。

[230] 『旧唐書』倭国日本国伝に現れる白亀は、 神亀の誤記と考えられています >>225。 つまり表記のバリエーションに過ぎないのですが、 よく私年号に分類されています。

[417] 他の元号にも表記のバリエーションがみられることがありますが、 なぜかあまり私年号として挙げられることはないようです。

[275] 「正」と「承」など似た音でよく使われる文字がいくつもあるため、 誤って表記されることもあります。元号一覧・西暦対照表のようなものでもよく見ると間違っていることがあるので、 注意が必要です。

[273] 明治大正昭和平成をそれぞれ頭文字で 「明」、「大」、「昭」、「平」や「M」、「T」、「S」、「H」 と省略することがあります。手書きや、申請書等の選択肢で列挙する場合などに特によく見かけます。

[274] それ以前の元号は、必要となる場面があまりないので見かけません。 同じ文字で衝突することが多いので、あまり古くまで拡張することはできません。 「慶」(慶応) など江戸時代末期の元号の省略形は稀に見かけます。

[297] 漢字以外を用いたでは、その言語文字元号が表記されることがありました。 現在でも日本東洋史に関する他の言語の記事等では、 その文字転写して記載されることがあります。

[644] 元号は、満州文字でも表記されました。

元号名と漢数字

[418] 元号名に漢数字が含まれると、数を漢数字で表記した時に区切り位置が不明瞭になるおそれがあります。 特に元号名の末尾が漢数字の場合は深刻です。

[419] 歴史的に各国で使われた元号の中には、が含まれるものもいくつかあります。 が万単位になることは基本的にありませんし (将来の年を表す時に理論上はあり得ますが)、 「一万」のように「万」より前に数字が来るのが普通ですから、 これは問題にはならなそうです。 同様に私年号が含まれるものがいくつかありますが、 これも問題にはならなそうです。

[420] その他に、次の元号名漢数字を含んでいます。

[471] 次の元号は、中国の (全土統一できなかった勢力の) 元号ですが、 干支と衝突しています。

[472] 他に十干十二支に使われる文字が含まれる元号として、 次のものがあります。

[473] 1年を表す「元年」の「元」、 1月を表す「正月」の「正」、 2日-9日の表記「初二日」等の「初」が含まれる元号は、 数多く存在します。保元のように最後の文字がそうであるものも沢山あります。

[474] 「明治初年」や「大正末年」、「昭和末期」、「平成前期」のように元号に続けて使われる語の最初の文字や、 「年」、「月」などの日時表記の区切り文字、 その他関連文字も、次のようなものが元号に含まれることがあります。

[431] >>428漢数字等を含む元号名の一覧データファイルがあります。

読み

[363] 元号漢字で定義されます。日本元号の読みは、 改元詔書政令では定義されていません。

[364] 大正以降は、改元直後の内閣告示により、 読み (仮名表記) が明示されています。

大正昭和平成を参照。

[365] 明治以前の元号の読みに法的根拠は無さそうです。 漢字の読み方の多様性や歴史的な発音の変化により、 複数の読み方が存在する元号も少なくありません。 (そうした読み方の違いが現役当時から存在したのか、 使われなくなって忘れ去られたり、その後の言語の変化により多様化したのかは不明瞭です。)

[366] 現在ではほとんどの場合現代仮名遣いにより表記しますが、 歴史的には当然その当時の仮名遣いによりました。 従って濁音半濁音であっても、濁点半濁点を使っていないこともあります。

[367] 主要な元号は現代の発音が定まっているようですが (歴史上主要な出来事に関して元号を使う歴史教科書などで読み仮名が明記されています)、 あまり使われないものは読みが揺れています。辞書類でも、 どの読みを見出し語とするのか、異なる読みとして何を挙げるのかにかなり差があります >>345

元号名の衝突

[276] 日本の政府が定めた元号は、いずれも固有の名称を持ち、衝突しません。

[277] 私年号の中には、正式な元号と同名のものもあります。 日本元号日本以外の元号が衝突しているケースもいくつかあります。

[377] 次のものは、日本元号私年号で衝突しています。 多くは、古い時代の正式な元号と同名の私年号を気付かず使ってしまったように見えます。

[378] 天政は、異なる時期の私年号異年号として使われていたようです。

[379] 古代の年号に関する一部の文献や九州王朝説の支持者は、 白雉朱鳥大化九州年号などとしています。 そのためこれらが私年号として挙げられることがあります。 正史上の元号と同名ですが、異なるを意味すると主張されています。 更に、継体九州年号私年号とされますが、これは継体天皇擬似元号 (の「天皇」を省略した形) と衝突します。

[405] 次の元号は、日本と他国とで衝突しています。

[406] 次の他国の元号は、日本天皇名の擬似元号と衝突しています。

[407] 次の元号は、日本私年号と他国とで衝突しています。

[408] 他に、かなり多数の元号日本以外同士で衝突しています。

[456] 以上の中国元号の衝突のうち、 (大德天曆、) 弘治正德嘉慶琉球で使われ、 日本元号と衝突しています。永樂日本私年号と衝突しています。

[409] 同じ元号が3つ以上の意味で衝突していることも少なくありません。 最もよく使われているのは太平で、少なくても11種類あります。 次が建平で、少なくても9種類あります。 少なくても8種類あるのが建武などいくつかあります。

[410] 元号と年数と干支の組み合わせでも衝突しているものがいくつかあります。

[421] 日本とは違って中国等は新しい王朝が前の王朝を滅ぼし入れ替わっているので、 過去の元号との衝突を避ける意志は働かなかったのでしょう。 むしろ建武のように同じ建国を表す意味の元号が盛んに採用されています。 日本政府も中国との衝突を避ける意志が無かったと見受けられます (中国の統一王朝の元号が後に日本で使われた例もあります)。
[475] こうした情報は、 >>315 のデータファイルに含まれています。

元号境界と年境界

[256] 元号を改めることを改元 (かいげん) といい、改元改元日といいます。 元号改元日は、原則として当地の政府が決定します。 改元の理由は色々あります (>>599)。

境界の扱い

[358] 改元がいつ行われる (と解釈する) かの処理は、かなり複雑で込み入った問題のようです。


[97] 日本の政府による元号のうち、唯一文中への改元だけ、 改元日が明らかではありません (>>96)。他は、 (異説があったとしても) 一応の定説があります。

[265] 白雉 (>>316)、 朱鳥 (>>93) は改元されず、 元号自体が使われなくなりましたが、 いつまでがこれらの元号の期間だったと扱うかには、揺れがあります。


[159] 明治への改元までは、同年の1月1日に遡って新元号を適用する (立年改元 >>298) と考えられていたとしばしば言われます。 しかしそれが適切な解釈なのかどうか、いつをもって改元と考えるべきかは、 平安時代から既に議論があったといいます >>356。 年初に遡った切り替え方も、改元日当日の切り替えも、 どちらの方法も採られてきました。少なくても、 どちらが歴史的に正しいと言えるものでは無さそうです。

[359] 現実問題として、改元日の前に旧元号を使ったものは (すべて修正して回るわけにもいかないので) 残りますし、 後から新元号で言及したものもあり、混在することとなります。 改元日の後の日付についても、 改元の事実の伝達の時差や、政治的な理由による改元の拒否などで、 旧元号がしばらく (時には何年も) 使われ続けることがあります。従って、 元号表記の日付の解釈では、 境界を厳密に定めて、そこから外れたものを誤りとするのは適切ではありません。 改元から十分な時間が過ぎたものは誤りとする検査は可能かもしれませんが、 その「十分」の長さを確定するのが難しい。

[161] Wikipedia の一覧表は、明治への改元までは、 旧元号の最終日も新元号の開始日も、どちらも改元のあった当日としています。

[625] 一般に西暦から元号への変換ソフトウェアでは、 改元日とそれ以後を新元号とするものが多いと思われます。

[271] 歴史教科書などで過去の出来事に言及する場合、 改元以前の出来事は改元前の当時の元号を使うのが普通だと思われます。

[264] 明治への改元は、明治の改暦の前に行われたこと、 立年改元と扱うか否かの問題、 多くの場合明治時代まで取り扱えれば十分でその前の改元を無視したいことがある、 といったような事情の組み合わせで、後述の通り4種類以上の「改元日」 が存在してしまっています。


[162] 大正への改元昭和への改元は、 改元日から新元号であるとされています。 しかし改元詔書は旧元号改元日を表記しています。 つまり、改元日当日は旧元号でもあり、新元号でもあるということになります。

[628] 詔書が旧元号で書かれているのは、詔書を書いた時点ではまだ旧元号で、 これが公布され発効することで改まる、ということなのでしょう。 であるならば、少なくてもリアルタイムでは、発効の瞬間までは旧元号、 それ以後は新元号と処理するのが最も適切ということになります。 ただし、詔書公布発効時刻が記載されているわけではありませんから、 これを厳密な境界として扱うのは困難です。

[627] 実際には、詔書によりの始まりに遡って改元されたと解釈する説と、 一世一元の制を根拠に新天皇即位をもって改元されたとする説があるようです。 >>298

[629] 実務上、時刻精度で区別するのは扱いが複雑過ぎるので、 の始まりに遡って新元号とするのが良いのでしょう。 一方で、旧天皇崩御時刻の表記で新元号が使われるのも不自然に見えます。 しかし少なくても、改元がその日にあった以上、当日の一部は新元号とするべきで、 翌日から新元号として扱うのは不適切そうです。

[626] 対応表や変換ソフトウェアの類では、 改元日を新元号開始日とするものと翌日を新元号開始日とするものでやや揺れていますが、 当日から新元号を採用するのが優勢のようです (>>45)。

[163] Wikipedia改元日を旧元号の最終日かつ新元号の開始日とするのを「当時」、 改元日前日を旧元号の最終日とするのを「公的」として併記しており、 「当時」の出典を改元の詔書、「公的」の出典を JIS X 0301 としていますが、この区別に意味があるのかは謎です。 少なくても、詔書の記述よりも JIS が「公的」であるとするのは違和感があります。 (どちらも公的なものとはいえ、詔書法令ですが、 JIS はただの工業標準です。) 実際には政府機関の解釈や取り扱いにも揺れがあり >>356、 そうした明確な境界を定めることはできないように思われます。


[176] 平成への改元の境界で行われており、 どのがどちらの元号に属するかは明確となっています。 ただし、時差の取扱いの問題は残っています (>>195)。


[90] 年単位の対応表や変換ソフトウェアでは、境界のについて、 新旧両方の元号を示すものが多いですが、新しい元号のみ、 または古い元号のみ示していることもあります。

[94] 天平感宝改元から1年を待たずに改元されています。 元号西暦の対応表の中には天平感宝が欠落しているものもあります。

[331] 宝亀12年1月1日の天応への改元は、唯一旧暦1月1日に行われました >>206Wikipedia は (他の改元同様に) 宝亀12年1月1日かつ天応1月1日であるとしています。 年単位の対応表は、宝亀12年を含めているものも、 省いているものもあるようです。

[45] 各種の文献やソフトウェアは、明治以後の日本の元号の境界を次のように扱っています。

name
名称
明治
明治初日
大正
大正初日
昭和
昭和初日
平成
平成初日
終末
対応最終日
name
JIS X 0301:1992 附属書2 (参考)
明治
1868-10-23 (旧暦9月8日)
大正
1912-07-31
昭和
1926-12-26
平成
1989-01-08
name
JIS X 0301:2002 附属書1 (参考)
明治
1868-01-25 (旧暦1月1日)
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
Wikipedia >>20
明治
1868-01-25 (旧暦1月1日)
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
Windows >>15
明治
1868-01-01
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
.NET >>44
明治
1868-09-08
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
Ruby Date
明治
1873年/明治6年以後対応
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
EraJa >>26
明治
1868-09-08
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
erajp >>38
明治
1868-09-08
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
Date::Japanese::Era::Table >>40
明治
1868-09-08
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
終末
2999-12-31
name
Date::Japanese::Era::Table::JIS_X0301 >>40
明治
1868-09-08
大正
1912-07-31
昭和
1926-12-26
平成
1989-01-08
終末
2999-12-31
name
Lingua::JA::FindDates >>41
明治
1868-01-25
大正
1912-07-30
昭和
1926-12-25
平成
1989-01-08
name
Unicode Standard >>100
明治
1867
大正
1912-07-29
昭和
1926-12-24
平成
1989-01-07
[165] Perl - 西暦から元号のついた和暦に変換する ( 版) <http://atamoco.boy.jp/perl/datetime/seireki-wareki.php>

1926年12月25日は大正15年であり、昭和元年でもある。 どちらを優先させるかは、システムごとに決定すればよいだろう。上記では新しい時代(昭和)を優先している。

[352] 元号の変わり目・改訂版(1) - 2007-07-16 - 雑記 ( 版) <http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20070716#GengoEd2_1>

簡単に答えるのであれば,政府の通達等のレベルで,大正元年内閣送第30号内閣書記官長回答*1が,国定教科書の記載について,新帝即位時説を採用していたこと,大正元年民事第62号司法省民事局長通牒*2が,司法行政事務に関する文書について,翌日説を採用していたこと,大正元年官房第1420号海軍省文書*3,昭和2年秘第29号司法省刑事局長通牒*4が,即位に伴う大赦令の解釈について,午前0時説を採用していた可能性があること,昭和39年9月17・18日高知地方法務局管内戸籍住民登録事務協議会連合総会決議*5が,戸籍事務について,改元日併用説を採用していたこと,昭和42年7月3・4日福岡連合戸籍住民登録事務協議会決議*6が,同じく戸籍事務について,午前0時説を採用していたことなどを指摘することができる。

[353] 2007-07-29 - 雑記 ( 版) <http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20070729#GengoEd2_2>

この見解の重要な論拠は,大正,昭和の改元詔書が,「大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」などと日単位で記載しているのに対し,慶應以前の改元詔書が,「改貞観十九年,為元慶元年」などと年単位で記載していることである。『続日本紀』など,正史における日付の記載が,年始説に整合的であることも指摘に値するであろう*2・*3。

しかし,反対説も譲らない。改元詔書の記載は,単に「大まか」に書いた書式が慣用となったにすぎず*4,現に,慶應以前でも,「宜改天平勝宝九歳八月十八日,以為天平宝字元年」と日単位で処理した事例がある*5,『続日本紀』の記載は,日付を整理する上での「便法」にすぎず*6・*7,実際,改元日説を基本にして整理された史書として,『類従国史』を指摘することができるというのである*8。

[354] 2007-07-29 - 雑記 ( 版) <http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20070729#GengoEd2_2>

前近代の改元においては,遅くとも平安時代から,年始説と改元日説の対立がありながら,実際上,何となく曖昧な取り扱いが続けられてしまい,権威と認めるべき見解を見いだすのは困難である。まして,改元日説によった場合に,午前0時説によるのか,詔書発布時説によるのか,それ以外の説によるのかになると,さらに判然としない。

[355] 2007-09-30 - 雑記 ( 版) <http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20070930#GengoEd2_6>

これまで紹介してきた各説を整理すると,以下のようになる。ただし,平成に関しては,争いがないので掲載せず,照会文書の中で披瀝された見解については,議論の途中経過にすぎないということができるので参考として掲載した。これによれば,元号の変わり目については,諸説紛々として,確立した解釈はないというのが正当であろう。

終了日を超えた表現

[241] 改元の情報伝達の速度や改元に従うかどうかに政治的な判断を伴う場合以外でも、 本来の終了日を過ぎて旧元号を使った日付の表記が用いられることがあります。

[242] 最新の元号の終了日は定まりませんから、将来の日付を表現する時、 最新の元号が十分長く継続すると仮定します。 実際にはその時期には次の元号改元されているかもしれません。 改元後からみると、終了日を超えた存在しないはずの元号表記となります。

[243] リニア中央新幹線は、平成57年 (2045年) に大阪まで延伸する予定とされています。 しかし2045年までに改元される可能性もあります。

[245] >>244 には「昭和62年11月1日から昭和72年10月31日まで」 のような期間の記述があります。昭和は64年までしかなく、 平成に入って改正されたらしい部分は平成で記述されていますが、 改正がなかったらしい部分は元の表記のままなのでしょう。 法的にも (適当に読み替えて) 有効であると考えられます。

[246] 改元前に印刷された書類などは、作り直されることもあるようですが、 難しい場合や実害のない場合は、そのまま用いられたようです。 申請書等の書式で旧元号が印字されている場合、手書きなら、 書き直して (無視して) 新元号にしていたようです。

[248] 昭和64年付けの硬貨は、改元後の3月まで発行が続けられています >>247

[251] 計算機システムには、昭和平成を (改元に関わらず) 内部的に用いているものもあります >>249, >>250

[252] 神武天皇即位紀元 (皇紀) も、 本来の終了日を超えて神武擬似元号が用いられる特殊な場合といえなくもありません。

暦との関係

[200] 元号表記の日付を解釈する際には、 との関係に注意する必要があります。 元号西暦 (や皇紀その他の紀年法) との関係と、 明治6年以前に日本で用いられていた旧暦と現在用いられているグレゴリオ暦、 かつて欧米で用いられていたユリウス暦との関係が複雑で、 混同されていたり、換算に誤りがあったりすることがあります。

[636]西暦」というとき、純粋に紀年法として言っているのか、 欧米式太陽暦まで含めて言っているのか明確でないことも、混乱を助長しています。


[240] 元号によるの表記は、純粋な紀年法とは違って、 改元日を介して異なる元号と連結されています。 が違っても連結点自体 (改元という歴史的事実) は移動しませんが、 それがのもとでどう表現されるかは問題となります。

[199] 旧暦が用いられていた当時の日本の元号表記のと、 太陽暦が用いられていた欧米西暦表記のの対応関係は、 自明とまではいえません。 旧暦グレゴリオ暦ユリウス暦のそれぞれのの開始と終了のは違いますから、 同じ「」という概念であっても、別のものです。 それでも次のように考えると対応関係は定まってきます。

