[30] 建教 (旧字体: 建敎) は、 日本の私年号の1つです。
[92] 旧字体により建敎と表記されることがあります。 >>4
[93]
実用例の写真 >>58 は、解像度の不十分なものしかなく断定しがたいものの、
新字体の教で書かれているように見えます。
[108] 現在知られている用例は、すべて元年2月に属します。また、同じ著者による同年3月の公年号の用例が存在します。 いずれも同時代用例の可能性が高いと考えられますが、もしそうであるとするなら、 元年2月の約1ヶ月が利用期間と考えられます。ただし、日単位の厳密な期間を確定させる材料はありません。
[109] 現在知られている用例は、すべて同じ人物によるものです。 その人物が個人で利用したものか、その所属する東大寺や他の奈良地域で広く用いられたものかは不明です。
[27] 鎌倉時代の僧侶で日本大和国奈良東大寺に所属 (より)、後に幹部となる宗性上人 ( - ) の用例がいくつかあります。
[47] 3点の用例が知られています。 >>2 によれば、このうち2点は物理的に1つの史料の異なる部分 (おそらく日付通りに書き足された各部分) に属するようです。 >>80 や同著者の >>200、 >>80 を引用した >>44 では2つの異なる史料のようにも見えてしまうので、 注意が必要です。
[48]
>>29 では左ルビとしてが3つ、
>>41 では右ルビとしてゝが2つあります。凡例に示された編纂方針によれば
>>29 が原型に近そうに思われますが、できれば実物や写真によって確認したいところであります。
見せ消ちのようにも思われますが、元号名、あるいはそれと元の字を削除したとして、
それに代わる新しい文字列が記載されておらず、意図が不明瞭です。
[31] 同じ宗性によるものとして、春華秋月抄第一の奥書に 「嘉祿元年正月十三日申時」云々としたものがあります。 しかし = 嘉禄元年の改元日は4月ですから、 遡及年号であります。 また、続く奥書には嘉禄2年、嘉禄3年の日付も見えます。 >>4 /195 してみれば当該日付は後日に遡って記載されたものであること明らかです。
[32] 同じ宗性によるものとして、 季御讀経番論議問答記 の本文に「元仁二年三月廿二日」云々とあり、 奥書に「元仁二年三月廿四日巳時」とあります。 >>4 /200
[33] なお、 >>28, >>8, >>32 には奥書の宗性の名の隣に生年24、 夏﨟12とあります。従って、両者が同じ年に書かれたものであることが知られます。
[49] 宗性の史料を集成した >>4 >>2 によるなら、少なくても昭和30年代に知られていた範囲において、 元仁2年2月の範囲において専ら建教の紀年の資料のみが残されており、 宗性がこの期間に公年号を使った資料は確認されていません。
[115] 久保常晴や千々和到という昭和時代、平成時代を代表する私年号研究者の説がα説系に属し、 一応の通説となっていると考えられます。
[116]
β説はこれまで俎上に載せられてきませんでしたが、
他の改元デマや中世私年号の実情と当時の公年号をめぐる政治的混乱を踏まえて当然検討されるべき仮説でしょう。
少々時代は離れるものの、政治中心地の京都から少し離れた奈良では不安定な改元情報が流布していたことが知られています。
[117] なお、単純誤記説も一応検討すると、
... から成立し難いと思われます。これを唱える研究者も見当たりません。
[122] また、字形が比較的明瞭であることから誤読説も考えにくく、 おそらく自筆原本と思われることから誤写説も難しいです。
[99] いつを表すかについて、ほとんどの説はを元年とします。 これは同じ著者による公年号を使った他の記録との整合性から推定されたもので、 昭和時代中期以来現在に至るまで通説となっている解釈です。
[100] この他に説がありました (>>35) が、 この説を述べた同じ書籍が元仁2年説を採用しており、 誤解によるものと考えられます (>>40)。
[101] また、元仁2年をと説明したものもありました (>>18) が、1年ずれの誤記であることが明らかです。
[102] いずれにせよ説は十分な根拠もなければ、 積極的に支持する者もいないと考えられます。
[123] いつ使われたかについては、 2月前後 (>>49) と考えられます。
[124] もし他の地域でも使われたとするなら、他の私年号の事例から類推して、 地域によって時期が前後する可能性もありますが、 単一系統の用例しか報告されていない現時点では検討のしようがありません。
