享正

享正 (日本東国)

[491] 享正は、日本の私年号の1つです。 他に、同時期の関連が示唆される異年号がいくつかあります。

年表

ad
西暦
k
干支年
1496
宝徳 y~1496
336
享徳 y~336
832
康正 y~832
213
長禄 y~213
536
延徳 (私年号) y~536
k1
1年ずれ康正
k2
1年ずれ康正
kiu
きう正
□正
□正
享正
享正
享康正
康正
kiutoku
きうとく
keutoku
けうとく
ad
k
庚午
1496
2
keutoku
(2)
ad
k
辛未
1496
3
keutoku
(3)
ad
k
壬申
336
1
1496
4
kiutoku
(1)
keutoku
(4)
ad
k
癸酉
336
2
1496
(5)
kiutoku
(2)
keutoku
5
ad
k
甲戌
336
3
k2
(1)
□正
(1)
享正
(1)
kiutoku
(3)
ad
k
乙亥
832
1
336
4
k2
(2)
kiu
(1)
□正
(2)
享正
(2)
享康正
(1)
kiutoku
4
ad
k
丙子
832
2
336
(5)
k1
1
k2
3
kiu
(2)
□正
3
享正
3
kiutoku
(5)
享康正
(2)
ad
k
丁丑
832
3
213
1
336
(6)
kiu
3
享正
(4)
k1
(2)
享康正
3
ad
k
戊寅
213
2
336
(7)
k1
(3)
享正
(5)
ad
k
己卯
213
3
336
(8)
ad
k
庚辰
536
1
213
4
336
(9)
ad
k
辛巳
536
2
336
(10)

諸説 (総論)

[492] 享正なる私年号は、 埼玉県下と福島県下の2系統の報告があります。 両者は想定される時代がまったく異なり、 干支年も離れていますから、 同名別元号と考えるのが妥当と思われます。 享正 (日本奥州)


[48] 享正やそれと地域や時代が近い異年号たちは、 異年号研究の歴史の中で、様々なモデルで理解が試みられてきました。 私年号研究史

[51] 江戸時代の研究者らは既に関東の延長年号の存在を把握していました。

[52] 江戸時代偽年号考は、 足利成氏関東の延長年号によって生み出された素地に延徳などの私年号が生じたと考えました。

[53] 昭和時代中期の日本私年号の研究は、 このモデルを近代に知られるようになった私年号に拡張し、 延徳だけでなく享正足利成氏の勢力圏下で使われたことに着目しました。

[54] 日本私年号の研究は、 仮名書年号私年号とを別の区分に属し、 公年号からの乖離の程度の異なる段階と考えましたが、 その一方で不明な仮名書年号であるきやうせんきう正享正の仮名表記と理解しようとしました。

[55] また、日本私年号の研究は、 享正が同時代の公年号である元号名が酷似していることにも注意を促しました。

[56] 昭和時代後期から平成時代初期の千々和到は、 一般に私年号と同時期の公年号には元号名の文字の類似性が多く見られることを指摘し、 多くの私年号に共通して見られる法則性として理解しようとしました (1字置き換え説)。 享正との関係性ももちろん指摘されています。 おそらく立論のきっかけの1つだったと推測されます。

[57] 平成時代中期の何人かの中世史研究者らは、 1年ずれ康正の用例を東国の他の紀年の混乱する事例や私年号とも関連付け、 中世東国に特殊な「元年」概念が存在したと主張しました。 元二年, 1年ずれ康正

[58] これらの諸モデルは、いずれもそれぞれが対象とする史料の解釈については一定の納得感を与えていますし、 互いに必ずしも矛盾するものではありませんが、それぞれに限界を持ち、 同じような時代の同じような地域のすべての現象を十分にうまく説明できているとはいえません。


[64] 注目するべきことに、 には特異な紀年が集中しています。すなわち、

... はすべて同じ年を表しています。中でも特に4月が多く見られます。

[502] 近接する比企郡で享正3年丙子4月24日、川越で康正元年丙子4月が使われていることに注意したいです。

[503] また、関東平野の西側にあたる比企郡あたりは足利成氏の地盤とされますが、 同じく足利成氏方の上野岩松持国が (現在確認されている中では) 4月から1年ずれ康正を使い始めるのも興味深く思われます。 岩松持国は正月時点では享徳5年を使っていました。 1年ずれ康正