  • 太陽暦年の西暦表記は、欧米での利用により定義されていると考える
  • 太陽暦年の元号表記は、明治6年以降は日本で定義されている
  • 旧暦年の元号表記は、明治5年以前は日本で定義されている
  • 西暦表記におけるは、改暦点も含め、連続している
  • 元号表記におけるは、改暦点も含め、連続している
  • 従って、次のものも、 (後述する改元付近の問題を除けば) 改暦前後に自然に延長できる
  • こうして決めた旧暦年と太陽暦年の対応関係は、 「異なるであっても、大部分のが重なるなら、同じである」 という直感的な理解と一致する
[171] ここでいうの連続性は、 n 年の翌年が n+1 年という関係がすべてので成立することをいいます。 改元があっても旧元号最終年と新元号元年が同一年であることから、 全体としてこの関係は成立していると考えます。

[174] 旧暦時代の年月日や年を西暦年と月日で表記することもよくあります。 普通、この西暦年は、旧暦の元号表記から西暦に改めたもので、 太陽暦の年とは必ずしも一致しません。

[198] 例えば関ヶ原の戦いのあった旧暦慶長5年9月15日/グレゴリオ暦1600年10月21日のことを、 「1600年9月15日」、「慶長5年(1600年)9月15日」、「1600年(慶長5年)9月15日」 などと表記することがよくあります。

[173] 旧暦太陽暦は開始と終了が一致しないため、 境界付近の日付の変換には注意が必要です。年月日の変換は、年と月日に分けず、 全体として行わなければなりません。

[175] 改元旧暦n 年年末に行われた場合、 太陽暦n + 1 年の年初に当たることがあります。 その新元号の元年を西暦 n 年とするのは不適切で、 n + 1 年とするべきだ、とする人もいます >>29, >>22。その場合、 新元号元年も新元号2年も西暦 n + 1 年ということになってしまいます。 太陽暦との関係の記述としては間違っていませんが、としては不自然です。 また、改元日ではなく年初に遡って元号を改めるという扱い (>>159) とは矛盾します。

[190] そのような改元の場合、太陽暦西暦 n + 1 年の年初の日付を元号表記にすると、 旧暦では旧元号 m 年が最後であっても、太陽暦では旧元号 m + 1 年が生じることになります。しかも新元号元年が消失してしまいます。

[191]

                       西暦n年        | 西暦n+1年
旧暦         旧元m年       | 新元元年 |  新元2年
        -------------------+----------+------------
                         改元
        ---------+---------+-----------------------
太陽暦   西暦n年 |            西暦n+1年
         旧元m年 |旧元m+1年|      新元2年

[177] 逆に公式な太陽暦となった後の平成への改元太陽暦の年初、 旧暦の年末に行われたため、昭和64年は消失し、昭和63年の途中で改元したことになりますが、 それは平成元年より1つ前の年となってしまいます。

[178] これを平成0年と呼ぶことがあります >>84, >>179, >>183

[192]

                        1988年        |  1989年
旧暦           S63年       |   H0年   |   H1年
        -------------------+----------+------------
                         改元
        ---------+---------+-----------------------
太陽暦    1988年 |            1989年
           S63年 |  S64年  |      H1年
                        1/7|1/8

[457] なお、太陽暦であるユリウス暦でも平成0年が出現します。
[556] 日本の旧暦農暦越南陰暦といった旧暦のバリエーションの違いにより 0年が出現するケースもあります。
[542] この他、実装によっては歴史的な初の扱いの差により便宜上0年を設けていることがあります。 三正を参照。

[193] こうした問題は元号単位で考えるために起こるので、 (明治への改元までは) 改元が年初にあった (>>159) とすれば、 違和感は少なくなります。 (旧暦グレゴリオ暦ユリウス暦で新元号の開始の時期が変わってしまいますが、 新元号2年、3年の年始もずれているのですから、構わないでしょう。) ですが、そうはせずに実際の改元日を尊重して元号を決めるのが現在は一般的なようです。


[212] 元号のない時代の天皇擬似元号 (>>545) は、 文武天皇を除き、1月1日を便宜上の改元日と定めています。 通常の元号とは異なりこの改元日には意味がありませんから、 純粋にの名称と捉えて、に関わらず1月1日から新擬似元号とする方が妥当である、 という考え方もあり得ます。

[630] 複数の元号を扱う場面では、これもまた処理を複雑化させ不具合を誘発する要因ですから、 注意しなければなりません。

[290] 年度もまたグレゴリオ暦とは年始が異なる暦法ということができ、 改元年度名との関係の問題が生じてしまいます。

[84] HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦(明治以降の旧暦)) ( 版) <http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/OldJapanese.html>

昭和から平成への改元直後、12月1日から29日までの期間(新暦:平成1年1月8日~2月5日)は便宜上、平成0年として扱います。

[634] <西暦と元号の整合性>忠臣蔵・赤穂浪士はいつ「討ち入り」したのか? ( 版) <http://blogos.com/article/101141/>

[635] 歴史の年月日~旧暦と新暦の誤差: エムズの片割れ () <http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-e8f7.html>

大分前だが、読売新聞にこんな記事があった。

「歴史の年月日 正確な表記を 笠谷和比古

■疑似西暦

このように「一七〇三年一二月一四日」がまずいので、「一七〇二年一二月一四日」と表記した例も目にした。だが、先に述べたように討ち入りは西暦1703年の出来事なので、完全な間違いである。

■表記の改善を

疑似西暦を野放しにしていると、このようなトリックにからめ取られてしまいかねない。トリックとも気づかないままに、もはやどれが正しい西暦で、どれが疑似西暦であるかの判別もつかないまま、戸惑うことになるだろう。

歴史家として多くの本や資料に当たる中で、懸念し続けてきた問題である。早くこの病弊から脱却するために、表記が少し長くなっても、一部で実行されているように、せめて、関ヶ原合戦なら「慶長五(一六〇〇)年九月一五日」、王政復古なら「慶応三(一八六八)年一二月九日」とする書き方が適切だと、呼びかけたい。

かさや・かずひこ=1949年神戸市生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。日本近世史、武家社会論。著書に『歴史の虚像を衝(つ)く』『関ヶ原合戦と大坂の陣』『武士道』など。」(2016/09/21付「読売新聞」p21より)

時差との関係

[195] 元号の選択には時差は考慮せず、年月日のみを使うのが一般的と思われます。

[194] 明治への改元までは、標準時がなく、国内でも地方時時差がありました。 大正昭和への改元の時点では西部標準時などの中央標準時と異なる時間帯がありました。 単位で元号が切り替わるとすると地域によって旧元号と新元号が同時に存在することになります。 昭和への改元までは切り替えの時刻が不明確である上、ある時刻に定めても、 時差をどう扱うべきかが問題となります。

[197] 平成への改元の時点では、国内には中央標準時しかありませんでした。 改元政令は「公布の日の翌日から施行する」としています。 日本国内はすべて中央標準時で、午前0時から平成施行されたことは明白です。

[631] しかし、日本で1月8日となった後の (例えば) 米国でまだ1月7日である間の出来事を記述するのに、 時差はあれど日本の1月7日と同じに属することから昭和とするべきなのか、 中央標準時に基づき施行された瞬間より後であることから平成とするべきなのかは不明です。

[534] 戸籍事務では、現地時刻で1月8日以後を平成と取り扱うこととされました >>533。 (在外公館経由での手続きがあるので、時差も考慮する必要があるようです。)

日界との関係

[632] 日本では、伝統的に日の出(頃)がの境界と考えられていました。 旧暦から太陽暦への切り替えと同時に、正子が境界と明確化されました。 それ以前であっても、知識層は正子が境界と認識しており、 旧暦はそれに基づいて計算されていました。

日界参照。

[633] 明治以前の改元時刻精度で扱う場合は、日界の扱いも問題となりそうです。

元号年と年内連番

[160] 年内連番と改元の関係参照。

元号の運用

改元の理由

[599] 改元が行われる理由は色々あります。例えば次のようなものがあります。

[602] 近世支那近現代日本では、一世一元の制により、 譲位のみで改元する運用となっています。

一世一元を参照。

[604] 近現代日本では旧天皇崩御後直ちに新天皇即位すると共に改元されることになっていますが、 歴史的にはそうでなかったことも少なくありません。地域と時代によっては翌年に改元されたこともあります。

元号の制定権と複数元号の併存

[278] 歴史的には、独立した権力を有する東洋の各国がそれぞれの元号を定め、 その領域で並行して使われていました。元号の制定権は独立した国家権力の象徴であり、 元号を使うことはその政府を支持する(勢力下にある)ことを意味していました。

[279] 政府が分裂したり、弱体化したりすると、国内でも複数の元号が使われることがありました。

[368] 日本では、元号天皇により定められています。 ただし実際の改元の判断や新元号の決定の過程には、 幕府等その時々の政権が介入しています。 現在は国会の議決により成立した元号法に基づき、 内閣政令で定めることになっています。 (政令公布天皇の国事行為。)

[386] 中国の属国だった朝鮮は、ほとんどの期間、独自の元号を定めず、 中国元号を使っていました。下関条約で独立が承認され、 ようやく元号の制定権を得ています。 日中両属だった琉球王国は、中国元号を主として使っていました。 琉球藩時代には日本政府から日本元号を使うように要求されながらも拒み、 沖縄県時代にようやく日本元号となりました。


[280] 中央政府が制定したと記録されていない元号私年号といいます。 日本私年号は、一説には440以上あるともいいます。 他の国にも私年号があったようです。

[234] 元号の分裂にはいくつかのパターンがあるようです。

  • [281] 分裂した政府や新たに建国した政府が新しい元号を制定する
  • [282] 中央政府の改元に地方勢力が従わず、旧元号が継続される
  • [284] 勢力統合による元号の廃止に一部勢力が従わず、廃止元号が継続される
  • [283] 中央政府の支配が弱まり、地方勢力が新しい元号を制定する
  • [558] 中央政府の支配が弱まり、民衆の間で新しい元号が広まる
  • [557] 新興宗教が独自の元号を制定する

[550] 属国が宗主国の元号を用いるようなケースを別にすると、 外交や貿易を除き、他国の元号を使うことは基本的にありません。 私年号も、利用者は国内の一部住民にとどまっています。

[639] ある政権の元号私年号といわれるかどうかは、後世の判断によるところが大きいです。 短命に終わり反乱とみなされた政権の元号私年号扱いされていますが、 全土を支配できなくても十分な規模で存続したとみなされる政権の元号私年号とはいいません。

[640] 日本の元号のうち、北朝のものや南朝のものは、 統一政権ではありませんが、どちらも一応正式なものとして扱われています。 しかし後南朝のものは私年号に分類されています。

[551] 近年の新興宗教の中には、国を越えて信者が広がっており、 かつ独自に紀年法を用いるものも見られます。 そうした紀年法は、国をまたがって使われる元号と言える場合もあるかもしれません。

[306] このように元号の選択は政治的宗教的な行為であったりします。 しかしこれは実は暦法全般に言えることでもあります。

を参照。

元号の再開

[523] 普通は元号は一旦改元されると元に戻されることはありませんが、 複雑な政治状況下では元の元号に戻されることがあります。

g
地域・政権
1
改元前、復活後
2
改元後 (中断中)
note
備考
g
後漢
1
中平
2
光熹昭宁永汉
g
西晋
1
永安
2
建武
g
東晋
1
隆安
2
元興
g
東晋
1
元興
2
大亨
g
前涼
1
建興
2
和平
g
2
永新
1
元和
g
京都
1
元弘
2
正慶
note
>>125
g
北朝
1
観応
2
正平
note
>>332
g
渤海
1
大興
2
宝暦
note
>>512
g
後梁
1
乾化
2
鳳歴
g
後晋/後漢
1
天福
2
開運
g
2
建文
1
洪武
note
>>524
g
1
光緒
2
保慶
g
蒙古
1
共戴/モンゴル国紀元/モンゴル人民共和国紀元
2
民国紀元
note
共戴紀元
g
中華民国/中華帝国
1
民国紀元
2
洪憲
note
>>525 1916年
g
中華民国/
1
民国紀元
2
宣統
note
張勲復辟 1917年
g
/中華民国
2
民国紀元洪憲民国紀元
1
宣統
note
張勲復辟 1917年
g
沖縄奄美吐噶喇小笠原伊豆
1
昭和
2
西暦
g
/中華民国/満洲国/満洲国臨時政府
2
民国紀元洪憲民国紀元大同康徳
1
宣統
note
満洲国臨時政府設立 2004年

元号の途中開始

[526] 普通元号による元年から始まりますが、 特殊な状況では2年以降の途中のから開始されることがあります。 次のような場合があります。

元号の終了

[559] 元号の終了には次のようなパターンがあります。

  • [560] 改元や新たな紀年法の採用により終了する。
  • [562] 適用地域全体が他勢力の支配下に入って終了する。
    • 平和的移行なら、その時期が明確にできることもある。
    • 戦乱で滅亡した場合などは地域内でも他勢力侵攻に時差があったり、 亡命政権が存続したりで終了時期を確定できないことが多い。
  • [563] 適用地域の一部が他勢力の支配下に入って、その地域においては終了する。
    • 時期が明確にできたりできなかったりするのは前項の通り。
  • [564] いつの間にか自然消滅する。

元号と紀年法

[489] 元号紀年法の一種ともされますが、元号とそうでない紀年法 (紀元) との違いは明確ではありません。 おおよそ次のような違いがあるようです。

  • [490] 元号は、次の改元までの比較的短い期間のみ用いられる想定で制定されていると見られるが、 紀元はそのような意志を持たずに制定されていると見られる
  • [493] 元号改元日が比較的明確に定められるが、紀元の開始の日は定められず、 過去に遡ってその紀元を使って日付を表すことができそうである
  • [491] 元号元号名と併記されることが多く、紀元は年番号のみで表記されることが多そうだが、紀元名と併記されることもまた多いものもあるし、 元号であっても年番号のみで表記されるものもある
  • [492] 元号名は固定されていることが多いが、紀元名は表記揺れが多い
  • [546] 「○○紀元」や「○○暦」という名前のものは元号ではない
  • [531] 武帝の初期 (初の元号とされるもの数個) を除き、 元号には制定時点で名前が与えられている
  • [495] 国名を用いたものは元号ではなく紀元であるとされることが多い
  • [496] 君主名に即位からの年数を添えるもの (在位紀年) は、特に元号として定められた場合を除き、元号ではないとされることが多い
  • [530] 君主名と一致する名前を持ち在位期間と一致するものであっても、元号として制定されたなら元号である
  • [528] その他元号として明確に制定されたものは元号だが、そうでないものも元号とされることがある
  • [497] 政府が制定したかどうかは元号か否かには影響しない
  • [498] 制定 (建元改元) と元年が一致するか (少なくても1年以内ではあるか) どうかが元号か否かに影響しそうだが、しないようにも見える
  • [529] 元号にかわって制定されたからといって元号とは限らない

[494] 次の紀年法は、元号として扱われたり、元号に準じるものとして紹介されたりすることがある一方で、 元号ではない紀年法であるとされることもあります。

[499] 私年号(的な紀年法)やフィクションの紀年法元号であるのかどうか、 判断が分かれることがあります。

日本の元号

元号のない時代の扱い

[85] 対応表や変換ソフトウェアにおける元号のない時期の扱いは、それぞれです。

  • [86] 対象外とし、扱わないこととする
  • [87] 天皇名により「○○天皇n年」または「○○n年」 のように表す
  • [88] 「白雉後n年」のように表す
  • [412] 直前の元号が継続したとして扱う
  • [413] 最初の元号の0年や負の年として扱う

[545] 天皇擬似元号 (在位紀年) は、日本書紀の記述を元に便宜上使用するものです。 ただし現在用いられる天皇名は日本書紀より後に淡海三船が決めた漢風諡号で、 日本書紀に記載があるわけではありません。

[209] 大化以前には、 神武天皇から皇極天皇まで、神功皇后を含めて36個の擬似元号 (在位紀年) があります。

[210] 大化以後の元号欠落期間には、次の擬似元号があります。

[138] 天皇名を擬似元号とする場合、文武天皇を除き、改元は1月1日とされているようです。 前天皇の没年の翌年が元年となるようです。

[211] 後世に便宜上与えたの名称なので、即位年月日とは無関係に扱いやすいよう定めたのでしょう。

[89] 神功皇后も擬似元号として扱うのが普通です。 Wikipedia は「神功元年10月2日 - 神功69年4月17日」 (在位期間) や「神功皇后69年4月17日」 (死去) のように表記しています >>135。 「神功皇后摂政n年」とも表記します。

[312] >>311神武天皇即位以前を擬似元号「神武天皇前」で表しています。 日本書紀の最初であるとする -666年 (紀元前667年) が元年 >>313 (神武東征開始の甲寅の年) で、7年まであります。

[319] Wikipedia孝徳天皇記事は645年を当初皇極天皇4年、 6月14日から19日まで孝徳天皇元年、6月19日から大化元年としています >>318Wikipedia の他の記事 >>322 や元号一覧は大化開始日6月19日まで皇極天皇4年としています。

[325] >>323 も6月18日まで皇極天皇4年としています。

[321] 日本書紀に「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」とある >>320 ので、6月19日まで皇極天皇4年と扱うのが適当に思われます。 途中5日間だけ孝徳天皇元年として扱うのは細かすぎます。

[316] Wikipedia の元号一覧および個別記事 >>317 では、白雉の最終日は旧暦白雉5年10月10日 (ユリウス暦654年11月24日) となっています (空白期開始日も同日)。 それ以後は擬似元号孝徳天皇を使っています >>318

[324] >>323 も10月11日以後孝徳天皇10年としています。

[330] 崩御後年末までの事項を白雉元年とするものもあります >>329。 しかし年末まで2ヶ月しかなく、孝徳天皇葬儀くらいしか出来事がなかったようで、 言及自体がそれほど多くはないようです。朱鳥の扱いと統一するなら、 年末まで白雉元年とし、翌年初から斉明天皇元年とするのが良いようにみえますが...

