[14] 正見は鎌倉時代の日本の私年号とされるものの1つです。
[53] 銘文は楷書をやや崩した字形ですが、媒体の特性ゆえでしょうが、 少々癖のある字形となっています。 >>52
[3] 写真だと確かに「寛」とするべきか「正見」とするべきか迷う。
[54]
元号名の部分は、正のようにも見える部分と見のように見える部分が非常に近接しています。
他の文字間と比較すると、1字とも2字とも判断に困ります。
[95]
実見して解読している >>62 に写真観察だけで異見するのは躊躇されますが、
隣の「正月」は月の上横画が不明瞭なものの、
正と見の間よりは隙間が大きいように感じられ、
安易に正と見が別字と結論付けられないようにも思われるのです。
[55]
真横に「正月」の正があります。元号名の正のように見える部分は、
非常によく似た字形です。
[56]
元号名の部分は、寛の1字がやや崩れたものと見れないこともありません。
ただ、右上部分の欠如は宀としては不自然です。
[96]
元は、縦画のようなものが見えて判断に困ります。
報告書はそれを指摘しつつも、元と読むことに問題ないと判断しています (>>60)。
全体にひび割れのような縦線がいくつも見えるので、これもその1つのようにも思われますが、
実見に基づく報告書がそう判断していないのは気がかりです。
[97]
この縦画の存在に基づき、「元年」の辻褄が合わないものを「二年」と読み替える解釈 (>>73)
が提示されていますが、論理が謎です。到底二とは読めません。
[15] 出土品の銘文に1例知られていますが、釈読には異説もあります。
[18] 判読と比定には、次の説があります。
[16] 字形は著しく不明瞭とまでは言えないものの、 2字として読めば一致する元号がなく、 1字として読めなくもないものの元号の通例に反するため、 2説あって決着を見ていません。
[17]
年番号の文字もやや不明瞭なため、
元と読む通説の他に二説と光説があります。
しかし二は遡及年号であることから無理に読み換えたもので無理があり、
光は年表示の方法として無理があります。
[133]
寛と読む説は、年を不定とみる説と、
「元元」の短縮とみる説があります。
[4] 「寛元年」だとすると寛元元(1243)年か。「元元」がこのように省略されることは (意図的かどうかはともかく) ないでもない。この時代にあるのか、 文献でなく刻銘でもあるのかは不明。
[134] 元年説は、どちらで読むにせよ、遡及年号となることにやや問題があります。
[5] に寛元改元なのでそちらの解釈でも遡及年号になって >>19 不審なのは変わらず。
[135] 読みが確定されないため、年も確定できず、曖昧な範囲表現のバリエーションがあります。
[136] 利用目的については、宗教や呪術の意図で公年号の1字を換えた、 仏教語と符合させた、といった説明がなされています。 比定年と利用者の属性などからの推測ですが、確実な根拠はありません。
[137] 誤記説もありますが、その根拠は示されていません。
[138] 私年号の一般論として、改元デマ説も検討されるべきでしょうが、 これまで議論された形跡はありません。
[139] 1例しか報告がなく、利用者層の広がり、利用期間、伝播のありさまなどは検討が困難です。
[140] なお、寛七年は現時点で積極的に同じ元号と考えるべき理由がありませんが、 これまで議論の対象となっておらず、検討を要します。
[51] 、 >>28 が遺跡調査により出土しました。 >>48 /29, >>27 #page=16
[57] の報告書は、次のように述べています。 >>48 /120
正の行体とみなし、「正見」の2字とみなす寛の行体とする解読もある元と読む[76] 2説併記しつつ、正見説を優先させています。解説以外の銘文の提示は「正見」としています。 後続の報告書も、両説を提示しつつ正元に当てるのをより妥当としたと要約しています >>49 /137。
[77] 後続報告書は、次のように述べています。 >>49 /137
[82] >>80 はやや意味不明ですが、縁起や信仰で元年を選んだだけで年数は気にしないということでしょうか。
[89]
に安藤義弘は、
>>28
を紹介し、
正見は実在しない年号で議論の多いところであるものの、
またはと想定され、
[10] の同じ雑誌で、 >>28 の発見者である奥川弘成も回想しています。 >>9 /14
[91] それによれば、 昭和62年4月の調査3日目、 奥川弘成の作業中に硯が出現し、 正見元年と直感しましたが、 寛元年とも読めたので、 現場はあれやこれやの大騒ぎとなりました。 >>9 /14
[92] 奥川弘成は、硯を武豊町歴史民俗資料館に持ち帰り、 辞書や年表を傍らに解読を進めましたが、 正見が見当たりません。 >>9 /14
[93] いまだ確証はありませんが、 正見を正元と読み替える私年号説が有力で、 寛元説も捨てきれない、 とする考えでまとまっている、 と説明されています。 >>9 /14
[94] この発見で、知多の中世陶器の編年、全国の中世遺跡の年代決定のものさしの1つがこれで修正されることになった、 とのことです。 >>9 /14
[22]
金石文研究者の愛甲昇寛は、「寛元年」と読んで、「寛元元年」
の元の重複を省いたものと解釈しました。
>>19 この説の提唱の時期や発表の媒体は不明ですが、
>>19 の書き方を考えると、
愛甲昇寛も発掘調査に参画していた可能性があり、
「寛」説を提唱した当人かもしれません。
[98] の自治体史は、 >>28 の銘文を紹介し、正見元年は
の2説があるものの、13世紀中頃だとしています。 >>12
[32] の吉岡康暢の論文は、 中世の陶器の私年号銘を扱ったもので、 >>28 について次のように述べています。 >>1
[118] に福岡猛志は、 次のように述べています。 >>117