[495] も多く、

... は同じ年です。

[505] からへの訂正事例については、 足利成氏の勢力圏とそうでない当地との接触が原因で、 誤りやすい状態だったのではないかとの説があります (>>42)。

[506] もしそうだとすると、この考え方は他の多くの用例にも当てはまり得るのかもしれません。

[507] ここで考えなければならないのは、 当時の東国の人々はどのように公年号改元を知ったか、です。

[508] 室町幕府が十分に統制をきかせられていた時代の東国では、 少なくても武家に関しては、京都幕府から鎌倉公方へと伝達され、 そこから諸勢力へと伝達されていたのではないかと思われます。

[509] ところが足利成氏享徳を使い続けたとなると、 足利成氏はこの改元伝達網を機能させる理由がありません。 自ら積極的に新元号の情報を伝播させることはなかったはずです。

[510] 一方これに対抗する上杉方は足利成氏を通らない京都からの連絡ルートでこれを知り、 配下の武将や支配地域に伝達させることもあったかもしれません。 すると関東平野はどちらの勢力に属するかによって、 改元の正確な情報が自然と伝わってくることもあれば、 そうでないこともあったのではないか、と推測できます。

[514] しかし、両陣営の支配地域は壁で隔てられているわけではありませんし、 2勢力のどちらに付くか、旗色を明確にし二度と変えてはいけない、 という決まりもありません。 一般民衆の行き来も頻繁にあったはずです。 足利成氏支配地域にも改元情報はきっと伝わったことでしょう。 寺社なども朝廷から、 または寺社系の独自ルートで改元伝達を受けることがあったかもしれません。

[515] 足利成氏は自ら延長年号を使い続けても、 支配地域にそれを強制することは無かったのかもしれません。 支配地域に延長年号は多いですが、 支配地域だからといって公年号がまったく使われないということもありません。

[516] ただし、信頼できる情報源から順番に安定して通知が到来する情報伝送路はそこにはありません。 正式な改元情報は来ない。しかし改元されたという噂は方々から届く。 隣の地域は違う元号を使っているらしい。 もう改元されてから時間がたっているらしい。 ではなぜ連絡が来ていないのか。 誰の情報が正しいのかわからない。 そういった情報環境が出現していたなら、 不思議な紀年があちこちで実用されるに至っても不思議では無いのかもしれません。

享正 (日本東国)

元号名

[89] 読みは、 「きょうしょう」 >>50, >>277, >>74 (歴史的仮名遣い: 「きやうしやう」 >>50) とされます。

用例

入間郡の享正

日時事例

[85] 第1字はの伝統的楷書字形。 >>84

[125] 第2字は現在の通用字形に近いですが、 不明瞭でよくわからない部分があります。 >>84

[86] 第3字は。 切れ目ははっきりしています (ではありません)。 >>84

[87] 第4字はの草書系の字形。 >>84

[260] 様式は室町時代の特徴を持ちます。 >>149

[27] 坂戸市足利成氏の古戦場に近かったり、 足利成氏方の勢力範囲に近かったりします。 >>289

比企郡の享正

日時事例

[123] 第1字は現在の通用字形に近い>>102

[124] 第2字は現在の通用字形に近い>>102

[356] の第2字はの2説 (+ なし) があって、現在ではが通説となっています。

[357] 写真を見ると、ちょうど窪みになっていて、その内部の字画があるのかどうかよくわかりません。 くぼんだ部分の形はのように思われ、そう思って見ると内部の画もあるように見えないこともありません。 >>307

[358] 写真で凹凸のような影が比較的はっきりわかる線を拾うと、のように見えます。 だと思って眺めると、確かに左上は左と上に突き出ているように思えてきますし、 右側は実線では無いようにも思えてきます。 >>307

[360] が、写真を見て総合的に判断するなら、とは違いそうに思えます。

[25] 玉川村の近くには、 足利成氏方の勢力があったり、 享徳延長年号の用例が見つかったりしています。 >>289

諸説

[461] 享正については、 明らかに享正だと考えられている板碑が2例知られている他、 これに関連付けて議論されている用例がいくつかあります。 ただ、それらは何かと問題があって容易に結論を得られるものではなく、 ひとまず確実な2例だけを中心に検討するのが妥当と思われます。