[137] 斉明天皇7年7月24日/ユリウス暦661年8月24日) の斉明天皇崩御後中大兄皇子称制しました。 その翌年662年が天智天皇元年とされています >>136。 即位したのは天智天皇7年1月3日/ユリウス暦668年2月20日です >>136。 各種対応表等もこれに従っているようです >>138

[91] 弘文天皇の即位日は旧暦天智天皇10年12月5日/ユリウス暦672年1月9日で、 671年を弘文天皇元年、672年を弘文天皇2年とする場合と、 672年を弘文天皇元年とする場合があるようです。

[134] Wikipedia その他 >>132, >>133, >>323弘文天皇を擬似元号として使わず、 671年は天智天皇10年、672年は天武天皇元年としています。

[480] Wikipedia の日付記事では672年を弘文天皇元年かつ天武天皇元年と併記しています >>479, >>481

[483] Wikipedia天武天皇記事は、なぜか672年を弘文天皇元年、 673年を弘文天皇2年とし、以後天武天皇年としています。 (他と同じく天武天皇元年は672年です。)

[185] >>50 は673年を天武天皇元年としています。

[101] >>19

「神武天皇」から「文武天皇」まで

『日本書紀』および『続日本紀』(ともに『日本国史大系』(吉川弘文館刊)収録のもの)の記述に従っています。

(1)年号名および改元日が記されているものはそれによる(大化、白雉、朱鳥)。

(2)年号がないものは天皇(または皇后)の名称を年号として用いる。この場合、各史料に元年と記された年の1月1日をもって年号を改める(即位日ではない)。ただし、持統天皇11年丁酉(日本書紀)と文武天皇元年丁酉(続日本紀)は同じ年であるため、この年は文武天皇の即位日から年号を「文武天皇」として扱う。なお、弘文天皇は入力のみ対応する(出力時は「天武天皇」)。

[93] 686年は朱鳥元年ですが、1年のみ >>92 でその後元号が用いられなくなります。 687年は朱鳥2年とする場合もあります。 文献には朱鳥8年まで用例があります >>92, >>269持統天皇元年を687年とすることが多いようですが、686年とするものもあります。 朱鳥がなかったことにしているものまであります。

[141] 菟野讃良皇后旧暦朱鳥元年9月9日/ユリウス暦686年10月1日から称制旧暦持統天皇4年1月1日/ユリウス暦690年2月14日に即位しています (持統天皇) >>140Wikipedia の元号一覧はこの日を朱鳥最終日とし、 以後空白期にしています。 しかし他の記事では、残りの期間も朱鳥元年として扱っています >>207

[327] 他の対応表も686年末まで朱鳥元年、 687年初から持統天皇元年としています >>323

[208] Wikipedia退位旧暦持統天皇11年8月1日/ユリウス暦697年8月22日としています >>140

[143] 次の文武天皇は、即位旧暦文武天皇元年8月1日/ユリウス暦697年8月22日です >>142。新元号大宝旧暦文武天皇5年3月21日/ユリウス暦701年5月3日からとされています。

[144] つまり697年は持統天皇11年かつ文武天皇元年とされています。

[326] 一方で持統天皇11年を置かず、初日から文武天皇元年とするもの >>323 もあります。

古代の私年号

[226] 元号や正式に定められる前や、初期の不安定な時期に使われたといわれる私年号は多数あります。 それらを逸年号ということもあります。 しかしそのほとんどは後世の作と考えられています >>225

[170] Wikipedia日本の元号の一覧は、 私年号のうち白鳳朱雀だけ特別に掲載しています。 それぞれ、白雉朱鳥の別名 (ただし異説もあり) >>225 とされています。

[227] 法興 (元年 = 591年、31年以上存続) も実在したことは間違いない >>225 とされています。


[224] 大和朝廷とは異なる九州王朝が存在したと考える人は、 九州王朝元号九州年号倭国年号と呼んでいます。 次のような元号が挙げられています >>228正史元号と同名であっても、別のとされています。

[649] 九州年号説を信じる人達は、同様の百済年号として明雲白雲を挙げています >>648

[552] これらの元号は、九州王朝説以前から伝わる逸年号を、 大和政権とは異なる政権紀年法として再編したものです。 しかし九州王朝説は根拠に乏しく、 支持されていません。


[229] 他にもいくつか古代の私年号があります >>225

[648] 百済年号の発見 () <http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga20.html>

読みや解釈は難しく、今後の課題としたいが、いくつかの注目すべき点がある。一つは「明雲廿六年」「白雲元年」という年号である。文脈から改元を意味していることから、年号であることは間違い無い。同村に伝わる百済王伝説からすれば百済年号である可能性が高い。

昌泰

[119] Wikipedia その他は寛平10年4月26日 (ユリウス暦898年5月20日)から昌泰4年7月15日 (ユリウス暦901年8月31日)までとしています。

[120] Wikipedia は開始日について「4月16日(5月10日)、8月16日(9月5日)の説もある」 としています。

源平合戦期

[150] 平安時代末期には、関東源頼朝勢力や西国平氏勢力が中央の改元に従わない時期がありました。

[145] 対応表等では、源平合戦期の元号について、併記するか、 平氏側の改元源氏側の元号も採用しているようです。

西暦
西暦
時期
時期
平氏
平氏
京都
京都
源氏
関東
備考
備考
西暦
1181年
平氏
治承5年
京都
治承5年
源氏
治承5年
西暦
1181年
時期
治承5年7月14日
平氏
養和元年
京都
養和元年
源氏
治承5年
備考
養和改元
西暦
1182年
平氏
養和2年
京都
養和2年
源氏
治承6年
西暦
1182年
時期
養和2年5月27日
平氏
寿永元年
京都
寿永元年
源氏
治承6年
備考
寿永改元、 寿永2年7月平家都落ち源義仲入京
西暦
1183年
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
治承7年
西暦
1183年
時期
寿永2年10月14日
平氏
寿永2年
京都
寿永2年
源氏
寿永2年
備考
寿永二年十月宣旨
西暦
1184年
平氏
寿永3年
京都
寿永3年
源氏
寿永3年
西暦
1184年
時期
寿永3年4月16日
平氏
寿永3年
京都
元暦元年
源氏
元暦元年
備考
元暦改元
西暦
1185年
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年3月24日
平氏
寿永4年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
備考
壇ノ浦の戦い平家敗退
西暦
1185年
平氏
元暦2年
京都
元暦2年
源氏
元暦2年
西暦
1185年
時期
元暦2年8月14日
平氏
文治元年
京都
文治元年
源氏
文治元年
備考
文治改元

[121] Wikipedia は治承5年7月14日 (ユリウス暦1181年8月25日) に治承から養和改元したとしています。

[122] 一方で、源氏元暦改元 (寿永3年4月16日/ユリウス暦1184年5月27日) まで平氏政権の元号 (養和寿永) を使わなかったとしています。

[148] 寿永2年10月14日の宣旨を期に源氏寿永を使うようになったともあります >>146

[123] 平氏元暦改元を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで寿永を使ったとしています。 寿永の項には文治改元したのも無視したとありますが >>146改元壇ノ浦の戦いより後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。

[205] なお、地方勢力が旧元号を使い続ける例は他にもありますが、 南北朝期と本期間が特別に両元号を列挙される (ことがある) のは、 天皇が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。

[375] この時期の前後には、私年号として保寿和勝迎雲といったものが使われていました >>373

[149] 1987_2/解法のヒント ( 版) <http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html>

設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

南北朝期

[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。

[187] 対応表や変換ソフトウェアは北朝南朝を併記するものが多いですが、 一方のみ採用するものもあります。完全に併記とするもの、 北朝を原則とするもの、南朝を原則とするものがあります。 分裂や統合の境界部分の扱いが怪しいものもあります。 正平一統まで記述しているものはあまりありません。

[414] 雑な実装で、両方の元号を採用し、直近の改元があったものを使って表記する、 というものもあります。

元号改元日のデータだけ保持して南北朝のことを想定していないとそうなります。

[203] 明治時代以後、南朝が正統とされ、天皇の代数は南朝基準で数えられています。 (それ以前は北朝基準でした。) どちらかを選択しなければならない場合、 元号南朝側を採用するのが良いのかもしれません。

[204] 日本の大部分を支配していた、あるいは首都である京都を支配していた、 という基準なら北朝を選択するべきですが...

[422] ただし、本節で紹介する通り、南朝元号に関する情報はあまり正確に伝わっていないようです。

[332] 次の元号が、特別な取り扱いが必要なものです。

w
西暦
n
北朝 (持明院統)
s
南朝 (大覚寺統)
note
備考
w
1329
n
嘉暦4年
s
嘉暦4年
w
1329
n
元徳元年
s
元徳元年
note
嘉暦4年8月29日改元
w
1330
n
元徳2年
s
元徳2年
w
1331
n
元徳3年
s
元徳3年
w
1331
n
元徳3年
s
元弘元年
note
w
1332
n
元徳4年
s
元弘2年
note
元徳4年3月7日後醍醐天皇配流
w
1332
n
正慶元年
s
元弘2年
note
w
1333
n
正慶2年
s
元弘3年
note
w
1333
n
元弘3年
s
元弘3年
note
北朝正慶2年5月25日退位
w
1334
n
元弘4年
s
元弘4年
w
1334
n
建武元年
s
建武元年
note
元弘4年1月29日改元
w
1335
n
建武2年
s
建武2年
note
8月足利尊氏出兵
w
1336
n
建武3年
s
建武3年
note
w
1336
n
建武3年
s
延元元年
note
w
1337
n
建武4年
s
延元2年
w
1338
n
建武5年
s
延元3年
w
1338
n
暦応元年
s
延元3年
note
北朝建武5年8月28日改元
w
1339
s
延元4年
w
1340
s
延元5年
w
1340
s
興国元年
note
南朝延元5年4月28日改元
w
1342
n
康永元年
note
北朝暦応5年4月27日改元
w
1345
n
貞和元年
note
北朝康永4年10月21日改元
w
1347
s
興国7年
w
1347
s
正平元年
note
南朝興国7年12月8日改元
w
1350
n
観応元年
s
正平5年
note
北朝貞和6年2月27日改元
w
1351
n
観応2年
s
正平6年
w
1351
n
正平6年
s
正平6年
note
w
1352
n
正平7年
s
正平7年
w
1352
n
観応3年
s
正平7年
note
w
1352
n
文和元年
s
正平7年
note
北朝観応3年9月27日改元
w
1353
n
文和2年
s
正平8年
w
1356
n
延文元年
note
北朝文和5年3月28日改元
w
1361
n
康安元年
note
北朝延文6年3月29日改元
w
1362
n
貞治元年
note
北朝康安2年9月23日改元
w
1368
n
応安元年
note
北朝貞治7年2月18日改元
w
1370
s
建徳元年
note
南朝正平25年7月24日改元
w
1372
s
文中元年
note
南朝建徳3年4月改元
w
1375
n
永和元年
note
北朝応安8年2月27日改元
w
1375
s
天授元年
note
南朝文中4年5月27日改元
w
1379
n
康暦元年
note
北朝永和5年3月22日改元
w
1381
s
弘和元年
note
南朝天授7年2月10日改元
w
1381
n
永徳元年
note
北朝康暦3年2月24日改元
w
1384
n
至徳元年
note
北朝永徳4年2月27日改元
w
1384
s
元中元年
note
南朝弘和4年4月28日改元
w
1387
n
嘉慶元年
note
北朝至徳4年8月23日改元
w
1389
n
康応元年
note
北朝嘉慶3年2月9日改元
w
1390
n
明徳元年
note
北朝康応2年3月26日改元
w
1391
n
明徳2年
s
元中8年
w
1392
n
明徳3年
s
元中9年
note
南朝元中9年閏10月5日退位
w
1392
n
明徳3年
s
明徳3年
w
1393
n
明徳4年
s
明徳4年
w
1394
n
明徳5年
s
明徳5年
note
明徳5年7月5日改元

元弘の乱から建武の新政

[124] Wikipedia その他は、元徳の開始を嘉暦4年8月29日 (ユリウス暦1329年9月22日) としています。

[125] 南朝 (大覚寺統) は元徳3年8月9日 (1331年9月11日) に元弘改元しています。 後醍醐天皇はその直後に京都を離れました (元弘の乱)。

[126] 鎌倉幕府はこの改元を承認せず、 後醍醐天皇廃位し、北朝 (持明院統) の光厳天皇のもと、元徳4年4月28日 (ユリウス暦1332年5月23日) に正慶改元しています。

[116] Wikipedia正慶を元徳4年4月28日(ユリウス暦1332年5月23日)開始、 正慶2年5月25日(ユリウス暦1333年7月7日)終了としています。

[127] 正慶 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%85%B6>

正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した。5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、正慶の元号は廃された。その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。

[153] 建武 (日本) - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)>

元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。

[107] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

元徳から正慶: 「正慶」の項目には「元弘二年四月二十八日改元」とあるが、「元徳」の項目に「持明院統の光厳天皇は四年四月二十八日正慶と改元するまで、この年号を使用した」とあるので、暦変換で北朝が指定された場合は元徳4年4月28日に正慶に改元として扱う。

[128] Wikipedia は、 元弘4年1月29日 (ユリウス暦1334年3月5日) を建武の開始日としています。 終了日は、南朝建武3年2月29日 (ユリウス暦1336年4月11日)、 北朝建武5年8月28日 (ユリウス暦1338年10月11日) としています。

観応の擾乱と正平の一統

[129] Wikipedia は、 興国7年12月8日 (ユリウス暦1347年1月20日) を正平への改元日としています。 正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) までとしています。 開始日について「『七巻冊子』は4月、『南朝編年記略』『南朝公卿補任』は7月24日(8月11日)、『続史愚抄』は7月4日(7月22日)とするが、全て誤り。」ともあります。

[667] 九州に勢力を持っていた足利直冬は、 観応改元せずに貞和を継続していましたが、 観応2年6月10日から観応を用い始めました。 >>188

[661] 観応2年11月7日、北朝は廃止されました。 この直後から、室町幕府 (足利尊氏政権) は正平 (6年) を用い始めました。 >>663 169ページ

[662] 足利尊氏と対立関係にあった足利直義は、 その後も観応を使い続けました (翌年2月26日没)。 鎌倉など東国は12月末頃まで足利直義の勢力下にありました。 >>663 169ページ

[665] 正平7年閏2月23日、足利義詮観応 (3年) に復帰しました。 3月15日、足利義詮南朝が進攻していた京都を奪還しました。 >>663 194ページ

[664] 正平7年3月12日、足利尊氏南朝が進攻していた鎌倉を奪還しました (武蔵野合戦)。 鎌倉入後、足利尊氏観応 (3年) に復帰しました。 >>663 192ページ

[113] Wikipedia その他は観応3年9月27日 (ユリウス暦1352年11月4日) に文和改元 (北朝) としています。

[668] 足利直冬は、文和改元せず、観応を使い続けました。 直冬は年末に九州から中国地方に移動し、 南朝に帰順しました。 >>663 208ページ

[666] 北朝文和2年6月9日、南朝京都に進攻しました。 北朝後光厳天皇足利義詮京都を脱出しました。 7月24日、南朝京都から撤退しました。 25日に北朝軍が京都を奪還、 26日に足利義詮、 9月21日に後光厳天皇京都に復帰しました。

[78] 児玉黨 ( 版) <http://www5b.biglobe.ne.jp/~sho-rai/kodamashinokeifu.htm>

貞和七年

一三五一年。観 応二年(北朝年号) にあたるが、当時こ の地域で勢力を有し ていた足利直冬は、 実父の足利尊氏と対 立し、年号も改元せ ず貞和年号を用いて いた。

[188] 足利直冬 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC>

なお、直冬は観応と改元された後も約1年4カ月余にわたって貞和年号を使い続けた[25]

この事もあり、観応2年(1351年)6月10日から直冬は貞和から観応の年号を使用するようにしている[33]

[105] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

観応から文和: 「文和」の項目には「正平七年九月二十七日改元(前年十一月の正平の天下統一により北朝の年号「観応」は廃止されていた)」とあるが、観応廃止の日付が確定できないこと、また、「観応」の項目に「三年九月二十七日文和と改元」とあるので、観応から文和に直接改元したものとして扱う。

[118] Wikipedia は正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) を建徳への改元日としています。 「鴨脚本『皇代記』は4月22日(5月17日)、『伊勢之巻』は1月21日(2月17日)とする。」 ともあります。

[669] 康安元年12月、南朝京都に進攻しました。 しかしその後すぐに北朝が奪還しました。

[104] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

正平から建徳: 最も早い現存史料として挙げられている「『大徳寺文書』建徳元年二月五日重快・妙阿連署田畠売券」の記述に従い、正平25年2月5日をから年号を建徳として扱う。

[334] ( 版) <http://www.geocities.jp/me20030706/nanbokutyou.htm>

1351 正平 1351 正平6年 (観応2年11月2日 正平一統により、北朝は南朝元号の正平を採用し、南北朝同一元号となる)

1352 文和 (1352年 正平7年9月27日北朝は再び独自の元号として「文和」に改元、正平一統は崩壊)

[335] ( 版) <http://www.geocities.jp/me20030706/nanbokutyou.htm>

正閏論に依拠し、敢えて南朝元号を使用したと思われる刀工に、備中青江貞次がいる。延元、興国、正平5~13年の年紀があるが、この事実は興味深い。

なぜなら同流派で同時代、同地域に生きた次直が、「正平の一統」を含めてほぼ正確に北朝元号を採用しているからである。

同じ流派の青江直次も、正平の一統の際に多少の混乱はあったにせよ、ほぼ北朝元号を採用している。

貞次と次直、それに直次は同門で、備中国青江、現在の倉敷市のあたりに住み、日常的に顔を会わせる機会が多かったはずであり、情報を共有していたとするのに何ら不自然は無い。あえて貞次のみが南朝元号を用いたことには、明確な恣意性が認められる。

南朝

[96] Wikipedia文中への改元日を不明としています >>95。 変換表も多くは不明としています。 値を示す表やソフトウェアも、その値は様々です。

g
グレゴリオ暦
j
ユリウス暦
k
旧暦
src
出典
note
備考
note
確証を得ない >>95
k
1372-03-22
j
1372-04-26
src
>>13
j
1372-05-01
g
k
1372-03-27
note
ユリウス暦月初
src
>>22, >>340, >>50, >>323
j
1372-05-04
g
k
1372-04-01
note
旧暦月初
src
>>99, >>102
k
1372-04-28
g
j
1372-05-31
note
史料初出 >>95
src
>>39 備考, >>337
k
1372-10-04
j
1372-10-30
note
誤り >>95
src
>>39 備考
k
1372-10-24

