[491] 享正は、日本の私年号の1つです。 他に、同時期の関連が示唆される異年号がいくつかあります。
[492]
享正なる私年号は、
埼玉県下と福島県下の2系統の報告があります。
両者は想定される時代がまったく異なり、
干支年も離れていますから、
同名別元号と考えるのが妥当と思われます。
[48]
享正やそれと地域や時代が近い異年号たちは、
異年号研究の歴史の中で、様々なモデルで理解が試みられてきました。
[51] 江戸時代の研究者らは既に関東の延長年号の存在を把握していました。
[52] 江戸時代の偽年号考は、 足利成氏の関東の延長年号によって生み出された素地に延徳などの私年号が生じたと考えました。
[53] 昭和時代中期の日本私年号の研究は、 このモデルを近代に知られるようになった私年号に拡張し、 延徳だけでなく享正も足利成氏の勢力圏下で使われたことに着目しました。
[54] 日本私年号の研究は、 仮名書年号と私年号とを別の区分に属し、 公年号からの乖離の程度の異なる段階と考えましたが、 その一方で不明な仮名書年号であるきやうせんときう正を享正の仮名表記と理解しようとしました。
[55] また、日本私年号の研究は、 享正が同時代の公年号である享徳や康正と元号名が酷似していることにも注意を促しました。
[56] 昭和時代後期から平成時代初期の千々和到は、 一般に私年号と同時期の公年号には元号名の文字の類似性が多く見られることを指摘し、 多くの私年号に共通して見られる法則性として理解しようとしました (1字置き換え説)。 享正と享徳や康正との関係性ももちろん指摘されています。 おそらく立論のきっかけの1つだったと推測されます。
[57]
平成時代中期の何人かの中世史研究者らは、
1年ずれ康正の用例を東国の他の紀年の混乱する事例や私年号とも関連付け、
中世東国に特殊な「元年」概念が存在したと主張しました。
[58] これらの諸モデルは、いずれもそれぞれが対象とする史料の解釈については一定の納得感を与えていますし、 互いに必ずしも矛盾するものではありませんが、それぞれに限界を持ち、 同じような時代の同じような地域のすべての現象を十分にうまく説明できているとはいえません。
[64] 注目するべきことに、 には特異な紀年が集中しています。すなわち、
... はすべて同じ年を表しています。中でも特に4月が多く見られます。
[502] 近接する比企郡で享正3年丙子4月24日、川越で康正元年丙子4月が使われていることに注意したいです。
[503] また、関東平野の西側にあたる比企郡あたりは足利成氏の地盤とされますが、
同じく足利成氏方の上野の岩松持国が (現在確認されている中では)
4月から1年ずれ康正を使い始めるのも興味深く思われます。
岩松持国は正月時点では享徳5年を使っていました。
[495] も多く、
... は同じ年です。
[505]
享から康への訂正事例については、
足利成氏の勢力圏とそうでない当地との接触が原因で、
誤りやすい状態だったのではないかとの説があります (>>42)。
[506] もしそうだとすると、この考え方は他の多くの用例にも当てはまり得るのかもしれません。
[507] ここで考えなければならないのは、 当時の東国の人々はどのように公年号の改元を知ったか、です。
[508] 室町幕府が十分に統制をきかせられていた時代の東国では、 少なくても武家に関しては、京都の幕府から鎌倉公方へと伝達され、 そこから諸勢力へと伝達されていたのではないかと思われます。
[509] ところが足利成氏が享徳を使い続けたとなると、 足利成氏はこの改元伝達網を機能させる理由がありません。 自ら積極的に新元号の情報を伝播させることはなかったはずです。
[510] 一方これに対抗する上杉方は足利成氏を通らない京都からの連絡ルートでこれを知り、 配下の武将や支配地域に伝達させることもあったかもしれません。 すると関東平野はどちらの勢力に属するかによって、 改元の正確な情報が自然と伝わってくることもあれば、 そうでないこともあったのではないか、と推測できます。
[514] しかし、両陣営の支配地域は壁で隔てられているわけではありませんし、 2勢力のどちらに付くか、旗色を明確にし二度と変えてはいけない、 という決まりもありません。 一般民衆の行き来も頻繁にあったはずです。 足利成氏支配地域にも改元情報はきっと伝わったことでしょう。 寺社なども朝廷から、 または寺社系の独自ルートで改元伝達を受けることがあったかもしれません。