[153] なぜこの時期に使われたかについて、α説は何も説明していません。 旧仏教再建 (>>127) を誓ったにしても、 「24才の血気盛んな年代」 (>>67) だけでは元仁2年2月という時期の説明になりません。
[154] β説は、公年号の改元が鎌倉の不興を買った一種の混乱した朝廷の状況が改元デマを生んだと説明することになるのでしょう。 この説を採る場合、前年12月の鎌倉の返答から当年4月の改元までの間の出来事を整理し、 2月という時期を位置付ける必要が出てきます。
[110] 誰がどこで使ったかについて、 α説は東大寺の宗性が個人で、 または東大寺や旧仏教側のような比較的閉じた集団内で使ったと想定しています。 誰が考案したかについても、 利用者当人またはそれに近しい人物の考案と想定しています。 これは主として他の用例の不存在を根拠とする説と考えられ、 積極的に肯定する根拠があるわけではありません。
[134] 東大寺全体で、あるいは南都の旧仏教の寺院群で組織的に使われたものか、 それとも一部の集団に限られたものか、について諸説積極的には主張していません。
[125] β説は、宗性や東大寺のような特定の人や場所を限定せず、 たまたま記録に残った宗性以外にもこれを使った人がおり、 ある程度の範囲に流布されたと想定することになるでしょう。 しかし、宗性以外の用例が現存しない以上、これを積極的に肯定する史料的根拠は皆無です。
[132] いつどのように伝播したかについて、諸説積極的には主張していません。
[133] α説によれば、限られた範囲で使われたものですから、 (伝達されたとすれば) 当時の日常的なコミュニケーション方法で伝達されたということになるでしょう。 東大寺等の単位で組織的に用いられたとするならば、 その組織内の指揮系統に従ってということになるでしょう。
[136] β説によれば、公年号の改元伝達ルートにより、 あるいはその他の情報伝達ルートにより改元の誤情報が伝播したことになります。 しかし、現在までにこれを裏付ける史料的根拠は見つかっていません。
[137]
応仁度 () に音声 (読み) だけで興福寺に改元情報が伝播した事案
[135] いずれにせよ、当時の他の情報伝達のあり方と比較検討する必要があります。
[127] 利用の意図について、 α説の久保常晴は旧仏教再建の願望と誓いを込めたと説明しています (>>69)。 これは「建教」という文字面と宗性の立ち位置からの推測です。 しかし、利用された史料との関係は薄く、2字の漢字からの推測としては飛躍が否めません。
[129] 千々和到は、建教に限定したものではないものの、 僧侶自身の記念するべきことがあったときか、 改元待望のあったときに使われたのではないかと推測しています (>>86)。 前者は久保常晴説の一般化と思われますし、 後者も千々和到による関東私年号における改元待望説やひろく災異改元の性格からの類推と思われ、 建教の文脈で具体的な根拠を挙げて議論したものではありません。
[128] β説によるなら、公年号と誤認して用いたに過ぎず、特段の意図がない日常利用ということになります。
[111] 現在知られている用例はすべて、日常的な東大寺の宗教的実践の中で生産されたものと考えられ、 私年号が用いられることを除くと、特殊な性格は見て取れません。 仏教という宗教的文脈に属するとはいえ、特段の呪術的性格も持っていません。 仏教寺院で用いられた他の私年号の使われ方との共通の特異性も見当たりません。 著者の著作等で「建教」の元号名に結びつけられ得る思想的な表明の存在も報告されていません。 かかる利用状況に照らして、著者や著者ら小集団の個人的な思想信条に基づくとする説は疑問を挟む余地があります。
[146] 元号名の意味を、 α説の久保常晴は旧仏教の「教を建てる」と読んで再建の理想を意味するとしました (>>68)。しかし状況証拠以上の根拠はありません。
[147] 仏教僧が「御仏(みほとけ)の「教えを建つ」」意味を込めたと説明するものもあります (>>97)。 根拠は不明です。α説からの転訛でしょうか。
[148] 近現代の新興宗教が立教のような名称の紀年法を用いる事例はいくつかありますが、 新仏教でもなく旧仏教側がこのような元号名を建てるものかは疑問がないでもありません。 旧仏教の「再建」というのも現代歴史研究者的な視点のように思われます。
[149] β説は元号名に強い意味はなく、何らかの誤解で生じたものと説明することになるでしょうか。 しかし現時点では「何らかの誤解」の候補も示すことができません。
[143]
元号名のうち、建はこの時代の元号の1文字目の頻出字であり、
鎌倉時代の元仁までに、
が存在しました。従って当時の人にとって強く元号らしさを感じる要素だったと考えられます。
[144]
