[23] 改元にはいろいろな手続があり、 元号の選定にはいくつかの基準があります。
[1045] 元号制度は、国家権力などが新たな元号を制定し、 移行を繰り返していくことで運用されるものです。
[256] 元号を改めることを改元といいます。
[182] 元号制度内部での通常の改元の他に、
終了していた元号の再開、
元年以外の途中年からの開始、
元号以外の紀年法への移行のような特殊事情が発生することもあります。
[278] 歴史的には、独立した権力を有する東洋の各国がそれぞれの元号を定め、 その領域で並行して使われていました。元号の制定権は独立した国家権力の象徴であり、 元号を使うことはその政府を支持する(勢力下にある)ことを意味していました。
[279] 政府が分裂したり、弱体化したりすると、国内でも複数の元号が使われることがありました。
[368] 日本では、元号は天皇により定められています。
ただし実際の改元の判断や新元号の決定の過程には、
幕府等その時々の政権が介入しています。
現在は国会の議決により成立した元号法に基づき、
内閣が政令で定めることになっています。
政令の公布は天皇の国事行為なので、
改元手続きの最終段階を天皇が担う制度は日本の歴史を通じて一貫しています。
[88]
第二次世界大戦の終戦後に日本の国政に介入した GHQ
は、
改元に関する新しい法律の制定を妨害することで、
日本政府から元号制定権を奪おうとしました。
しかしその数十年後、国民的な議論を経て
元号法が制定され、
日本が独立国として改元権を有することが再度明らかにされました。
[386] 中国の属国だった朝鮮は、歴史上のほとんどの期間、
独自の元号を定めることができませんでした。
というのも新羅の時代、独自の元号を用いていたことを宗主国の唐に咎められ、
それ以後支那の元号を用いなければなりませんでした。
下関条約で独立が承認され、
ようやく元号の制定権を得ました。
[51]
日中両属だった琉球王国は、中国の元号を主として使っていました。
琉球藩時代には日本政府から日本の元号だけを使うように要求されながらも拒んでいました。
沖縄県時代にようやく日本の元号となりました。
米国統治時代には米軍から西暦の利用を強制されましたが、
日本復帰に伴い再び日本の元号が使えるようになりました。
[91] 遼 (契丹) の保護国だった北漢は、 建国当初旧王朝の元号「乾祐」を使い続けましたが、 西暦957年に「天会」に改元しました。 遼の皇帝はこれを批判する書類を送付しました >>40 普及版 p.205 (長編巻四乾徳元年閏十二月丙子条), >>141。 ただし了承を得なかったことで非難されましたが、 独自元号については問題ではなかったのだろうとされています >>40 普及版 p.205 (>>92 PDF p.11), >>140 PDF p.11 (長編巻四乾徳元年閏十二月丙子条)。
[149] 十六国夏の年号について PDF p.13
[159] 「天王」は仏教尊崇の胡族国家の王名:甘懐真「東アジアにおける四~六世紀の「治天下大王」と年号」 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/f1a9be46de5dcc132c28ffc969a9364b
[114] 漢以来建元 (改元) は皇帝が実施していました。
[115] 三国時代初期の魏黄初3(222)年10月、 呉王の孫権は、 改元して黄武元年としました。 (皇帝即位は黄武8(229)年で、改元して黄龍元年。) 王位で最初の建元とみられます。
[116] 五胡十六国時代最初の 304年10月、 漢王の劉淵は、 建元して元熙元年としました。 (皇帝即位は元熙5(308)年で、改元して永鳳元年。北漢。その後国号を改め前趙。) 劉淵は匈奴であり、 非漢民族王朝の元号の最初の建元とみられます。 王位での建元の初例とされることもあります >>118。
[119] 趙王10(328)年2月、 後趙の石勒は、 趙天王を称すとともに、 太和元年と建元しました。 (皇帝即位は太和2(329)年。) 天王位での建元の初例とみられます。
[121] 北涼の前段階に当たる政権の 使持節・大都督・龍驤大將軍・涼州牧・建康公の段業は、 397年に神璽元年と建元しました。 >>118
[120] 西涼の護羌校尉・秦涼二州牧・涼公の李暠は、 西暦400年庚子、 庚子元年と建元しました。 李は、 東晋中央政府に対して建元の理由を説明しました >>118 (晋書巻87, p.2261)。 それによると、 地理的に離れていることもあって東晋の統治が及んでいなかったが、 日付制度は必要だったため地方政権でありながら建元したものであり、 周辺の異民族国家と違って漢民族国家であるために元号が必要と認識されていたようです。
[82] 元号の制定が独立国の有する権限であるということは、 その実施、つまり国民が国家の元号を利用することが統治の行き届いていることを表しています。
[84] これが顕著にみえるのが戦乱の時代で、
例えば支那の三国時代や五胡十六国時代には勢力の独立の度合いをはかることができますし、
日本の南北朝時代には南朝と北朝の元号の切り替え時期によりいつ誰がどちらの勢力に属していたかを知ることができます。
また幕末に日本各地で私年号や延長年号が残されていることで、
中央政府の統治能力が低下していたことを確認できます。
[113]