[110] の自治体史は、 次のように述べています。 >>108
[83] その後の論文等は、推定をそのまま引き継いでいます。
[87] >>8 は銘文を掲載し、その解釈は示していませんが、 銘文を編年資料として利用可能な「良質な資料」と主張する先行研究の存在を紹介しています。
第6型式期の実年代を特定する良好な資料はみられないが、第7型式期の年代を比定した上で年代を 推定している。第7型式は、尾張型第6型式終末から第7型式の山茶碗を生産した知多の中田池A1号 窯の窯内から「正見元年正月二十七日」等の刻銘をもつ陶硯が出土し、これは「正見」を「正元」と読 み替え正元元年(1259)あるいは正元2年の製作とされる。また、東濃の小滝9号窯から出土した「文 永三年(1266)」の刻銘をもつ山茶碗の蓋が東濃型第7型式期に比定される。以上から、第7型式期は 13 世紀中葉に比定され、第6型式期は 13 世紀初頭を除く前葉に位置付けられる。
#page=163
中田池A地点第 1号窯〔現:中田池 B古窯群〕(第 66図 6) (写真 79, 5)
この銘文については、常滑窯の生産地編年資料⑫としての利用可能な良質な資料であるとか、 窯業生産の統括者に関するもの⑬など様々な議論があるが、今回はそこには触れず紹介するに留 めておく 。 土器の生産地編年で 6a型 式 (1250~1275) とさ れる時期の窯である。 なお、遺跡名 が調査時の名称が中田池 B古窯群に改名されていることに注意。
#page=172
⑫赤羽一郎 ・中野晴久「中世常滑焼の生産地編年」(『常滑焼と中世社会』小学館 1995年)
⑬石井進「中世考古学と歴史学」(『常沿焼と中世社会』小学館 1995年)
[101] の中野晴久の論文は、 >>28 の判読の問題が依然未解決であることを説明しています。 >>19
[102]
中野晴久およびその博士論文審査の質問者は、
元とされる文字を光と読み、
「正見光年」
として仏教的意義を読み解こうと試みています。
>>19
#page=59
6a 型式の山茶碗は尾張型山茶碗の第7型式と共通する特徴を有している。その所属時期は 13
世紀の中頃から後半であるが、13 世紀末には尾張型第 8 型式が成立している。中世常滑窯では 高 台 を 省 略 し た 山 茶 碗 は あ る が、 そ れ の み が 量 産 さ れ る 尾 張 型 第 8 型 式 の様 相 を も った 窯 跡 は 存在しない。従って、13 世紀の第 3 四半期あたりが想定される時期になる。そして、中田池 A ‐1 号 窯 か ら 出 土 し た 陶 硯 の 銘 文 に 刻 ま れ た 年 号 が 正 元 年 間(1259 ~ 1260) と 判 断 さ れ る こ と も、 そ の 年 代 を 裏 付 け る こ と に な る。 こ の 正 元 は 銘 文 で は 正 見 と な っ て お り、 そ れ に 続 く 文 字は元年と読めば読めるが、刻まれた文字は光年のように短い縦線があるように見える。また、 正 元 は 正 嘉 3 年 の 3 月 26 日 に 改 元 さ れ て 正 元 元 年 と な っ て い る。 硯 の 銘 文 は 年 に 続 い て 正 月 二十七日と刻まれており、正元元年にはない月が刻まれているのである。愛甲昇寛は正見を寛と 読 み、 寛 元 元 年 の 元 は 重 複 の た め 1 文 字 で 表 し た と す る 見 解 を 示 し て い る。寛 元 元 年(1243) も2月 26 日の改元で 1 月 27 日は存在しない。この問題の厳密な解決には至っていないが、尾 張型第 7 型式は 13 世紀の中葉を含む型式期であることからすれば、一応その範囲の中に包摂さ れていることになる。
#page=234
編年の指標として位置づけている武豊町の中田池 A -1号窯の陶硯底に刻
まれた年号を「寛元元年」と読めば 6a 型式の年代が 1243 年ころとなり 1252 年を契機にして 生産量も減少するという展開を説明できるのであるが、銘文の年号の読み方は、福島先生のご 指摘もあった通り寛元よりは正元(正見)1259 の方が妥当性を持っていると見られる。
(質問)
年号には「私年号」というものもあり、他に服部英雄氏が「彦山流記」に関連して指摘して いる「未来年号」というものもある。中田池の正見と年の間の文字は元ではなく光 年である可能性もあろう。 (中野) 正見という語には釈迦が最初の説法で説いた涅槃に至る修行の八正道の最初にある正見(正 思 惟、 正 語、 正 業、 正 命、 正 精 進、 正 念、 正 定 ) の 意 味 が 含 ま れ て い る と い う 意 見 も あ り、 光 年という読みも、それと合わせて考えると意味が出てくるかもしれない。
[106] 報告が平成時代初期と新しいためか、 私年号として紹介されることは多くありません。
[104] 日本語版ウィキペディアには、 に追加されました。 正元の「誤記か」 と注釈しています。 時代は鎌倉時代としていて、特定していません。 >>13
[105] 「誤記」説が存在するのか、ウィキペディア編集者の見解なのかは不明です。
[107] 同時にいくつか追加・変更されているので、何らかの資料に基づく編集とも考えられますが、 不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 正見 - 鎌倉時代 不明 愛知県武豊町出土陶硯銘。公年号「正元」の誤記か。
[21] 時系列 :
[2] 正元に比定する理由が同音であること以外に見えないのが不安点。 様式による編年のようなものはないのだろうか。
[7] 探してみたら >>6 のように本来実年代不明とするべき当事例が型式編年に使われてる。 >>108 >>89 >>94 >>119 でも暦年代を決定できる画期的発見として扱われている。