[515] 足利成氏は自ら延長年号を使い続けても、 支配地域にそれを強制することは無かったのかもしれません。 支配地域に延長年号は多いですが、 支配地域だからといって公年号がまったく使われないということもありません。
[516] ただし、信頼できる情報源から順番に安定して通知が到来する情報伝送路はそこにはありません。 正式な改元情報は来ない。しかし改元されたという噂は方々から届く。 隣の地域は違う元号を使っているらしい。 もう改元されてから時間がたっているらしい。 ではなぜ連絡が来ていないのか。 誰の情報が正しいのかわからない。 そういった情報環境が出現していたなら、 不思議な紀年があちこちで実用されるに至っても不思議では無いのかもしれません。
[89] 読みは、 「きょうしょう」 >>50, >>277, >>74 (歴史的仮名遣い: 「きやうしやう」 >>50) とされます。
[125]
第2字は現在の通用字形に近い正ですが、
不明瞭でよくわからない部分があります。 >>84
[356]
日の第2字は四と七の2説 (+ なし) があって、現在では四が通説となっています。
[357]
写真を見ると、ちょうど窪みになっていて、その内部の字画があるのかどうかよくわかりません。
くぼんだ部分の形は四のように思われ、そう思って見ると内部の画もあるように見えないこともありません。
>>307
[358]
写真で凹凸のような影が比較的はっきりわかる線を拾うと、七のように見えます。
七だと思って眺めると、確かに左上は左と上に突き出ているように思えてきますし、
右側は実線では無いようにも思えてきます。
>>307
[461] 享正については、 明らかに享正だと考えられている板碑が2例知られている他、 これに関連付けて議論されている用例がいくつかあります。 ただ、それらは何かと問題があって容易に結論を得られるものではなく、 ひとまず確実な2例だけを中心に検討するのが妥当と思われます。
[465] 比定年については、享正板碑2例中1例に干支年があり、 板碑の様式と合わせてを元年とすることで諸説一致しています。
[466] 干支年のない第1例の時点で室町時代と推定され、これに起因すると見られるいろいろな表現 (室町時代前期、室町時代後期、後北条氏時代など) も近年まで使われていますが、 古い情報を引きずっているだけで、通説に異論があるものでは無さそうです。
[467] 板碑の様式に基づく年代決定については、念のため近年までの板碑の研究成果を踏まえて、 私年号の知識を抜きにして、改めて精密に検証されるべきと考えられます。 結論を大きく動かすものでもないと予想されるものの、 後北条氏時代という初期説を否定する十分な根拠がその後の研究で明示されていないように思われ、 通説の「穴」は塞いでおかねばならないでしょう。
[468] 時間的分布は、これまで3年と4年だけが報告されており、 他の私年号が元年や2年に集中するところから外れてます。 何らかの特殊性があり、説明が必要と思われますが、これまでの諸研究は何も語りません。
[469] 地域的分布は、埼玉県下武蔵国の入間郡と比企郡という比較的近い地域であり、 2つの用例に何らかのつながりがある可能性が極めて高いといえます。
[472] ただし2つの用例の石工の違いが指摘されており (>>115)、 特定の誰かが使ったというよりは、地域内である程度の広がりが想定されます。 今後、同時期の公年号板碑も含めた制作工程に着目した分析が期待される領域です。
[470]
利用者層については、
日本私年号の研究
以来足利成氏勢力下の者とする見解が通説的になっています。
そもそもこの説は、
江戸時代の偽年号考が足利成氏らの関東の延長年号を下地に、
私年号延徳その他の中世関東私年号が作られるようになった、
とする学説を、近代になって知られるようになった享正にも拡張したものです。
[471] ただし、足利成氏本人が私年号を使っていないことは、 早くから注意されてきました。 私年号専門の研究者以外では足利成氏が作ったかのような言説も見られるものの、 これを積極的に肯定するべき材料はありません。 また、実の所、足利成氏の勢力圏と私年号用例の所在地に重なりがあるというだけで、 足利成氏配下の勢力が享正や他の私年号を作った、使ったという物証があるわけでもありません。