現代日本でも、
日本政府に反対する思想を持つ人は、
日本の元号の利用を拒否したり、
排斥したりしています。
あるいは独自の紀年法を使う人もごく少数ですが、確認されています。
[306] このように元号の選択は政治的で宗教的な行為であったりします。
しかしこれは実は暦法全般に言えることでもあります。
[234] 元号の分裂にはいくつかのパターンがあるようです。
[550] 属国が宗主国の元号を用いるようなケースを別にすると、
外交や貿易を除き、他国の元号を使うことは基本的にありません。
[52] 基本的には自国の元号を使い、 私年号も利用者は国内の一部住民にとどまっていたとすると、 世界的に見れば元号が複数使われていたとしても、 それらが併記されることは多くありません。 例外的には次のような事例があります。
[152] 元号を使っていても支配を示さないとされる事例: 越南の元号
[202] 中華王朝が他国の建元を非難した例: 新羅の元号, 越南の元号
[241]
大韓民国初期、大韓民国では檀君紀元、朝鮮民主主義人民共和国では西暦と書き分けて出版した事例
[242]
21世紀の大韓民国、主体の利用が政治問題となった事例
[64] 『皇明恩綸録』の一部校注 - jaas081004_ful.pdf, http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/63357/1/jaas081004_ful.pdf#page=3
木氏土司が清朝に帰順するのは,順治16年(1659)(南明の暦では永暦13年)で(『木氏宦譜』: 53),『木氏宦譜』では,それ以前の元号は南明政権のものが用いられている。
[147] huibao_043.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/78853/huibao_043.pdf#page=3
[170] >>168 >>169 和製の刀で明国輸出のためか明の元号の銘がある事例
[195] 今日の歴史, 小林鶯里, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225287/1/28
歴史上の出来事の年号が並べられている。 欧米の出来事は西暦で、何年。 日本の出来事は元号何年。元号のない時代は誰々帝何年、 たまに誰々天皇何年や紀元何年 (皇紀)。 海外でも西暦紀元前は皇紀になっている。 中国の出来事は採られていないが、孔子誕生は本朝紀元何年と皇紀で書かれている。 稀に日本なのに西暦になっている。
[228] 6_KJ00000133720.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/6/4/6_KJ00000133720/_pdf#page=7
[280] 政府が制定したとされる元号を公年号といいます。 それ以外の元号を異年号といいます。 異年号の中でも特に公年号と関係なく実用されたとみられるものを私年号といいます。
[90] 安定した政権の元号であれば制定の記録が残されていることが多く、 正しい表記も明らかです。 しかしそれ以外にも制定者の明らかではない元号や、 短命政権や反乱軍が使った元号、 公年号の表記のバリエーションらしき元号、 実用目的ではないスローガン的元号や架空の元号などが存在しています。 こうしたものの総称が異年号であり、 その中でも特に (公年号のバリエーションや非実用ではなく) 私的に実用されたとみられるものが私年号です。
[68] 私年号と同義または類義の用語に異年号、 逸年号、偽年号、 僭年号、 古代年号、 九州年号といったものがありました。 これらの用語は中世以来の日本の私年号の研究の中で、 ときに主観的、思想的、政治的な判断とともに、 ときに古代年号と日本中世の私年号を一緒くたにし、 ときに制定・利用者について特定の学説と結び付いて使われてきました。 それぞれの語によって表される範囲にもばらつきがありました。
[65]
そのなかで、日本の私年号研究を大成した
日本私年号の研究
によって公年号に対する各種の異年号 (私年号、古代年号など)
という整理がなされました。
[95]
例えば公年号のバリエーションであって異年号だとしても私年号とはいえない
(私年号の例には適切ではない) 白鳳を私年号の代表例に挙げるものがあります。
偽年号と呼ばれることがあるためか学界から無視されているという根拠のない陰謀論につなげたりするものもあります。
[42]
公年号たる神亀の誤記といわれる白亀が私年号に分類されることがありますが、
適切とは思えません。私年号でない異年号とするべきでしょう。
[93] 日本の元号研究の権威である所功らの日本年号史大事典は、 「異年号 (私年号・偽年号・逸年号)」 を民間で私的に作られた年号であり、 久保の日本私年号の研究以来「私年号」という呼称が一般的になったようだ、 としました。以後本文では「私年号」の語を使いました。 >>40 普及版 p.338
[94] 一方で所功らのより新しい著書 元号―年号から読み解く日本史― は、 法興を私年号と紹介する一方で、 「私的であれ該当時期にあったとは認め難い、 かなり後代に作られたとみられるもの」 を異年号や偽年号といい、 一部で古代年号や九州年号と呼ばれている >>83 p.53 としました。 この間異年号研究にこれといった進展はなく、 なぜ異なる説明となったのか不明です。
