加平

加平

[6] 加平 (旧字体: 加平󠄃, y~926) は、 日本の中世私年号の1つです。

紀年法

[1] 元年は、日本永正14(1517)年です。

[24] 発見されている用例はすべて元年です。利用された期間は不明です。

用例

[25] 日本国熊本県関連で2件の用例が知られています。


[39] 西巌殿寺は、 日本国熊本県阿蘇市黒川の天台宗寺院で、 阿蘇山修験道の拠点とされます。

[34] この文書の訂正より、加平元年とは永正14年であると考えられています。 >>2

[35] 同じ209番中、前の紙は永正13年丙子1月11日、 次の日付は永正15年1月11日で、 このことからも加平元年が永正14年であること、 前後に永正が使われていたことがわかります。

[36] この訂正がいつ行われたのかは興味深いところです。

[16] 前川清一は、 文書には加平元年1月11日とあるので、 吉書誓判した者の中に私年号使用者がいたのだとし、 しかし誓判者の全体には通用しなかったので公年号が添書されたと推測しています。 >>23

[17] ですが、当初は当然に私年号を使っていたのに、 後からそれが正式な元号ではなかったことを知った者が注釈として書き加えたとする方が納得感があります。 それが当年中だったのか、翌永正15年1月11日に気づいて修正したのか、どちらでしょう。

[37] 可能性としては、もっと後になって読み返した人が、 永正13年と永正15年の間に謎の年があるのに気づいて、 (勝手に推測して?) 永正14年とした、ということもあるでしょうか。 その場合この訂正を根拠に永正14年と断定するのは危険となります。 そう思って眺めると永正17年が2つあって2つ目が永正18年に訂正されていたり、 永正15年だけ干支が併記されていなかったり、 と怪しげな所はあります。

[38] 勝山記の惨状が思い出されますが、考え過ぎならいいのですが...

[28] 石塔婆銘は、 発行の植木町史で報告されました。 私年号とされていましたが、 時期は決めていませんでした。 >>8 これが初の報告と思われます。

[20] 日本国熊本県の日本史研究者の前川清一は、 植木町史で知り、 等に町史調査者の1人古財誠也と現地調査しました。 銘文は当初「心是加平元年丁弐月吉日」 と読まれていましたが、この調査で誤りが判明しました。 >>19

研究史

[11] 前川清一は、 石塔婆銘と阿蘇文書を引いて、 熊本県私年号の1つとして紹介しました。 元年としました。 >>513 pp.31-32, >>23, >>19

[15] 同地域の阿弥陀像の石塔はからに分布し、 干支より阿蘇文書の添書にある永正14年と一致します。 >>23

[21] 前川清一らは、 当初の干支から, を検討していましたが、 それでは他の石塔と時代が合いませんでした。 そこで現地調査により誤りが判明し (>>20) ました。 (永正13年の同型石塔があります。) >>19

[18] 前川清一は正月であることに注意していますが、これは重要な観点です。 通常の公年号の場合、 年頭に改元しても11日に九州まで到達するかには疑問があります。 (前川清一のいう私年号使用者というのは、考案者ないしそれに近い人物という想定でしょうか。)


[27] 板碑とその時代元年としています。 日本私年号一覧表

[30] 熊本市の文化財指定時には植木町史郷土調査の手引き阿蘇文書が参照され、永正14年とされています。 >>2

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
加平-永正14年(1517年)1『阿蘇文書』など

関連

[40] 同じ地域、近い時代に子平がありました。

メモ

[26] 日本私年号の研究になし (当時広く知られていませんでした)。