[2] 五十五人は、江戸時代にこの地が仙台藩領になってから開拓された集落です。 >>424, >>5
[13] の地元の教育委員会が発行した文化財の冊子では、 公年号としてとし、 江戸時代の開拓であることや境内の他の古碑から、 どこか他から運び込まれたと推定しながらも、 真偽不明と述べていました。 >>424
[15] の地元の自治体史の板碑一覧にはこの建保の碑は見当たりません。 >>14 後の引用では該当部分の著者は偽碑としているが、その理由は述べていない、 とされています。 >>3 どこかに偽碑である旨明言しているのか、別の媒体でそう述べているのかよくわかりません。 いずれにしても一覧から意図的に除外されたようです。
[6] の論文によると、 拓本による調査で 「享保四年」 が 「建保四年」 に改竄されていたことが判明しました。 また、 板碑でなく庚申信仰か観音講の碑であるとわかりました。 >>3
[7] 平成時代初期の地元の教育委員会発行の書籍では、 享保時代の私年号の庚申塔ということになっているようです。 >>1 この10年で何があったのでしょうか。
[17] しかし令和時代に至るまで私年号研究の方面では見逃されてきました。 各種の一覧などには掲載されていませんでした。
[8] いつ誰が何の目的で改刻したのか。古く見せたくてというのは各地に事例はあるけれど。 享保 (18世紀前半) の石造物を書き換えた所でそれほど古く見えないのではないか。
[9] でも昭和になって調べるまで疑問符付きながら「建保」銘の碑ということになってたなら、 20世紀になった頃にはもうかなり風化が進んでいたのか?