国有化後の1909年(明治42年)10月12日には鉄道院告示第54号国有鉄道線路名称左ノ通定ムにより、当線は主な経由地(福島県・宮城県・岩手県・青森県)の地方名として定着していた「東北」を冠し「東北線の部 東北本線」となった[8]。
民権派が薩長土肥を『西南』と呼んだのに対し、旧奥羽両国を指す新名称として明治10年代から使用し、当線の改称時には一般化していた「東北」が採用された[8]。
「東北」と称する文献例は、主に江戸時代・天保期以降の幕末になってから散見されるようになり、この場合、「東北国」と称する例もある。地方名としての「東北」の称が公的な史料で初見されるのは、1868年(慶応4年)正月に佐竹義堯(秋田藩主)に下賜された内勅とされる。ただし、この場合の「東北」は五畿七道の内の「東北3道」(東海道・東山道・北陸道)、すなわち、天皇の在所である畿内からみて東あるいは北東側にある全ての地域を指しており、西南4道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)と対比される[9]。または、東国と北陸の合成語とも考えられる。
在野の民権派は「奥羽」「奥羽越」あるいは「奥羽および北海道」の範囲を指す美称として「東北」を(「西南」と対比して)用いるようになった[9]。明治の後半になると民間でも「奥羽」の範囲を「東北」と呼ぶのが通例となり、公的にも「東北」が用いられるようになった[9]。
奥羽地方
1926年(大正15年)6月、日本素人無線連盟JARLが結成され、規約第六条で『日本全国を下記の諸区に分かち 該区に居住する盟
員は該区番号を呼出符号に冠することを要す』と定めました。上表の右欄に追記したものがそれです。
[6] 治田 洗礫さんはTwitterを使っています 「ありがとうございます。 手元にあった昭和34(1959)年の帝国書院の中学校社会科地図は、ちょうど移行期のようで「東北(奥羽)地方」です! 昭和32年に成立した「東北開発促進法」など、その頃から公式に「東北地方」が頻用されて一般にも定着していったのかと推測します。 https://t.co/PGDX7JfbMC」 / Twitter (午後10:39 · 2021年2月23日 , ) https://twitter.com/Harita_arayshi/status/1364208295800500232
[7] とも@好事家さんはTwitterを使っています 「原内閣時にも東北拓殖会社設立の動きもありましたが、公的には岡田内閣が東北振興会を母体に東北振興調査会を設置、そこを端に東北振興事業の国策化されました。また、昭和3年に仙台で東北産業博覧会も開催されており、戦前期の振興会の活動を中心に“東北”という名称が広まっていったと考えられます。」 / Twitter (午前10:50 · 2021年2月28日 , ) https://twitter.com/keyanohana/status/1365841750003052544
社会科教育と地域・地名 : 「奥羽」と「東北」の歴史的変遷を例に