享正

享正

享正 (日本の私年号)

[13] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/389 (要登録)

享正年4月13日 板碑

室町後期 私年号

[8] 埼玉県史 第四巻, 埼玉県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3439275/1/309 (要登録)

入間郡大家村 塔婆 享正4年4月13日 私年号 後北条氏の頃

[50] 日本歴史大辞典 第6巻 (きなーくよ), 河出書房, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998373/1/49 (要登録)

[12] 仏教考古学講座 第五卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82 (要登録)

享正4年4月13日 私年号 室町時代

[14] 坂戸市史 中世史料編 2, 坂戸市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642035/1/107 (要登録) /241 /242

/32 /107 /250 /271

享正4年4月13日 私年号 1457か

様式および比企郡玉川村一ト市の享正3年丙子4月24日板碑の干支による

[11] 実物資料(1)館有資料 - 埼玉県立嵐山史跡の博物館, 埼玉県教育局, https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%AE%9F%E7%89%A9%E8%B3%87%E6%96%99-1-%E9%A4%A8%E6%9C%89%E8%B3%87%E6%96%99

SHI1978-044-25享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑旧大徳家所蔵板石塔婆享正4年(私年号)・(1457)・室町時代大徳家《注2》26-94-25

[9] 日本私年号の研究

[23] 千々和到は、公年号享徳の1字置き換えと考えました。 >>22 中世私年号

[67] 千々和到康正音通ともしています。 日本私年号一覧表

[1] ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム, https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510

宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
享正-康正元年(1455年)不明埼玉県ときがわ町発見板碑、『旧案主家文書』(『香取文書』)など

[44] テキスト / コラム 板碑に刻まれた私年号, https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200510

宮代町における私年号は、西光院にある板碑に刻まれた「福徳元年□月三日」銘である。

宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。

[45] 宮代町に「享正」板碑があるとは書かれていないが、「付近」とは? 比企郡玉川町と入間郡坂戸町と川越市は同じ県内だが (この3箇所は近い)、「付近」かなあ? それ以外にも発見例があるのだろうか?

[15] 川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑), 川越市[総務部]庶務課市史編纂室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/60 (要登録) /61 /235

[18] 昭和時代日本国埼玉県浦和市の歴史研究者中英夫は、 埼玉県内に

があると紹介しました。 >>136 は実見しているようです。 >>117

と判断しています。 >>117

[21] 後に日本私年号の研究享正康正だと判断し、 中英夫もそれを紹介しています >>3久保常晴中英夫の報告 >>117 をみていなかったようで (日本私年号の研究には永章がありません。)、 独立の判断と考えられます。

[30] 香取文書に「きう正三年丁丑」があります。康正3年丁丑とされます。 きう正

[24] 日本国埼玉県比企郡玉川村 板碑 享正三年四月廿七日 >>289 4

[25] 玉川村の近くには、 足利成氏方の勢力があったり、 享徳延長年号の用例が見つかったりしています。 >>289

[26] 日本国埼玉県坂戸市 板碑 享正年四月十三日 >>289 5

[27] 坂戸市足利成氏の古戦場に近かったり、 足利成氏方の勢力範囲に近かったりします。 >>289

[28] 浅沼徳久はこれら (>>25 >>27) を足利成氏享正との関係性を表すものと理解しました。 中世私年号

[49] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/98 (要登録)

[29] >>390 p.28

埼玉県ときがわ町玉川 個人蔵 板碑 享正三年四月廿四日

カラー写真

埼玉県坂戸市森戸旧在 板碑 (埼玉県立嵐山史跡の博物館所蔵) 享正年四月十三日

旧案主家文書「きょうせん二年」の「ん」を「い」の誤記とする説もあるが当否は判断できない。 きやうせん

干支から康正2(1456)年。 公年号の1文字違い。 板碑様式15世紀中頃で問題なし。

日時事例

[37] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 香取地域の政治情勢と結びつけ ( 関東の延長年号 )、 近隣の古河公方足利成氏方では享徳を使っていたために、 つい「享」と書いたものの、上杉方の香取で使われていた康正に書き直したと考えました。 >>148

日時事例

[40] >>512元号名の前半は仮名らしき3文字くらいの文字塊がありますが、 >>148 の写真では字形の判別がなかなか難しい状態です。 >>148 は、「くわん」と3文字がかなり太く書かれていて、 その奥に細めの文字があり、よく判読できないものの、 「きやう」と書かれていたようだとしています。 (>>511 には注釈もなし。)

[41] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 「きやう徳」 (享徳) と書こうとして、誤りに気づいて「くわん正」 に直したと考えました。 >>148

[42] 山田邦明は、これら (>>31 >>512) の事例から、香取では公年号が使われていたものの、 周辺の古河公方の勢力圏の享徳延長年号の影響を受けていた、 享徳が一定の影響力を持ち続けた、 としました。 >>148