[465] 比定年については、享正板碑2例中1例に干支年があり、 板碑の様式と合わせて元年とすることで諸説一致しています。

[466] 干支年のない第1例の時点で室町時代と推定され、これに起因すると見られるいろいろな表現 (室町時代前期、室町時代後期、後北条氏時代など) も近年まで使われていますが、 古い情報を引きずっているだけで、通説に異論があるものでは無さそうです。

[467] 板碑の様式に基づく年代決定については、念のため近年までの板碑の研究成果を踏まえて、 私年号の知識を抜きにして、改めて精密に検証されるべきと考えられます。 結論を大きく動かすものでもないと予想されるものの、 後北条氏時代という初期説を否定する十分な根拠がその後の研究で明示されていないように思われ、 通説の「穴」は塞いでおかねばならないでしょう。

[468] 時間的分布は、これまで3年と4年だけが報告されており、 他の私年号元年や2年に集中するところから外れてます。 何らかの特殊性があり、説明が必要と思われますが、これまでの諸研究は何も語りません。

[469] 地域的分布は、埼玉県武蔵国入間郡比企郡という比較的近い地域であり、 2つの用例に何らかのつながりがある可能性が極めて高いといえます。

[472] ただし2つの用例の石工の違いが指摘されており (>>115)、 特定の誰かが使ったというよりは、地域内である程度の広がりが想定されます。 今後、同時期の公年号板碑も含めた制作工程に着目した分析が期待される領域です。

[470] 利用者層については、 日本私年号の研究 以来足利成氏勢力下の者とする見解が通説的になっています。 そもそもこの説は、 江戸時代偽年号考足利成氏らの関東の延長年号を下地に、 私年号延徳その他の中世関東私年号が作られるようになった、 とする学説を、近代になって知られるようになった享正にも拡張したものです。 偽年号考本文, 私年号研究史

[471] ただし、足利成氏本人が私年号を使っていないことは、 早くから注意されてきました。 私年号専門の研究者以外では足利成氏が作ったかのような言説も見られるものの、 これを積極的に肯定するべき材料はありません。 また、実の所、足利成氏の勢力圏と私年号用例の所在地に重なりがあるというだけで、 足利成氏配下の勢力が享正や他の私年号を作った、使ったという物証があるわけでもありません。

[473] 享正という元号名については、 同時期公年号との共通性を指摘しがちな千々和到だけでなく、 元号名の意味を推測しがちな久保常晴も、 意味を見出し難いとして公年号享徳康正とのつながりを指摘しています。

[474] 享正康正の誤りではないかとまで踏み込んだ説はあるものの、 音のつながり以上の根拠を示したものはなく、 干支年が一致しない以上、そのまま採用できる見解とはいえません。

[478] なお、2つの板碑の月は同じで日もかなり近いことも注目されます。 通常の元号なら考えにくいことですが、両者がどちらも同じ丙子年である可能性も、 一応考慮してみても良いのかもしれません。

研究史

[80] の書籍は、 板碑私年号の説明において、 >>79 を紹介し、 享正はいまだ知られていない私年號であり、 室町時代後期であることは確かであるものの、 干支年がなく「該当記号を見出し得ない」 としています。 (相当公年号を決められない、 の意か。) >>13

[83] の地域史は、 板碑私年号の説明において、 私年号はいずれも祥瑞福徳を表したものであるとして実例の1つで >>79 を紹介し、 享正干支年がないため相当年代を知ることができないものの、 様式から小田原北条氏の頃と思われる、 としています。 >>8

[454] 昭和18年の 国史辞典 は、 >>80 を引いて >>79 を掲載しています。 時期は室町時代としています。 辞典類の掲載の中では最古の事例と思われます。 >>369

[88] , , ほかの論文は、 板碑私年号の説明において、 >>79 を紹介しています。 >>12, >>620, >>77 >>83 と同系統の説明文ですが、比定年の記載がないなど簡略化されています。

[90] の辞典は、 享正室町時代私年号とし、 干支年がないため相当年代を知ることができないものの、 >>79 があり、 様式から小田原北条氏の頃であったことが確認できる、 としています。 >>50 >>83 と同系統の説明文ですが、推測から断定に転じています。

