[6]
[1] 元年は、日本永正14(1517)年です。
[39] 西巌殿寺は、 日本国熊本県阿蘇市黒川の天台宗寺院で、 阿蘇山修験道の拠点とされます。
[34] >>4 の訂正より、加平元年とは永正14年であると考えられています。 >>2
[35] 同じ209番中、前の紙は永正13年丙子1月11日、 次の日付は永正15年1月11日で、 このことからも加平元年が永正14年であること、 前後に永正が使われていたことがわかります。
[36] この訂正がいつ行われたのかは興味深いところです。
[28] 石塔婆銘は、 発行の植木町史で報告されました。 私年号とされていましたが、 時期は決めていませんでした。 >>8 私年号と断定する箇所と、私年号か、とする箇所があります。 >>8 これが初の報告と思われます。
[20] 日本国熊本県の日本史研究者の前川清一は、 植木町史で知り、 等に町史調査者の1人古財誠也と現地調査しました。 銘文は当初「心是加平元年丁巳弐月吉日」 と読まれていましたが、この調査で誤りが判明しました。 >>19
[69] 昭和60年5月8日、町指定文化財となりました。 >>68 #page=2
[78] 平成23年3月28日、熊本市指定有形文化財となりました。 >>77
[58] 頭部内銘は、加平元年、安国寺寺官正鵬 (60才) が中心に、 仏師元竺によって再興された旨を記述しています。 >>41
[66] 現所蔵の安国寺は、 に弘真寺として創建、 寛永以後安国寺となったとされます。 >>41
[108] 昭和から平成にかけて、熊本県関係で3例が報告されています。 それらへの言及は少なくないものの、 銘文判読に議論があったことを除けば、 私年号としての検討はもっぱら前川清一が最初の2例で行ったものに限られ、 その後放置気味です。
[109] 3用例いずれも元年丁丑で一致しています。同一の元号として考えてよさそうです。
[110] 1例は1月 (阿蘇)、2例は2月 (熊本市) で、 いずれも媒体の性質を考えると同時代的に書かれた可能性が高いです。
[111] 用例が少なすぎるため、時期と共に地域が移動したのかどうかは判断できません。
[112] 年代については、 >>4 により永正14年とするのが通説となっています。
[113] >>37 のような疑義はありつつも、 >>90 のような材料もあって、 現在の所、この通説が最有力と言って良いでしょう。
[114] 利用者は、いずれも仏教関連の媒体であり、銘文の人名にあるような僧侶らということになるのでしょう。
[115] 多くの改元デマのような、年始に出現し、 しばらくしたら消えるというパターンに従っていることが注目されます。 >>4 の訂正もその傍証となり得ます。 これまで当元号の改元デマ説は検討されたことがないようなので、 今後の課題となることでしょう。
[17] >>4 の訂正については >>16 のような解釈もありますが、当初は当然に私年号を使っていたのに、 後からそれが正式な元号ではなかったことを知った者が注釈として書き加えたとする方が納得感があります。 それが当年中だったのか、翌永正15年1月11日に気づいて修正したのか、どちらでしょう。
[37] 可能性としては、もっと後になって読み返した人が、 永正13年と永正15年の間に謎の年があるのに気づいて、 (勝手に推測して?) 永正14年とした、ということもあるでしょうか。 その場合この訂正を根拠に永正14年と断定するのは危険となります。 そう思って眺めると永正17年が2つあって2つ目が永正18年に訂正されていたり、 永正15年だけ干支が併記されていなかったり、 と怪しげな所はあります。
[18] 前川清一は正月であることに注意していますが、これは重要な観点です。 通常の公年号の場合、 年頭に改元しても11日に九州まで到達するかには疑問があります。 (前川清一のいう私年号使用者というのは、考案者ないしそれに近い人物という想定でしょうか。)
[116]
平成時代の地域年号説は、
加平や子平を阿蘇神社が制定したものとします。
[57] 昭和時代初期に >>4 は史料編纂所に収集されていましたが、 私年号史料として注目されていませんでした。
[11] 前川清一は、 石塔婆銘と阿蘇文書を引いて、 熊本県の私年号の1つとして紹介しました。 元年はとしました。 >>513 pp.31-32, >>23, >>19
[15] 同地域の阿弥陀像の石塔はからに分布し、 干支より。 阿蘇文書の添書にある永正14年と一致します。 >>23
[21] 前川清一らは、 当初の干支から, を検討していましたが、 それでは他の石塔と時代が合いませんでした。 そこで現地調査により誤りが判明し (>>20) ました。 (永正13年の同型石塔があります。) >>19
[16] 前川清一は、 >>4 文書には加平元年1月11日とあるので、 吉書誓判した者の中に私年号使用者がいたのだとし、 しかし誓判者の全体には通用しなかったので公年号が添書されたと推測しています。 >>23
[106] に前川清一は、 戦乱を背景に「たいらぎを加える」を祈念する意味があるか、 と述べています。 >>105
[83] 平成13年3月30日、 >>12 の側に案内看板が設置されました。 令和時代の写真によれば、本文や住所・指定日はそのままに、 自治体名のみ合併後に修正された痕跡があります。 次のように述べています。 >>79
[30] 平成23年に合併後の熊本市の文化財として >>12 が指定された際の説明資料は、 次のように述べています。 >>68
時 代 永正14年(1517年)
私年号(加平元年)の記載がある中世石造物板碑は、県内でも数例が確認されるのみで、しかも、唯一本来の場所に完形のもので残っており貴重なものである。
... と説明しています。 >>45
[63] の地域史は、 >>59 を紹介して、次のように述べています。 >>41
[89] また、その別巻でのものは、
... を書いています。 >>87
[107] 残念ながら、現在 Web では当時の「注目」を伝える資料は見当たりません。
[56] 従来私年号の一覧等には掲載がありませんでしたが、 千々和到の系統の表には掲載されています。 >>53
[27] 板碑とその時代は元年をとしています。 >>53 その他千々和到が16世紀の九州の私年号として紹介している場合があります。 >>92, >>103
[55] 日本語版ウィキペディアの表は、 初期から掲載しています。 >>10 その出典は不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 加平 - 永正14年(1517年) 1 『阿蘇文書』など