[158] >>39 は4月(日不明)としつつ、備考で10月4日と10月24日を挙げています。

[95] 文中 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B8%AD>

改元日は史料を欠くために明らかにし難い。史料上の初出は、『金剛寺文書』の文中元年4月28日(1372年5月31日)付長慶天皇綸旨であり、これ以前の改元は確実視される。したがって、『南朝編年記略』・『続史愚抄』などが10月4日(10月30日)とするのは誤り。『七巻冊子』は3月22日(4月26日)とするが、他に所見がなく確証を得ない。

[102] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

建徳から文中: 最もはやい確実な史料として挙げられている「河内『金剛寺文書』文中元年四月二十八日長慶天皇綸旨」の記述に従い、建徳3年4月28日から年号を文中として扱う。

[130] Wikipedia は文中4年5月27日 (ユリウス暦1375年6月26日) を天授への改元日とし、 天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) までとしています。 改元日について「『七巻冊子』は2月上旬とする。」とあります。

[114] Wikipedia その他は天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) を弘和への改元日としています。

[115] Wikipedia には「『南朝編年記略』は2月14日(3月10日)とする。」ともあります。

[106] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

天授から弘和: 「弘和」の項目には「天授六年(一三八〇)の六月以降、同七年六月以前に改元が行われ」とあるが、「天授」の項目に「天授七年二月十日弘和と改元」とあるので、天授7年2月10日を改元日として扱う。

[111] Wikipedia は弘和4年4月28日/ユリウス暦1384年5月18日) を元中への改元日としています >>110。多くの対応表がこれを採用しているようです。

[112] >>103 は弘和4年11月5日を改元日としています。

[117] Wikipedia南朝側の元中最終日を元中9年閏10月5日 (ユリウス暦1392年11月19日) としています。

[103] >>19

(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。

弘和から元中: 最も早くみえる現存史料として挙げらている「『栄山寺文書』元中元年十一月五日後亀山天皇綸旨」の記述に従い、弘和4年11月5日から年号を元中として扱う。

[108] >>19

(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。

元中から明徳: 「元中」の項目には「九年閏十月南北両朝の統一により北朝明徳の年号に統一され」とあるが日の記述がない。「南北朝の合体」の項目の「同五日神器が大覚寺から内裏に渡御し<中略>これで万事が完了した」の記述に基づいて、元中9年閏10月5日に明徳に改元として扱う。

[374] 南朝系勢力が (南朝の正式な元号として伝えられているものとは別に) 白鹿応治という元号 (私年号) を使った例が知られています >>373

後南朝

[221] 南朝残党 (後南朝) は南北朝合一後も元中を使い続けています。 更に、1443年12月に天靖、1469年11月に明応改元しています。

[222] この明応は、その後京都朝廷の定めた明応とは時期が異なります。
[223] これらは現在では私年号として扱われています。
[110] 元中 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%B8%AD>

『南方紀伝』・『続史愚抄』などによる。

九州征西府や東国新田氏を中心とする南朝勢力の間では、合一後もなお「元中」年号が使用され続けた。具体例としては、『阿蘇文書』に元中10年(1393年)、『五条家文書』に同11年(1394年)・同12年(1395年)、『市河文書』に同14年(1397年)[2]、『日枝神社文書』に同18年(1401年)の各年紀を持つ文書がある。

[26] 西陣南帝(後南朝最期の光芒) ( 版) <http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1253.html>

文明元(1469)年11月に 南方蜂起が伝えられた。それによると、その者たちは兄弟で蜂起の 場所は吉野奥と熊野であり、十方に宣言し年号を明応元年として いるというものであった。その実態については不明であるが、年号を 定めたとの情報も入っていることもあり、これまでにない実態を備えた 蜂起であった可能性が高い。

[260] 本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?: 戦国史最大の謎、本能寺の変の真実! ( 版) <http://sengoku-1.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fc5a.html>

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。

[28] 後南朝序曲 ( 版) <http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap4/01gonancho.html>

去る元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)、後亀山天皇が還京されて以来五十余年ぶりに「天靖」と云う南朝年号が復活した。

[553] ( 版) <http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html>

小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3年 (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。 

宝徳3年(1451) 尊雅親王は第2代興福天皇として即位、改元大明となった。

室町時代の関東

[74] 足利持氏 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F>

元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

[75] 永享の乱 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1>

1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける

[76] 県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ (Kuki City 著, 版) <https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html>

元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。

[189] 足利成氏 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F>

京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[27][5][19][28]

成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。

明応

[131] Wikipedia は延徳4年7月19日 (ユリウス暦1492年8月12日) を改元日としています。 「ただし室町幕府は改元吉書始を7月28日(8月21日)に行い、この日から新元号を採用している。」 ともあります。

足利義輝

[77] 足利義輝 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D>

年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

[80] 困窮する朝廷 : fumi1202のブログ ( 版) <http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html>

改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。

[81] 気まぐれ日記: 堺幕府 ( 版) <http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html>

この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。

[82] 堺公方 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9>

8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。

中世、近世の私年号

[235] 中世にも多くの私年号があったことが知られています >>225江戸時代にもいくつかの例があります。

泰平元1172承安2
建教元1225元仁2
永福元1297永仁5
正久元1319元応元
元禾鎌倉時代
白禄元1336建武3
真賀元1356
弘徳元1384
永宝元1387
元真南北朝時代
品暦南北朝時代
至大南北朝時代
永幻南北朝末期
興徳元1395応永2
天靖元1443嘉吉3
福安元1444文安元
享高4
享正21455
享正31456
享正41457
延徳元1460寛正元
延徳21461寛正2
永楽元1461寛正2
延徳31462
延徳41463
延徳51464
福徳元1466文正元
福徳元1489延徳元
福徳21490
正亨元1490延徳2妙法寺 (飢饉・流行病のため)
福徳31491
永伝元1490延徳2
王徳
徳応元1501文亀元
子平元1502文亀2
徳昌室町後期
文鬼
福寿室町後期
彌勒元1506永正3彌勒 = 弥勒
彌勒21507永正4
彌勒31508永正5
加平元1517
永喜元1526大永6
永喜21527大永7
宝寿元1533天文2
宝寿21534天文3
命禄元1540天文9
命禄21541天文10
命禄31542天文11
光永元1576天正4
大道元1609慶長14
大筒元1609慶長14
天王

幕末

[213] 万治から慶応改元は、 長州藩蛤御門の変京都侵攻に失敗した後であり、 慶応は「慶喜に応じる」と解釈できるということで、 長州では改元されなかったといいます。

[214] 東行庵 ( 版) <http://yoshiko2.web.fc2.com/tougyo.html>

高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年(1866年)8月、四境戦争(第二次長州征伐を山口県ではこう呼ぶ)小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰った灯籠。 「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。

実際には、「元治」は元年で終わり、「慶応」と改元されていたのだが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じろ」の意味とし、「元治」の年号を使い続けた。

[215] 平成3年、大政奉還。 - 長州に棲む日日 ( 版) <http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/0e211bf6b15b1dff38c766db4c2ad08b>

あん時、慶應じゃなく平成に決まってたら…。

長州に点在する「元治三年」とか「元治四年」とかの書類や石灯籠はなかったわけだなー。

(もともとそういう意味ではなかったのですが、長州は「慶應」=「慶喜に応じる」として嫌い、元治を使い続けることも多かった。

[216] 長州旅行3日目(長府)|月虹徒然日記 ( 版) <http://ameblo.jp/seuru/entry-11110882532.html>

踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。

[219] 戊辰戦争期の東北地方では、 奥羽越列藩同盟が定めたという「延寿」や「大政」が使われていました。 (1868年当時に使われていたことは確かなようですが、 改元が正式に行われたかどうかは定かではありません。) 奥羽越列藩同盟側の敗戦により消滅しました。

地方政権の正式な元号だった可能性もありますが、 現在では私年号として扱われているようです。
[220] 延寿は慶応の後に江戸幕府が用意していたという幻の元号ともいいます。

[299] 榎本武揚函館政権は、独自の元号を用いず、 明治を使っていたようです。 ガルトネル・榎本条約の日付は「明治2年」 とされています >>300

[217] 江戸時代最後の元号は「延壽」? | 書肆犀 ( 版) <http://syoshi-sai.com/2015/01/23/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%BB%B6%E5%A3%BD%E3%80%8D%EF%BC%9F/>

新しい帝・輪王寺宮が即位し、元号を「延壽」としたという記録が残されている。「大館戊辰戦記」(大正8年刊)。史実ならまさに驚きである。

慶応4年(1868)8月22日の出来事、つまり盛岡藩(南部藩)と秋田藩の戦闘に関わる秋田藩側(新政府軍側)からの二人の口述筆記のようである。

「【山本八十吉翁談話】…略…大館落城し、比内は敵の蹂躙する所となりぬ、敵将、楢山佐渡(盛岡藩家老・最高司令官—引用者註)は扇田村に於いて、今より『延寿元年』と年号の改まり、且つ向かう三カ年間の貢租を免ずる旨を伝達せられしとぞ…略…(文中の「比内」「扇田村」はいずれも現在は大館市に属している。—引用者註)」

[218] 北白川宮能久親王 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B>

佐々木克によると、奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があったにすぎないとする。これに対し、中山吉弘は輪王寺宮は即位して東武天皇と通称されて、年号は「延寿元年」だったという。

「延寿」の年号はすでにこの年の四月頃から奥羽を中心に流布していたことが当時の新聞で確認できる。「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。

[239] それ以外にもこの時期に使われた私年号の例があります >>225福岡藩内では亀光が使われていました。

[26] 高知市歴史散歩 ( 版) <http://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0809.htm>

調べてみると、安芸郡安田町の神峯(こうのみね)神社にも「天晴元年五月」と刻記された石灯籠があり、それには「安喜(あき)土居村」とも刻まれている。

その後、民俗学者・坂本正夫氏らの調査により、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」と刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。

『土佐山田町史』にも、田口家の神祭帳や高野家文書の記述を根拠として、慶応から明治に移る間に天晴年号が使用されていることが指摘されている。

「丁卯」に当たるのは慶応三(一八六七)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。判明している限りでは、天晴という年号が地域的に使われたのは、前年の五月から明治元年までということになる。

[167] 明治の開始日については、表やソフトウェアなどの扱いが様々で、 混乱した状況にあるようです。太陽暦 (グレゴリオ暦) の導入が明治6年なので、 それ以前は当時旧暦を使っていましたが、 明治5年以前の日時に対応する場合でも、正しく換算していないことがよくあります (>>45)。

[168] 改元日は、旧暦9月8日、グレゴリオ暦10月23日です。 しかし誤ってグレゴリオ暦9月8日としているものもあります。

[169] 年始に遡って改元を適用すると、旧暦1月1日、グレゴリオ暦1月25日が開始日です。 明治への改元までは年初改元とされていますし、 現代では明治以前の元号をほとんど使わないので、 年全体を明治として扱えると都合が良いこともあるのでしょう。 そのため誤ってなのか意図的なのか、グレゴリオ暦1月1日を開始日とするものもあります。

[28] 第466回 東京は「トウケイ」だ! / Slownet -SNS- (日本テレネット 著, 版) <http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200901131014-9442044.html>

「明治」という元号を使わないで、頑として「今年は慶応18年だな」と「慶応」を使い続けた偏屈な旧御家人の頑固爺もいたという

[164] 元号変換に関するメモ ( 版) <http://www.cyberriddle.com/emperor.html>

明治の開始は10月23日じゃなくて、1月25日とか、9月8日だろうという突っ込みもある。

それぞれの理由

10月23日

現代の元号は天皇の即位に合わせるのだから明治天皇即位の日である10月23日とすべき、という考えによるもの。

1月25日

慶応4年が明治元年であると定めたことから、1月1日、つまりグレゴリオ暦1868年1月25日にまで一気に遡ってしまおうという考えによるもの。

9月8日

なんでしょう?聞いておけばよかった。

明治以後

[64] 近代以降の日本では、次の元号が用いられています。

[65] 近現代日本の元号

[66] それぞれの改元の扱いについては、境界の項 (>>159 >>162 >>176) も参照。


[237] 明治以後にも、いくつか私年号とされるものが知られています >>225

[637] 明治期以後の日本私年号

[238] 更に、意義の大きな出来事や概念 (と話者が考えるもの) の始まった年 (や始まりとしたいと意欲を示す年) のことを「インターネット元年」 や「ユビキタス元年」のように「元年」を接尾辞として造語することがあります。 これを広義の私年号と捉える人もいますが、西暦や正式な元号にかえて年号として日付の表記に用いられることはまずなく、 2年以降も存在せず、 (普及させたかったが普及しなかったなどの理由で) 「元年」が何度も繰り返されることもあるなど、本来の元号とはかなり性格が異なります。

琉球の元号

[6] 琉球では、琉球王国時代は中国の元号が、 米国統治下では西暦が、戦前と返還後は日本の元号が用いられています。

[432] 最古の歴史書である中山世鑑は、 源為朝の伝説は日本の元号を使って記述していますが、 全体的には南宋元号を使っています。 最初の年号は「南宋淳煕十四年丁未」 (1187年、源為朝とされる舜天の即位)。

[438] 1854年の琉球王国米国の条約では、琉球の日付として中国の元号が、 米国の日付として西暦が示されています >>439

[469] 実際には中国に初めて朝貢した頃より前は中国元号が使われていたわけではないでしょうし、 歴史書の記述自体も史実かどうか疑わしいとされています。

[437] 奄美諸島琉球王国に併合され、直後 (17世紀) に薩摩藩の直轄地となりましたが、 琉球王国の政府職員も一部駐在していたり、 琉球系の文化が明治頃まで残ったりしました。 この期間は日本元号が使われていたようです。 (例えば >>468 参照。元号なしで十二支だけが記載されている例もあります。)

[503] 滅亡で中国主要部を占拠した後も、 しばらくは南明と交流があり、その元号を使っていたようです >>484, >>485, >>486, >>487。次のような例がみられ、 すっきり一度で切り替わったわけではなさそうです。

  • 隆武五年二月 >>485
  • 順治六年十一月十三日 >>486
  • 隆武八年 >>624

[433] 1872年~1879年の琉球藩時代には、 形式的には日本国内ですから日本元号が使われているべきですが、 まだ中国の元号が使われていたと思われます。

[404] 明治8年に日本政府琉球藩に対し、明治元号を使うよう求めています。 当時の沖縄では日本に対しては日本元号を使い、 清國に対しては清國元号を使っているようで、 そのような慣習を改めなければならない、と述べられていました。 >>403

[434] 1879年の沖縄県設置により、本格的に明治が使われるようになりました。

[435] 1945年から1972年は米軍の支配下にあり (吐噶喇列島奄美諸島は1972年より早い時期に日本返還)、 元号ではなく西暦が使われていました >>440, >>441

[451] 琉球では1945年までの日本法令に加えて現地の法令が適用されていました。 日本法令を参照するときは元号を使った法令番号を引き続き使っていました。 しかし琉球政府等の法令番号西暦を使っていました。

[436] 返還後は再び元号が使われるようになりました。

[502] 現在の日本の歴史書等では、すべて西暦で表したり、 日本本国の元号で表したりすることもあれば、 琉球時代は当時の (中国の) 元号で表すこともあります。

[447] 台湾出兵 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5>

明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

[446] 琉球王国 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

[445] 古琉球の元号: 目からウロコの琉球・沖縄史 ( 版) <http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/06/post-72ef.html>

明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。

洪武 こうぶ (1368~1398)

建文 けんぶん (1399~1402)※

永楽 えいらく(1403~1424)

洪煕 こうき(1425)

宣徳 せんとく(1426~1435)

正統 せいとう(1436~1449)

景泰 けいたい(1450~1456)

天順 てんじゅん(1457~1464)

成化 せいか(1465~1487)

弘治 こうじ(1488~1505)

正徳 せいとく(1506~1521)

嘉靖 かせい(1522~1566)

隆慶 りゅうけい(1567~1572)

万暦 ばんれき(1573~1619)

※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。

[444] 琉球新報新聞博物館 ( 版) <http://page.freett.com/aienar/main/sinbunmuse.htm>

来館した時、明治27年12月16日付と同年12月28日付の琉球新報のコピーがおいてありましたので、頂いて参りました。年号が明治の元号、西暦の他に、神武暦が書かれているのは時代的なものでしょうが、中国の清暦の記載まであるのは沖縄の地域的なものなのでしょう。

[443] 沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目- ( 版) <http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2007/2007_0629_Okinawa_02/2007_0629_01.html>

一方、スポンサーの懐具合についてはどうだろう。そのヒントは由緒書に隠されている。

天久宮の創建は "成化年間"とあるが、実は日本の元号に "成化" というのはなく、琉球にもない。これは中国の元号である。当時の王朝は明で、成化年間は1465~1487年に相当する。

一国が自国の歴史を刻むとき、自前の暦(こよみ)を使うか外国の暦を使うかで、国家間の力関係を読み解くことができる。この場合、もちろん琉球は明に柵封される立場であり、強い影響下にあったので暦も明暦を使っているのである。

[442] 琉蘭修好條約 - Wikisource ( 版) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E8%98%AD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>

天主降生千八百六十九年七月初六日,以荷蘭書漢書立字,應遵執據。

咸豐九年己未六月初七日,在那霸公館,鈐蓋關防。

[302] 琉球王国 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>

1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ[10]、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。

[303] 琉球藩 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9>

明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。

[484] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>

[二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝廷の恩を謝す奏文]

隆武二年三月初九日

琉球国中山王世子臣尚賢、謹んで上奏す

[485] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>

[三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文]

右、福建等処承宣布政使司に咨す

隆武五年二月 日

※本項の記年の隆武五年は順治六年(一六四九)に相当するが、隆武 は二年までで、その年に清に亡ぼされている(なお鄭成功は「隆武 四年暦」を出している)。当時の琉球の情報は隆武帝の即位までで あり、隆武二年の金正春らの慶賀使派遣、同年冬の毛大用の帰国以 後、情報はとだえており、この間の金正春らの探訪船の派遣も福州 に達していない。まして、清軍による福州制圧の情報は未だもたら されていなかった可能性が強い。なお、本項への中国側(魯監国) からの返書は二九六項にあるので、項注ともに参照されたい。]

[486] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>

[三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院捉あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文]

右、巡撫福建都察院捉に咨す

順治六年十一月十三日

[487] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>

[二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文]