[97] の書籍は、 金石文で使われる私年号の事例として >>79 を紹介し、 様式から室町時代後期と思われる、 としています。 >>78


[18] 昭和時代日本国埼玉県浦和市の歴史研究者中英夫は、 埼玉県内に

  • [136](14) 享正三丙子四月廿四日 比企郡玉川町一ト市 高山氏墓地 >>93
  • [274] (15) 享正四年四月十三日 入間郡坂戸町大家 大戸氏 未調査 >>79

があると紹介しました。 >>136 は実見しているようです。 >>117

  • [141] (14) (15) 従来 (15) しかなく板碑形態から室町後期といわれていた。
  • [17] 中英夫が「数年前」に比企郡菅谷村郷土史家大沢喜一に教えられて調査して (14) に干支年を発見。
  • [19] 室町時代のうち、応永3年板碑とは思われず、 康正2年、永正13年、天正4年。形態からいずれでもよさそう。
  • [20] 断定できないが中英夫の推測では康正。 (14) と同時に発掘された板碑に時代が近い宝徳、寛正などがあること、 「享」と読めば音通

と判断しています。 >>117

[21] 後に日本私年号の研究享正康正だと判断し、 中英夫もそれを紹介しています >>3久保常晴中英夫の報告 >>117 をみていなかったようで (日本私年号の研究には永章がありません。)、 独立の判断と考えられます。

[30] 香取文書に「きう正三年丁丑」があります。康正3年丁丑とされます。 きう正

[75] 板碑の書籍は、 板碑で使われる私年号の1つとして享正を挙げ、 事例として >>79 >>93 を紹介し、 室町時代後期という、としています。 出典は >>117 とされています。 >>16


[418] 昭和9年の久保常晴の初期の論文は、 >>79 を、 用例が1件のみでそれ以上の情報がない異年號として一括して掲載されるに留まっています。 >>417

[456] 昭和40年の久保常晴の論文は、 後の日本私年号の研究の母胎となったものであり、 >>79 >>93きう正を紹介しきやうせんは含まないこと、 きう正享正に比定する論証が少し簡潔であることを除けば、 比定年に関して日本私年号の研究と同様の記述があります。 >>433

[457] 分布については、3郡にあり、およそ比企郡から入間郡を経て香取郡に入った、 としています。 >>433

[458] 建元の理由については、日本私年号の研究とほぼ同じ(やや簡潔)で、 足利成氏の勢力圏であることを指摘しています。 >>433

[151] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 次のように述べています。

[434] 「私年号の盛行期」という論法は若干危険ですが... 私年号板碑の多い時期、という観点で板碑型式編年に絡めて論じるならギリOKでしょうか...
[459] その後の日本私年号の研究の引用で、 享正康正とする説であると説明するものがあります (>>432 >>21)。 ところが日本私年号の研究は享徳3年を享正元年としていて、 康正元年と同じとはしていません。おそらく、 >>227 を誤認したのではないでしょうか。

[421] 板碑の書籍は、 私年号の解説で享正を紹介しています。 >>419

[281] の地方史は、 おおむね日本私年号の研究をなぞった解説を掲載しています。 >>279

[282] 年表では享徳3年を享正1年とし、4年まで記載し、その後を点線で私年号延徳につなげています。 >>279

[283] 用例がなくても私年号を使う主体や意識(?)が継続していたことを主張しているのでしょうか。 日本私年号の研究はそこまでは言っておらず、 享正延徳で地理的分布が重なりつつ異なりがあることを指摘しています。

[47] なお、 「「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基」 と書いていますが >>46, >>279日本私年号の研究享正の2例の他に、 香取文書の3例 (実際は2例) の仮名書年号享正に同定したものを数えているようです。 間違ってはいないのですが、誤解を招く要約方法です。

[285] 付のメモ書きは、 日本私年号の研究 から非常に簡潔に要約して紹介しています。 >>284

[288] 口頭発表用の覚書なのか、十分な説明のない、誤解を招きかねない書き方になっています。 足利成氏が「享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播」 と書かれているので、まるで足利成氏が統治下で独自元号を施行したように読めます。 その直後に足利成氏自身は使用していないと矛盾する説明が 日本私年号の研究 からの引用という形で記載されていて、これだけを読むと意味不明で混乱しそうです。