[473] 享正という元号名については、 同時期公年号との共通性を指摘しがちな千々和到だけでなく、 元号名の意味を推測しがちな久保常晴も、 意味を見出し難いとして公年号の享徳や康正とのつながりを指摘しています。
[474] 享正を康正の誤りではないかとまで踏み込んだ説はあるものの、 音のつながり以上の根拠を示したものはなく、 干支年が一致しない以上、そのまま採用できる見解とはいえません。
[478] なお、2つの板碑の月は同じで日もかなり近いことも注目されます。 通常の元号なら考えにくいことですが、両者がどちらも同じ丙子年である可能性も、 一応考慮してみても良いのかもしれません。
[80] の書籍は、 板碑の私年号の説明において、 >>79 を紹介し、 享正はいまだ知られていない私年號であり、 室町時代後期であることは確かであるものの、 干支年がなく「該当記号を見出し得ない」 としています。 (相当公年号を決められない、 の意か。) >>13
[83] の地域史は、 板碑の私年号の説明において、 私年号はいずれも祥瑞福徳を表したものであるとして実例の1つで >>79 を紹介し、 享正は干支年がないため相当年代を知ることができないものの、 様式から小田原北条氏の頃と思われる、 としています。 >>8
[454] 昭和18年の 国史辞典 は、 >>80 を引いて >>79 を掲載しています。 時期は室町時代としています。 辞典類の掲載の中では最古の事例と思われます。 >>369
[88] , , ほかの論文は、 板碑の私年号の説明において、 >>79 を紹介しています。 >>12, >>620, >>77 >>83 と同系統の説明文ですが、比定年の記載がないなど簡略化されています。
[90] の辞典は、 享正を室町時代の私年号とし、 干支年がないため相当年代を知ることができないものの、 >>79 があり、 様式から小田原北条氏の頃であったことが確認できる、 としています。 >>50 >>83 と同系統の説明文ですが、推測から断定に転じています。
[97] の書籍は、 金石文で使われる私年号の事例として >>79 を紹介し、 様式から室町時代後期と思われる、 としています。 >>78
[18] 昭和時代の日本国埼玉県浦和市の歴史研究者中英夫は、 埼玉県内に
があると紹介しました。 >>136 は実見しているようです。 >>117
と判断しています。 >>117
[21] 後に日本私年号の研究も享正が康正だと判断し、 中英夫もそれを紹介しています >>3。 久保常晴は中英夫の報告 >>117 をみていなかったようで (日本私年号の研究には永章がありません。)、 独立の判断と考えられます。
[30]
香取文書に「きう正三年丁丑」があります。康正3年丁丑とされます。
[75] の板碑の書籍は、 板碑で使われる私年号の1つとして享正を挙げ、 事例として >>79 >>93 を紹介し、 室町時代後期という、としています。 出典は >>117 とされています。 >>16
[418] 昭和9年の久保常晴の初期の論文は、 >>79 を、 用例が1件のみでそれ以上の情報がない異年號として一括して掲載されるに留まっています。 >>417
[456] 昭和40年の久保常晴の論文は、 後の日本私年号の研究の母胎となったものであり、 >>79 >>93 ときう正を紹介しきやうせんは含まないこと、 きう正を享正に比定する論証が少し簡潔であることを除けば、 比定年に関して日本私年号の研究と同様の記述があります。 >>433
[457] 分布については、3郡にあり、およそ比企郡から入間郡を経て香取郡に入った、 としています。 >>433
[458] 建元の理由については、日本私年号の研究とほぼ同じ(やや簡潔)で、 足利成氏の勢力圏であることを指摘しています。 >>433
[151] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 次のように述べています。
[421] の板碑の書籍は、 私年号の解説で享正を紹介しています。 >>419
[281] の地方史は、 おおむね日本私年号の研究をなぞった解説を掲載しています。 >>279
[282] 年表では享徳3年を享正1年とし、4年まで記載し、その後を点線で私年号の延徳につなげています。 >>279
