白鹿

白鹿

[1] 北陸朝廷 - Wikipedia () <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%9C%9D%E5%BB%B7>

1346年に私年号「白鹿2年」が用いられた越前国司中院良定から得江九郎頼員へ当てられた「感状」が残っている(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)。これらのことから、当時北陸・東北に南朝方武将の擁立する「朝廷」が存在したとされる。

[2] () <http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/tu.html>

しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った「北陸王朝」を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。

ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。

[3] たんめん老人のたんたん日記 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(4) (tangmianlaoren著, ) <http://tangmianlaoren.blog.fc2.com/blog-entry-491.html>

「北陸王朝」の拠点とされた金崎城はほどなく陥落し、義貞も戦死したが、少なくとも10年間は北陸地方に独立の勢力が存在し、一種の地域国家を存続させ、一時は「白鹿」という年号までも使用していたことが確認できるという。

[4] 太平記について熱く語るスレ () <http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1059646052/172>

ただ、恒良親王は「白鹿」だか「白禄」だかいう元号を使用していたって説もあるんですよね。

その説がどれほど有力なのかは知らないけど、もし真実なら内定どころか明らかに一度は即位してたってことになる。

[5] 新田義貞 ――れきけん・とらっしゅばすけっと () <http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html>

ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国七年(北朝貞和二年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。