弘光元年四月十五日給す

[488] ( 版) <http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%97%f0%91%e3%95%f3%88%c4%91%e6%88%ea%8fW%83e%83L%83X%83g/03.txt>

一集 巻三

勅詔集

起順治四年

歴代宝案

至康熈三十四年

[624] () <http://rekibun.jp/201212tyousa.html>

『比嘉春潮全集』(第一巻 歴史篇Ⅰ)の後のグラビアに「のろの辞令書」として掲げてあり、本文に「のろ辞令書」についての説明が見つからない。「中国の三藩動乱と沖縄」(201頁)の琉球のスタンスを示すものとしてのものであろう。そのことについて、島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(317頁)の「明・清の乱と琉球の態度」でこの辞令書を挙げている。「承応二年(1653)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の称へた年号で清の福臨の順治十年に当たっているのから考えれば、あるいは順治を称へ、あるいは隆武を用い、その間日和見的態度にいたと推定することが出来る」とある。

伊波普猷は「その頃から進貢使は空道と称する琉球国王の印璽を押した白表を携帯していて、万一支那の革命の時は直ちに之に表文を認めることにしていたという。以て当時如何に事大主義なりしかを察知すべきである」と。

隆武年は動乱で1年しかないが、琉球では隆武八年(順治10年:1653)まで架空の年号を用いたことになる。中城のろ辞令書であるが、架空の年号を7年も使っていたわけである。動乱中の弘光元年(1645)の辞令書、それと隆武三年の辞令書があるが(辞令書等古文書調査報告書:沖縄県文化財調査報告書)、二点については動乱中、動乱間もない頃なので、当時の情報の流れからすると致し方ないのかもしれない。

満州国の元号

[448] 大同は、1932年(昭和7年;大満州国建国)〜1934年(昭和9年) に使われていました。

[10] 康徳は、 1934年(昭和9年;溥儀皇帝即位 = 大満州帝国成立)〜1945年(昭和20年;8月18日溥儀退位・8月20日大満州帝国解散) に使われていました。

[449] 日本租借地だった関東州 (や満鉄附属地) では基本的に日本元号が使われていましたが、 生活上は (特に満鉄附属地では) 満州国元号も使われていたと思われます。

[14] その後満洲はソ連軍が占領して(たぶん)西暦を使ったり、国府軍が支配して(きっと)民国紀元を使ったり、中共支配下に入って西暦を使うようになったりしてるはずです。

中国の元号

[538] 元号の誕生については、在位紀年を参照。

[1] からまでの期間は、ほぼ元号が用いられていました。

[539] ただし異民族王朝の成立直後の化前の時期には元号が建てられず、 在位紀年によることがあります。

[540] また、安史の乱の頃には、改元されて元号が建てられなかった時期 (肅宗元年 (761年) - 2年) がありました。

[541] 詳細は在位紀年を参照。

越南の元号

朝鮮

[450] 朝鮮半島 (韓半島) は中国の支配下にあったため、長く中国の元号を使ってきた。

国家・政府元号・紀元年西暦(元号)
朝鮮国 (李氏朝鮮)
開国503年1894年旧暦7月27日〜
建陽元年1896年グレゴリオ暦1月〜
大韓帝国光武元年1897年
光武11年1807年
隆煕元年1907年
隆煕4年1910年
大日本帝国朝鮮明治43年1910年8月〜
明治45年1912年〜7月30日
大正元年1912年7月30日〜
大正15年1926年〜12月25日
昭和元年1926年12月25日〜
昭和20年1945年
大韓民国臨時政府(大韓)民国元年1919年
民国27年1945年11月臨時政府解散
米軍政府1945年9月〜
大韓民国檀君4281年1948年
檀君4294年1961年
西暦1961年
ソ連軍占領下1945年9月〜
朝鮮民主主義人民共和国西暦1948年
西暦1997年〜9月8日
主体86年1997年9月9日〜

チベットの元号

[57] チベット (吐蕃) では彝泰が用いられました。ただし在位紀年に過ぎないとする説もあります。

蘭芳公司の元号

[578] 蘭芳公司 (現ボルネオ島支那人政権) は蘭芳および乾興を用いたといいます。

フィクションの元号

[369] フィクションで実在しない元号 (や元号なのかどうか曖昧な紀年法) が用いられることもあります。

元号の一覧

[566] 元号 (やその他の紀年法) の一覧:

[569] 地域ごとの元号の時系列一覧:

データファイル

[315] >>428 には各国の元号に関する JSON データファイルがあります。 >>423 には改元による元号の切り替え時期に関する JSON データファイルがあります。

[429] >>427 には、各元号の一覧データファイルがあります。

変換表・実装

[63] 元号に限定されない一般的事項は、暦の換算を参照。

日単位 (全期間、日本)

[455] >>454 に次に挙げる各表 (のいくつか) の対照表があります。

[13] sugi/wareki ( 版) <https://github.com/sugi/wareki>

旧暦は445年から、元号は大化から全て処理できます。 元号はWikipedia、暦は日本暦日原典由来のデータを元にしています。

[29] 和暦、西暦の年月日対応に関する注意点 ( 版) <http://chokanji.international-cooking.info/gengo/nanda.html>

また、元号の初日が旧暦12月、1月あたりの年の表示(変換)が間違っているものがほとんどです。

例えば、正保元年12月16日(改元日)は、正しくは西暦1645.1.13ですが、1644となっている。まったく使えない。

日単位 (一部時期、日本)

日単位 (明治以降、日本)

[67] 色々な文献やソフトウェア元号西暦の対応表を示していますが、 境界 (改元) とするが微妙に異なることがあります (>>45 参照)。

[26] tomiacannondale/era_ja ( 版) <https://github.com/tomiacannondale/era_ja>

I think about the era and there is a problem in the following. The date in the lunar calendar Although it is September 8, 1868 the start of the Meiji era. Start date Taisho, Showa is the same day as the last day of the Meiji, Taisho, respectively.

[40] Date::Japanese::Era - search.cpan.org ( 版) <http://search.cpan.org/dist/Date-Japanese-Era/lib/Date/Japanese/Era.pm>

For example, 1912-07-30 is handled as:

defaultTaishou 1 07-30
JIS_X0301Meiji 45 07-30

年単位 (全期間、日本)

[453] >>452 に次に挙げる各表 (のいくつか) の対照表があります。

[53] 西暦から和暦変換(年月日) - 高精度計算サイト ( 版) <http://keisan.casio.jp/exec/system/1240128137>

・旧暦は文献データを基に実こよみに合わせています。

・明治までの改元は布告された年の元日に遡って新元号の元年としています。(立年改元)

・明治5年12月3日をもってグレゴリオ暦の明治6年1月1日となり、以降の和暦月日は現行西暦と同じになります。

・年号制度のない時代は、天皇の即位後の年紀を代用してます。(推古、舒明、皇極、斉明、天智、天武、持統、文武)

・南北朝時代(1331~1392年)は、北朝/南朝の元号を併記しています。

・西暦は、1582年10月4日まではユリウス暦、次の日からはグレゴリオ暦を採用してます。

(ユリウス暦の1582年10月5日はグレゴリオ暦では1582年10月15日)

参考図書)「暦を知る事典」東京堂出版

[22] 西暦・元号変換機 - instant tools ( 版) <http://tools.m-bsys.com/original_tooles/ad-era_conversion.php>

例えば「弘化二年」は、西暦1845年02月07日~1866年01月27日にあたります。 しかしこれを大部分が属する「1845年」と表現しています。

ただし年末近くに改元した場合、前の西暦には属していない場合もあります。 例えば、弘化は12月2日に改元されため、弘化元年は西暦1845年1月9日~1845年02月06日に該当します。 すでに述べたように本ツールでは、弘化2年をその大部分が属する1845年と表現します。 弘化元年は機械的にその前年の1844年と表現したくなるところですが、実際には弘化元年は1844年に全く属していません。 ですので、弘化元年を1844年と表現することは明らかに間違っています。

そのため本ツールでは、弘化元年も弘化2年も1845年と表現するようにしています。

[652] >>651 この実装は日本の元号 (漢字およびローマ字) 」と西暦の換算に対応しています。 中央標準時日時のうちのの部分のみを変換に用います。 までは未対応、 それ以後は日本の元号または推古舒明皇極大化白雉斉明天智弘文天武朱鳥持統文武を使って表します。 南北朝時代は両朝の改元の度に切り替わるという杜撰な実装になっています。 天平感宝のみ、により分岐しようとしているようですが、 正常に動作していないように見えます。

日単位 (全期間、中国)

年単位 (全期間、中国)

年単位 (近現代、台湾)

年単位 (全期間、越南)

元号コード

[341] 明治以後の4元号に、計算機処理などの都合上、1-4 の整数を割り当てることがあります。 多くの場合は明治を1とし、平成を4と順に割り当てています。 それ以外の割り当てもあります。

元号コードも参照。

言語タグ

[336] 紀年法として日本の元号を使う日本国日本語言語タグ ja-JP-u-ca-japanese で表すことがあります。

toLocaleString も参照。

文字コードにおける元号

[186] 元号コード参照。

その他実装に関する事項

[304] 最近作られたソフトウェアで古い日時を扱う必要のないものは、 平成にしか対応していないものもあります。

[305] 改元があったら対応するのが大変そうですね...

関連

[68] 明治5年に皇紀 (神武紀元) が明治政府により定められました。

メモ

[69] 元号一覧 <http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/gengouichiran.htm>

[70] 新元号にどう対応する? <http://pc5.2ch.net/test/read.cgi/tech/1088517469/>

[17] 「日本年号史大事典」。 - 無駄話。 - Yahoo!ブログ ( ( 版)) <http://blogs.yahoo.co.jp/fm2629/31516567.html>

[9] 元号 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7>

[12] 中央研究院 兩千年中西曆轉換 ( 版) <http://sinocal.sinica.edu.tw/>

[23] 元号ユーティリィーGenUtyの詳細情報 : Vector ソフトを探す! ( 版) <http://www.vector.co.jp/soft/win95/business/se158684.html>

元号が関連する計算全般を行います。元号は現在まで連続しているものの最初に当たる「大宝」以降の全てが登録されています。南北朝時代は北朝、南朝のどちらで計算するかを選択できます。

[42] DateTime::Format::Japanese - search.cpan.org ( 版) <http://search.cpan.org/dist/DateTime-Format-Japanese/lib/DateTime/Format/Japanese.pm>

[43] Incorrect Era offset value in Japanese calendar · Issue #87 · jquery/globalize ( 版) <https://github.com/jquery/globalize/issues/87>

[50] suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本 ( 版) <http://www2u.biglobe.ne.jp/~suchowan/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>

改元の日付は三省堂の『コンサイス世界年表』[6]に拠りました。

源平争乱期と南北朝時代については、それぞれ源氏方と平氏方及び南朝と北朝の 年号を表示します(ただし白鹿はサポートしていません)。

南朝の「文中」改元は日付が不明になっていますので仮に4月1日にしてあります。 バージョン2.01から、明徳3年閏10月5日までバージョン1.Xに較べ1日長く「元中」 年号を表示するように変更しました。これは中国暦日表示の原則に合わせたためです。 他の時代にも、京都で次年号に改元後関東等で使用されていた年号があるようですが、 京暦に従いました。

弘文天皇の在位の解釈により天武天皇元年 が1年食い違う史料もありますが(というか弘文天皇は明治になってから認められた 天皇なのでたいていの古文献では1年ずれているはず)、やはりコンサイス世界年表 に従ってAD673年を天武元年としています(指摘してくださったykawazoeさんありがとう ございます)。どうしても日本書紀[8]に合わせたい場合は、whenhv.exe と shoki.rsc を組み合わせて使用してください。

[333] suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本 ( 版) <http://hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>>>50 と同じ

[71] 元号の変わり目・近代編 <http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20030725>

[72] 国文学研究範囲の拡大 --- 改元詔書、即位の宣命を論じて昭和二十年の詔書に及ぶ --- ( 版) <http://aska-r.aasa.ac.jp/dspace/bitstream/10638/1037/1/0005-031-200803-001-037.pdf>

[73] ( 版) <http://syoukansei.fan.coocan.jp/jobunn.pdf>

[19] HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦) ( ( 版)) <http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/Japanese.html>

[109] >>19

「大宝」以降

国史大辞典編集委員会編 『国史大辞典』(吉川弘文館刊)の記述に従っています。ただし、改元日があいまいな場合は下記のとおり扱います。これらの処置による暦変換への影響については、備考もあわせてご覧ください。

[156] 暦応 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E5%BF%9C>

なお、江戸時代に柳原紀光が書いた歴史書『続史愚抄』によれば、「暦応」改元の決定を朝廷が室町幕府に伝えなかったために、足利尊氏ら室町幕府の人々が改元の事実を知ったのは9月4日のことであったという。このことは、洞院実夏の『実夏公記』暦応元年8月28日条からも裏付けられる。もっとも、以後においても改元詔書到達後に幕府側の施行手続であった室町殿(将軍)の吉書始と管領の沙汰始が諸般の事情で速やかに行い得ない場合には公武間にて新旧別元号が用いられる場合もあった[1]

[196] 平成 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%90>

大正と昭和の際と異なり、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサを初めとするOAに伴うプログラム等の変更を行うためと報道された。

[172] 治承・寿永の乱 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1>

西暦は元日を宣明暦に変更している

[308] 京都府立新総合資料館(仮称) 統合情報システム調達仕様書(案) 平成 25 年4月 京都府立総 ( 版) <http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:jLMrTmfbCLEJ:www.pref.kyoto.jp/shiryokan/documents/shiryokanrfi_01.pdf>

(1) 和暦改元対応 1) プログラム改修を伴わずに、元号の変更に対応できるシステムとすること。

[314] 旧暦表示付きカレンダー【Calend Mate】 ( 版) <http://hp.vector.co.jp/authors/VA024411/calendmate/index.html>

[98] ( 版) <http://www.wave.koeitecmo.co.jp/301arcade02.html>

「スターフォース」は5904と記録されてます。「SENJYO」は5801ですね。

当時テーカン(テクモ)は元号に基づいた開発コードを使っていたみたいです。

それぞれ昭和59年の1作目と4作目、58年の1作目って意味か。

[360] 改元詔書 ( 版) <http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_02478_0051/index.html>

[362] 三正小覧(中国年号和暦西暦対応表) ( 版) <http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/sanseishouran.htm>

[370] 元号 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7>

盗難預金通帳を偽造された保険証で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「昭和元年6月1日」という存在しない日付(上記のとおり、昭和元年は12月25日からの1週間しかない)なのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例[13]がある。

[371] 武田の史料 ( 版) <http://home.d03.itscom.net/p-l514/shiryou.html>

勝山記

別名「妙法寺記」慶長頃の最古写本が南都留郡勝山村の富士御室浅間神社に伝わったことから「勝山記」という。現存本は前後を欠くが、私年号の師安元年(564)より永禄2年(1559)までの記事。

[372] 異年号(イネンゴウ)とは - コトバンク (デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7-435384>

元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され

[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471>

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

[396] gangou of katana ( 版) <http://www.nihonto-club.net/genko/gangou.html>

明治二十二年「大日本帝国憲法」とともに「皇室典範」が

公布され、この制度は明文化された。その第一二条に「践祚ノ後元号ヲ建テ、一世ノ間ニ再ビ改メザルコト、明治元年ノ定制ニ従フ」

と規定した。

しかし、皇室典範の規定だけでは改元の時期・方法が不明のため、政府は明治四十二年に「登極令」を公布、そこで

「天皇践祚ノ後、直ニ元号ヲ改ム。元号ハ、枢密顧問ニ諮詢シタル後、之ヲ勅定ス。元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定した。

「直ちに改元」という規定は従来と全く異なり、改元は短時間の間に行われなければならなくなった。そして、この規定は大正改元、

昭和改元に適用された。

[398] 三角縁神獣鏡 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1>

また、反論側に連なる意見として、「景初は本来4年まで存在したが、魏晋革命に関連して紀年が書き改められ、本来の景初4年は正史では景初3年として記録されるに至った」とする説もある[7]

また、景初3年1月1日に明帝が崩御しているため、その翌年が改元せずそのまま景初4年となることはありえないという意見もあるが、景初4年が存在しなければ先帝の命日に正月の祝賀行事を行うことになり、不孝となる。魏朝が景初3年12月の翌月を閏の「後12月」としたのも、新帝の正月と先帝の一周忌を一か月ずらすために景初3年に後12月を制定せざるを得なかった、という経緯がある。

[399] 景初 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%88%9D>

平勢隆郎は、魏書明帝紀には景初改暦時に伴う正月の変更(青龍4年は11月で終わるため)によって本来は存在しない筈の青龍4年12月の記事が実際には存在していることなどを指摘して、景初改暦の際にその暦元として採用された壬辰と同じ辰の年(丙辰)である前年の青龍4年(西暦236年)に遡及させて景初元年としたものの、その後魏晋革命の影響によって元に戻されたために正史の記事に混乱が生じたり、正史に基づけば本来はある筈のない「景初4年」銘の三角縁神獣鏡が存在したりする(同説に基づけば、景初は4年まで存在するため)とした説を唱えている[1]

[401] when_exe/epochs.rb at master · suchowan/when_exe ( 版) <https://github.com/suchowan/when_exe/blob/master/lib/when_exe/region/chinese/epochs.rb>

[402] 朝鮮とベトナムの年号についての一考察 (王福順著、 版) <http://ir.hust.edu.tw/bitstream/310993100/395/1/7-06%20%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%92%8C%E8%B6%8A%E5%8D%97%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%B6%E5%BA%A6%E4%B9%8B%E6%8E%A2%E8%A8%8E.pdf>

[415] Amazon.co.jp: 日本私年号の研究: 久保 常晴: 本 ( 版) <http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642029060/wakaba1-22/>

[416] トンイの李氏朝鮮王朝から見た、「海東諸国紀」 5)・・・・・そして日本古代史へ 孤独な散歩者の観・閑・想/ウェブリブログ ( 版) <http://yourehazauei.at.webry.info/201311/article_10.html>

[458] 昭和64年生まれへの冷遇は異常 - 涙拭けよ ( 版) <http://www.sugatareiji.com/entry/64nen>

[459] はてなブックマーク - 昭和64年生まれへの冷遇は異常 - 涙拭けよ ( 版) <http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sugatareiji.com/entry/64nen>

