至大

至大 (日本)

[86] 至大は、 日本の私年号の1つです。

呼称

[87] 読みは、 「しだい」 とされます。 >>80, >>107, >>108

用例

日時事例

[56] >>22 の原所在地が板橋区であるという情報 >>18 は、 >>4 には記載がなく、 >>1久保常晴の独自調査によるものかとしています。 >>4 は当時の所蔵地武蔵野郷土館で発行されたものであり、 その時点で武蔵野郷土館側には受け入れの記録が残存していなかったことになります。 原所在地の情報は慎重に扱う必要がありそうです。

[57] >>4 は「月日」を「左行の意味不明「月日」か」と注釈しています。 >>1

諸説

[111] 用例が板碑1点だけ知られており、その年代特定に議論が重ねられていますが、 結論は出ていません。

[112] 研究者により南北朝時代末期頃から室町時代中頃まで年代にやや幅があります。 最後に検討されてから既に40年近い時間が経過していますから、 近年までの知見も踏まえた再検討が望まれます。

[113] 公年号至徳との類似性を重視する千々和到の説があり、 千々和到公年号1字置き換え私年号論の中核的な事例とされていますが、 板碑の様式論がこの理論に引きづられているきらいもあり、 そうだとすると循環論法的な構造に注意を要します。

[114] 比定年以外の論点はほとんど議論されていません。 南朝系土豪説がありますが、 推測を重ねた仮説に過ぎず、物証に欠けます。比定年次第では成立し得ません。

研究史

[4] 武蔵国板碑集録 第1集, 千々和実は、 >>22 を紹介し、 「『至大』の年号なし,私年号か。」、 と注釈しています。 >>1

[16] 武蔵国板碑集録は第2集と第3集が国立国会図書館デジタルコレクションにありますが、 第1集は未所蔵の模様です。

[21] 昭和42年の日本私年号の研究 は、次のように説明しています。 >>18

[30] また、次のように推測しています。 >>29


[45] 昭和49年頃、肥留間博は、 当時得られた新しい史料を使って久保常晴編年を再検討しました。 >>1

[46] まず、

に基づき、 14世紀末から15世紀初頭、 それも応永年間、 と一旦結論付けました。 >>1 (>>59)

[47] これに対し、県敏夫千々和到至徳の1字置き換えではないかと指摘したため、 再検討し、

ということから、 南北朝時代末期、永和康暦年間から明徳年間まで、 としました。 >>1

[55] 求めたい不明な私年号の側の推測によって編年作業が駆動されているのは、 あまり健全とは思えませんが...
[60] なお、途中経過として言及される昭和49年の論文は、武蔵野郷土館で開催された展示会で刊行されたものです。 >>61 国立国会図書館デジタルコレクションには所蔵がありません。

[43] 千々和到は次のように論じています。 >>6

[7] 日本国東京都武蔵野郷土館保管板碑 「至大元年 月 日」 >>6

[8] 久保常晴南北朝時代末、永和年間頃と推定しました。 >>6

[9] 千々和到は (元真を除くと) 南北朝時代関東唯一の確実な私年号としていました。 >>6

[11] 肥留間博応永年間としました >>6 (>>12) が、 千々和到至徳年間頃としたため、 肥留間博は再検討により永和から明徳のものとしました >>6 (>>1)>>6

[13] 肥留間博の推定は蓮座、花瓶、「 月 日」という紀年銘に注目した型式編年で、 十分に信頼できる結論だと千々和到は評価しています。 >>6

[14] 千々和到公年号至徳の「徳」をよろこばしい「大」に置き換えたもので、 他の私年号にも類例があるとしています。 >>6

[15] 至徳北朝の元号なので、久保常晴南朝方土豪説は成り立ちません。 >>6

[103] 千々和到の諸論文や、その影響下にあると思われる同時代の解説記事等で、 至徳至大私年号によく見られる1字置き換えの典型例の1つとして紹介されています。


[64] 板碑の総合研究 は、 日本私年号の研究南北朝時代説を紹介しつつも、 様式から室町時代中頃と考えると、 しかし決定打が無いので一応南北朝時代の末期とみなし是非は今後の課題としています。 >>251

[65] また、 南朝方の関東在地士族の一揆の所産か、と説明しています。 >>251

[92] 本書の第二巻では、肥留間博南北朝時代の末期と説明し、 「近時」は元号の1字置き換えによりに比定する説が強い >>93、 と補足しています。 >>91


[102] の展覧会の図録では、 南北朝時代末期か、としています。 >>94

[96] また、 峰岸純夫は講演会で板碑研究の意義を説明しましたが、 その1つに私年号研究が挙げられていました。 千々和到の研究を引きつつ、 公年号至徳の縁起が悪いというのか拒否し、 1字変えて災厄が防除できると考え、 至大にしようじゃないかと誰かが考えて、流布し、板碑にも刻まれた、 元号は非常に呪術的な意味を持っているからこう考えられた、 と説明しました。 >>94

[97] 他にもいくつか私年号が挙げられていますが、その筆頭の代表例で至大が使われています。 享正, 延徳, 福徳, 彌勒 なお峰岸純夫には不改年号についての論文があります。


[69] 千々和到のものその他の日本私年号の研究以後の私年号の表では、 時期が次のように説明されています。 >>68

[67] 日本語ウィキペディアは初期から掲載しています。 最初期は14世紀後半としていましたが、 に現在と同様の既述に変更されました。 >>66

[78] 令和改元の頃の中世東国と年号は次のように説明しています。 >>5

[90] 本書と対になる府中市郷土の森博物館の展覧会で展示がありました。 >>89

[105] >>104 はその展示風景。

[109] SNS 投稿で、 南朝方で使われ、「世が大平に至る」と説明しているものがあります。 >>108 根拠は不明です。

[110] >>108 は利用期間が独特な Wikipedia と共通しているので、 Wikipedia または共通の源資料からの派生でしょうか。しかし Wikipedia には「世が大平に至る」などという説明はありません。

メモ