一方で2字目に教を使った事例は皆無であり、元号らしさを低める要素だった可能性はあります。
公年号未採用案まで含めても、令和度までの日本史全体で2例しかありません
>>145。
ただ、現代においても「建教」という組み合わせにはどことなく元号らしさが漂っており、
当時も必ずしも元号らしさを感じない元号名だったということはできません。
[150]
私年号に公年号の1字を変更したものが多いことは千々和到の指摘するところですが、
建教もその法則に当てはまる1つです。
[126] どのような形態で使われたかについて、諸説積極的には主張していません。
[130] >>111 の通り用例が所在するのは東大寺内の「普通」の文献です。 胎内銘のような媒体でなければ、封印された秘蔵文書群という紹介のされ方でもありません。 昭和30年代まで私年号として報告されてこなかったのは、 近代的な学術の作法で調査されたのがその時期だったというだけのことであり、 おそらく東大寺で一定の地位を有する者であればいつでもアクセスできたと推測されます。
[131] 要するに、特殊な宗教的儀式に紐付いた使われ方をされてはいませんし、 秘匿されるような使われ方も見受けられません。
[167] 少なくても東大寺の内部では、何ら憚ることなく公然と用いられた蓋然性が高いと考えられます。
[169] 公年号との使い分けについて、 α説は積極的には説明していません。 β説によれば公年号と誤認していたため、 一時期排他的に利用したということになります。
[151] なぜ使われなくなったかについて、諸説積極的には主張していません。
[152] α説によれば建教は旧仏教再建など強い意志の表れのはずですから、 利用終了にもそれに匹敵する理由が必要となりますが、これまで議論されていません。
[156] >>28 の用例の消去のような記号の意味も検討されていません。 これは「建教元年」の紀年がある時期に訂正が必要と認識されるに至った可能性を示しています。
[157] β説では、 建教が使われなくなったのは改元情報が誤りと判明して元仁に復帰したためと説明することになるのでしょう。 他の私年号が短期間で公年号に復帰することや、 >>28 と同様に訂正痕が残る用例が見られることとも整合します。
[34] に発行された宗性の史料集では、 >>28, >>8 の他 >>31, >>32 などが掲載されました。 これらはいずれもに排列されました。 >>4 /197
○但シ、建敎元年ハ私年号ニシテ、元仁元年ニ相当ス、マタ
宗性ノ探玄記三十講ニ參ズルコト、元仁元年是歳ノ条ニ見 ユ、
... とあります。 >>4 /197
○但シ建敎元年ハ私年号ナリ、
... とあります。 >>4 /199
[37] 建教が私年号であることを断言していますが、その根拠は説明していません。 公年号に無いことによるのでしょうか。
[38] >>35 は建教元年をに比定しておきながら、 >>25 を含む一連の史料はに配置されています。 元仁元年に比定した理由なのか、注釈には探玄記三十講のことが言及されています。
[39] >>25 奥書には、日付に続けて、「是則、去年探玄記卅講宗性問定慶」云々とあります。 また、端書には「元仁元年探玄記卅講」云々とあります。 >>4 /197 しかも奥書には宗性の年齢も記載されています (>>33)。 従って、探玄記卅講がのことであり、 >>25 が記載されたのがのことだとすると、 矛盾がありません。
[40] 建教元年を元仁元年とするのはこれらの記述に惑わされたものでしょう。 本書の時系列順の排列は適切なので、単純に注釈執筆時のミスと思われます。
[201] 昭和時代の日本国奈良県の歴史研究者田村吉永は、 と昭和47年の論文で建教を紹介しています。 >>80, >>200
[14] それによると、東大寺図書館司書堀池春峰の教示として、
[7] そして奥書の宗性の年齢が同じ元仁二年三月番論議日記より、 建教元年はと考えられます。 >>80, >>200
[12] 使っていたのが個人なのか東大寺のみか奈良地方でかはわかりません。 >>80, >>200
[13] 田村吉永は、 2度も使われたことは注意するべきで、 いずれ (>>12) にせよ、このような私年号があったことは明らかだとしています。 >>200
[56] 田村吉永が資料を実見したのかどうかは定かではありません。
[103] なお堀池春峰 ( - ) は、東大寺の僧侶で仏教学の研究者です。 ウィキペディアによると、 東大寺に務める家系に生まれ、 から図書館司書とされており、 後に東大寺史研究所長にも就任しています。 >>104