[43] 前者 (>>31) の康正3年9月は、この地域では享徳5年11月まで享徳が使われていたことが知られており ( 享徳, 康正 )、康正3年はその翌年に当たりますから、 つい癖で旧年号を書いてしまっただけとも受け取れます。 新元号切り替えから半年以上経過していてちょっと時間が経ちすぎている感はありますが、 ままあり得る範囲でしょう。 しかし寛正4年はそれからあまりに時間が経ちすぎていますから、 それだけでは説明がつきません。

[46] 多古町史 上巻, 多古町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/118 (要登録)

[47] >>46 享正の用例が香取文書3例、埼玉県の板碑2基としている。 これは日本私年号の研究に従ったものと思われる。

享正三年乙未

[51] 日本相馬藩が安政4年から明治4年にかけて編纂した地誌 奥相志日本陸奥国行方郡牛越村 (明治時代日本国福島県磐城国相馬郡牛越村, 昭和の大合併後は日本国福島県原町市, 平成の大合併後は日本国福島県南相馬市) 条に、

釈迦堂方三間 館下山の中央泉竜寺境内跡に在り。 古記に曰く、右は遠古徳尼御と称する人の開基なり。 釈迦の像の胸中に徳尼菩提の為めに造立す、享正三年 乙未六月晦日と銘あり 享正の年号は伝写の誤りか、考知せ ず。徳尼御は奥州岩城の領主海東小太郎平成衡の後 室、源頼義の女、母は多気権守宗基の女なり。前九年 の戦に奥州に生る。後三年の戦に源義家義子と為し亘 権守清衡に頂く。 徳尼御百廿余歳の寿を保ち右大将頼朝と恒に音信 を通ず。是より先、頼朝伊豆に在り。時に徳尼百余歳 自筆の寿量品所望の事伊豆日記に見ゆ。或は記する に、尼御を以て秀衡の妹と為すは誤りなり。

とあります。 >>48

[53] 明治3年に牛越の白王山泉竜寺は新田村 (日本陸奥国行方郡北新田村, 平成の大合併日本国福島県南相馬市) の新田山新善光寺と合寺し、 北新田村に所在する新田山泉竜寺となりました。 釈迦堂も移されました。 >>52

[55] >>56 に令和2年投稿の釈迦堂の外観写真が、 >>54 に令和4年時点の釈迦堂の外観写真があります。

[64] 銘文の有る釈迦像は 奥相志 以後どうなったのか記録が見当たりません。 時点で釈迦堂に釈迦像が現存するようで >>56、 これがそれと考えていいのでしょうか。

[58] この徳尼と呼ばれる人物については東北地方の各地に、 少しずつ違う伝承があるようです。 >>57 百歳を超えたという点も含め、現在に伝わるこれらの伝承の史実性は低そうに思われます。

[59] 奥相志が採集した当地の伝承では徳尼前九年の役 ( - ) の時の生まれとあります。 前九年の役に参戦した源頼義とされていますが、 生年は、一説、 没年は、一説です >>60

[61] 当地の伝承では徳尼没年齢が120歳あまりとされています。 数え年で [120, 129] 歳とすると、没年は [ , ] の範囲ということになります。 前九年の役源頼朝の両方に縁があると設定したために、 かくも無理な寿命となってしまったのでしょう。

[62] さて、銘文を信じると乙未年に菩提のため造像したとのことで、 一応没年からそれほど離れていないとすると

などが候補となります。がちょうど没年想定範囲に入っています。

[63] しかし奥相志の筆者が注釈した通り、これらに (そしてこれの前後の他の乙未年にも) 「享正」という元号はありませんし、それと誤りそうな他の元号もありません。 私年号享正とは干支があいませんし、時代がまったく異なります。

[65] この種の説話に出てくるいつかわからない謎元号は他にも長本など例があります。 時期は一応わかるものの史実性の疑わしい東北地方説話に頻出する元号大同があります。

[66] この「享正」は、令和時代に至るまで私年号研究分野では気づかれず見落とされてきました。

[56] 泉龍寺のお釈迦様。 釈迦堂には、現在 弘法大師・釈迦如来・閻魔大王が安置されていますが 釈迦堂の本尊、釈迦如来は 詳しい縁起は残っていないものの 源頼義(998-1082)の娘、徳尼の開建と言い伝えられています。 また、当時の泉龍寺は今の場所とは違う「牛越」の地にあり 「白王… | Instagram, 泉龍寺, , https://www.instagram.com/p/CE6BNrjHlhi/

釈迦堂には、現在 弘法大師・釈迦如来・閻魔大王が安置されていますが 釈迦堂の本尊、釈迦如来は 詳しい縁起は残っていないものの 源頼義(998-1082)の娘、徳尼の開建と言い伝えられています。 また、当時の泉龍寺は今の場所とは違う「牛越」の地にあり 「白王山泉龍寺」という名前でした。

メモ