[1926] 古代の元号を研究した伴信友は、 「妖僞言せる年號」、 「妖僞年號」 といった表現を使いました >>1731。
[44]
伴信友は白鳳、大長などは実在の公年号とし、
法興もその類として扱い、
古代年号、
(
[46] 具体的には次のようなものを挙げていました。 >>1731
[48] 澤柳大五郎は、 論文の表で 「(私)年號」 の銘文として法興・法興元、 寳元、 永昌を挙げました。 本文で 「私(疑)年號或は外國年號」 であって公年號でないものとしました。 >>1939 「外国年号」とは唐の元号たる 永昌を指します。 残る3例を私年号または疑年号と呼んだのでしょう。 この論文の文脈上、 日本政府の制定したものを公年号と呼んで、 唐の元号はそれに含めなかったものと思われます。 表では簡略して私年号に括ったものと思われます。
... に大別しました。 >>223, >>60 前者は古代年号の類であって、後者は狭義の私年号に当たるものです。
[102] 更にこの2分類に
... を補い、それが時間経過により一に、
空間的伝播により二が生じたのではないかとする指摘もあります >>60。
ただこれは成立要因の分析であって、分類の1つとするには適さないかもしれません。
[186] 前川清一は熊本県の私年号を検討し、関東私年号とも比較しつつ、 次のような見解を示しました。 熊本県でも私年号は混乱期に見られます。 そして私年号は「案外」、福祉元年のように共同体の中で人々の一致した願いを表現したもので、 征露のようにあまり抵抗もなく使用されたきらいがある、 としました。そして、私年号から教養ある人物の存在が窺われるとしました。 >>223
[103]
新版元号事典は、
私年号の建元事由としてよくいわれるものの他に、
四「曽祖父が生きていた○年頃、祖父の時代の第○年目」という呼び方が固有化したもの、
を挙げました。 >>60
具体例は不明で、古い時代でこの類型に当たる事例があるのかわかりませんが、
近年では戦後や命知などが該当するでしょうか。
元号の定義に関わる境界的現象といえます。
[125] 平成31年の元号に関する論文で、 「中国内の正統王朝以外が非公式の独自年号、 すなわち「偽号」を用いることがあったが、 偽号、別の表現を用いれば「私年号」は 」 と書いているものがあります >>124。
[66] 大陸の私年号とされるもののほとんどは、 短命政権や反乱軍などの正統王朝とみなされない政府によって制定されたとされています。
[67]
一方で日本の私年号のほとんどには反政府的要素は見られず、
戦乱などのための社会的混乱や改元デマから広まったものとみられています。
[639] 元号を公年号とするか私年号とするかには、 政治的な判断も含まれてくることがあります。 複数政権が並立した時、その当時あるいは少し後の時代には一方が他方を偽の元号と扱うことがあります。 短命の反乱軍の元号などはそうした経緯から私年号に分類されるのかもしれません。 しかし現在の日本政府の数える日本の元号の数に北朝も南朝も含まれるように、 和解や時の経過によりどちらも正統な公年号と扱われる場合もあります。
[97]
南朝の元号が公年号として扱われる一方で、
後南朝の元号は私年号として扱われます。
これを短命の反乱軍の元号で私年号と矮小評価している、
と批判することもできますが、
実のところ後南朝の元号の記録は二次資料しか見つかっておらず、
制定や実用の様子がはっきりしないようです。 (
[551] 近年の新興宗教の中には、国を越えて信者が広がっており、
かつ独自に紀年法を用いるものも見られます。
そうした紀年法は、国をまたがって使われる元号と言える場合もあるかもしれません。
[262]
私年号は人目を憚って用いられ、
「
[263] しかしその根拠となる法令なり、道徳規範なりを明確に示した研究は見つかりません。 元号の違いと政治・軍事勢力の違いが直結していた中世の元号利用状況や、 大陸の事例からの類推なのでしょうか。 日本の農民層や近世にも無条件に援用できるようには思われません。
[264] もちろん一般論として反政府的な言動が見つかればただでは済まされないでしょうが、 私年号がそうであるとの認識が広く存在したかは疑わしいです。 私年号の存在と反政府的性質を持つとの理解が反政府的庶民側にも取締る支配層側にも広く共有されていなければ、 反政府のため私年号を作ろう、でもバレないようこっそり使おう、 とはならないはずです。 そしてそれが氾濫していなければ、禁止しようともならないはずです。
私年号とは一部の人々が密かに用いた年号である。
とまとめています。 また中世私年号を
これが応仁文明の乱が終ってからは従来の政治的対立から生まれた私年号とは異なって、打続く兵乱に加えて、
天変地異のため、またそれからくる飢饉等の苦を遁れようとして、朝廷、幕府の制定した年号の名称が何ら民衆 に密着したものでないため、幸福と寿命の延びること、経済的な即禄の増す事を求め、福徳、命禄、宝寿等の私 年号が関東に広く使用されている。
と説明しています。 >>258
[190]
久保常晴は、
集権体制の崩壊と文字の一般層への普及により、
正しい表現が崩れていき、
「公年号を軽視する態度」
から
「公年号無視の傾向」
へと発展し、
私年号の出現に至ったと考えました。
仮名書年号等をその私年号発生に至る前段階としました。
>>189 p.
