康正

康正

[3] 康正は、日本の公年号の1つです。

元号名

[37] 関係が深い元号名として享正があります。 享正

[36] きう正表記の例があり、干支年から康正と推測されています。 仮名書き年号

1年ずれ康正

正木文書の康正元年

[323] 岩松氏の残した文書群である正木文書のほとんどの足利成氏文書には、 年付が付けられていません。 文書を受け取った岩松氏が到来の年月日を書き加えたものは少なからずあります。 >>288

[324] 岩松氏の書き加えた到来の年号のほとんどは享徳ではなく公年号です。 >>288

[344] しかし、正木文書到来書には「享徳四年」や延長年号の 「享徳五年」も複数確認されています。 >>342

[356] 享徳5年の事例として、

日時事例

があります。 康正への改元日享徳4(1455)年7月25日ですから、 半年以上の延長年号です。 >>288

[357] かつてはこれが唯一享徳5年の延長年号と説明されていました >>288 が、実際には享徳5年のものが複数ある >>342 ようです。 見逃されていたのでしょうか、それとも数え方が違うのでしょうか。

[326] 改元を知らずに享徳5年1月を迎えたとすると、 康正元年 (= 享徳4年) は存在しないはずです。ところが、

日時事例

があります。これに関連して

日時事例

正木文書238の包紙で原本であること疑いなしとされます。 >>288 従って「康正元」は書写時の書き加えとは考えられません。 >>288, >>342

[343] 従来これはとされてきました。 しかし康正への改元日享徳4(1455)年7月25日ですから、 これは遡及年号です。 >>342

[330] 改元前に新元号を知ったとは考えられないので、 改元後のある時期に書き加えられたことになります。 >>288 ただ、 到来書は到着してそれほど間を開けずに書くのが普通でしょうから >>342、 最低でも3ヶ月以上は置いてから書き加えたとすると不自然さが否めません。

[368] 正木文書 151 >>367 /152 は日付が4月6日、到来書が享徳4年4月7日と、月日だけみればちょうど1日違いです。 こちらでは普通に享徳4年になっているので、その翌日だけ違う扱いになっているのはやはり不自然です。

[345] ところで、

日時事例

があります。とありますが、 内容と他の史料からこの文書日付康正2(1456)年9月17日と確定されています。 >>342

[361] 正木文書241 (>>358) の「元」年は従来誤記と考えられていました。 >>342 これが実はのことを「康正元年」扱いしているのだとすると、 正木文書238 (>>327) の「元」年もの可能性があります。

日時事例

[346] 正木文書の「康正元年」 がを指すと仮定すると、

  1. 「享徳四年」 (西暦1455年) →
  2. 「享徳五年」 (西暦1456年) →
  3. 「康正元年」 (238号、241号、242号) →
  4. 「享徳五年」 (147号 西暦1456年9月)

となって文書の順序関係に矛盾は生じません。 >>342

日時事例

[388] 正木文書147 (>>376) は群馬県史が「九月」を「正月」 の誤記かと注釈しています。根拠は不明です。内容でしょうか、 それとも時期が孤立しているからでしょうか。 記載通り9月だとすると、 正木文書241 (>>358) が9月18日、正木文書147が9月19日、20日で連続していて、 前者が「康正元」、後者が「享徳五」です。 このタイミングで岩松持国にどのような変化があったのか、 というのが問題になってきます。

[60] 「正」と「九」を書き間違えるだろうか、しかも当月に、という疑問はあります。

[389] 正木文書中でこの到来書があるのは享徳4(1455)年、享徳5(1456)年、康正元年の足利成氏から岩松持国への文書に限られます。 に当たるものはありません。 長禄2年と推定される正木文書 158「閏正月十七日>>367 /153 がありますが、 岩松持国8月に室町幕府方に寝返ります。 到着日を書き入れる必要があった享徳4(1455)年 (正月ないし3月) から (9月)、 という期間にも何か意味はあるのでしょうか。

香取文書の康正元年

[56] 日本国千葉県香取地域の香取文書などに康正の用例がいくつか残ります。

日時事例

[48] だとすると、 公年号康正2(1456)年丙子12月26日にあたります (>>57)。

日時事例

[49] 158号は少しややこしいことになっています。 明治時代の翻刻では康正3年でした (>>39)。 ところが昭和時代の翻刻では康正2年になっています (>>45)。 昭和時代の方にも正誤表があって、康正2年から康正3年に訂正されています。 目次では元から正しく康正3年になっています (>>46)。

[50] だとすると、 公年号康正3(1457)年丁丑5月10日にあたります。

[52] これはただの誤植なのでしょうか。 よくある誤りとはいえ、ものがものだけに原本でも確認したいところです。

日時事例

[53] >>148 は康正3年と紹介していますが、 >>40 には「きう正三年」 とあり、丁丑年と解釈されています。 きう正 だとすると、 公年号康正3(1457)年丁丑5月11日にあたります。 なお、 >>38 では「きう正年」 と翻刻されています。

日時事例

[57] 以上によればの用例がいくつかありますが、明確に康正2年である例は未発見です。 そして康正元年が1例あります (>>41) が、干支年が合わず、 干支年に従えば康正2年に相当するはずのものです。

[58] 案主家文書には享徳5(1456)年丙子7月28日まで、 新福寺文書を含めると享徳5(1456)年丙子11月17日までの用例があり、 享徳4(1455)年乙亥7月25日康正への改元後も長らく享徳延長年号がこの地域で使われたことが知られます。 享徳

[59] 件の「康正元年ひのゑの十二月廿六日」 (>>41) が元号年を信じて康正(1455)年乙亥12月26日とすると、 享徳4年と享徳5年が続く中に康正元年が混じって不自然です。 干支年を信じて康正2(1456)年丙子12月26日とすると、 享徳5年 → 康正元年 → 康正3年の順に並びます。 >>148

[70] 政治情勢との関係は関東の延長年号を参照。

その他の東国の康正元年

[9] >>8 日光輪王寺に伝わる真言八祖版木2枚。 裏表に各2祖ずつ彫られている。 1つには

  • [11] 「康正元丙子六月日」

と刻まれていて、また1つには

  • [12] 「応永参十三年三月十日」

と刻まれているとのこと。

日時事例

[27] 喜多院仙波東照宮の間にある慈眼堂古墳のあたり? 暦応, 延文板碑が文化財指定されているが、康正は不明。 この一帯には他にも古墳が点在する。

日時事例

[73] 房総叢書は、康正3年は丁丑だと注釈しています。 >>305, >>72

[74] 公年号では丁丑 (ひのとうし) で、 干支年が一致しません。

[75] 戊寅 (つちのえとら) 年で、 やはり干支年が一致しません。

[76] 丙寅 (ひのえとら) は丁丑と戊寅の混乱による誤記と考えられます。

[77] 一般に十二支年は間違えにくいといわれていますが、 寅年が正しいと仮定すれば本来康正4年となるべき年が康正3年と書かれていることになります。

[78] 3年もやはり4年の誤記とも考えられますが、二重の誤りは怪しく、 仮定が誤りだったとするか、偽文書などの可能性も疑わなければならなくなります。

[79] 1年ずれ康正が使われていたとする説も俎上に乗せるべきでしょう。

[80] なお京都では康正3(1457)年9月28日長禄改元されています。 8月とすると約1年の延長年号になります。

東国の「康正元年」の解釈

[61] 以上の用例をまとめると

とおよそ関東の東側に1年ずれ康正の用例が点在しています。

[66] ここでも異年号足利成氏の勢力圏とされる地域、勢力に関係することが注目されます。 中世私年号, 関東の延長年号

[67] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 香取文書の「康正元年ひのゑの子」は 「改元の翌年が元年であるという意識をもってい た筆者が、はしなくも「康正元年」と書いてしまったと考えたい」 「勝俣氏が示された改元の翌年を新年号のはじめとする意識は確実 にあり、文書そのものにも「元年」と書いてしまい、訂正も加えないことがあった」 と考え >>148元二年説の根拠の1つと見なしました。

[347] 平成時代の歴史研究者丸島和洋は、 正木文書岩松持国改元を伝えた人物が康正改元されたと伝えなかったとは考えにくいので、 改元は新年からという認識があったのだろうと考えました。 この認識は在地社会に留まらず国人クラスの有力者の間にも根付いた幅広いものだったとしました。 >>342

[348] 丸島和洋は、 康正改元時の混乱に足利成氏享徳延長年号の影響を見る山田邦明の指摘 ( 享正 ) を踏まえ、 「享徳五年」が復活する理由は不明であるものの、 足利成氏への配慮があったかもしれないと考えました。 >>342