[415] 他にも日本私年号の研究から私年号の代表的な事例として引用するものがあります。 >>436, >>414, >>416, >>442

[284] https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/16907/files/hirayama-kaigen.pdf#page=1

鎌倉公方持氏は永享 3.8.18 にはじめて永享(『鎌倉九代記』)、それまで改元無視して正長を使用 古河公方成氏も、1455 康正改元を認めず、享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播 頼朝は平家、関東公方は幕府に対抗:天皇権威に挑戦する意図はない。「足利成氏自身は、自己が正 しく関東管領であったころの公年号『享徳』を長く用い、私年号を使用していない」(久保、303 頁)


[386] の調査報告書は、 >>93 を掲載し、 西暦年を 「一五四六? ー七?」 とし、

享正二年が丙子にして、 三年は丁丑なり、誤刻か

... と注記しています。 >>49

[453] 康正の2年が丙子ですが、その誤刻と推測した上で享正2年が丙子と誤植したものでしょうか? よくわかりません。


[28] 昭和時代の研究者浅沼徳久は、 これら (>>25 >>27) を足利成氏享正との関係性を表すものと理解しました。 中世私年号


[100] の史料集は、 >>79 を紹介し、 私年号であるとして、 西暦年1457ヵ >>14 /107享正三年 (一四五七) にあたると思われる >>14 /241、 としています。

[103] 次のように説明されています。 >>14 /242

[135] 板碑調査報告書は、 >>79>>93 を掲載し、 私年号であり、康正年間か、 としています。 >>134, >>132, >>130


[128] 現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館Webページに、 >>79 が掲載されています。 「享正4年(私年号)・(1457)・室町時代」 と説明されています。 >>11

[129] もと大徳家所蔵の板碑とあり、 資料番号が「SHI1978-044-25」 であること >>11 からも推察される通り、 に大徳家から埼玉県立嵐山史跡の博物館に寄贈されました >>290 #page=2

[140] の展示会図録に掲載されています。 なお、この時点で既に大徳家旧在となっています。 >>76

[446] また、展示会では峰岸純夫の講演がありました (>>142)。

[291] 埼玉県立嵐山史跡の博物館の図録に掲載があります。 「享正4年(私年号) 康正三年ヵ」「1457」、 「※私年号、康正三年(一四五七)に比定」 と説明されています。 >>290


[23] 昭和時代後期から平成時代板碑研究者千々和到は、 享正公年号享徳1字置き換えと考えました。 >>22, >>445 中世私年号

[67] 千々和到康正音通ともしています。 日本私年号一覧表

[142] の展示会 (>>140) では峰岸純夫の講演があり、その記録によると、 板碑による私年号の研究について、 千々和到の仕事を紹介して、 戦乱が多い年だったので年号が悪いと考え、 享徳享正にしようと考え、 享正をはやらせる、 のような元号の呪術性を使った1字置き換えによる災厄防除があった、 と述べました。 >>76


[298] 足利成氏が使用したと断言するものもありますが、根拠は不明です。 >>295

[302] >>300>>298 のおかしな記述のせいで混乱させられた事例。

[45] >>44 宮代町に「享正」板碑があるとは書かれていないが、「付近」とは? 比企郡玉川町と入間郡坂戸町と川越市は同じ県内だが (この3箇所は近い)、「付近」かなあ? それ以外にも発見例があるのだろうか?


[29] の図録は、 次のように書いています。 >>390 p.28

  • [299] 埼玉県ときがわ町玉川 個人蔵 板碑 享正三年四月廿四日
  • [304] 埼玉県坂戸市森戸旧在 板碑 (埼玉県立嵐山史跡の博物館所蔵) 享正年四月十三日
  • [305] 旧案主家文書「きょうせん二年」の「ん」を「い」の誤記とする説もあるが当否は判断できない。
  • [306] 干支から康正2(1456)年。 公年号の1文字違い。 板碑様式15世紀中頃で問題なし。

