応永

応永

略字

[16]广永」表記の板碑本州北海道で発見されています。 >>2

[143] 東京教育大図書館散歩漫録板碑を写した絵 「永八年」 「正卄五日」 (かなり崩れた字形) >>142 p.一五

応永か? (実物にこうあったのか摩耗して読めなかったのか不明)

[307] 拾萬字鏡さんはTwitterを使っています 「年号の応永は35年まであったが、その長い応永の歴史の中では「广永」と略して書く例も見られる。現在のような「応」の略字はこの頃には確認できず、「應」かそれを崩して書いたようで、画数が複雑だった。」 / Twitter, , https://twitter.com/JUMANJIKYO/status/1479073162705125380

[583] 拾萬字鏡🐦さんはTwitterを使っています: 「まだ用例採取未完の下書きで恐縮だが「廃」も「广」で略した例があると又さっき教えていただいたのでまだまだあるんじゃない?確認次第追記。 https://t.co/0CWnqHqaGz」 / X, , https://twitter.com/JUMANJIKYO/status/1688885421089120257/photo/1

[537] https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29528/21407_1_%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A.pdf

#page=32 #page=33 广永 (応永)

[1] 他の广、厂の事例について、元号名参照。


日時事例

[5] >>637翻刻 (>>3) および説明文 (>>4) で「广永」を合字で1文字扱いにした明朝体字形を (おそらく作字して) 示しています。

[6] >>637 掲載の拓影はやや不鮮明で細部はわかりにくいですが、 より原形を尊重して翻刻するなら 「广永」 が近いかもしれません。

[7]广永」 より 「广永」 の方が若干アドホック感はありますが、 前後の文字の配置を見ると各文字のそれぞれはまとまって独立していますから、 それと比較すると、 「广永」の2文字がたまたま勢いでくっついてしまったというよりは、 もはや1文字と化していたとみなしたいところです。

[8] >>637 #page=81 の板碑にも 「年号不確「广永」か。」 (明朝体) と注釈があります。翻刻では「応永四角囲み」 (明朝体) となっています。 拓影は不鮮明で判読困難。

[12] >>637 #page=88 の板碑翻刻は「応永」ですが、 拓影は「广永」のようにも見えます。

[13] >>637 #page=87 の板碑は拓影だと字形の読取りが難しいですが、 文字の配置的に合字に近い状態になっていそうに見えます。

[575] glyph
see
Wiki//外字
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swc575
downgrade
⿸广永
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⿸广永
demo
swc575
[576] glyph
see
Wiki//外字
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swc576
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⿸广永
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⿸广永
demo
swc576

改元伝達

改元伝達

日時事例

  • [9] 樫崎・内舘 板碑応永元年八月十七日>>637 #page=85

[10] >>9 応永明徳5(1394)年7月5日改元。 仮に日付が建立日近くだとすると改元の約1ヶ月半ということに。

[11] ただ >>9 の拓影は細かいところまでよく読み取れないものの、「応 (應)」 よりも「康」のようにも見える。 康永北朝暦応5(1342)年4月27日改元

特殊例

[14] 日本国東京都府中市宮町旧在 板碑 (府中市郷土の森博物館所蔵) 應永正月十一日 >>390 p.8

[15] 丁亥は丁丑の誤り。 >>390 p.8

メモ