[283] 用例がなくても私年号を使う主体や意識(?)が継続していたことを主張しているのでしょうか。 日本私年号の研究はそこまでは言っておらず、 享正と延徳で地理的分布が重なりつつ異なりがあることを指摘しています。
[47] なお、 「「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基」 と書いていますが >>46, >>279、 日本私年号の研究が享正の2例の他に、 香取文書の3例 (実際は2例) の仮名書年号を享正に同定したものを数えているようです。 間違ってはいないのですが、誤解を招く要約方法です。
[285] 付のメモ書きは、 日本私年号の研究 から非常に簡潔に要約して紹介しています。 >>284
[288] 口頭発表用の覚書なのか、十分な説明のない、誤解を招きかねない書き方になっています。 足利成氏が「享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播」 と書かれているので、まるで足利成氏が統治下で独自元号を施行したように読めます。 その直後に足利成氏自身は使用していないと矛盾する説明が 日本私年号の研究 からの引用という形で記載されていて、これだけを読むと意味不明で混乱しそうです。
[415] 他にも日本私年号の研究から私年号の代表的な事例として引用するものがあります。 >>436, >>414, >>416, >>442
胤直の敗死から七年後の一四六二年に建てられた板碑が北中の浄妙寺にある。それには延徳二年壬午(みずのえうま)正月六日と記されているが、公年号の延徳二年は庚戌(かのえいぬ)(一四九〇)であって壬午ではない。壬午はそれより二八年さかのぼり公年号の寛正三年(一四六二)に該当する年である。このような年号は私年号といわれるもので、中央政府が公式に制定した公の年号に従わず、地方の有力者などが独自に制定して、その勢力圏で使用したり、僧侶などが私的に使ったりしたものである。しかし広く一般に使われたわけではなく、政治的な意味はないといわれている。
この浄妙寺板碑の「延徳」年号は、足利成氏の勢力圏で成氏の部下または支持者の豪族たちによって建元され使用されたものである。成氏の勢力圏ではこのほかに「享正」も用いられている。享正元年は公年号の享徳三年に、享正二年は康正元年に対応している。康正元年は千葉胤直の敗死した年である。
「延徳」の使用例は香取文書に五例見られるほか、松戸市小金井の本土寺過去帳、茨城県高萩市赤浜の妙法寺過去帳、栃木県日光市の輪王寺文書にも見られる。また八千代市米本長福寺の武蔵板碑(断碑)が延徳と推定されている。それに対して「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基にとどまっている。
足利持氏は、幕府に対立した永享(一四二九~四一)のころ、公年号が嘉元に改元されて後も永享をそのまま使用し続けたが、その子の成氏もまた改元を無視して旧年号である享徳(一四五二~五五)を長く使っていた。享徳は四年で終わっているが、成氏は享徳十七年正月十六日付の香取大禰宜からの祈祷巻数(かんじゅ(ず))を受け取っており、配下の千葉孝胤は享徳二十年八月付で香取神領の葛原・小野・織幡に安堵状を出している。中央にそむいた成氏の勢力圏でその私年号が使用され、長く持続していたことがわかる。
「延徳」の私年号が使用されていた松戸市小金井は御所方の原胤房が城を築いて拠点とした所であり、日光も成氏を支持した宇都宮氏の支配圏であったが、「享正」使用圏よりも「延徳」使用圏の方が広範囲であり、浄妙寺の板碑もその範囲にあったものと理解される。ただし成氏自身は公年号の享徳を使い「延徳」は用いていないので、この私年号はその配下と支持者の間で建元され使用されたものである。そして香取神宮や輪王寺を始め宗教者の間で使われ、特に妙法寺・本土寺は北中の浄妙寺と同じ日蓮宗の寺であった。民間における改元の情報は、行政のルートとは別に宗教者の間にもあったらしいといわれている。
「享正・延徳」という私年号の考案にあたっては公年号の享徳を母胎にしたものと見られている。しかも享徳を成氏が長く使用したことと関係がありそうで、享に正を、徳に延の字を結びつけた意図が感じられよう。要するにこれらの私年号は、成氏が関東公方を僣称していたころの公年号である享徳を、成氏自身が二十数年も使用し続け、中央で改元されていた康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明などの公年号を拒否していたところからその勢力圏で生まれたのであった。