[278] 世界大百科事典では足利成氏の治下で使われた異年号の説明に出現し、 正年号を拒否し室町幕府に反抗する意志を表すとされています。 >>277

[365] の辞典は、 享正室町時代私年号とし、 継続期間は不明としています。 >>73

[361] の書籍は、 中世私年号を列挙して紹介する中で、 なぜか享正を2つ重複して掲載し、

... と比定年を説明しています。 >>27

[367] の書籍 (>>361 が出典) は、 >>361 に加えて、読みを「きょうしょう」としています。 >>74

[439] 享正室町時代の時期不明の私年号とするもの >>438 は、この類の資料からの引用でしょうか。

[455] 千々和到の系統の一覧表は、 享正元年が享徳3年に相当するものとしています。 また、 共通性を指摘すると共に、 康正との音通ではないかとも指摘しています。 典拠として >>79 >>93 の他に、香取文書も含めています。 >>369

[370] 日本語ウィキペディアの一覧表は、 初期から享正を掲載しています。 比定年は初期 「1455年~1457年」 となっていましたが、 に 「1455年」の継続3年に変更されました。 継続年数はその後不明に変更されました。 典拠として板碑のうちの1つと香取文書と「など」 というよくわからない形にしています。 >>368 いずれも根拠は不明です。

[372] 中文维基百科の一覧表は、 享正私年号として掲載しています。

... と説明しています。 >>371 いずれも根拠は不明です。

[385] 中でも特に5年まで継続というのは独特の説です。

[441] その他、私年号の代表例の1つとして紹介するもの : >>440 >>443

[277] 享正(きょうしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク, ,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E4%BA%AB%E6%AD%A3-1301208

15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

(読みの出典は記載なし)

□正

[463] 享正と関係があるかもしれないとされる「□正」が1例知られています。

用例

日時事例

[409] 第1字は磨滅が激しく、字形が不明瞭です。 写真では、他の字と比べても不自然とも思えるくらいに薄くなっています。 >>391

[412] 写真や拓本の検討だとよりはと判断されます。 >>15

[411] >>391 の白黒写真は大変不明瞭で、どちらとも判断できませんが、 うっすらと読めるようにも見えます。广部分が見えません。

[413] と推定される文字の部分も、なんtなくのような輪郭に見えますが、 字画がない部分もまるで削られたかのような凹みがある風にも見えます。 とはいえ不鮮明な写真では何とも言えません。 >>391

[392] 495号板碑 () と同系とされます。 >>15

[408] 様式からこの時代であることは間違いないとされます。 >>15

諸説

[479] この板碑は、干支年によれば享正の3つ目の用例かとも思われましたが、 第1字が不明瞭で、ともとも考えられています。

[480] 板碑の様式はこの時期で間違いないとされます。

[481] 享正の2つの用例と同じ地域 (入間郡) であることは、容易に無視できません。

研究史

[393] の史料集は、 >>388 を紹介し、 次のように書いています。 >>15


[462] 銘文が不明であるためなのか、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

きう正

[520] きう正は、 仮名まじり年号の1つです。

用例

諸説

[482] 用例は1例だけ知られています。

[483] 康正を表すとの説と享正を表すとの説があります。干支年を信じるなら前者ですが、 なら後者にやや分があります。

[484] 享正の用例検出地域と離れていることや、 干支年は無視できないことから、 康正説の妥当性が強いとは思われるものの、 いかなる理由で「きう」と表記されるに至ったのか、何らか穏当な解釈は必要です。

研究史

[519] 香取文書纂の翻刻は「きう正年丁丑」としており、 頭注きう正康正なるべし (康正3年丁丑 = 長禄元年) とあります >>378 /18。 康正3年5月10日と長禄3年の間に排列されています。


[259] 昭和42年の 日本私年号の研究は、 仮名まじり年号の1つとしてきう正を紹介し、 室町時代としています。 >>9 p.一八󠄃五

[207] また、 >>197享正の資料として紹介し、 きようせんと共に、次のように述べています。 >>143

  • [208] 「きう」は「こう」の誤りで康正とも考えられるが、
  • [209] 「きやう正」すなわち享正とも考えられ、検討が必要
  • >>210 : 「きうとく」 = 享徳
  • [217] 大畠村関係文書の内容の比較により、
    • [218] 1: きうとく4年 → きょうせん2年、ただし逆の可能性もある
    • [219] 2: きう正3年 ≒ 康正2年
    • [220] 3: きうとく4年 → きう正3年/康正2年, きゃうとく5年 → きう正3年/康正2年
    • [221] 4: きょうせん2年 = きうとく4年
    • [222] 5: きやうとく(享徳)5年 = 康正2年 = 丙子年、
      • [223] 4よりきようせん(享正)2年 = きうとく(享徳)4年とすれば、 享正元年 = 享徳3年
      • [224] 資料1より享正3年 = 康正2年丙子と仮定すれば、 享正元年 = 享徳3年
  • [225] 2, 3, 5 からきう正3年 = 享正3年 = 康正2年とも考えられるが、
  • [227] 「きう正」 = 「きゃう正」 = 享正ではなく、 公年号の康正の誤りの可能性も強い