[235]
避諱年号は公年号に含められています。 >>1543 p.
[236]
僭竊年号は私年号に属するべきものだとされながらも、
章題では区別され、
本文中も分けて説明されています。
>>1543 p.
[237]
日本私年号の研究
は史書にない朝鮮半島の古代の元号を一律で私年号としています。
>>1543
史書から漏れたものかもしれず「一応」と留保されていて、
十分検討した上での判断ではありません。
[193] 日本私年号の研究の私年号的諸資料で挙げられたもの (私年号と認定していないもの)
[183] 日本及日本人 (玄冬)(1526), J&Jコーポレーション, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3368301/1/22 (要登録)
北朝元号を私年号と書いている
[163] 紀年法を官方紀󠄆年と民間紀󠄆年に分類している。 清の元号が官方紀年なのは当然、 永清も官方紀年の一環としている PDF p.8。 その他の反乱の元号は民間紀年に分類している。
[171] 最新日本歴史年表, 大森金五郎, 高橋昇造 共著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1908814/1/12 (要登録)
[167] 日本百科大辞典 第5巻, 三省堂編輯所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898069/1/121 (要登録)
[166] 正朔要覧, 宮本和一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1190088/1/60 (要登録)
[175] 栗里先生雑著 : 一五巻 下, 栗田寛, 栗田勤, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087995/1/212
[293] 正年号(せいねんごう)とは? 意味や使い方 - コトバンク, ,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B4%E5%8F%B7-1350220
[287] 岩手の歴史論集 2 (中世文化), 司東真雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538754/1/283 (要登録) 左
[172] Museum (88), 東京国立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4429480/1/6 (要登録)
[173] 国史便覧, 重田定一 等編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769393/1/77
[174] 国史概説, 大森金五郎 述, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769275/1/143
[176] 経済史観日本 上巻, 中村直勝, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1276238/1/65 (要登録)
[177] 新撰日本仏教年表, 橋川正, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1174324/1/245 (要登録)
[178] 図書館学研究報告 (15), 東北大学附属図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1796754/1/3 (要登録)
[179] 日本の歴史 8, 樋口清之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1627745/1/83 (要登録)
[180] 日本建築様式, 井上一之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2469974/1/234 (要登録)
[181] 対照世界美術年表, 中村亮平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1902443/1/237 (要登録)
[184] Museum (88), 東京国立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4429480/1/6 (要登録)
[185] 中国石刻経研究, 桐谷征一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3148822/1/461 (要登録)
[188] 豊前国佐田郷土史 上巻, 大隈米陽, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989252/1/78 (要登録)
正慶に私年号と説明がある。暦応、応安には何も書かれていない。
[191] 香取文書纂 巻之1,2, 伊藤泰歳, 村岡良弼 校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/815200/1/10 (要登録)
[196] スライド 1 - 560.pdf, , http://koshigayahistory.org/560.pdf#page=7
[197] 097芸文紀要10巻ブック.indb - p058.pdf, , https://www.tad.u-toyama.ac.jp/_wp/wp-content/themes/wp-geibun/assets/images/research/bulletin10/p058.pdf#page=3
[199] 令和4年末に国立国会図書館の全文検索が拡充されてから約1ヶ月のうちに、 平成時代までに報告済みの異年号でこれまでに一覧表等に掲載されてこなかったものが十個くらいみつかってます。 きっとこの先もっとみつかるでしょう。