[460] 弥勒(年号)(みろく)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)-1424157>

15世紀末以降の戦国時代に,東国・奥州に現れる福徳(1489),弥勒(1506か07ころ),永喜(1526),宝寿(1533),命禄(1540)などの年号は,弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉の厄難から逃れようとの願望の所産であって,正年号に対する政治的な不満,反抗,否定を含意したこれまでの異年号と一見趣を異にする。ところが当時の年号には,年号に攘災招福の呪力があるとのたてまえから,ほかならぬ攘災招福のために制定されたものがはなはだ多いことを考えると,これらの異年号は,国家公定の年号のもつたてまえ上の呪力を否定することで,国家の年号に対する根源的批判を表明したわけで,ここに異年号のもつもう一つの性格をうかがうことができる。…

[461] 増補逸号年表 / 藤貞幹 纂 ; 中山信名 補 ( 版) <http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri04/ri04_02239/index.html>

[462] ( 版) <http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2716/1/KJ00000189301.pdf>

[463] 【iPhone】iOSのバグ対策、iPhoneの写真が「大化」年号表示になる時の対処方法。 | Cohtaro.com ( 版) <http://cohtaro.com/2015/01/3690>

最近メインで使っているカメラアプリ「Cortex Cam」で撮影した写真の日付けがごっそり「大化」(大化改新などの年号)になってしまうので困っていました。

対処方法をネットで調べてみたのですがでてきません。

根本的な原因がiOSのバグらしいこと。「平成27年」が0027年に変換されて、大化617年に再計算されるということで打つ手なし。かと思ったのですが、設定をいじってみたら問題解決できました。

[464] 「癒しの島」から「冷やしの島」へ:琉球王国の測量技術と遺産「印部石」 ( 版) <http://earthcooler.ti-da.net/e2559845.html>

1609年に琉球王国を侵攻した薩摩藩が「慶長検地」を行い石高を定めた後、首里王府は1735年から1750年にかけて自主的に検地を実施した。これを「乾隆(注1)大御支配」(けんりゅうのおおごしはい)といい、その際に用いられた図根点(基準点)を「印部石(シルビイシ)」という。

[465] 小禄 -OROKU- うるく ( 版) <http://098oroku.net/haru.html>

その後、1737~50年(乾隆2~15)に王府は印部土手を用いた独自の測量法で両先島を除く沖縄島と周辺離島を検地した(乾隆大御支配=元文検地)。

[466] ( 版) <http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/50/06-09.pdf>

図の左端の上に「嘉慶元年(一七九六)丙辰九月九日」と製作年月日と思われる日付を見ることができる。瓜二つの『薩摩藩調製図』も、これと同時に王府内で調製されたものと考えられる。

[467] 奄美諸島のノロ(女性祭司)関係文書 ―16世紀から19世紀において ( 版) <http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26342/1/cdats-hub2-17.pdf>

萬暦十五年十月四日

[468] ( 版) <http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9940/1/15_oki_41_yuge.pdf>

[476] ( 版) <http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/18dobashi.pdf>

[477] Template:和暦 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%92%8C%E6%9A%A6>

[500] 記述 | 国史大辞典 (NetAdvance Inc. 著, 版) <http://japanknowledge.com/contents/kokushi/hanrei03.html>

南北朝時代は、北朝の年号を用い、必要に応じて南朝の年号を( )内に付け加えた。

[501] プロジェクト:紀年法/ガイドライン - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3>

[504] 元鼎 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E9%BC%8E>

それまで、元年・2年・3年とだけ年を記録してきたが、各年代に名称を設けるべきだという建議がなされた。そこで、宝鼎が発見されたのを機に、これを「元鼎」とし、それ以前に関しても遡って、初元を「建元」、二元を「元光」、三元を「元朔」、四元を「元狩」と名付けた。これにより、元号制が始まった。

[505] 七支刀 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>

銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる[2]。「泰」は「太」と音通するため[2]

また、「泰始四年」として判読する説(管政友、宮崎市定)がある。この場合は、中国の年号として、西晋の「泰始4(268)年」または劉宋の「泰始4(468)年」とされる[2]

[506] 満洲語文語入門: 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/04/post_13bd.html>

ということで、清の年号も当然に満洲語(満洲文字)での表記があるわけです。

そこで、各年号の満洲文字での表記や、満洲語での意味がわかればいいな

と思い買った本が、『満洲語文語入門』でした。

ですが、買ったっきりで内容も確認せずに放置していたのを、この間部屋の

掃除で発見。ようやく約半年振りに内容を確認しました。残念ながら、年号の

満洲文字の表記は載っていませんでしたが、満洲語のアルファベット表記が

書いてありました。

[507] 使われなかった?年号: 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_6f2d.html>

嗣徳36年(1883)7月嗣徳帝が死ぬと、養子(実は甥)の育徳帝が即位しますが、

わずか三日で廃位。その後、嗣徳帝の弟の協和帝が即位するもの、11月末には毒

を盛られ死亡。そして、やはり嗣徳帝の養子(甥)であった建福帝が即位します。と

いうことで、この年は実に四人の皇帝が存在したわけです。

翌1884年が建福元年であったことは間違いないのですが、育徳元年・協和元年は

本当に存在したのか(育徳帝など、在位わずか三日間)。ここがよくわかりません。

ベトナムの年号一覧には、かならず「育徳」「協和」年号があるのですが、実際には

使用されてはいないと考えるのが妥当ではないでしょうか。

[508] 使われなかった年号: 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_703b.html#comments>

高宗の儀鳳2年(677)4月、翌年を通乾元年とすることに決定されましたが、その年旱魃があったことから、12月になって「通乾」は不吉ということで、翌年の改元は取りやめとなったのです(結局、それから一年半後の儀鳳4年6月に、調露と改元)。かくして「通乾」は幻に。

南宋孝宗の乾道9年(1173)、翌年を「純煕」と改元することに一旦なったものの、すぐに「淳煕」に変更になった

[509] 長い年号(文字数編): 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_f69f.html>

新の年号は、普通の年表等では、始建国・天鳳・地皇の三つ。ところが、「居延

漢簡」等の発掘史料によれば、天鳳はほぼ「始建国天鳳X年」、地皇もほぼ「始

建国地皇上戊X年」と表記されていることが判明しているのです。

いろいろ説はあるようですが、発掘史料による実際の使用例を見れば、正式に

は、天鳳は始建国天鳳、地皇は始建国地皇上戊であった、と考えるしかないの

ではないでしょうか。

「上戊」というのは、王莽が作った暦の名で、上戊暦の施行時から、上戊を年号

に付加したようです。上戊暦の施行は天鳳6年だったらしく、「始建国天鳳上戊

六年」という木簡が見つかっています。

なお、「始建国地皇上戊」年号の実際の使用例では、ほぼ必ず「新始建国地皇

上戊X年」となっていますが、さすがに「新」まで含めて一つの年号とする見方は

ないようで、新はあくまでも国号と見られています。

[510] 地皇 (王莽) - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%9A%87_(%E7%8E%8B%E8%8E%BD)>

地皇(也作始建国地皇上戊、始建国地皇;元年:20年 - 末年:23年九月)是新朝时期王莽的第三个年号,也是他的最后一个年号。共计4年。

地皇年号来自于中国神话中地皇曾历三万六千岁,以示统治长久。

陈直考证地皇年号有繁简区别。地皇是简称,还有始建国地皇、始建国地皇上戊是繁称。这三种年号的写法都有考古的文物资料可以佐证。而《中国历代年号考》则推测当时繁称是正式称呼,而《汉书》趋从简易,使得后人不知道有原来的繁称。与此年号相同的还有之前的天凤。

[511] 天凤 - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%87%A4>

天凤(也作始建国天凤上戊、始建国天凤;元年:14年 - 末年:19年)是新朝时期王莽的第2个年号,共计6年。

陈直考证天凤年号有繁简区别。天凤是简称,还有始建国天凤、始建国天凤上戊是繁称。这三种年号的写法都有考古的文物资料可以佐证。而《中国历代年号考》则推测当时繁称是正式称呼,而《汉书》趋从简易,使得后人不知道有原来的繁称。与此年号相同的还有其后的地皇。

[512] 大興 (渤海) - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%88_(%E6%B8%A4%E6%B5%B7)>

閻万章の考証によれば大欽茂は大興37年(774年)に宝暦(唐の宝暦とは別)に改元したが、晩年に再び大興を使用するようになったとされる。

[513] 最長の年号は: 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_5ba9.html>

乾隆帝は、偉大な祖父康煕帝の治世を超えてはいけないということで、乾隆60年

で息子の嘉慶帝に譲位、翌年は嘉慶元年となるわけです。しかし、乾隆帝は太上

皇帝として権力を維持し、宮廷内では引き続き乾隆年号を使用したというのです。

(ある大臣が、宮廷内では乾隆年号を引き続き使用することを提案し、乾隆帝が

承諾したということらしい:このあたり、典拠があやふやです)

[514] 宣統 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%B5%B1>

なお1912年の中華民国成立以降も中華民国が提示した清室優待条件によって、清朝皇帝の称号を維持すること、皇帝をはじめとする皇族がそのまま紫禁城内に居住することが認められたため、しばらくの間城内では宣統元号が使われていた。また1917年には張勲復辟により皇帝に復位する事件も発生している。このため、この頃編纂が行われていた『清史稿』では、中華民国成立後の記事に関しても「民国」ではなく「宣統」が使われている。当然のことながら、中国国民党をはじめとする共和派は、この措置に対して激しく反発していた。

しかし、第二次奉直戦争の最中であった1924年10月、馮玉祥による突然の北京における首都革命で清室「優待条件修正案」の突き付けにより溥儀は皇帝の尊号を廃され、元号の使用も違法とされた。

[515] 清史稿 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8F%B2%E7%A8%BF>

国民政府は「清史稿」が中国国民党を「賊」として扱っている事、辛亥革命後に及んだ記事についても宣統の元号を用いている事(例えば清史館が設置された西暦1914年は中華民国では民国4年であるべきところを宣統6年と記されていた)、革命後も清朝復興と宣統帝復位を画策していた張勲や康有為の列伝が立てられていたことに対して強く反発した。

[516] モンゴル語の年号: 年号迷路 ( 版) <http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/10/post_c23b.html>

清の年号ですが、漢語とモンゴル語対照させて記述させていただきます。

[517] 彝泰 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%9D%E6%B3%B0>

「彝泰」はティツク・デツェン王の王名の漢訳(彝泰贊普)としても用いられること、陳寅恪など中国の学者は考証に当たって年号使用の末年を王の在位の末年と同一視していることから、中国式の元号ではなく、王の在位中の改元を想定しない在位紀年(後世の一世一元の制に近い)である可能性もある。

[519] 白雪姫と七人の小坊主達 チベットゼミ in 沖縄(前半) (白雪姫 著, 版) <http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-602.html>

今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。

この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。

[520] 元号 Q&A-4 ( 版) <http://www.asahi-net.or.jp/~MI6M-FRYM/gengou/gengou_5.htm>

猪瀬直樹の「天皇の影法師」(参考資料2)は天皇制の暗部に光をあてた、なかなか面白い本です。これには「光文スクープ事件」、「森鴎外-元号考」の話に関係して、元号が満たすべき条件として、かつて一木宮内大臣(いまの宮内庁長官に相当するものでしょうかね)があげたものが紹介されています。

元号は、本邦はもとより言うを俟たず、支那、朝鮮、南詔、交趾などの年号、その帝王、后妃、人臣の謚号、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。

元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。

元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。

元号は、呼称上、音階調和を要すべきこと。

元号は、その字面簡単平易なるべきこと。

[521] 元号 Q&A-4 ( 版) <http://www.asahi-net.or.jp/~MI6M-FRYM/gengou/gengou_5.htm>

「年号の歴史」(参考資料1)の第9章には、現在の制定手続きと選定条件に関する規定(閣議申合せ事項)が紹介されています。それによると、選定条件は、

(ア) 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。

(イ) 漢字二字であること。

(ウ) 書きやすいこと。

(エ) 読みやすいこと。

(オ) これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと。

(カ) 俗用されているものでないこと。

[524] 建文 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87>

建文の元号は、建文帝から帝位を簒奪した永楽帝によって非公式化されていた時期があった。すなわち、永楽帝の即位後、建文4年7月1日に、建文元年を洪武32年、建文2年を洪武33年、建文3年を洪武34年、建文4年を洪武35年とし、洪武35年の翌年を永楽元年とした[1]。その後、万暦帝によって万暦23年(1595年)に建文の年号が復活された[2]

[525] 中華帝国 (1915年-1916年) - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E5%B8%9D%E5%9B%BD_(1915%E5%B9%B4-1916%E5%B9%B4)>

1916年は民国5年ではなく洪憲元年とされた。

年号「洪憲」は3月23日に廃止され中華民国暦が復活した。

[527] 書経 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B5%8C>

昭和や平成を始め35個の日本の元号は、この書が由来になっている。ただし、平成については出典箇所が偽古文尚書であるため、一部の専門家からは典拠としてはふさわしくないと指摘された。

森鴎外は最晩年、候補・典拠の一覧になった『元号考』(『鴎外全集 第20巻』岩波書店、所収)を作成したが、「平成」も既に江戸末期に「明治」等と並んで候補に上っている。鴎外は没した際『元号考』は未完だったので、親友吉田増蔵が、本人から依託され完成させた。なお吉田が改元に際し候補として「昭和」を勘申している。

[532] ( 版) <http://www.human.niigata-u.ac.jp/~ssekio/turfan/PDF/Turfan043.pdf>

[533] 「平成1年」ではなく「平成元年」が正しい表記方法という根拠を知り... - Yahoo!知恵袋 ( 版) <http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1454853544>

[536] ( 版) <http://libwri.nhu.edu.tw:8081/Ejournal/AI02001705.pdf>

[537] Wikipedia:削除依頼/渤海史の偽史関係 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%81%BD%E5%8F%B2%E9%96%A2%E4%BF%82>

正永 (渤海) - ノート

寛明 (渤海) - ノート

慶成 (渤海) - ノート

文徳 (渤海) - ノート

一次史料に確認できない偽年号。参考文献として個人サイトらしき[1]をのせるが、これは桓仁王朝とかをのせるようなあきらかにいかがわしいサイト。

[543] 改曆及建元ニ關スル件 - Wikisource ( 版) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9B%86%E5%8F%8A%E5%BB%BA%E5%85%83%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6>

[544] 元号の社会的コスト - hottokei's diary ( 版) <http://hottokei.hatenadiary.jp/entry/2014/07/03/221534>

平成生まれだが、申請書類の生年月日欄の「昭和」に印を付けて提出したため、昭和初期生まれの西暦で旅券が交付された。

申請、交付には女性本人が訪れ、戸籍抄本や免許証も提出したが、県の担当者は誤記を見落とし、女性も誤りに気付かなかった。

[307] >>544 の著者は元号のコストだと主張しているようだけど、 2001年生まれを2010年と誤記したとか、男性に印をつけるべきが女性に印をつけたとかと同レベルのミスなのだから、 元号とは無関係だろう。

[83] 清室退位詔書 - 维基文库,自由的图书馆 ( 版) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%A4%E9%80%80%E4%BD%8D%E8%A9%94%E6%9B%B8>

宣統三年十二月二十五日

[547] 擬人化 第39回 共和暦|メモ垣露文 ( 版) <http://ameblo.jp/gallina50/entry-10918285639.html>

独自の暦を持っている国は意外とあって、元号を使っている日本の近所だと台湾の民国暦、北朝鮮の主体暦ってところでしょうか。

[549] 池田信夫 blog : ハンコ・元号・縦書きをやめよう ( 版) <http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301065.html>

世界的にも、公文書で独自の年号しか使わないのは北朝鮮の「主体暦」だけで、左横書き以外の書式を使っているのは、アラビア語とモンゴル語しかない。

[554] 質問主意書:参議院 ( 版) <http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/108/touh/t108013.htm>

[555] 金光教合楽教会ホームページ/教典/両書の関係 ( 版) <http://airaku.org/kankei.html>

『覚帳』を書き始めたのは、慶応三年と言われている。

理由は、「慶応六年」という記述があり、明治と元号が変わる以前に、記されたと思われる。

[572] 紀元・暦法を集めるスレ ( 版) <http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/113>

中国の皇帝で誰か忘れたけど、同じ元号を2回つけたことがある。

もちろん元号が重複すると不便なので、現在では後○○と呼んでいる。

[573] 紀元・暦法を集めるスレ ( 版) <http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/307>

多分60年以上続いた元号は清の聖祖の康煕六十一年というのが唯一の事例でしょう。

そこで康煕壬寅が復出してしまい、恐らく後になって密かにこれはまずいという議が

あったのでしょう。乾隆帝は乾隆六十年に皇太子に譲位して翌年元日からは嘉慶元年と

号することになって復出は避けられました。しかし宮中で用いられる時憲書ではなお

引き続き乾隆年号を称していたということなので、乾隆六十三年が有りえたわけです。

なお連続使用ではありませんが元では至元という元号が世祖の代と順帝の代と2度も

使われました。これは乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰がダブってしまいました。

[574] 郷土資料館 - カラー図版解説 | 大黒屋 ( 著, 版) <http://www.daikokuya.co.jp/user_data/explanation.php#9>

光太夫がロシアに残した自筆日本地図のうちの一枚で、ペテルブルグで描いたもの。

ドイツ人、アッシュ男爵が手に入れ、彼の母校ゲッチンゲン大学に保管されていたが、平成5年1月鈴鹿市文化会館で開催された『大黒屋光太夫帰国二百周年記念展』の際、他の2枚の日本地図、自筆の手紙とともに公開展示された。

左脇には「天明十一年三月下旬 日本伊勢国白子 大黒屋幸大夫筆」と彼の手で墨書され、印が二個押されている。

[575] 紀元・暦法を集めるスレ ( 版) <http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/885>