[447] 香取文書の注釈等と日本私年号の研究とその引用を除くと、ほとんど言及すら見当たりません。

享徳あらため・・・

日時事例

[37] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 香取地域の政治情勢と結びつけ ( 関東の延長年号 )、 近隣の古河公方足利成氏方では享徳を使っていたために、 つい「享」と書いたものの、上杉方の香取で使われていた康正に書き直したと考えました。 >>148

[460] ところでこの指摘の通り当時の香取郡上杉方勢力圏だったとすると、 香取文書仮名書年号享正と関連付け、 足利成氏関連の私年号と結論付ける従来説は再検討せざるを得なくなります。

日時事例

[40] >>512元号名の前半は仮名らしき3文字くらいの文字塊がありますが、 >>148 の写真では字形の判別がなかなか難しい状態です。 >>148 は、「くわん」と3文字がかなり太く書かれていて、 その奥に細めの文字があり、よく判読できないものの、 「きやう」と書かれていたようだとしています。 (>>511 には注釈もなし。)

[41] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、 「きやう徳」 (享徳) と書こうとして、誤りに気づいて「くわん正」 に直したと考えました。 >>148

[42] 山田邦明は、これら (>>31 >>512) の事例から、香取では公年号が使われていたものの、 周辺の古河公方の勢力圏の享徳延長年号の影響を受けていた、 享徳が一定の影響力を持ち続けた、 としました。 >>148

[43] 前者 (>>31) の康正3年9月は、この地域では享徳5年11月まで享徳が使われていたことが知られており ( 享徳, 康正 )、康正3年はその翌年に当たりますから、 つい癖で旧年号を書いてしまっただけとも受け取れます。 新元号切り替えから半年以上経過していてちょっと時間が経ちすぎている感はありますが、 ままあり得る範囲でしょう。 しかし寛正4年はそれからあまりに時間が経ちすぎていますから、 それだけでは説明がつきません。

きやうせん

[394] きやうせん (y~2237) は、 仮名書き年号の1つです。

用例

諸説

[485] 1例のみ知られています。

[486] 享徳説と享正説があります。

[487] 享徳説の主な根拠は類似文書の存在ですが、 なぜ2つあるのか (案? なぜこれだけ?) 説明が必要なのと、 後半の音も文字も類似せず、 なぜ誤った(?)のか説明が必要です。

[488] 享正説の主な根拠は音の類似ですが、 と誤ったとする説明が妥当かどうか、 不安なところがあります。また、 享正の用例が報告されている地域と香取郡は距離があります。

[489] 干支年も他の用例もなく、現時点では断定的なことを述べるのは困難です。

研究史

[382] 香取文書纂 の注釈は、 「きやうせん」 はどんな漢字か未だ不明であり、 福徳弥勒のような異年號だ、 としました。 >>378, >>289 /232

[383] 同書で色川三中は、 異年号の説明の流れで触れて、 漢字表記もわからないため年不明に配列したと述べていました。 >>379

[333] の 千葉県史料は、 単独で掲載せずに >>141 の注釈で触れて、

... と述べています。 >>289 /232

[384] その根拠は明記されていませんが、 享徳2年 (>>141) とほぼ同文であることや、 同村の「きやうとく二年卯月廿六日」文書があるためでしょうか。


[200] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 >>197享正資料3として紹介し、 公年号にも私年号にも「きようせん」はなく、 年号名としても不適当であり、 おそらくの誤りで、 享正ではなかろうか、 としています。 また、 >>207きう正と共に検討されています。 >>143

[201] 「年号名としても不適当」とはどういうことか、よくわかりません。

[236] また、 享正資料5として、

... を紹介しています。 >>143

[241] それについて、伊藤泰歳の見解を評価して香取文書編者の見解は否定し、 享徳とは認められず、 >>200 >>207 と同じで享正とみられる、 としています。 >>143

[199] 日本私年号の研究>>197 で「きようせん二年」とし、 >>238 で「きやうせん三年」としていますが、 おそらくどちらも同じ >>380 の「きやうせん二年」 を指すと思われます。

[244] 久保常晴香取文書の情報をいつの何から引いたのかは不明ですが、 >>237 に該当する注釈が >>1289 /232 にあり、ここでは「きやうせん二年」となっています。 香取文書纂でも「きやうせん二年」となっています (>>380)。


[268] 香取文書目録は、 >>380 について、

「きやうせん二年」は私年号か。新53の注 記を見よ。

と注釈しています。 >>566


[448] 香取文書の注釈等と日本私年号の研究とその引用を除くと、ほとんど言及すら見当たりません。

ほうとく、きやうとく、きうとく、けうとく

[235] 𛂰うとく (ほうとく), きやうとく, きうとく, けうとく, 九うとくは、 香取文書に用例のある仮名書年号です。

用例

日時事例

諸説

[269] 本項の仮名書年号 (や長禄など) は、香取文書に用例がまとまって出現します。 一見容易に公年号漢字表記と対応付けられそうですが、 少々不安のあるものも混じっています。

[270] 一応、通説的解釈は

... という対応付けと思われます。

[271] 明示的な論証は多くないですが (例: >>234)、 改めて干支年で確認すると、 は文中干支年付きの例があって一致し、 端裏書干支年のある例があって一致し、 × は文中干支年の例があって一致しません。

[272] けうとく九うとくの5年は計2例あり、いずれも癸酉と文中に明記されています。 一応と解釈されているものの、 干支不一致に疑問もあります (>>264)。

[273] 癸酉年は享徳2年ですが、延長年号でちょうどです。 これらを宝徳5年とみなしたとき矛盾する別文書も存在していません。 だとすると、と読まれていた文字は、 異体字の誤読だったか、あるいは当時の誤記か発音の揺れのようなものだったか、 という可能性が出てきます。 (>>137𛂰うとく四年があるので、発音違い説の蓋然性は低いかもしれません。)

[275] もしけうとく宝徳なら、けうとくもそうである可能性は、 ということになりますが、けうとく干支年享徳と一致しています。 ただし、こちらは端裏書だけです。端裏書が正しいか、同時代的に書かれたものか、 が問題となってきます。偶然なのか、きうとくも4年と5年しかなく、 宝徳だとしても別文書と直ちには矛盾しません (が、 記載内容の増減が自然かどうかは検討が必要です)。

[276] きうとく宝徳だと考えることができれば、 きやうとくきうとくの2表記の混在の問題を解消できます。 しかし、その場合は𛂰うとくきうとくの2表記の混在の問題が新たに生じます。 と読まれたものが誤記または誤読で実際はなのか、 といったことを考える必要が出てきます。

研究史

[262] 香取文書纂 は、 特に説明を加えていませんが、

... を同一とし、

... を同一として配列しています >>378

[263] 千葉県史料香取文書 は、 >>262 の判定を踏襲しているようです。文字の読み方が一部違うため、

... を前者に含め、

... を後者に含めています。 >>1289

[264] ただし、 >>156 の「九うとく五年癸酉」について、(けヵ)と注釈しつつ、 享徳5年 = 康正2年丙子と干支が異なり、 癸酉は享徳2年である、 と注釈しています。 >>1289 /235


[450] 年号読方考証稿は、 「きやうとく三年」 (と「くわん正」) を掲載していますが、 それ以外のこの近辺の時期には香取文書から掲載していません。 >>449

[451] 元号名の読み方の検討には絶好の材料のはずで、 ほかの仮名書年号を見なかったとも考えにくいのですが、 漢字公年号との同定に問題があり材料として不適当と考えたのでしょうか。

[452] 𛂰うとくもほかの文書から採集して香取文書からは掲載していないのは、 どういうことでしょう。


[234] 昭和42年の 日本私年号の研究享正の考察において、 次のようにあります。 >>143

1年ずれ康正

1年ずれ康正

関連

享正 (日本奥州)

[475] 時系列:

メモ