[105] 昭和32年の論文で既に図書館司書と紹介されている >>80 のと矛盾しますが、 ウィキペディア の記事が誤っているのか、あるいは職業の「司書」と東大寺の役職名の「司書」 の違いのようなものがあるのでしょうか。 いずれにしても、経歴上堀池春峰が昭和32年より遥か前から東大寺に在籍し所蔵文書を研究する立場にあったことは確実と思われます。
[106] 同時期に東大寺で編纂されていた史料集 >>4, >>2 には堀池春峰の名前は見当たりませんが、 立場上何らかの形で関与していた可能性は高いと考えられますし、 そうでないとしても、その内容や編纂作業のことは熟知していたと思われます。
[107] 世に出た順序としては >>80 が昭和32年、 >>4 が昭和33年と1年違いで >>80 が最初になりますが、情報の流れを鑑みれば、 昭和30年代初頭の東大寺の文献調査が私年号史料としての発見であり、 東大寺および田村吉永によって広く紹介されたとするのが良いでしょう。
[50] 昭和42年に発行された久保常晴の日本私年号の研究は、 >>80 から >>16, >>17 の2つの資料を紹介し、
... といえることから、建教元年を元仁2年と「
[60] 日本私年号の研究巻頭図版に >>17 が掲載されており、 久保常晴は >>16 >>17 を含む当該資料を実見したと思われます。
[62] なお、昭和39年の久保常晴の論文には建教の記載はなく、 39年から42年の間に >>80 の情報を得て、 >>60 など調査したものと推測されます。
[63] 日本私年号の研究は、 次のように考察しています。 >>61
[82] 昭和時代後期の代表的な私年号研究者である千々和到は、 広範囲で多く使われた私年号と、 少数しか使われない私年号を区別して議論する必要性を説きました。 後者のうち誤記でなく存在が確実な例として建教を取り上げています。 >>88, >>89, >>81
... といった説明がなされました。 >>88, >>89, >>81
[90] 千々和到は私年号研究者とはいえ板碑が専門であり、 建教は専門外の分野にあたります。 >>83 の議論は先行文献の情報の範囲に留まっており、 新たな調査の成果というよりは、既存の研究成果を統合して再検討するような議論です。 千々和到が建教の用例を実見したかどうかは不明ですし、 多く使われた私年号との対比として以上の考察はしていないのではないかと、 (少なくても公表された論著の範囲からは) 思われます。
[73]
建教という私年号の存在は日本私年号の研究によって広く認知されるようになりました。
建教元年を元仁2年に比定する説は、
千々和到の表などに掲載されて通説化しました。
[74] ウィキペディアにも平成時代中期の早い段階から掲載されています。 >>72
[162] 初期の私年号の1つということもあり、 いくつか私年号の実例を挙げる際に拾われることがあります。 >>161, >>160, >>163, >>165
[97] 平成30年に Twitter に投稿された記事で、 「御仏(みほとけ)の「教えを建つ」」 と説明しているものがあります。 >>96 このアカウントはしばしば私年号に関する投稿を行っていることが確認でき、 何らかの情報源からの転載のように思われますが、詳細は不明です。 また、鎌倉時代に僧侶が私年号を盛んに使ったとも説明しています >>96 が、これも根拠は不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 建教 - 元仁2年(1225年) 不明 宗性筆『季御読経番論議問答記』
中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。(山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
[75] 一方で、研究は長らく停滞しています。3点の用例のうち、 >>80 >>200 >>51 で紹介されたのは2点のみで、 もう1つの >>28 は私年号用例として初めて紹介されたとみられる昭和33年以来、 まったく言及されずに令和時代まで至っています。
[76] >>28 は元号名が消されているという特異な (しかし私年号用例には意外と見られる) 態様であり、この用例を無視するわけにはいかないはずです。
[77] また、絶妙な朝幕関係の中で鎌倉幕府が新元号に反対するという、 無視できない重大な社会背景 (>>19) がこれまでまったく分析されてきていません。
[78] 用例数が少なく新出用例も半世紀以上出現しない中で、困難は決して小さくないものの、 まだ十分に探索されていない領域が広がっているのが実情でしょう。
[19] 前後の時系列 :