前に読んだ戸板康二さんの歌舞伎物推理小説で「團十郎切腹事件」というのがありましたが、

八代目市川團十郎は若年で人気絶頂の最中に自殺しますが、その原因については全くの謎で

種々の推測がなされています。この小説では死後まもなくに内部事情に通じた人物が書いた

古文書をめぐって、老優が真相を推理するといったストーリーのベッドデテクティヴ物です。

結局この古文書はいかにも本物らしく出来ているが贋物と暴露されるのですが、鍵となったのは

事件のあった嘉永七年は改元で安政元年となったのに切替えの日より後の日付の作成になってた

ガセネタを見破られたことでした。贋物作りだったら第一に用心する点だと思うんですがね。

[576] ( 版) <http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2004/ashida.pdf>

44 新刊輿地全圖 佐藤政養 文久元年 (1861) 木版 (色刷) 1 舗 86.1 × 118.1cm(34.3 × 23.0cm)

幕末を代表するメルカトル図法による方角 (方眼) 世界図で、明治時代になってからも影響力をもった。原図は 1857 年オランダのアムステルダムで出版された航海用地図。内容が詳しく正確なうえ、余白には諸州の面積・人民あるいは動植物の数表、世界の主な都市・山川などの地理的統計一覧を載せる。地図の中央上部に大日本国旗を、周囲には 158 の世界各国旗などを載せる。西洋と日本の紀年法の違いを「年号ハ皇國ヲ以テス月日ハ西洋ニ准フ」として処理している。世界地理知識の啓蒙をめざしたもの。(04-86)

[579] ( 版) <http://www.japanradiomuseum.jp/chinaradio.html>

[580] >>579 満州国内の書類で昭和康徳が印字されており、 年号が空欄で後から一方を記入している。

[581] 百済紀年考 ( 版) <http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/3702/KJ00004171955.pdf>

[584] 鶴峯戊申 - Wikipedia ( ()) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B3%AF%E6%88%8A%E7%94%B3#.E8.A5.B2.E5.9B.BD.E5.81.BD.E5.83.A3.E8.80.83>

[587] 【記事】宜蘭県が日本統治時代年代に日本の年号使用提案 - 台湾建国応援団 ( 版) <http://ilha-formosa.org/?p=11978>

台湾北東部・宜蘭県は、台湾の歴史教科書で使われている日本統治時(1895-1945年)の年代表記を、現在の台湾の年号「民国」や西暦から日本の年号「明治、大正、昭和」に改めるよう台湾政府に提案する方針を28日までに決めた。

台湾では、中華民国成立(1912年)を元年とした年号・民国と西暦が併用されている。メディアや宜蘭県によると、台湾の教科書は日本統治が始まる1895年以前は清朝の年号を使用。日本統治時は西暦を用い、終戦後は民国と表記している。学校の記録や校史では、日本統治時を民国と記載しているケースもあるという。

[588] はてなブックマーク - 「喜多方ラーメン」誤表示、原因は12年前の… JR東:朝日新聞デジタル ( ()) <https://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJ6N3GRCJ6NUGTB002.html>

某所にて、2016年と平成16年(2004年)のデータ出力ミスとの説を見かけた。

[589] 孝恩雜誌 () <http://www.xiao-en.org/cultural/magazine.asp?cat=34&loc=zh&id=1192>

以後鄭成功在1661年收復荷蘭人佔據的臺灣,鄭荷兵戈相見,身處東南亞荷蘭勢力範圍的華人即使堅持蓄發不投降清廷,也只能拿荷蘭通行證,不能與鄭部有任何來往。鄭荷關係其實在鄭成功海上誓師反清後已經一路緊張,鄭家後人及部下在臺灣繼奉永曆帝為正朔,海外華人面對回不得大陸也去不了臺灣的情勢。但他們即使不能公開追隨鄭成功採用永厲年號,三寶山上的碑記也還是採用了很特殊的“龍飛”年號;三寶山的墓碑和義塚設施的碑記,出現帶有“皇帝登極”意味的“龍飛”,不是當事人敢於濫造帝皇年號,它只是說明了麻六甲華人自認大明子民,在沒有了明朝皇帝之後還是要以權宜方式堅持忠貞,等待真命天子回京。等到鄭家歸順清廷,明朝最後無法持續,馬六曱華人一直到19世紀初還是有人堅持採用“龍飛”紀年。4

 

一直到民國時代之前,全馬各地有不少華人在墓碑以及在墓園的祭祠裡堅持用“天運”代替和拒絕清朝年號,20世紀初還能有如此的墓碑現象就不簡單了。英、荷殖民地的主流是不歡迎地區上流行反清政治,這會影響他們對華貿易;但義塚在雙方的理念中是宗教也是慈善福利,華人在這個洋人無從追究細節的範圍之內以自己深信的鬼神之道設教,死者臨到死後都要以墓碑發出民族訊號以明心志、遺教後人。

 

[590] Regnal year - Wikipedia, the free encyclopedia () <https://en.wikipedia.org/wiki/Regnal_year>

Overseas Chinese used Longfei (龍飛) or Tianyun (天運).[5]

[591] Regnal year - Wikipedia, the free encyclopedia () <https://en.wikipedia.org/wiki/Regnal_year>

[592] 元号の改元日の境界処理 (中博俊著, ) <http://blogs.wankuma.com/ognac/archive/2008/07/30/150960.aspx>

DateTime.ParseExact(r, "ggy年M月d日", culture); で和暦の整合性をチェックできます。

昭和65年1月1日はNG...昭和の終了年超は押さえているようです。

昭和64年12月31日はOK...改元日は押さえてないのか。

平成1年1月1日 はOK.....改元日は押さえてないのか。

昭和1年1月1日はOK......改元日は押さえてないのか。

明治1年1月1日はNG......?なんでNG?

明治1年10月1日はOK.....?なんでOK?

境界点は明治1年9月8日でしてた。 この日は、明治に改元された日です。 なんで、明治だけ、改元日が考慮されているの?

しかし、コンピュータ上はの9月8日は太陽暦で処理されている。 明治1年9月8日改元は旧暦で行われているので、一致しません。

[593] JavaSE6 和暦の昭和の改元日が違う!? - Java Solution - @IT () <http://www.atmarkit.co.jp/bbs/phpBB/viewtopic.php?topic=35637&forum=12&6>

また、元号法の審議の際の政府委員の答弁

( http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/087/1020/08705241020009c.html の後半部分)

によると、

・理論的な考え方は崩御の時刻によって分けるという見解だった

・しかし、世の中の実際の実務として、役所の出生届等の受理については、

大正と昭和のどちらの日付でも受理されていた。

と言うのが実態のようです。

[594] 満洲国臨時政府 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD%E8%87%A8%E6%99%82%E6%94%BF%E5%BA%9C>

2004年 香港で設立。元号を「宣統」と定める。

2006年 南ヴェトナム自由民主共和国臨時政府と外交関係を持つ。

2008年 立憲君主制へ移行し、愛新覚羅孝傑が皇帝に即位。元号を「復光」と改める。

2010年 愛新覚羅崇基が皇帝に即位。帝号は頣皇帝となり元号を「昊徳」と改める。張少幇が主席となる。

2011年 元号を廃止し西暦を用いる。明の帝室の末裔を自称する李志栓が皇帝に即位。同時にジョンソン・アダム・トニスが主席となる。

[595] 滿洲國復辟? 金溥聰有個族人自封是皇帝 | NOWnews 今日新聞 () <http://www.nownews.com/n/2009/12/10/807970>

根據「滿洲國臨時政府」網站,該「政府」成立於2004年,時為宣統96年,尊愛新覺羅‧溥儀為皇帝;2008年舉行「皇帝選舉」,據稱是在香港大學歷史系就讀的愛新覺羅‧孝傑(金孝傑)當選,年號改為「復光」,登基的詔文寫道:「本人承諾於任內帶領滿洲國臨時政府爭取獨立復國及一切政府活動,希望在任內能夠復國。」

[596] 從互聯網「滿洲國皇帝全民直選」談起(上)_國際_新聞中心_新浪網-北美 () <http://dailynews.sina.com/bg/news/int/mingpao/20100509/16211427138.html>

根據其「官方網頁」,滿洲國「復國」情 如下﹕

「2004年,在舊滿洲國遺睿鈕牯錄 愍鎊閣下領導下,滿洲國臨時政府在海外成立,矢志復國。國家實行民主君主立憲制度,奉愛新覺羅溥儀陛下為帝,年號復用宣統。」「2008年,我國首次舉行皇帝選舉,選出愛新覺羅孝傑為帝,改元復光。同年,國家開始以反中共、消滅邪惡中共、建立民主滿洲及中國為國策。其後於復光三年,愛新覺羅孝傑未能履行皇帝職責,故被罷黜,後被封廢帝號。」「2010年4月,國家舉行第三屆皇帝選舉,愛新覺羅崇基先生當選第三任皇帝,稱頤皇帝,改元昊德……」

[597] 満洲国とは? - 在日本満洲国学生協議会 () <https://sites.google.com/site/mansyugakusei/1111>

元号

大同(西暦1932年3月1日-1934年2月29日) 

康徳(西暦1934年3月1日-1945年8月18日)

宣統 (西暦2004年-2008年)

復光(ふくこう)(西暦2008年-西暦2010年4月)

昊徳(こうとく)(西暦2010年-西暦2011年四月)

西暦(西暦2011年4月より)

[598] 大日本國民愛國義勇軍「時局論壇」 満洲国臨時政府、改元を発表 新元号「昊徳」へ (大日本國民愛國義勇軍著, ) <http://jnpva.blog119.fc2.com/blog-entry-414.html>

その満洲の再独立を目指す組織である「満洲国臨時政府」より、「愛新覚羅 崇基」氏の第三代皇帝への即位と、それに伴う「昊徳(こうとく)」への改元が発表されました。

愛新覚羅崇基氏の帝号は「頣(イ)皇帝」と定められます。

因みに、先代の「愛新覚羅孝傑」皇帝が退位する先月まで使用されていた元号は「復光」でした。

(上記画像:満洲國第三代「頣」皇帝陛下即位と「昊徳」改元の詔書。元画像はこちらをクリック

[605] エンジニアが平成の次の元号を予想する方法 - Qiita ( ()) <http://qiita.com/guai3/items/0d5a84b1bd7ff018c65b>

[606] 紀年法 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95>

古代ローマ帝国では、元号(○○皇帝在位N年)、ローマ建国紀元、インディクティオの3種類がよく用いられていた。

[616] 江戸時代の主な年号とさまざまな出来事 () <http://www.edojidai.info/nenngou.html>

古来よりわが国で使われている独自の紀年法である「和暦」は、天皇によって定められてきたものです。

現代では年号は天皇の即位とともに新しくなりますが、江戸時代以前には必ずしも即位と同時期ではありませんでした。

[617] 新皇・平将門は独立国家を望んだか?: 今日は何の日?徒然日記 () <http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/12/post-6f9c.html>

朝廷から100%離れる気持ちなら、すべてを守に任命すれば良いのに、なぜ、慣例通りの介にしたのでしょう?

そして、何より、天慶二年(939年)12月15日という書状の日づけです。

ご存知のように、この元号を決めるのは朝廷(11月21日の前半部分参照>>)・・・あの大化元年から、この元号は朝廷のみに決定権があり、後には、有名な南北朝時代(10月5日参照>>)しかり、そして室町幕府に叛旗をひるがえす第4代鎌倉公方の足利持氏(2月10日参照>>)しかり、いずれも、敵方の元号を使用しない事で、その反発度をアピールしていますが、将門には、その気配はありません。

それどころか、元号をはじめとする暦関係を司る当時の役職であった暦博士のような役職すら設ける事がありませんでした。

[618] 「新皇』(新しい天皇)と称した平将門 天慶の乱は新国家建設だったか: りてらセレクト () <http://literaselect.seesaa.net/article/357625220.html>

新皇と名乗る以上、この時点で日本国には二人の天皇がいたことになる。実効支配に加え、新皇になったのだから、新国家の実質を備えていた訳だが、将門は国号日本を変更せず、行政単位も元号もそのままを使用した。

[619] 日本国大君 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%9B>

後に送られる国書も偽造と改竄を続けたが、寛永10年(1633年)に事態が発覚する(柳川一件)。これを機に幕府は朝鮮に対し「大君」号と日本元号の使用を伝え、1636年(寛永13年)来日の朝鮮通信使から正式に使用される。

[620] 異文化が交ざりあった墓碑 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎の教会群とキリスト教関連遺産) () <http://oratio.jp/p_column/ibunka-bohi>

「FIRISACYEMO DIOGO XONE (83)  GOX IRAI 1610 IVG 16 QEICHO (15)」。半円柱を横たえたような形のキリシタン墓碑の正面半円に、ポルトガル式つづりによるローマ字で刻まれている。「ヒリ作衛門ディオゴ 生年83ご出世以来1610 10月16慶長15」と判読されているが、この墓に葬られた人物はわかっていない。半円部分は二重に縁取られ、丁寧な細工がほどこされている。

[621] 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。 - 歴史 解決済 | 教えて!goo () <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8771897.html>

[622] 江戸時代の人は元号を言えたか - 歴史 解決済 | 教えて!goo () <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8768382.html>

明治5年生まれの岡本綺堂が書いた「半七捕物帳」を読んでみると、「天保丑(うし)年の十二月」(=天保12年12月)とか、「安政午(うま)年の十二月」(=安政5年12月)のような表現がされてます。半七捕物帳の時代考証は非常に正確であることで知られてますので、おそらく、少なくとも幕末の江戸期では、このように、年号と干支で年を表記する言い方が普通だったと思われます。

[623] () <http://rekibun.jp/201212tyousa.html>

⑤に「五代のろくもい 仲尾次タマ 歳四拾壱」、「明治参拾八年正月弐拾弐日死去

明治四拾壱年拾壱月弐壱五日洗骨」とある。

⑥に「大正十五年寅十月十六日死去 六代乃ろくもい 仲尾次たま 二五才

昭和六年旧十二月三日洗骨」とある。

⑦無頸の厨子甕(銘なし)

【位 牌】(〇は墓地ののろくもいと一致)

〇大正十五年寅十月十五日死去 六代乃ろくもい仲尾次タマ

・古岸妙寿信女

霊 位

・寿林妙霊信女

・心安妙寿信女

△四代明治五年丙寅五月二十二日死去 歳三十九

〇五代乃ろくもい 明治三十八年巳正月二十二日死去 歳四十一

[638] 南北朝時代の元号 きままに太平記/ウェブリブログ () <http://kimamataiheiki.at.webry.info/200506/article_6.html>

足利尊氏の実子でありながら、母親が正妻登子の子でないため疎まれ、直義の養子に。その境遇が為、父尊氏に対しての複雑な心境がありまして、直冬は、おそらく反抗というかそれに近いであろう心境で北朝年号が、改元されたにもかかわらず、次の元号を使用せずにわずかな期間ではありますが、それまでの元号を使い続けたという例があります。つまりは、一時的では、あるものの南朝の使う元号と北朝の尊氏を支持するものとたちが使う元号と直冬を支持するものとたちが使う元号の3つがあったわけです。

ほかにも、北陸では北朝でも南朝でも使われていない”白鹿”という元号が使われていたようです。北陸は一時期、新田義貞がその支配勢力としたところで、一緒に恒良親王を奉じていました。この恒良親王は、後醍醐天皇がその皇位を譲ったともされています。ですから天皇なわけですから元号を使用できるわけです。その関係でどうやら北陸の独自勢力が、”白鹿”という元号を使用したようです。

[641] 【北元から】その後のモンゴルを語ろう【革命まで】 () <http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1119756439/>

北元の年号判明

恵宗 至正元年(1341)

(明 太祖) 洪武元年(1368)

昭宗 宣光元年(1370)

脱古思鐵木兒 天元元年(1378)

天元十一年(洪武二十一年=1388)、

脱古思鐵木兒(ドクスティムール、廟号なし)が明に敗死し、大元皇帝位争奪戦に。

以後、蒙古では授時暦(中国暦)廃れ専ら時輪暦(チベット暦)に。

時輪暦の年号はチベット式の絶対干支を使用。

天元十一年は第七干支戊辰年。

[645] 西夏 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F>

1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。

[646] 五箇条の御誓文 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87>

奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。よって正式には「慶応四年」は「明治元年」に読みかえる[要出典]

[647] 七支刀 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80#.E7.99.BE.E6.B8.88.E7.8B.AC.E8.87.AA.E5.B9.B4.E5.8F.B7.E8.AA.AC>

1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした[8]。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され[9]、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした[2]。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真[10]による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された[2]。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし[2][11]、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない[2]。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない[2]

[27] 真徳女王 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B>

即位後、647年2月にそれまでの仁平を改元して太和の年号を用いた。しかし650年より唐の正朔を奉じることとし、以後の新羅では独自年号は用いられなくなった。

[56] 『西安 4日間』 [西安]のブログ・旅行記 by DragonEyeさん () <http://4travel.jp/travelogue/10787743>

次に清龍寺へと連れて行かれた。

1982年以降の発掘調査によって、周辺が唐代の青龍寺跡と判明、それからの再建であるから全てが新しい。

寺域内は現在もいくつもの堂宇を建造中であるが、その反面では中国人の参拝者は皆無という不思議な寺である。

弘法大師の空海が密教を学んだ寺ということから日本人がたくさん来るため、それだけでやっていけるのだろう。

ご丁寧に「平成23年」と日本の年号で日付を入れていた。

[58] ◇6 元号はどうやって決められるのか?|ぐーすけとりきのブログ () <http://ameblo.jp/kusuke6/entry-12126860687.html>

閣議による申し合わせによれば「国民の理想としてふさわしい」

「漢字2字」「読みやすい」「これまでに元号又はおくり名(人

の死後に贈られる称号)として用いられたものでないこと」かつ

「俗用されているものでないこと」が、主な条件になっている。

以前の元号が再使用できないという条件については、中国や

朝鮮、チベット、ビルマ系の南詔(なんしょう)、ベトナム北部

にあった交阯(こうし)など、かつて元号を用いた国のものとも

重複しないというのが基本的なルールになっている。

また、中国の書物に出典を求めるのが慣例となっており、現在の

「平成」も「史記」と「書経」から採られた言葉だといわわている。

[59] チベット・インディペンデンス2015 - Students for a Free Tibet: 日本 () <http://www.sftjapan.org/nihongo:tibetindependence2015>

明治天皇は1912(明治45)年7月30日に崩御し、元号は大正に変わっていたが、チベット滞在中の矢島保治郎はこのことを知らず、明治46年と記している。実際は大正2(1913)年1月1日