以上、久保常晴著『日本私年号の研究』(吉川弘文館)などを参考にして述べてきたが、同書によれば、関東には鎌倉時代末期から私年号の知識と、使用の伝統があり、それが室町時代、「享正・延徳」などの私年号を生み出す母胎となっている。そしてこの地方の文書などで干支(えと)を欠く「延徳」年号の記されたものには注意を要するとされている。
鎌倉公方持氏は永享 3.8.18 にはじめて永享(『鎌倉九代記』)、それまで改元無視して正長を使用
古河公方成氏も、1455 康正改元を認めず、享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播 頼朝は平家、関東公方は幕府に対抗:天皇権威に挑戦する意図はない。「足利成氏自身は、自己が正 しく関東管領であったころの公年号『享徳』を長く用い、私年号を使用していない」(久保、303 頁)
[386]
の調査報告書は、
>>93
を掲載し、
西暦年を
「
享正二年が丙子にして、
三年は丁丑なり、誤刻か
... と注記しています。 >>49
[453] 康正の2年が丙子ですが、その誤刻と推測した上で享正2年が丙子と誤植したものでしょうか? よくわかりません。
[28]
昭和時代の研究者浅沼徳久は、
これら (>>25 >>27) を足利成氏と享正との関係性を表すものと理解しました。
[100]
の史料集は、
>>79
を紹介し、
私年号であるとして、
西暦年を
[103] 次のように説明されています。 >>14 /242
[135] の板碑調査報告書は、 >>79 と >>93 を掲載し、 私年号であり、康正年間か、 としています。 >>134, >>132, >>130
[128] 現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館の Webページに、 >>79 が掲載されています。 「享正4年(私年号)・(1457)・室町時代」 と説明されています。 >>11
[129] もと大徳家所蔵の板碑とあり、 資料番号が「SHI1978-044-25」 であること >>11 からも推察される通り、 に大徳家から埼玉県立嵐山史跡の博物館に寄贈されました >>290 #page=2。
[140] の展示会図録に掲載されています。 なお、この時点で既に大徳家旧在となっています。 >>76
[446] また、展示会では峰岸純夫の講演がありました (>>142)。
[291]
の埼玉県立嵐山史跡の博物館の図録に掲載があります。
「
SHI1978-044-25 享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑 旧大徳家所蔵板石塔婆 享正4年(私年号)・(1457)・室町時代 大徳家 《注2》26-94-25
[23]
昭和時代後期から平成時代の板碑研究者千々和到は、
享正は公年号の享徳の1字置き換えと考えました。
>>22, >>445
[67]
千々和到は康正の音通ともしています。
[142] の展示会 (>>140) では峰岸純夫の講演があり、その記録によると、 板碑による私年号の研究について、 千々和到の仕事を紹介して、 戦乱が多い年だったので年号が悪いと考え、 享徳を享正にしようと考え、 享正をはやらせる、 のような元号の呪術性を使った1字置き換えによる災厄防除があった、 と述べました。 >>76
[298] 足利成氏が使用したと断言するものもありますが、根拠は不明です。 >>295
[302] >>300 は >>298 のおかしな記述のせいで混乱させられた事例。
[45] >>44 宮代町に「享正」板碑があるとは書かれていないが、「付近」とは? 比企郡玉川町と入間郡坂戸町と川越市は同じ県内だが (この3箇所は近い)、「付近」かなあ? それ以外にも発見例があるのだろうか?
宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。
宮代町における私年号は、西光院にある板碑に刻まれた「福徳元年□月三日」銘である。
宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。
[29]
の図録は、
次のように書いています。
>>390 p.