[349] ここで山田邦明丸島和洋が「改元は新年からという認識」 (= 西暦1455年が改元なのに西暦1456年を康正元年とする慣習) があると考えたのは、

  • [362] 改元情報はそれがいつのことか明確に伝えているという前提
  • [363] 元二年という概念があると主張する先行研究

が組み合わさってのことです。

[364] しかし元二年なる概念は、 本件を含めようが含めまいが、その指し示すものが曖昧で、根拠も不明瞭で危ういものと言わざるを得ません ( 元二年 )。

[365] また、改元がいつなのかが正確に伝わるとは限らないことは、 関東の多くの中世私年号の例を見れば明らかです。 改元伝達が混乱していたなら、改元して新元号になったことは伝わっても、 今が第何年なのかはわからないままばらばらの年数が同時に使われ始めてしまいます。

[68] 本来享徳4年に伝えるべきだった改元情報がその年のうちに到達せず、 享徳5年になってやっと届いた時、もう康正2年になっていることを知らず、 「今が康正元年だ」 と誤認してしまった可能性は考えておくべきです。 特に香取の住人は、享徳5年11月まで改元を知らず、12月になって急に改元を知ったとして、 今までも改元が伝わるまで時間がかかることはあったでしょうが、それが1年以上も遅れてるとはさすがに思わなかったのではないでしょうか。

[366] この時代の少し後 (頃) 私年号延徳がはじめ公年号改元と信じられ、 後に改元デマと判明した事例を鑑みると、 「享徳五年」 に復したのは 「康正」 の改元情報の信憑性が低いと判断されたため、という可能性もあります。

[69] 元二年のような未知の観念を想定するより、 まずは正しい 「康正元年」 の情報が伝えられなかった可能性を検討するべきではないでしょうか。

その他の地方の康正元年

[6] >>5 円戒国師慈摂大師は日本伊勢国一志郡川口村光明寺に入った後、 「康正元丙子卯月八日」 に剃髪したとのこと。

[7] 本書自体は明治時代のものだが、その内容はより古い資料に基づくはず。 年号もそれによるものか。同時代資料まで遡れる可能性もあるが、 そうでなくただの誤記、誤算の可能性もあり、なんとも判断し難い。

[18] >>17 松平家系図のうちの松平泰親 (第2代) の経歴中、

康正元年丙子九月二十三日卒

とあります。経歴中上野国とも出てきますが、基本的には三河国の人物で、 没地も三河国と思われます。

[19] 明治時代の出版ですが、原資料は当然古くから伝わるものと思われます。 しかし「康正元年丙子」とする資料は国会図書館デジタル検索では他にありません。

[20] 松平泰親の没年は

  • 明徳4(1393)年 >>16 (誤植か)
  • 応永10(1403)年 (>>16 の本来の説か)
  • 永享8(1436)年 >>15
  • 文明4(1472)年 >>15

と諸説あるようで、どれも康正と一致しません。


[30] 日本国香川県高松市香南町冠纓神社に関する 冠尾八幡宮放生會頭番帳 >>29, >>28 は、 永享9(1437)年丁巳8月15日から康正元年丙子8月15日までの19ヶ年を列挙しています。 日付文明7(1475)年11月15日です。

[31] 19ヶ年すべてで元号年干支年が併記されています。そして

  • [32] 第2年 永享10年丁巳8月15日 : 本来は戊午
  • [33] 第19年 康正元年丙子8月15日 : 本来は乙亥

の2つの年は干支年元号年と一致していません。 これ以外の年は毎年の元号年干支年を表していますから、 第2年は干支年の誤りと判断できます。 第19年は翌年がリスト中にないので、元号年干支年のどちらが正しいのか判断に困ります。

[34] 写本から補う >>28 とあるので少なくても2本あるようです。 補う、ということは主に使った本は原本ではないですし、 補い元の本も原本かどうかはわかりません。

[35] この文書の原本は文明7年時点で過去の資料を参照して取りまとめたものと思われますが、 日付 (特に干支年) が原資料のままなのか、整理されているのかが問題です。 形式が統一されすぎているので、整理されたようにも思われます。 第1年と第2年が2年連続で同じ干支なのは、 原本から写した際に誤って前年の干支を書き写した可能性があります。 第19年は本来「乙亥」と書くべきなのに、第20年に当たる「丙子」 と書いてしまっています。原資料から「乙亥」だったのをそのまま書き写したのか、 それとも整理の際に誤って1年ずれた干支を補ってしまったのでしょうか。


[81] 延治に逆方向の1年ずれの事例。

関連

[4] 前の元号: 享徳

メモ