[230] 昭和時代初期の朝鮮研究者鮎貝房之進の論文では、 歴代朝鮮半島王朝 (高句麗、新羅、弓裔、高麗) の元号をすべて私年號と呼んでいます。 朝鮮は中華王朝の属国でありながら、 中華王朝が衰退した時代には私年号を建てたと説明していました。 >>231
[239]
「王権の発動とは異なる私的な次元での年号の使用」
[259] 小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編, 小山市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/443 (要登録)
年号は、為政者にとって時間を支配していることを示す重要なツー ルでした。その年号を用いている範囲ことが、支配している領域を 意味しましたから、その使用、不使用を巡っては様々なエピソード を生みました。 しかし年号は、為政者がほしいままに操れるものではありません
でした。為政者に徳が不足していれば社会が乱れるとされ、自然災 害までもが徳の無さに結び付けられたのです。為政者は改元によっ てリセットできることを期待し、人びともまたそれを待望しました。 そして、人びとの改元への期待は、時として、自ら年号をつくり出 しました。それは公年号のように流布することまでありました。
[268] これは元号と為政者と住民の関係性をよく説明しているなあ。
[269] 元号というものの説明ではしばしば「時の支配」という側面が強調され、 国だけでなく時間まで支配したがる強欲な支配者とネガティブなイメージを描く人もいるけれど (その極端な例が元号廃止と天皇制廃止を主張する人たち)、 為政者が国土と国民の隅々まで支配しきれていないのと同じように、 時間も隅々まで支配することはできていないというのは本当は抑えておかないといけないポイント。
[270] そして地理的な統治が為政者から住民への一方的な「支配」ではなく住民も必要としている (例えば経済システムや行政サービスはなくてはならないし、 日頃意識されることはないけど、それらの基盤となるのは度量衡の統一である) のと同じように、 時間的な統治も一方的な「支配」ではないということは、 もっと十分よく理解される必要があろう。
[288] 近代諸元号現象 は、 ごく一地域など国家でない限定された共同体内で流通した元号を私年号 (異年号, 偽年号) というとしています。 >>431
[57]
新羅は独自の元号を廃し、
唐への恭順の意を示しました。
[49] 平将門の乱で平将門が建元しなかったため、 独立の意思はなかったと評する説があります。 >>617, >>618
[58]
オウム真理教は独自の元号を定めていました。
建国後に施行する憲法案にまで記載していました。
にも関わらず、
破防法適用手続きでは、
日本の元号ではなく西暦にかわるもので、
国家転覆の意図はなかったと釈明しました。
[72] 日本では大宝、慶雲の頃から改元の行事が制度化したとみられています。 >>71
[76] 幕末までの改元では、 年号勘者を定めて案を提出させ、 公卿の難陳 (審議) を踏まえ天皇が詔書で公布していました。 >>73
[39] 朝廷内で様々な案を出して絞り込み最終的に天皇が決定する方法が平安時代から江戸時代まで一貫して採られていました。 最終案を天皇が承認することもあれば、 数案提出させて天皇が選ぶこともありました。 >>40 p.25-53
[47] 改元があると、 朝廷では政始の儀が行われ新元号が通達されました。 >>40 普及版 p.415
[77] 摂関家、 上皇、 幕府といったその時々の権力者たちも、 改元や元号の選定に介入しました。 朝廷の正式な手続きは幕末まで続きましたが、 採用案が内定している形骸化した選定手続きも多かったようです。 >>40 p.25-53 (c.f. >>55)
[61] 特に江戸時代には、 江戸幕府が改元の実施や新元号の決定の実質的な決定権を有していたとみられています。
[78] 朝廷での改元手続きに関する文書は 続群書類従公事部や古事類苑歳時部に多数収録されています。 江戸時代初期の江戸幕府の改元政策については林春斎の 改元物語 に記録されています。 >>40 普及版 p.25-53
[41] 明治改元では、 形骸化していた従来の手続きが廃され、 候補案から明治天皇が籤で選びました。
[79] 大正と昭和の改元では、旧皇室典範に基づき践祚時に枢密院に諮詢し、 天皇が勘定して勅令として公布していました。
[80] 平成改元以後、 元号法に基づき内閣が選定し、 天皇が政令として公布しています。
[106] 所功は、 平成31年出版の書籍で、 「年号文字は、どのようにして選ばれ定められたのか。 中国のことは、寡聞にして今のところ明らかでない」 >>105 しました。 日本以外の元号の選定手続きの詳細は研究が進んでいないようです。
[129]
歴史的には、
元号名が事後的に定められた例もありました。
[294] 文芸類纂 巻4 文志 下, 榊原芳野, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991274/1/9
[271] 元仁は、 朝廷が11月に改元し、 元仁元(1224)年12月4日に鎌倉に通知が届きました >>440 (吾妻鏡)。 ところがのうちに鎌倉幕府は 「元仁不快」と咎めました >>440 (明月記 嘉禄元年四月十五日条)。
[272] その結果朝廷は4月に嘉禄と改元しました。 表向きは災異改元とされますが、 鎌倉幕府が不快を表明したための改元でした >>440 (明月記 嘉禄元年四月十五日条)。
[273] その後13世紀半ばまでに元号の字について朝幕間で協議する慣例が成立しました。 >>440 (文士と御家人, 北爪真佐夫 (c.f. >>55), 延慶改元・改暦への鎌倉幕府の関与について, 福島金治)
[274] 延慶度 (), 正慶度 () も「今度関東内々有申旨之間」 と改元の発議や字の選定に鎌倉幕府が関与しています。 >>440
[275] 康安度 (), 康暦度 () は室町幕府の意向で時期が定められました。 >>440
[276] その他、武家から改元を発議したり、 年号勘者や元号名の選定に関与した例が多数あります。 >>440
[277] 室町時代後期になると改元費用を武家が負担するようになりました。 >>440 (室町期の朝廷公事と公武関係, 久水俊和)
[285] 歴史研究者の今谷明は室町幕府に改元の全面的な主導権 (発議権、協議権) があり、天皇はまったくのロボットだったとしました >>440 (天皇家はなぜ続いたか, 平成3年)。 しかし今谷明の指摘するように足利義満期の関与は大きかったとはいえ、 権力者の改元への介入はどの時代にもあることで、 「まったくのロボット」とはいえないと現在では評価されています。 >>440
[160] 久水俊和著, 『室町期の朝廷公事と公武関係』(中世史研究叢書 20), 岩田書院, 二〇一一・九刊, A5, 三九〇頁, 八四〇〇円, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/121/12/121_KJ00008520497/_article/-char/ja/
[19]
平成の発表は官房長官の記者会見で行われました。
[18]
令和の発表は官房長官と内閣総理大臣の記者会見で行われました。
手話で同時通訳されました。
英語同時通訳もあったとする説もあります。
テレビやインターネットで生配信されました。
[45] 改元は幕府や大名など各時代の統治組織を通じて各地に伝達されました。
各組織で改元の儀式があり、
(朝廷の改元日ではなく)
これをもって新元号を利用開始しました。
[164] 日本政府 (行政府、立法府) は改元による書き換えだけを目的とした法令の改正は行わない方針を取っていますが、 地方自治体レベルではそのような改正が行われた例があります。
[165] 改元に伴う関係条例の整理に関する条例, , https://www2.city.takarazuka.hyogo.jp/reiki_int/reiki_honbun/k316RG00001182.html
[17]
日本政府の外務省は、
令和改元で令和の意味が英語「beautiful harmony」
であると発表しました
[205] 越南の元号のうち、最後の阮朝は、 大南実録 など比較的豊富な資料が残っていて元号名の出典や意味が知られています。 >>204
[213] それ以前の元号は資料が少ないですが、 阮朝や他地域の事例を援用する形で建元意図を推測する研究があります。 >>211, >>204
[295] 元号の難陳は、「和音」で行うべしという主張 - 日本中近世史史料講読で可をとろう, https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190115/1547537888
[24] 元号の選定の基準はありますが、 これだけでは元号を元号たらしめている 「元号らしさ」 は見えてきません。
[26] それでも過去の元号のほか、 私年号、 改元デマ、 架空の元号の事例をみても、 何らか「元号らしさ」 というものはあって、庶民を含むいろいろな人々の間で共有されていようことがうかがえます。
[25] 令和改元では新元号発表まで多くの人が予想を楽しんでいました。 どうにも元号らしくないものも (ネタで) 挙げられましたが、 本気の予想の多くは元号らしがが感じられるものでした。
[27]
一方でスローガン的元号は元号らしさがないものがほとんどです。
初期は漢字2文字など元号らしさがまだ残っていましたが、
時代が下るに連れてかけ離れていったようです。
[5] >>3, >>4 タイトルだけみると、くだらない元号予想合戦にバズワードを足した低俗な釣り記事のように感じるのですが、 実際読んでみると、 われわれの感じる「元号らしさ」の正体を探る企ての端緒として興味深くおもわれます。
[6] (その点 >>3 の続編の【続】平成の次の元号を、AIだけで決めさせる物語(@テレビ取材) - Qiita () https://qiita.com/youwht/items/7b1118ecd91bd2e232bb は残念ながらただの予想記事です。)
[11] >>5 「令和」は最初に見せられた時ちょっと元号っぽくないかも?と思ってしまった。 よく見ているとだんだん元号っぽさを感じてくるから不思議。
[12] 「元号っぽさ」も当然時代が進むに連れて変わっていってるのだろう。 平成も改元当初はぴんとこなかったと言っている人が多い。 令和も年を重ねていくことで意味が積み重なり折り重なり、 「元号らしさ」を染めていくのだろう。
[13] そうだとしたとき過去の元号から学習した「元号っぽさ」 がまだ見ぬ将来の元号にどれだけ適用できるのか、というのも興味深い。
[14] ある理系院生による新元号予想の軌跡 (2ページ目) - Togetter () https://togetter.com/li/1333815?page=2
[28] 文明や治安など、同字の一般名詞が生じて現代では元号らしさが消失したものもあります。
[29] ネタ枠代表扱いの「タピオカ元年」も音の響きは案外漢字2文字4音の漢語にありそう。 タピオカ流行を祥瑞といえなくもない。 伝統と新鮮味を適度にミックスするという近年の元号選定事例にのっとっているともいえる。
[30] 「俗用されていない」という現在の元号の選定の基準は満たさないけど、 奈良時代くらいに遣唐使が持ち帰ったタピオカを孝謙上皇がいたく気に入り改元した、 的な並行世界はあり得るのではなかろうかw
[31] タピオカは平成の30年で大流行したのだから、追号するなら平成時代にかもな。
[32] 元号の選定の規則は後付けで、 1000年以上の歴史の中で日本人に刷り込まれた 「元号らしさ」 を最低限書き表しただけのものだから、 候補を絞り込むための条件として検査には使えても、 そこから元号候補を発見するのは難しいかも。
[131]
「創業令和元年」は重みを感じる、「創業平成何年」はそれほどでもない、
という話が令和元年秋頃には出ていました。
[20] 日本の元号や中国の元号の元号名の漢字の利用頻度や選択の傾向については、 日本の研究者所功の研究があります。
[226] 越南の元号の元号名の漢字の利用頻度や意味については、 越南の研究者らによる日本の元号や中国の元号との比較を含む分析の研究があります。 >>204, >>222