[278] 世界大百科事典では足利成氏の治下で使われた異年号の説明に出現し、 正年号を拒否し室町幕府に反抗する意志を表すとされています。 >>277
[365] の辞典は、 享正を室町時代の私年号とし、 継続期間は不明としています。 >>73
[361] の書籍は、 中世の私年号を列挙して紹介する中で、 なぜか享正を2つ重複して掲載し、
... と比定年を説明しています。 >>27
[367] の書籍 (>>361 が出典) は、 >>361 に加えて、読みを「きょうしょう」としています。 >>74
[439] 享正を室町時代の時期不明の私年号とするもの >>438 は、この類の資料からの引用でしょうか。
[455] 千々和到の系統の一覧表は、 享正を元年が享徳3年に相当するものとしています。 また、 享徳と享正の共通性を指摘すると共に、 康正との音通ではないかとも指摘しています。 典拠として >>79 >>93 の他に、香取文書も含めています。 >>369
[370] 日本語版ウィキペディアの一覧表は、 初期から享正を掲載しています。 比定年は初期 「1455年~1457年」 となっていましたが、 に 「1455年」の継続3年に変更されました。 継続年数はその後不明に変更されました。 典拠として板碑のうちの1つと香取文書と「など」 というよくわからない形にしています。 >>368 いずれも根拠は不明です。
[372] 中文版维基百科の一覧表は、 享正を私年号として掲載しています。
... と説明しています。 >>371 いずれも根拠は不明です。
[385] 中でも特に5年まで継続というのは独特の説です。
[441] その他、私年号の代表例の1つとして紹介するもの : >>440 >>443
15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
(読みの出典は記載なし)
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 享正 - 康正元年(1455年) 不明 埼玉県ときがわ町発見板碑、『旧案主家文書』(『香取文書』)など
[463] 享正と関係があるかもしれないとされる「□正」が1例知られています。
[409] 第1字は磨滅が激しく、字形が不明瞭です。 写真では、他の字と比べても不自然とも思えるくらいに薄くなっています。 >>391
[412]
写真や拓本の検討だと享よりは康と判断されます。
>>15
[411]
>>391 の白黒写真は大変不明瞭で、どちらとも判断できませんが、
うっすら享と読めるようにも見えます。广のノ部分が見えません。
[413]
子と推定される文字の部分も、なんtなく子のような輪郭に見えますが、
字画がない部分もまるで削られたかのような凹みがある風にも見えます。
とはいえ不鮮明な写真では何とも言えません。
>>391
[479]
この板碑は、干支年によれば享正の3つ目の用例かとも思われましたが、
第1字が不明瞭で、享とも康とも考えられています。
[393] の史料集は、 >>388 を紹介し、 次のように書いています。 >>15
[482] 用例は1例だけ知られています。
[483] 康正を表すとの説と享正を表すとの説があります。干支年を信じるなら前者ですが、 音なら後者にやや分があります。
[484] 享正の用例検出地域と離れていることや、 干支年は無視できないことから、 康正説の妥当性が強いとは思われるものの、 いかなる理由で「きう」と表記されるに至ったのか、何らか穏当な解釈は必要です。
[519] の 香取文書纂の翻刻は「きう正年丁丑」としており、 頭注にきう正は康正なるべし (康正3年丁丑 = 長禄元年) とあります >>378 /18。 康正3年5月10日と長禄3年の間に排列されています。
[259]
昭和42年の
日本私年号の研究は、
仮名まじり年号の1つとしてきう正を紹介し、
室町時代としています。 >>9 p.
[207] また、 >>197 を享正の資料として紹介し、 きようせんと共に、次のように述べています。 >>143
[37]
平成時代の歴史研究者山田邦明は、
香取地域の政治情勢と結びつけ (
[40] >>512 の元号名の前半は仮名らしき3文字くらいの文字塊がありますが、 >>148 の写真では字形の判別がなかなか難しい状態です。 >>148 は、「くわん」と3文字がかなり太く書かれていて、 その奥に細めの文字があり、よく判読できないものの、 「きやう」と書かれていたようだとしています。 (>>511 には注釈もなし。)
[41] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 「きやう徳」 (享徳) と書こうとして、誤りに気づいて「くわん正」 に直したと考えました。 >>148
[42] 山田邦明は、これら (>>31 >>512) の事例から、香取では公年号が使われていたものの、 周辺の古河公方の勢力圏の享徳の延長年号の影響を受けていた、 享徳が一定の影響力を持ち続けた、 としました。 >>148
[43]
前者 (>>31) の康正3年9月は、この地域では享徳5年11月まで享徳が使われていたことが知られており
(
[394] きやうせん (y~2237) は、 仮名書き年号の1つです。