[60] 玉陵の碑文 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%99%B5%E3%81%AE%E7%A2%91%E6%96%87>

大明弘治十四年九月大吉日

[61] 【天皇陛下の譲位】新元号は平成31年元日から 皇室会議を経て閣議決定へ 法案提出は今年5月連休明け(1/2ページ) - 産経ニュース (SANKEI DIGITAL INC.著, ) <http://www.sankei.com/politics/news/170110/plt1701100002-n1.html>

具体的には、平成31年元日、国事行為である「剣璽等承継の儀」(三種の神器等引き継ぎ)と「即位後朝見の儀」(三権の長らの初拝謁)を宮中で行い、官房長官が速やかに新元号を発表する方向で検討している。

皇位継承に伴う重要儀礼である大嘗祭は、準備に半年以上を要するため、平成31年11月にずれ込む見通し。皇位継承を内外に示す国事行為「即位礼正殿の儀」は大嘗祭の前に行われるという。

[62] 元号一覧 () <https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/era>

[267] 【太陽暦】暦について語るスレッドpart7【太陰暦】 ( ()) <http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sky/1429294131/675>

平成になってもしばらくは昭和に換算した人がいたくらいだし。

(例えば平成3年を昭和に換算して昭和66年と理解していた人もいたほど)

その段階では定着度が昭和>西暦>平成でカレンダーもしばらく昭和併記したくらいだからなあ…。

(平成1桁のカレンダーにはその手のが結構あった)

[268] 那須国造碑 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91>

「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。

[270] 即位改元について () <http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/18dobashi.pdf>

[301] 明治5年12月3日(太陰暦)旧暦と明治6年1月1日(太陽暦)は同じ日である。この改暦について太政官布... | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) <http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000212032>

「(中略)この詔書も覆奏は九月十二日となり、この日に天応裁可の御畫が記されている。したがって、改元は九月八日とされているが、実際に一般に公布通達されたのは十二日以降のこと思われる。改元と「御一代一号」を知らせた次の行政官布告には九月とだけあって日付がない。

[346] 「養老改元宣言」鈴木ちなみさん高らか 有終の天皇姿:岐阜:中日新聞(CHUNICHI Web) () <http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20171118/CK2017111802000025.html>

奈良時代の七一七年に元号が「養老」に改元されたことにちなんで養老町が制定した「養老の日」の推進大会・養老改元宣言が十七日、町民会館で開かれた。開催中の養老改元千三百年祭の一環。女帝・元正天皇に扮(ふん)した女優鈴木ちなみさんが「養老改元の詔(みことのり)」を読み上げた。

元正天皇は養老の地を訪れ、美しい泉に感銘を受けて、元号を「霊亀(れいき)」から「養老」に改元した。町は二〇一二年、改元された十一月十七日(当時は旧暦)を条例で「養老の日」と定めた。

式には古田肇知事や町民ら六百人が出席。鈴木さんは当時の衣装をまとい、養老小学校六年の渋谷琴音さん、岩永乃愛(のま)さんと登場。続日本紀にある改元の詔を読み上げ「平成二十九年を改め、養老千三百年といたしましょう。美しい水と自然を大切に、後世に残すため努めてください。親孝行に努めてください」と続けた。

[347] 「養老改元宣言」鈴木ちなみさん高らかに 1300年祝う - 岐阜新聞 Web () <http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20171118/201711180852_30955.shtml>

岐阜県養老郡養老町石畑の町民会館で開催された「『養老の日』推進大会」(養老改元1300年祭実行委員会主催)で史実に倣い「養老改元宣言」を行った。

元正天皇は717年の旧暦9月20日に養老の地を訪れ、その年の11月17日に年号を改めたとされる。町は条例で改元の日を「養老の日」としている。

鈴木さんはあでやかな天平衣装に身を包み、女官役の養老小6年の岩永乃愛さん、澁谷琴音さんとともに登場。続日本紀に記された改元の詔(みことのり)を現代語にして朗唱し、「今後も親孝行に努め、美しい水と豊かな自然を大切にしていきましょう」と呼び掛けた。

[348] 「年号」の背後にあるもの:研究:Chuo Online : YOMIURI ONLINE(読売新聞) () <http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20171116.html>

漢籍の出典を持つ年号がいつから出現したかを正確に見定めることは難しく、「仁寿」(851-854)まではさかのぼれそうですが、それ以後も典拠不明の年号が続き、漢籍の利用が常態化するのは、正暦(990-995)以後のようです。

[349] 「祝日いつ決定」カレンダー業者やきもき 新元号に注目:朝日新聞デジタル () <http://www.asahi.com/articles/ASKD14W0FKD1UTIL03J.html>

新元号は、赤ちゃんの名付けにも影響する。毎年、赤ちゃんの名前ランキングを発表している明治安田生命広報グループの加来康訓(やすのり)さん(38)は「元号が新しくなると、名前に採り入れられる傾向がある。縁起が良いと好まれるようだ」。

同社の調査によると、明治から大正になった1912年は、男の子で「正一」が1位。トップ10のうち五つで「正」の字がついた。女の子も「正子」が人気だった。昭和になった直後の27年は「昭二」「和子」が1位。平成になると「翔平」「成美」が人気を集めたという。

硬貨にも新元号が刻まれる。造幣局によると、「平成」は、元号発表から約1カ月で新硬貨の製造を始めた。今回は、事前に公表される見通しもあり、前回ほど急がなくてよさそうだ。

[351] ニュース - 2019年5月1日に新元号、NTTデータや日立は「対応難しくない」:ITpro (ITpro著, ) <http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/120102783/?rt=nocnt>

[361] ニュース - 新元号は2019年5月1日からの見通し、富士通は「洗い出しとテストの負荷が大きい」:ITpro (ITpro著, ) <http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/120802832/>

[382] 天皇の退位等に関する皇室典範特例法 () <http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/viewContents?lawId=429AC0000000063_20200616>

附則

(意見公募手続等の適用除外)

第八条 次に掲げる政令を定める行為については、行政手続法(平成五年法律第八十八号)第六章の規定は、適用しない。

一 第二条の規定による皇位の継承に伴う元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づく政令

[383] 新元号、少ない画数に…1文字15画上限の方針 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) () <http://www.yomiuri.co.jp/politics/20180102-OYT1T50071.html>

政府は、皇太子さまの即位に伴う2019年5月1日の改元を巡り、新たな元号は画数ができるだけ少なく、なじみやすい漢字を用いる方針だ。

国民の「元号離れ」を防ぐ狙いがある。新元号は最終的に3案に絞り込んだ上で、有識者や衆参両院議長らの意見を踏まえて決定し、18年中に事前公表する見通しだ。

これを踏まえ、1文字15画を上限とし、できる限り画数の少ない漢字を選ぶ方針だ。

[384] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道 (ヨッキれん著, ) <http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main10.html>

島民は大正や昭和の改元を、それぞれ1年近く知らないまま暮らしていたというものがある。このうち昭和の改元については、昭和2年12月に漂着した高知県の遭難漁船の船員によって初めて島に伝えられたそうだ。

[385] Mule Software - 改暦のはざまで () <http://hp.vector.co.jp/authors/VA004777/strn/1501.html>

別のシステムでは、担当プログラマーが1989年1月7日までは昭和表記、1月8日以降は平成表記をするべきだと勝手に決めつけて苦しんでいた.年・月・日を個別に比較するロジックを何十本ものプログラムに組み込むため、テストに膨大な時間が必要となるからだ.

業務内容によってはそんな必要はなく、1989年は元日から平成表記で構わない場合も多い.そうすれば「年」の比較だけで済み、格段に楽になる.実際、多くの企業が昭和64年は存在しないものとみなして仕事をしていたように思う.

[394] 禁中並公家諸法度 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6>

実際にはこの法度の発布される4日前の7月13日に「慶長」から「元和」に改元されているが、現存する法度の写本は「慶長廿年七月」の日付が記載されている。まさにこの改元において、当法度第8条に規定されている改元権を巡り、朝幕間で諍いがあった。

[395] 新島村の近世史ー古文書 「御用書物控」に見る天保2年の新島 () <https://www.niijima.com/facility/community/hakubutsukan/files/H18_kiyou018_ocr.pdf>

天保2年(1831)になっても、当初、新島では文政 14年と認識していた。 3月 22日、新島の権左衛門船が江戸から持参した伊豆代官田口五郎左衛門の「書付」には「卯二月十三 日jとあって改元の様子は伺えない。十二支の「卯」だけですべて事足りたのである。

同じ2月付けで別の「書付」は次の通りであった。

「天保

右之去寅十二月十六日、年号改元被仰出候間得其意、小前不残様可申聞もの也

田口五郎左衛門

天保二卯年二月

新島には4ヶ月後にもたらされた情報であった。この時代としては改元の情報の伝達はほぼこれが標準であったと思われる。 かくして、新島での天保期は天保2年4月から幕を開けたので、あった。

[397] 平成の次は? 新元号を探る|NHK NEWS WEB (日本放送協会著, ) <https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0207.html?utm_int=news_contents_news-closeup_005>

「大化」から「昭和」に至るまで、およそ1300年にわたり天皇みずからが決めてきた元号の位置づけは大きく変わり、元号は政府が法律に基づき政令で定めることになりました。

[470] 元号法以前の元号も、 朝廷幕府が決めたのを最終的に天皇詔勅公布するものが多そうだけど、 政府が決めたのを最終的に天皇政令公布するのはどの辺が「位置づけは大きく変わ」 ったといえるのだろうか。この記事自体、 それ以前の制度の元号皇室典範という法律に基づき決められたことを説明しているのに、 不思議だ。

[518] この記事の構成だったら、 時系列で天皇が政令に署名したのがいつなのかとか、 官報が発行されたのがいつなのかとかも、ちゃんと取材して欲しかったなあ。

[522] 神功皇后 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E>

『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている。

[548] 三韓征伐 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90>

神功52(252または372)年9月10日、

[328] 元号選定手続について (内閣公文・国政一般・一般・暦時・A04-1・第1巻 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001159113>

[586] 永元 見飛 善吉

[650] 嫁落とし () <http://www.za.ztv.ne.jp/chible/sub81yomeodani.htm>

我が国屈指の堅固さを誇る小谷城は、浅井亮政によって築かれ、以後元亀4年(年号が変わったのに天正元年と呼ばないのが浅井家応援団の心意気です。)(1573)の落城までおよそ50年浅井家三代の居城となった山城です。

[653] 本邦における被害地震の 日本暦の改元について () <https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/23/4/23_4_335/_pdf/-char/ja>

[654] 元号法第二項の解釈に関する質問主意書:参議院 (提出日 平成29年3月23日 答弁書受領日 平成29年3月31日 ) <http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193060.htm>

[655] 法令の条文中に未来の日付が記述されているものがあるが、改元された場合、どのような取扱いになるのか知り... | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) <http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000232427>

[656] 改元対応、どうしますか? | 日本一小さな仮想自治体 () <http://www.v-localgov.com/2017/01/%E6%94%B9%E5%85%83%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F/>

[657] 国立国会図書館デジタルコレクション - 御諡号年号読例 (松浦詮著, ) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780739>

[658] 文学の歴史叙述に於ける遡及年号について () <https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/39/0/39_39_73/_article/-char/ja/>

[659] 「JavaSE6 和暦の昭和の改元日が違う!?」(1) Java Solution - @IT () <http://www.atmarkit.co.jp/bbs/phpBB/viewtopic.php?topic=35637&forum=12>

[660] 年号の正確な適用範囲について () <http://rarara.cafe.coocan.jp/cgi-bin/lng/vc/vclng.cgi?print+200201/02010099.txt>

【市役所】

昭和→平成については「元号を改める政令」があり1989年1月8日から平成となるそうです。

(これについては文書をFAXでいただきました)

大正→昭和については政令が公布された時点から昭和扱いとなっているようです。

市役所のコンピュータでは1926年12月25日は昭和で扱っているとの事でした。

(1926年12月25日の政令公布前の出生届け等は修正するということは

していないと思う、との回答でした)

[670] 元号を改める政令等について - 条例Webアーカイブデータベース () <https://jorei.slis.doshisha.ac.jp/reiki/c1801-131199-85117498>

[671] 改元に伴う文書の取扱いについて(通知) - 条例Webアーカイブデータベース () <https://jorei.slis.doshisha.ac.jp/reiki/c1801-131156-65368538>

[672] 閣議資料(吉田内閣閣議書類(その4))昭和21年11月1日~11月25日 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006041216473638353>

[673] 法律命令綴込 下 自昭和21年10月至昭和21年12月 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2011021813493014978>

[674] 法律案審議録(元号法案 その1) 昭和54年第87回国会 総理本府関係 1 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2011021814402318057>

[675] 法律案審議録(元号法案 その2) 昭和54年第87回国会 総理本府関係 2 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F2011021814402418058>

[676] 法律案審議録(元号法案 その3) 昭和54年第87回国会 総理本府関係 3 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F2011021814402418059>

[677] 元号法関係国会会議録 審議録 その4 第2部 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F2011021814402518060>

[678] 内閣公文・国政一般・一般・暦時・A04-1・第1巻 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001159113>

[679] 内閣公文・国政一般・一般・暦時・A04-1・第1巻 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001159114>

[680] 枢密院文書・枢密院上奏撤回書類十三 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000777835>

[681] 枢密院委員会録・昭和二十一年 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000792637>

[682] 昭和二十一年・配付案 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001802578>

[683] 昭和二十一年・配付案 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001802580>

[684] 元号法・御署名原本・昭和五十四年・第二巻・法律第四三号 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000121482>

[685] 筑西市文書取扱規則 () <https://www.city.chikusei.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/r156RG00000066.html>

登録番号は、登録する種別、区分又は帳簿ごとの一連番号とし、毎年1月1日から更新する。この場合において、以後、元号法(昭和54年法律第43号)第2項に基づく改元があったときは、再更新するものとする。

[686] 筑西市文書取扱規則 () <https://www.city.chikusei.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/r156RG00000066.html#e000000719>

前項前段の規定にかかわらず、第1項の文書の番号のうち指令番号、諮問番号、経由番号、証明番号、文書番号その他法令等の規定によるもの又は会計年度による必要があるものの登録番号の更新については、毎年4月1日から更新することとする。

[292] 元号の由来と過去の一覧!日本以外にも使っている国はあるの? (2018/1/26 2018/6/8 ) <https://chishikizatsugaku.com/?p=6772>

ベトナム

・1976年に君主制が廃止になった際に、元号が廃止され西暦に統一されるようになりました。しかし、現在でも非公式で元号が使用される場面があります。

元号 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0>

1945年にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム民主共和国(1945年 - 1976年)の成立に伴い君主制が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、 を非公式の紀年法として使用した例がある。

... を雑にコピペして生まれたデマか?

[357] 国立国会図書館デジタルコレクション - 太政官日誌. 明治元年 第111−120号 () <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787627/74>

明治紀元戊辰冬十月

[607] 国立国会図書館デジタルコレクション - 法令全書. 明治2年 () <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/62>

明治紀元戊辰年

[608] 元号と生年のお話 | さらすな日記 (2007年06月09日 土 08:52 ) <http://muca.jugem.jp/?eid=81>

私が知りたかったのは、元号の起点を基に、生年をそれまでの元号と新しい元号に明確に区別して表記しなければならないかどうかです。

ちなみに、明治は立年改元、大正と昭和は即日改元、平成は踰日改元です。

で、総務省にメールで「なんか基準がおますの?」と聞いてみました。

2日後に電話がかかってきました(私がおもいきり左よりか右よりか調べてたんやろか)。

その結果、はっきりしたことをここにお知らせします。

次の基準で生年の元号が決まります。

明治は 明治元年 (1868年)1月1日から

明治45年(1912年)7月30日の0時42分までに生まれた人。

大正は 明治45年(1912年)7月30日の0時43分から

大正15年(1926年)12月25日の1時24分までに生まれた人。

昭和は 大正15年(1926年)12月25日の1時25分から

昭和64年(1989年)1月7日中に生まれた人。

平成は 昭和64年(1989年)1月8日に生まれた人から。

明治の終わりから昭和の初めにかけて、元号の切り替わる日に生まれた人は、その時刻まで分からないと正確な元号が分からないことになります。

この規準の詳細について「内閣府の登極令で示されていたのですが、経緯を記録した文書は残っていないので」と、電話してきた人(行政相談課)は申しておりました。

時刻が上記のようになっているのは、次のことから明確ですね。

明治天皇は1912年7月30日午前零時43分崩御。

大正天皇は1926年12月25日午前1時25分崩御。

昭和天皇は1989年1月7日午前6時33分崩御。

(私が質問したわけでもないのに)細かい経緯が分からなくなっていますと言った理由は憶測できましたが、ここでは触れません。

[687] 元号に関する商標の取扱いについて | 経済産業省 特許庁 (特許庁著, ) <http://www.jpo.go.jp/seido/s_shouhyou/gengou_atukai.htm>

現在の商標審査基準には「現元号を表示する商標」について商標法第3条第1項第6号に該当する旨明記されています※ が、現元号以外の元号についても明確化を図るため、今後上記取扱いに準じた基準の改訂の検討をいたします。

 

※ 商標審査基準〔改訂第13版〕抜粋(第3条第1項第6号関係)

4. 現元号を表示する商標について

商標が、現元号として認識される場合(「平成」、「HEISEI」等)は、本号に該当すると判断する。

[更新日 2018年6月22日]

[688] .NET Framework の新元号対応予定について – Japan New Era Name Support Blog () <https://blogs.technet.microsoft.com/jperablog/2018/06/25/netframework/>

今回、元号のレジストリが追加されたことによって .NET Framework でも平成は 31 年が最終年であると認識するようになりますが、これにより、レジストリが追加される前までは問題なく処理されていた “平成32年1月1日” といった和暦表現の入力も例外を発生させてしまうことが想定されます。

しかしながら、昭和65年や平成32年といった表現は、法令上無効なものではなく、本来は例外をスローすることなく処理されるべきものでした。

これを踏まえ、本変更にて “平成32年1月1日” や ”昭和65年1月1日” といった和暦表現に対しても例外をスローせずに正しく処理するよう修正が加えられました。

[338] 改元とそれに伴う法律改正について () <http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2018pdf/20180702065.pdf>