[227]
日本の私年号については、同時期の公年号と似た漢字が出現しがちという法則性が知られています。
[133] 日本では、 昭和時代の当用漢字表によって漢字制限政策が採られました。 常用漢字表により徐々に緩和されてきているものの、 使用するべき漢字の集合の目安が示されており、 それ以外の漢字の公的な利用は忌避される傾向があります。
[136]
過去に日本の元号で利用された漢字でも、
当用漢字表や常用漢字表に含まれないものがあります。
[134] 平成改元時、 日本政府の内閣法制局は、 「元号といえどもこれを漢字で表記するというのであれば、常用漢字を用いるべく、かつ、その字体も常用漢字表に掲げられているものであるべきことは、法制局が当然審査すべき事項である」 としました。 >>21
[135] 令和改元時までに方針が転換されたとする根拠はありませんが、 常用漢字ではない (が人名漢字ではある) 「翔」 が有力候補に入っていたといわれています (>>36)。
[328] 元号選定手続について (内閣公文・国政一般・一般・暦時・A04-1・第1巻 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001159113
[9] いよいよ新元号発表、有識者会議はじまる『新元号の有識者懇談会のメンバーに選ばれるのは国民の意向・意識を反映できる人物って解説していたがそこにNHK会長が入っているのはなにかのギャグですか?(笑)』とネットユーザのツッコミ - Togetter () https://togetter.com/li/1333657
[10] 左大臣・藤原頼長の言い分とは? 白熱の元号論議「難陳」が続いた1000年(日経BizGate) - Yahoo!ニュース () https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190325-00010000-nkbizgate-bus_all
[15] () https://www.digital.archives.go.jp/das/contents/pdf/lossy/H11B0001720000/069509831435.pdf
[16] 日本の年号候補・未採用文字案 | ミカド文庫 () http://mikado-bunko.jp/?p=842
[22] 新元号「政府の最有力案」葬儀社名に使われ断念 : 令和・新時代 : 読売新聞オンライン () https://www.yomiuri.co.jp/kaigen/news/20190501-OYT1T50036/
[33] >>22 この記事に書かれていることが正しいと仮定すると、
前者は明治生まれの日本人が2000人前後在命と推測されているため回避されてよかったと思われます。
[37] JIS X 0301 で元号を表すために「N」、年を表すために「Y」が使われているので、 これが先頭に来る元号は好ましくないという意見があります。 JIS X 0301 のような正式なものではありませんが、「G」や「X」 が使われることもあります。
[38] といってもこれらはいずれも書式の記述に使うこともあるという程度のもので、 元号の選択を縛るほど深刻な影響をもたらすとは思えません。
[128] 古事類苑 (歳時部四, 年號下, 改元, 革令改元, 第 1 巻 285 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000285.html
[59] Japanese era name - Wikipedia () https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_era_name#Unofficial_era_name_system
[63] 読史の趣味 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=yuI8YiwZLMcC&pg=PP245&dq=%E5%BE%81%E9%9C%B2%E5%85%83%E5%B9%B4
[69] 8e3b898e0f05f5edbce346f976a21592.pdf, , http://www.wujhss.whu.edu.cn/d/file/rwb/dqml/2017-06-10/8e3b898e0f05f5edbce346f976a21592.pdf#page=6
[74] 永昌 (李自成) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%98%8C_(%E6%9D%8E%E8%87%AA%E6%88%90)#%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%81%8B%E5%90%A6%E3%81%8B
[75] ノート:永昌 (李自成) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%B0%B8%E6%98%8C_(%E6%9D%8E%E8%87%AA%E6%88%90)
[86] プロジェクト‐ノート:紀年法/ガイドライン - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3
[87] 同和はこわい考通信 No.34 - 藤田敬一 (, ) http://kowaikou.main.jp/34.htm
[107] [抜書き]『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』 (, ) http://www.kkjin.co.jp/boso010_130317.htm
[108] プロジェクト:紀年法/ガイドライン - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3#%E5%80%8B%E5%88%A5%E5%85%83%E5%8F%B7%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88