[485] 1例のみ知られています。
[487] 享徳説の主な根拠は類似文書の存在ですが、 なぜ2つあるのか (案? なぜこれだけ?) 説明が必要なのと、 後半の音も文字も類似せず、 なぜ誤った(?)のか説明が必要です。
[488]
享正説の主な根拠は音の類似ですが、
いをんと誤ったとする説明が妥当かどうか、
不安なところがあります。また、
享正の用例が報告されている地域と香取郡は距離があります。
[382] の 香取文書纂 の注釈は、 「きやうせん」 はどんな漢字か未だ不明であり、 福徳、弥勒のような異年號だ、 としました。 >>378, >>289 /232
[383] 同書で色川三中は、 異年号の説明の流れで触れて、 漢字表記もわからないため年不明に配列したと述べていました。 >>379
[333] の 千葉県史料は、 単独で掲載せずに >>141 の注釈で触れて、
... と述べています。 >>289 /232
[384] その根拠は明記されていませんが、 享徳2年 (>>141) とほぼ同文であることや、 同村の「きやうとく二年卯月廿六日」文書があるためでしょうか。
[200]
昭和42年の
日本私年号の研究
は、
>>197
を享正のんはいの誤りで、
享正ではなかろうか、
としています。
また、
>>207
できう正と共に検討されています。
>>143
... を紹介しています。 >>143
[241] それについて、伊藤泰歳の見解を評価して香取文書編者の見解は否定し、 享徳とは認められず、 >>200 >>207 と同じで享正とみられる、 としています。 >>143
[199] 日本私年号の研究は >>197 で「きようせん二年」とし、 >>238 で「きやうせん三年」としていますが、 おそらくどちらも同じ >>380 の「きやうせん二年」 を指すと思われます。
[244] 久保常晴が香取文書の情報をいつの何から引いたのかは不明ですが、 >>237 に該当する注釈が >>1289 /232 にあり、ここでは「きやうせん二年」となっています。 香取文書纂でも「きやうせん二年」となっています (>>380)。
「きやうせん二年」は私年号か。新53の注
記を見よ。
と注釈しています。 >>566
[235] 𛂰うとく (ほうとく), きやうとく, きうとく, けうとく, 九うとくは、 香取文書に用例のある仮名書年号です。
[269] 本項の仮名書年号 (や長禄など) は、香取文書に用例がまとまって出現します。 一見容易に公年号の漢字表記と対応付けられそうですが、 少々不安のあるものも混じっています。
[270] 一応、通説的解釈は
... という対応付けと思われます。
[271]
明示的な論証は多くないですが (例: >>234)、
改めて干支年で確認すると、
●
は文中干支年付きの例があって一致し、
○
は端裏書に干支年のある例があって一致し、
×
は文中干支年の例があって一致しません。
[272] けうとく・九うとくの5年は計2例あり、いずれも癸酉と文中に明記されています。 一応と解釈されているものの、 干支不一致に疑問もあります (>>264)。
[273]
癸酉年は享徳2年ですが、延長年号でちょうどです。
これらを宝徳5年とみなしたとき矛盾する別文書も存在していません。
だとすると、けや九と読まれていた文字は、
ほの異体字の誤読だったか、あるいは当時の誤記か発音の揺れのようなものだったか、
という可能性が出てきます。
(>>137 に
[275] もしけうとくが宝徳なら、けうとくもそうである可能性は、 ということになりますが、けうとくは干支年が享徳と一致しています。 ただし、こちらは端裏書だけです。端裏書が正しいか、同時代的に書かれたものか、 が問題となってきます。偶然なのか、きうとくも4年と5年しかなく、 宝徳だとしても別文書と直ちには矛盾しません (が、 記載内容の増減が自然かどうかは検討が必要です)。
[276]
きうとくも宝徳だと考えることができれば、
きやうとくときうとくの2表記の混在の問題を解消できます。
しかし、その場合は𛂰うとくときうとくの2表記の混在の問題が新たに生じます。
きと読まれたものが誤記または誤読で実際はほなのか、
といったことを考える必要が出てきます。
[262] の 香取文書纂 は、 特に説明を加えていませんが、
... を同一とし、
... を同一として配列しています >>378。
[263] の 千葉県史料 版 香取文書 は、 >>262 の判定を踏襲しているようです。文字の読み方が一部違うため、
... を前者に含め、
... を後者に含めています。 >>1289
[264]
ただし、
>>156
の「九うとく五年癸酉」について、九に
[450] の年号読方考証稿は、 「きやうとく三年」 (と「くわん正」) を掲載していますが、 それ以外のこの近辺の時期には香取文書から掲載していません。 >>449
[451] 元号名の読み方の検討には絶好の材料のはずで、 ほかの仮名書年号を見なかったとも考えにくいのですが、 漢字公年号との同定に問題があり材料として不適当と考えたのでしょうか。
[452] 𛂰うとくもほかの文書から採集して香取文書からは掲載していないのは、 どういうことでしょう。
[475] 時系列: