[1] 慶応 (旧字体: 慶應) は、 日本の元号の1つです。
[120] 明治改元は戊辰戦争中でもあり、特に東北、北海道方面への改元の伝達の実態の解明が必要と思われます。
[13] 南部絵暦は、 明治改元後も慶応のまま発行が続けられており、 (絵暦なので絵で) 「慶応5巳」 と書いていました >>354。
[19] 山口県の本土から見て北の日本海上にある離島の神社 (旧称: 見島八幡宮) にに奉納されたものです。
[20] これについて資料はほとんどなく、 唯一の情報源たる >>15 の小冊子は萩市の図書館にしか所蔵されていないようです。
[21] 図書館の書誌でも発行年不明ですが、 国会図書館デジタルでの雑誌からの引用を確認できます。
[22] ウェブや SNS で現地からの情報や訪問者の情報はいくらか出てきますが、 この銘文の情報はまったく見当たりません。文化財指定もされていないようです。 あまり重要視されていないのでしょうか (でも昭和の頃には小冊子の表紙に選ばれるほどの存在だったはずですが)。
[24] >>23 はのツアー案内。 ところどころの日付があり、 前年版の案内を改変したものと思われます。 オリジナルはより古い可能性があります。 見どころの1つで取り上げています。
[25] >>16 は写真を見ると墨書銘のようですが、 >>23 は慶應5年と彫られた碑と書いています。 別のものでしょうか。しかし >>23 はちょっと曖昧で、書いた人は実物を見たのかよくわかりません。
[121] 旧幕臣で明治時代に入っても慶応を使い続けたものもあったといわれます。 >>94
[172] 「慶応五年」で検索するとまあまあ出てきますね。誤記っぽいのが多いですが、中には本当にあったっぽいものも。
[4]
ただ箱館戦争の時点で函館政権は明治を使ってるようなのですよね。
[5] ずっと干支年だけ使うのは可能かもしれませんけど、慶応を使い続けるのは困難なのでは。 隠居生活の人とかでごくごく私的なやり取りしかしないならあり得たのですかね。
[6] 徳川宗家も会津松平家も函館政権も明治政府に恭順した後の段階でもなお明治天皇の元号を奉じないというのは誰に対するどんな忠義なんだよ、 という気もしますけど、そういう理屈ではないのですかね。
[7] ということを考えるためにはどこの誰がいつどんなふうに慶応を使っていたのか知りたいのですが...