明悳

明徳

[1] 明徳は、日本の元号の1つです。

明徳の延長年号

[180] 駿河史料の図によると、 現在の日本国静岡県永豊寺の雲版に、 「明徳五年八月吉日」 とあったとされます。 この雲版は現存しません。 明徳5年7月5日に応永改元されましたから、 久保常晴は 「以て当時の同所の僻地なる事を知る(『静岡県史󠄃料』第一輯)」 と書きました。 >>288 20 (この書き方で「僻地」という評価が久保のものか 静岡県史料 のものか不明。)

[30] しかしこの程度の時間差なら延長年号はままあることで僻地とまでは言い難いような。 でも南北朝も統一されて一応は平和になっている時期なので、これは遅い方か... 延長年号, 改元伝達

明悳

[2] 明徳明悳とも書かれました。 異体字です。

日時事例

[15] 新見市の指定文化財, , https://bunkazai-niimi.jp/card/141.html

守恩塔の基礎は、高さ約45cm、幅約50cmで「願主□守恩叟□□明悳癸酉□月十八日誌之」の銘が刻まれていたが、現在では風化のため判然としない。「守恩叟」は徳岩守恩大和尚のことで、「明悳癸酉」は明徳4年(1393)を指している。


[19] 日本国山形県東田川郡藤島町 (平成の大合併により鶴岡市)出羽神社の社家高橋氏の所蔵の補任状に、

補任 増川々尻村観音

号慧日山照闇院増川寺 昔日執行二位僧都玄海法印 明悳年中移祭羽黒御正躰 由緒就有之而今寺山号令 補任之□也

寛文十庚戌五月廿八日

羽黒山執行 圭 海 印⃝

衛主山伏

清 浄 院

とあります。 >>17

[20] 紀年を信じるなら寛文10(1670)庚戌5月28日の文書です。

[21] 昭和時代藤島町史は、

慧日山縁起書には恵日山とあり、玄海法印は羽黒山前の貫主、明悳のこと。縁起書によれば明応元年 (壬子) 六月 十五日とあり、寛文より二百七十九年前、今より四百六十八󠄂年前に当る。

明悳は明応で羽黒の異年号か。

と解説があります。 >>17

の2つの説明がありますが、異説なのか両方とも同時に真と主張しているのか、 意図をはかりかねます。

[24] 明応云々が書かれた慧日山縁起書がどこのどのような書物かわかりませんが (ウェブ上にある恵日寺縁起というものにはそれらしき記述がありません >>25 が、この種の寺社縁起は似た名前の別物がいくつもあったりします)明悳字形がよく似た明応 (旧字体: 明應) の明応元(1492)年壬子6月15日という日付があって、 それと関連付けて「異年号」だと判定したようです。

[26] 延徳4(1492)年7月19日改元なので1ヶ月の遡及年号となりますが、 後から執筆される縁起ではままあることです。

[27] ウェブ検索によると玄海法印と呼ばれる人物は少なくても13世紀、16世紀、 17世紀にいたようです。他の時代にもいたかもしれません。 ここでの玄海法印がそのいずれかであるのかはわかりませんが、 その人達が「明悳」と呼ばれていたという情報は見当たりません。 この記述は他の記録なり、歴代貫主の一覧なりに基づいているのでしょうか?

[28] 「昔日執行二位僧都玄海法印 明悳年中移祭羽黒御正躰」 は「年中」に「移祭」したとあるのを素直に読めば、 元号「明悳」年間の出来事だといっていると解釈するのが整合的であるように思われます。

[29] そして 「明悳」 とは 明応 (-) とするより、 明徳 (-) とするほうが漢字の意味および他地域の用例と整合します。 ただ縁起書とはかえって整合しなくなるかもしれません。 寺社縁起の起源譚は一般に信頼できないことが多いとはいっても、 一考を要します。


[10] 国会図書館デジタルの検索だと 「悳」 は 「徳」 と同一視されてしまい、 用例を探し出せないのが残念です。

[14] Google検索異体字の同一視があまりされないので不便なのですが、 こうしたケースではむしろ役に立ちます。

[12] ただし Google Books では「明應」のOCR誤読がよく紛れ込んでいるので注意が必要です。 例えば: >>11, >>13

メモ