[110] プロジェクト‐ノート:紀年法/ガイドライン - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3
[111] 延寿 (高句麗) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%AF%BF_(%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97)
当初は新羅の逸年号と見られており
新羅の私年号延寿元年、
[137] 永和 (朱一貴) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%92%8C_(%E6%9C%B1%E4%B8%80%E8%B2%B4)
[138] 097芸文紀要10巻ブック.indb - p058.pdf, , http://www.tad.u-toyama.ac.jp/outline/research/pdf/bulletin10/p058.pdf#page=3
[142] 淑徳大学書学文化センター蔵中国石刻拓本目録.pdf - 淑徳大学書学文化センター蔵中国石刻拓本目録.pdf, https://www.shukutoku.ac.jp/albums/abm.php?d=81&f=abm00000508.pdf&n=%E6%B7%91%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9B%B8%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%94%B5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%9F%B3%E5%88%BB%E6%8B%93%E6%9C%AC%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf#page=102
建平元年2 月11 日(398)
劉宋の建平元年(454)か北魏の建平元年(415 と508 の2つあ り)。共に私年号。
他に五胡十六国の燕にも建平元年(398)はある(該当するであ ろう時代のみを記した)。この拓本の舊蔵者である天放楼・趙 烈文はこの造像記の按語に「或是劉宋時」と記す。
また、『中国磚銘』では、单燕とする。同書ではこの磚と葉 氏の磚を他にも収錰しているため、单燕の建平元年とするのが 妥当であろう。
#page=116
北魏私年号
聖君
興平
#page=148
廣安3 年6 月2 日造像記(528) 北魏の葛栄の私年号(526~528)
[143] 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ, NetCommons, https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2429&item_no=1&page_id=13&block_id=41
[145] 渡部恵美子 戦国大名と私年号 信大史学 22
[146] https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=5688&item_no=1&attribute_id=22&file_no=
偽元号
[150] Wikipedia:削除依頼/渤海史の偽史関係 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%81%BD%E5%8F%B2%E9%96%A2%E4%BF%82
偽年号
[151] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4424952
卒業論文・報告 十五・六世紀における私年号の考察--「永喜」を中心として=Graduation Theses and Reports A Study of "Shinengo" (Unofficial Name of an Era) in the 15th and the 16th Centuries / 山崎真佐恵/p154~177
[158] 永昌 (李自成) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%98%8C_(%E6%9D%8E%E8%87%AA%E6%88%90)
[161] ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム () https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1320715100/1320715100400030/ht072480
[192] 改元詔書, https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_02478_0051/index.html
[198] タテ05_水上氏.indd - 0529-6803_61_55-82.pdf, , https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=12948&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
[243] 中国石刻拓本デジタルア-カイブズ 天放楼・経像刹鐘古刻零残彙装|淑徳大学, https://www.shukutoku.ac.jp/university/facilities/syogaku/takuhon/tennpourouzouzouki.html
年代:南燕 建平元年
西暦:劉宋の建平元年(454)か北魏の建平元年(415と508の2つあり)。共に私年号。他に五胡十六国の南燕にも建平元年(398)はある(該当するであろう時代のみを記した)。『中国磚銘』では、南燕とする。同書では葉氏の磚を他にも収録しているため、南燕の建平元年(398)とするのが妥当であろう。